yukaina_gorilla’s diary

ごりらぼくし(大麻ルーテル教会/北見聖ペテロ・ルーテル教会)です。聖書や教会のこと、社会のこと、ペットのことなど書いていきますね。

道であるイエス

我が家の近くに公園があります。そこに白樺並木に挟まれた一本の道があります。
私はそこを通って買い物に行くのですが、日曜日の夜はたくさんの雪が公園に積もっていました。その白樺並木のところにも雪は積もっていたのですが、幾人もの人々がその雪の上を歩き、雪は踏みしめられて、ちゃんといつものように一本の小道ができていたのです。
私は、その道を歩きながらイエスさまの「わたしは道である」とのみことばを思い出しました。そう、イエスさまはご自分のことを「わたしは道である」とおっしゃいます。みんなに踏みしめられる道に、イエスさまはなられたのです。
あなたが重荷を負って歩むとき、道であるイエスさまが、あなたとともにその重さを受け止めてくださっています。あなたが人生の歩みの中で転んでしまうとき、道であるイエスさまが、あなたの痛みをともに引き受けてくださっています。あなたがなかなか立ち上がれないそのときも、道であるイエスさまが、あなたとともにじっとそこに留まり、ともに苦しみを耐え忍んでくださっています。
この道であるイエスさまこそが私たちにとっての真理であり、私たちに「生きよ」「わたしと一緒に生きていこう」と命を与えてくださるお方です。
(2017.11.20の集会より)

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聖霊降臨後第24主日 2017年11月19日

 

「賢い睡眠方法」

(マタイによる福音書25章1~13)

 

わたしたちの父である神と、主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなたがたにあるように。アーメン

 

私たちルーテル教会は、教会の暦、カレンダー、教会暦を重んじる教会です。また、その暦に合わせてふさわしい聖書の箇所、聖書日課が定められています。今、教会暦では、ちょうど一年の終わりを迎えようとしています。来週が聖霊降臨後最終主日で、教会暦の一年の最後の日曜日で、次の週からは待降節アドベントを迎え、教会暦の新しい年を迎えます。この教会暦の終わりの時期に定められている聖書日課と礼拝の主題は、特に「終末」・「終わりの日」ということに焦点が当てられています。

 

聖書は、神さまが天地を創られた「はじめ」があり、そして、やがて神さまがこの世界に「終わり」をもたらされ、新しい天と地が実現するという、この世界にははじめがあり、終わりがある、そうした歴史観、世界観を伝えています。この世界の終わりのことを、私たちは、「終末」や「終わりの日」と呼んでいます。「終末」という言葉を聞くと、何か恐ろしいことを考えてしまいがちですが、終末は本来、神さまの救いの完成の日であり、ですから大いなる喜びの日です。今日のイエスさまの福音によるなら、その終わりの日には、イエス・キリスト「花婿」として、つまり、大きな喜びを携えて、この世界においでになり、神さまの支配がついに完成するのです。

 

聖書の約束によるなら、その終わりの日にこそ、世の悪の力は敗れ去り、私たちが抱えている悲しみや苦しみ、そして罪、それらのものに終止符が打たれます。ですから、終末とは恐ろしい時ではありません。私たちが抱えている今の辛さは永遠には続かない、キリストがおいでになって、必ずそれにピリオドを打ってくださる、そのことが実現する喜びの日が、終末、終わりの日なのです。まさに、ヨハネの黙示録「もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである」との力強い言葉が告げられているとおりです。

 

その終わりの日について、イエスさまはおっしゃいます。「目を覚ましていなさい。あなたがたはその日、その時は知らないのだから」。終わりの日がいつ来るのかは、私たちにはわかりません。たまに「何年何月何日が、終わりの日だ」などと主張する人が現れますが、そのように「いついつが終末だ」などというのは、まったくもって嘘っぱちです。イエスさまがおっしゃっているとおり、「あなたがたはその日、その時は知らないのだから」、私たちには、いつ終わりの日が来るかなどということはわからない。また、天変地異だとか、世の騒動や混乱だとかがあるなら、「ついに世の終わりが来た」などと、よく言われますが、しかし、そうした事態も、即、終末を私たちに告げる出来事ということにはなりません。なぜなら、それがたとえどんな不思議な出来事であっても、歴史を振り返るならば、案外、古今東西いつどこででも起こっていることであり、だから、たとえ私たちの周りで何が起ころうとも、あるいは、何も起こらなくても、私たちはそれで「終末だ」、「いや、まだだ」などと騒ぐことなく、落ち着いて冷静に、いつも終末に備えて暮らすことこそが大切なのです。「目を覚ましていなさい」、イエスさまがおっしゃるように、いつも終末に備えて生きる私たちでありたいと願います。

 

今、いつも終末に備えて生きる私たちでありたいと申しましたが、だからと言って、それは私たちが何か特別なことをするということではありません。今日のみことばに続く14節以下のイエスさまのお話にあるように、私たちの主人、つまり主なる神さまからお預かりした命を、地道に精一杯燃やして生きることこそ、私たちが終末に備えて生きるということです。マルティン・ルターが言ったとされて、実際のところはどうも違うようですが、しかし非常にルター的な言葉である、「たとえ明日、世界の終わりが来るとしても、私は今日りんごの木を植える」、そうした生き方こそ、私たちが終末に備えて生きるのにふさわしい姿です。世の終わりが来るからといって、何か特別なことをするというのではなく、神さまから託された今日の働きを、地道に精一杯行うこと。諦めず、放棄せず、自棄にならず、興奮せず、淡々と今日を生き、明日を迎えること。これが、私たちが終末に備えて生きることです。

 

今日のイエスさまの福音は、10人のおとめ、女性たちのお話です。花婿の到着を待っていたその10人の女性たちですが、彼女たちのうちの半数、すなわち5人は「愚か」であり、他の5人は「賢い」と言われています。けれども、実際には、ここで10人が10人とも、みんながみんな眠ってしまった事実が伝えられています。「愚か」と言われている女性たちだけでなく、「賢い」と言われている女性たちもまた眠ってしまいます。「目を覚ましていなさい」と命じられて、そのことを大切にしようとしても、結局は誰しもが眠ってしまうのです。イエスさまが捕らえられる直前、弟子たちに「心は燃えていても、肉体は弱い」とおっしゃいましたが、まさにそうした人の弱い姿が伝えられています。私たちは今日のみことばから、まずそうした自分の弱さを受け止めたいと思います。私たちの信仰が眠ってしまう。そんな私たちであるということを。「自分は大丈夫」「いつも目覚めている」なんてことは、誰一人絶対に言えません。たとえ、その人がどれだけ賢くても、どれだけ敬虔でも、やはり眠ってしまうのです。私もまた、そのように眠ってしまう一人です。

 

そのように時として眠ってしまう私たちだからこそ、どう眠るのか、普段からの備えが大切になってきます。賢い眠り方が必要なのです。私たちはどれだけ信仰に燃えていても、つい睡魔がさして、眠ってしまい、信仰の炎が消えてしまう。10人の女性たちのみんながみんな眠ってしまったように、誰しもが眠ってしまう。でも、そこで「賢い」「愚か」の分岐点は、眠るか眠らないかではなく、壺に油を入れて備えているかどうかということでした。みんな眠ってしまうけれど、ちゃんと油を用意して眠りましょうということです。では、油とは、一体、何のことでしょうか。この油とは、これを意味するという、ただ一つだけに絞り込む、そうした正解はないと思います。いろんなものが考えられます。キリストだとか、聖霊だとか、みことばだとか、祈りだとか、信仰や希望や愛だとか、様々考えられ、そのどれもが正しいと思います。油は何かということよりも、私たちの誰しもが睡魔に襲われて、眠ってしまう弱さがあるけれど、その弱さの中でなおもキリストを待ち望み、キリストを迎え入れる心を持ち続ける、そのことの大切さがここで告げられているのでしょう。

 

初代教会の信仰者たちが今日のみことばがどう聞いたのかについて、お話しいたします。神さまの御子、救い主イエス・キリストが天に昇られた後、やがて再びこの世界においでになり、神さまの救いを完成してくださることが、キリスト者たちにとって、とても大きな希望でした。その希望は、もちろん現代の私たちにも同じ大切な希望です。しかし実際はどうなのかというと、キリストはなかなかおいでにならないわけです。つまり、再臨の遅れ、終末の遅れという事態に、初代教会の信仰者たちは直面するのでした。そして、そのことに困惑する中で、彼らは、イスラエルの人たち、またローマの国により、大きな迫害に遭います。たくさんの信仰者が捕らえられ、拷問に遭い、殉教しました。そうした中で、彼らは希望を失ってしまい、棄教をする人たちも少なくありませんでした。そのような現実に直面しながらも、それがいつであるかは私たちにはわからないが、主は必ず来られる。そのことを、イエスさまの約束として聞き取り、受け止めたのが、今日のみことばです。いつかはわからないけれど、必ずキリストはおいでになる。それも、ある日突然、真夜中に。今、自分たちの置かれている真っ暗闇の状況の中に、必ずキリストはおいでになる。その闇に、「花婿だ。迎えに出なさい」との声が喜びの声が響くことを、彼らはイエスさまの約束として信じたのです。それはあたかもあの天地創造の出来事のようでした。真っ暗闇の混沌としている中で、「光あれ」との神さまの御声が響くとき、その暗闇と混沌を打ち破る光がさして、そこから新しく世界が創造された。そのはじめの日のように、この世の力が横行する今の暗闇に、ある日突然必ず主が来られて、闇を破られ、終わりの日が来る、このことが今日の福音で告げられているのです。

 

今の世界を見るとき、今も、私たちは救い主を待ち望みつつも、もう救い主は来ないのか、救い主はそもそもはじめからいないのではないか、そんな思いになることも少なくありません。そんな暗闇が私たちを覆っている。でもその闇の中でこそ、「花婿だ。救い主だ。迎えに出なさい」との声が、ある日突然、響くのです。それは、いつになるのかは、私たちにはわかりませんが、私たちもその日を信じて待つことを、今日イエスさまは告げておられます。私たちは弱い者ですので、それまでの間に、眠ってしまうこともあれば、心が折れてしまうようなことだってあるでしょう。でも、私たちも自分のそばに油を用意しておきたいのです。つまり、神さまのみことばや、祈りや、信仰や希望や愛や、キリストや聖霊、そうしたものを私たちの心に保ち続け、やがて必ずキリストがおいでになって救いを完成なさる、喜びの終わりの日を待ち望みたいのです。

 

今日のたとえに登場する女性たちは、花婿を迎えに行く花嫁の歩く道を照らす灯りをともす役割をする女性たちだと考えられます。ですから、彼女たちは結婚式の直接的な主役ではありませんし、晴れ晴れしい役割でもありません。しかし、たとえそうでも、その時に備えて彼女たちは、その時をひたすら待ち、その働きに仕えました。私たちの歩みも、決して晴れ晴れしいものではなく、目立つものでもないかもしれません。でも、その小さな目立たない働きに忠実に仕えたいと思います。今日の福音の後にありますが、たった1タラントンだからと土の中に埋めて過ごすのでなく、その1タラントンを大切に用いながら精一杯歩んでいくのです。喜びの終わりの日を待ち望みながら。

 

ところで、今日のたとえ話で、最初納得できなかったことがあります。それは油を持っていた女性たちは、持っていなかった女性たちに、自分の油を分けることはできなかったのかということです。油がなくなりそうで「油を分けてください。わたしたちのともし火は消えそうです」と困りつつお願いしている人を前に、「分けてあげるほどありません。それより、店に行って自分の油を買ってきなさい」なんて、あまりにも冷たいのではないかと思ったのです。しかし、他の誰にも代わることができない、自分自身で選び取り、自分自身で従っていかねばならないこと、それが信仰の歩みだと、ここでイエスさまはお話なさっているのかなと思いました。信じて従う、これは他の人が代わることはできない、自分自身にしかできないことです。

 

宗教改革の時代、ルターが批判したことの一つにこんなことがありました。人々が犯した罪に対し、当時の教会はいろんな罪の償いを告げたのですが、他方で、修道士たちが、その償いをその人に代わって行うという習慣がありました。運転代行ならぬ、罪の償いの代行です。具体的には、修道士たちが一所懸命、祈ったり、敬虔な生活をしたり、一般の信徒に代わってそれらを行なっていたのです。しかし、ルターは「これは間違えている習慣だ」と批判しました。人が犯す罪は、その人自身が一生涯、神さまの前に深く悔い改めて生きること、それしかない、だから誰かが、修道士がそれを代わって行うことなどできないと、ルターは言ったのです。私たちが神さまを信じ、従い、キリストを待ち望むことも同じです。それを他の人に代わってもらうことなどできません。私自身が神さまの前に立ち、キリストを待ち望みながら、今日の日を精一杯生きる、そのことこそ大切なのです。

 

しかし、同時に、この「賢い」とされる女性たちもまた、最終的な段階ではもはや油を分けることはできなくても、その前に、つまりみんな眠ってしまう前に、「いつ花婿が来てもよいように、ちゃんと今のうちから油を用意しておきましょうね」と呼びかけることはできたはずです。私たちにとって、今はまさにそのときです。つまり、キリストがおいでになる、終わりの日を待ち望む私たちが、私たちの周りの人々に、神さまの福音を宣べ伝え、宣教を行う務めの大切さを、ここから受け止めたいと思います。

 

主よ私たちを導いてください。

 

神さま、私たちが喜びと希望のうちに、救い主イエスさまの到来と、あなたの救いの完成の日としての終わりの日を待ち望むことができますように。また、その日まで、あなたの救いの福音を宣べ伝える歩みができますように。イエスさまのお名前によって。アーメン

 

希望の源である神が、信仰によって得られるあらゆる喜びと平和とであなたがたを満たし、聖霊の力によって希望に満ちあふれさせてくださるように。アーメン

 

動画 2017-11-19unedited.MP4 - Google ドライブ

 

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黙想 マタイ25:1~13(~30)

マタイによる福音書25章1~13(~30)

1「そこで、天の国は次のようにたとえられる。十人のおとめがそれぞれともし火を持って、花婿を迎えに出て行く。2そのうちの五人は愚かで、五人は賢かった。3愚かなおとめたちは、ともし火は持っていたが、油の用意をしていなかった。4賢いおとめたちは、それぞれのともし火と一緒に、壺に油を入れて持っていた。5ところが、花婿の来るのが遅れたので、皆眠気がさして眠り込んでしまった。6真夜中に『花婿だ。迎えに出なさい』と叫ぶ声がした。7そこで、おとめたちは皆起きて、それぞれのともし火を整えた。8愚かなおとめたちは、賢いおとめたちに言った。『油を分けてください。わたしたちのともし火は消えそうです。』9賢いおとめたちは答えた。『分けてあげるほどはありません。それより、店に行って、自分の分を買って来なさい。』10愚かなおとめたちが買いに行っている間に、花婿が到着して、用意のできている五人は、花婿と一緒に婚宴の席に入り、戸が閉められた。11その後で、ほかのおとめたちも来て、『御主人様、御主人様、開けてください』と言った。12しかし主人は、『はっきり言っておく。わたしはお前たちを知らない』と答えた。13だから、目を覚ましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないのだから。」

14「天の国はまた次のようにたとえられる。ある人が旅行に出かけるとき、僕たちを呼んで、自分の財産を預けた。15それぞれの力に応じて、一人には五タラントン、一人には二タラントン、もう一人には一タラントンを預けて旅に出かけた。早速、16五タラントン預かった者は出て行き、それで商売をして、ほかに五タラントンをもうけた。17同じように、二タラントン預かった者も、ほかに二タラントンをもうけた。18しかし、一タラントン預かった者は、出て行って穴を掘り、主人の金を隠しておいた。19さて、かなり日がたってから、僕たちの主人が帰って来て、彼らと清算を始めた。20まず、五タラントン預かった者が進み出て、ほかの五タラントンを差し出して言った。『御主人様、五タラントンお預けになりましたが、御覧ください。ほかに五タラントンもうけました。』21主人は言った。『忠実な良い僕だ。よくやった。お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ。』22次に、二タラントン預かった者も進み出て言った。『御主人様、二タラントンお預けになりましたが、御覧ください。ほかに二タラントンもうけました。』23主人は言った。『忠実な良い僕だ。よくやった。お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ。』24ところで、一タラントン預かった者も進み出て言った。『御主人様、あなたは蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集められる厳しい方だと知っていましたので、25恐ろしくなり、出かけて行って、あなたのタラントンを地の中に隠して/おきました。御覧ください。これがあなたのお金です。』26主人は答えた。『怠け者の悪い僕だ。わたしが蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集めることを知っていたのか。27それなら、わたしの金を銀行に入れておくべきであった。そうしておけば、帰って来たとき、利息付きで返してもらえたのに。28さあ、そのタラントンをこの男から取り上げて、十タラントン持っている者に与えよ。29だれでも持っている人は更に与えられて豊かになるが、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。30この役に立たない僕を外の暗闇に追い出せ。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。』」)

 

 黙 想

 

教会暦の一年の終わりが近づいて、礼拝の主題も「終末」に焦点があてられる。聖書の歴史観は、神が天地を創造された「はじめ」があり、神が新しい世界に人々を招かれる「終わり」があるというもの。終末とは、神の救いの完成の日。花婿キリストがおいでになって、神の支配がついに完璧に実現。その時、この世の悪の力は敗北。悲しみ、苦しみ、罪に終止符が打たれるとき。今の辛さは永遠には続かない。キリストがおいでになって、必ずそれらにピリオドを打ってくださる。「もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである」(黙示録21:4)。

 

「目を覚ましていなさい。あなたがたはその日、その時は知らないのだから」終末がいつかは私たちにはわからない。「いつが終末だ」などというのは嘘。「あなたがたはその日、その時は知らないのだから」。たとえ天変地異や、騒動があっても、それが即、終末が来る予表とはならない。そんなものは古今東西いつの時代も起こっていることであり、だから、たとえ何が起ころうとも、あるいは、何も起こらなくても、いつも終末に備えていることが大切。「目を覚ましていなさい」=終末に備えて生きる私たち。

 

しかし、だからと言って、それは何も特別なことをすることではない。14節以下のタラントンのたとえにあるように、与えられた役割を、神さまにお預かりした命を地道に精一杯燃やして生きること。「たとえ明日、世の終わりが来るとしても、私は今日りんごの木を植える」的な生き方。諦めず、放棄せず、自棄にならず、興奮せず、淡々と今日を生き、明日を迎える。

 

10人のおとめ。そのうちの5人は「愚か」で、5人は「賢かった」と言われるのだが、実際にはここで10人が10人とも、みんながみんな眠ってしまった。「目を覚ましていなさい」と、そう命じられて、そのことを大切にしようとしても、結局は誰しもが眠ってしまう。「心は燃えていても、肉体は弱い」のだ。まずそのような自分の弱さを受け止めたい。信仰が眠ってしまう。希望が眠ってしまう。愛が眠ってしまう。そんな私たちであるということ。「自分は大丈夫」「いつも目覚めている」なんてことは、誰一人絶対に言えない。たとえ、どれだけ賢くても、どれだけ敬虔でも、やはり眠ってしまうのだ。

 

そのように時として眠ってしまう私たちだからこそ、普段からの備えが大切。信仰に燃えて生きる私たち。でも、いつか眠ってしまい、その炎が消えてしまう。そこで「賢い」と「愚か」の分岐点は、壺に油を入れて持っているかどうか。油とは、キリスト?聖霊?みことば?信仰?希望?様々なことが考えられ、どれも正しいのだろうが、ここで言われている大事なことは、たとえ眠ってしまう弱さがあっても、なおもキリストを待ち望み、迎え入れる心を大切にし続けること、そして、そのことを待ち望みつつ日々を過ごすこと。

 

このみことばの背景。キリストの再臨の遅れ、終末の遅延という事態。そうした中で、信徒たちは、大きな迫害に遭う。希望を失い、棄教をする多くの人たちも。そうした現実の中で、いつかはわからないが、主は必ず来られる。ある日突然。真夜中に。この世の闇、信仰の闇の中で、主は来られる。その闇の中で、「花婿だ。迎えに出なさい」との声が喜びの声が響く。真っ暗闇の中で「光あれ」との神の声が響き光がさして新しく世界が創造されたあの時のように。

 

今も、闇の世の中。救い主を待ち望みつつ、もう救い主は来ないのか、いないのかとの思いになる。でもその闇の中でこそ、「救い主がおいでになられた、さあ迎えよ」との声がある日突然響くのだ。それはいつかはわたしたちにはわからないが、私たちは信じてその日を待ちたい。それまでの間にたまに眠ってしまうこともあれば、信じられなくなってしまうことや、忘れてしまうこともあるかもしれないが、しかし、予備の油、すなわち、みことば、祈り、希望、信仰、憧れ、キリスト、聖霊を私たちの心に保ち続け、待ち望みたい。

 

おとめたちは、花婿のことを迎えに行く花嫁の道を照らす、その灯りをともす役割をする女性たちのことであると考えられる。彼女たちは結婚式の直接的な主役でなく、あるいは晴れ晴れしい役割でもない。しかし、たとえそうでも、その時に備えて彼女たちは待つ。そしてその働きをする。私たちの歩みも、決して晴れ晴れしいものではないだろう。目立つ働きでもない。でも、その小さな目立たない働きに忠実に。1タラントンを大切に用いながら精一杯歩んでいく。その日を待ち望みながら。

 

ところで、油を持っていたおとめたちは、持っていなかったおとめたちに、自分の油を分けることはできなかったのか?あまりにも冷たいではないか。しかし、自分自身で選び取り、自分自身で従っていかねばならないことがある。自分にだけしかできないこと。信仰と服従、これは他の人が代わることはできない。宗教改革時代の償いの業。修道士たちが、祈ったり、敬虔な生活を、一般の信徒に代わっておこなっていた。しかし、ルターはこれを非難。そうやって償いは人が変わることはできない。神を信じ、従うということも同様だ。

 

同時に、この「賢い」とされるおとめたちもまた、その最終的な段階では油を分けることはできなくても、眠る前に、みんなに「ちゃんと油を用意しておきましょうね」と呼びかけることはできたはずだ。終末を待ち望む教会が、主の福音を宣べ伝える、宣教を行う務めの大切さをここから受け止めたい。

2017年11月12日 礼拝メッセージ

聖霊降臨後第23主日 2017年11月11日

 

「聖書の神髄、それは愛」

(マタイによる福音書22章34~40)

 

わたしたちの父である神と、主イエス・キリストからの恵みと平和があなたがたにあるように。アーメン

 

私たちは、毎週礼拝で、聖書のみことばと、そのメッセージを聞きます。また、それぞれみなさんの家庭でも、聖書を読まれるでしょうし、時には、周りの人に聖書についてお話しされることもあるかもしれません。その際、私たちがどんな視点を大切にして、聖書のみことばを聞き、そして、お話しすべきなのか、今日、イエスさまは私たちに教えてくださいます。

 

今日の福音は、マタイによる福音書22章34節以下のところですが、その前を見ていきますと、イエスさまに敵対していた、当時の宗教的なグループの人々がこぞって、イエスさまを陥れて罪に定めようとしていた姿が伝えられています。15節以下、先週のみことばでは、ファリサイ派の人たちが、普段は仲の悪いヘロデ派の人たちをも巻き込んで、彼らと一緒に、イエスさまを罠にかけようと企てていました。また、それに続く23節以下では、今度は、サドカイ派の人たちが、イエスさまを陥れようと意地悪な質問をしています。しかし、いずれも、イエスさまのほうが彼らよりも何枚も上手で、イエスさまが驚くべき答えをなさって、結局、彼らは言葉を失うばかりでした。

 

今日の個所でも、「今度こそ」という感じで、ファリサイ派の人たちが再びイエスさまのもとに来て、彼らファリサイ派の中でも、さらに選りすぐりのエリートで、聖書に詳しい律法の専門家(律法学者)が、イエスさまに質問します。「先生、律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか」と。実は、この質問自体、たいへん大きな問題を孕むものでした。なぜなら、律法は、神さまが定め、私たちに与えてくださった大事なきまりだと信じられていましたから、その中のどれもが重要だったはずです。本来、「これが大事な律法で、あれはそうでもない律法だ」なんてことは決してありませんでした。イエスさまが別の個所で、「律法の文字から一点一画も消え去ることはない」とおっしゃった通りです。ですから、「どの掟が最も重要でしょうか」などという問い自体、おかしなものなのです。でも、彼らは、そうした問題ある質問を、ここでするのです。

 

私たちは、ここから二つのことを受け止めることができます。まず一つ目は、このように、彼らが「これは大事で、あれはそうでもない」と、自分の都合により、大事な律法と、それほどでもない律法と分けて受け止めていた事実があったということです。神さまの律法を誰よりも大事にしていたはずの彼らであるのに、とても残念なことです。そして、もう一つのことは、彼らが、この質問をイエスさまにすることで、今度は、イエスさまを、そのように「律法のうちであれは大切で、他はそうでもない」と線引きしていると、罪に定めようとしたということです。自分たちは常日頃同じことをしておきながら、イエスさまに対しては、それをもとに罪に定めようとする、そうした彼らの二重の規範、ダブルスタンダードが、ここで見られます。

 

しかし、ここでもやはり、イエスさまのほうが、彼らよりも上手でした。イエスさまは彼らに答えられます。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の掟である。」このように、まず何よりも、「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして」、つまり、全身全霊を込めて神さまを愛すること、「これが最も重要な第一の掟である」と、イエスさまはお答えになります。

 

実は、これは、イスラエルの人たちがとても大切にしてきたみことばでした。彼らが神さまの救いにより、エジプトを脱出して、約束の地に入る前に、神さまから大事な務めが彼らに授けられました。それは、彼らが神さまのみ前に何を大切に、どう生るべきかを定めた掟である律法を大切に暮らし、それを自分の子どもや孫たちに伝えるということでした。申命記6章4節以下に、次のように告げられています。

 

「聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。今日わたしが命じるこれらの言葉を心に留め、子供たちに繰り返し教え、家に座っているときも道を歩くときも、寝ているときも起きているときも、これを語り聞かせなさい。更に、これをしるしとして自分の手に結び、覚えとして額に付け、あなたの家の戸口の柱にも門にも書き記しなさい。」

 

彼らは、ここに語られている通り、いつも子どもたちにこのみことばを語り伝え、さらには、家中にお札のようにこのみことばを掲示し、このみことばを書いた小さな紙を入れた小さな箱をお守りのように自分の身に着けて生活していました。そのように、自分の全身全霊をもって神さまを愛することをいつも大切にして生きようと心掛けていたのです。

 

ところで、この「愛する」という言葉は、抽象的で、分かりやすそうで、実際のところ、なかなかわかりにくい言葉です。「愛する」とは一体どういうことでしょうか。キリシタン時代の宣教師たちは、聖書が語る「愛」という言葉を表すのに、ぴったりとくる日本語が見つからず、悩みに悩んだそうです。そして、その結果、彼らはこれを「ご大切」と訳しました。神さまを、私たちが「ご大切」に、つまり心から敬って大切にすること、これが「神を愛する」ということとなるでしょう。また、「I love you.」つまり「私はあなたを愛しています」という英語を、日本のある作家は、「君のために死ねる」と、そんな風に訳しました。つまり、自分の命を懸けられること、それが愛ということです。私は神さまのために命を懸けることができる、その決意をもって生きる、これが私たちが神を愛するということなのです。「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして」、全身全霊で、神さまを心から敬って大切にし、また、神さまのために自分の命を懸ける、これが、律法の中の第一の掟であると、イエスさまはおっしゃっているということになります。余談ですが、夏目漱石は、「I love you.」を「月がきれいですね」と訳したと言います。きれいだね、うれしいね、そんな自分の気持ちを一緒に共感できること、それが愛ということでしょうか。神さまとそのように通じ合い、共感できることも、素晴らしいことですね。

 

「全身全霊で神を愛せよ」、イエスさまの答えがもしこれだけで終わったなら、先ほどお話ししたように、イエスさまは律法の中のただ一つだけを重要視して、他の律法を軽く見たという風に、イエスさまを罪に定めることができたことでしょう。でもイエスさまの答えはそれで終わりません。間髪入れず、イエスさまは続けておっしゃいます。「第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている」。先ほどは第一の掟として、全身全霊を込めて神を愛することだとお答えになられたイエスさまが、第二の掟は、「隣人を自分のように愛しなさい」ということだとおっしゃいます。そして、この「第二も、これ(つまり第一の掟)と同じように重要である」、また「律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている」とおっしゃいました。

 

つまり、イエスさまは、私たちが全身全霊で神さまを愛することと、隣人を自分のように愛すること、この二つは、どちらも同じだけ大切であり、切っても切り離すことができない、二つで一つ、ワンセットな掟であって、「律法全体と預言書」、つまり聖書のみことばはすべて、この二つで一つの教えが基本となり、土台となっていると、お答えになられたのです。さすがイエスさまです。完璧、パーフェクトな、誰にもできない答えをなさいました。

 

私たちが聖書のみことばを聞くときにも、またほかの人にそれをお話しするときにも、何よりも大切なことは、この、私たちが全身全霊で神を愛し、隣人を自分のように愛する、この視点です。よく、聖書にこう書いてあるから、これはよくて、あれはダメだとか、この人は聖書のみことばに従ってからいいけど、あの人は従っていないからダメな人だとか、そんな言われ方がしますが、でも、大切なことは、私たちが聖書をそのように何かのルールブックのように見ることではありません。私たちが心から神さまを愛して、周りの人を自分自身のように愛する、この視点から聖書を見て受け止めること、そして伝えることです。

 

さて、私たちが心から神さまを愛することと、隣人を自分のように愛することは、切っても切り離すことができない一つのことであると、イエスさまはおっしゃったのですから、私たちが神さまを愛する者であろうとするなら、ただそこにとどまらず、隣人をも愛することになります。また隣人を愛する時に、それはただ私たちの人間的な思いからするのではなく、神さまを愛する愛の中でなされるべきこととなります。

 

ヨハネの第一の手紙に、こんな言葉があります。《「神を愛している」と言いながら兄弟を憎む者がいれば、それは偽り者です。目に見える兄弟を愛さない者は、目に見えない神を愛することができません。神を愛する人は、兄弟をも愛すべきです。これが、神から受けた掟です。》

 

このように神さまを愛することと、私たちの自分のすぐそばにいる隣人、兄弟姉妹を愛することは、別々のことではなく、一つのことなのです。また、その愛は、ただの人間的な愛とは異なります。人間的な動機に基づくヒューマニズムの愛と、神さまの愛に導かれた、まことの隣人愛は大きく異なるのです。その人が愛されるのにふさわしいから、私がその人を愛するのではありません。普通に考えるなら、その人が愛されるのにふさわしくない、そんな人でも、私はその人を愛するのです。その人が自分に良くしてくれるからとか、愛することが自分にとって得だからとか、そんなことを超えて、神さまがその人を愛しなさいとおっしゃっているから、私はその人を愛するのです。イエスさまは「あなたの敵を愛しなさい」、そのようにもおっしゃいました。それが聖書が教える、神さまの愛に導かれた隣人愛なのです。私たちはそうした愛の歩みへと招かれているのですが、実際には、これはなかなか難しい、厳しいなと思います。

 

ところで、「隣人を自分のように愛しなさい」、このイエスさまのことばを大事にするときに、そこで大切なことがあります。それは、「隣人を自分のように愛しなさい」と、「自分のように」と言われているのですから、私たちが自分自身を愛するということを知っており、そのことを実際に大事にしていることが、隣人を愛することの前提であるということです。私たちは、自分自身のことを愛しているでしょうか。ぜひ考えてみてください。

 

実は、私たちにとって、これはなかなか難しいことです。自分をなかなか好きになれない。自分を赦せなかったり、受け入れられなかったりする私たちです。また、いろんな認めたくない自分の過去もあるでしょう。でも、そのように自分自身のことを愛せない限り、神を愛し、隣人を本当の意味で愛することは、私たちにはできないのです。では、そのために必要なことは何でしょうか。それは、私たち自身が、愛されている者であることを知り、そのことを受け入れることです。私たちが自分自身を見るなら、なかなか自分を赦せなかったり、受け入れられなかったり、認めたくない過去があったりします。自分が好きになれない。でも、それらをすべてひっくるめて、「たとえどんな歩みをしてきたあなたであっても、また、今、どんなあなたであっても、でも、わたしはあなたを愛している。あなたのことが大切だ。あなたのためにならわたしは死ねる」とおっしゃってくださる方がいることを、私たちが信じることなのです。

 

先ほどのヨハネの第一の手紙には、こんなことも語られています。

「神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。愛する者たち、神がこのようにわたしたちを愛されたのですから、わたしたちも互いに愛し合うべきです。」

 

神さまが私を愛してくださった。私は神さまに愛されている者だ。神さまは私を大切にしてくださり、御子イエスさまは私のために死なれ、命がけで愛してくださった。私たちは、その神さまの愛、イエスさまの愛の中でこそ、その愛に導かれ、促されて、神さまを愛し、隣人を自分のように愛する者とされるのです。空のコップに水が注がれるとき、だんだんとコップに水が満ちていき、やがてそこから水があふれ出るように、私たちの心が神さまの愛で満たされて、私たちの内からその愛があふれ出ていくのです。

 

主よ、私たちを導いてください。

 

神さま、あなたが私を愛して大切にしてくださっていることを感謝いたします。そして、御子をお遣わしくださり、御子は私のために命がけの愛を示してくださいました。感謝いたします。このあなたの愛の中で、私も自分自身を愛することができるようにされて、あなたを愛し、自分自身のように私の隣人、周りの人を愛する歩みができますように導いてください。御子、愛の主イエス・キリストのお名前によって。アーメン

 

あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るように。アーメン

 

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黙想 マタイ22:34~40

 

 マタイ22:34~40

34ファリサイ派の人々は、イエスサドカイ派の人々を言い込められたと聞いて、一緒に集まった。35そのうちの一人、律法の専門家が、イエスを試そうとして尋ねた。36「先生、律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか。」37エスは言われた。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』38これが最も重要な第一の掟である。39第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』40律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」 

 

黙 想

 

マタイ22章。ファリサイ派、ヘロデ派、サドカイ派、そしてまたファリサイ派と、何とかしてイエスを陥れよう、亡き者にしようとみんな躍起になっている、そうした世の闇の力を垣間見る。私たち信仰者を脅かす世の力は今も絶え間なく働く。しかし、むしろそのことによって、神の計画は前進する。

 

ルター「私がこのビールを飲んでいるときにも、ひとりでに神の国は来る」「私がこのビールを飲んでいるときにも、神の国は前進する」との言葉を思う。「わが命も…とらばとりね、神の国はなお我のものぞ」!

 

律法の専門家が、イエスを試そうとする。聖書に精通していた者が聖書を悪用する。「悪魔だって、自分の都合のよいように聖書を引用するのだ」(ベニスの商人)。イエスの荒野での誘惑の際の出来事。

 

「先生、律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか。」この問い自体がおかしい。実に事細かな律法が定められていた。その数613もあったという。「なになにしなさい」という掟が248、「なになにしてはならない」が365。その613すべてどれもが大事なものであったはずだ。「律法の文字から一点一画も消え去ることはない」とイエスもおっしゃった(マタイ5:17~21)。それなのに、ここで律法学者は、そのどれもが等しく大切な律法に優劣をつけようとする。実に自己矛盾である。自分の都合によって、「これは大事な律法で、あれはそれほどでもない律法」、彼らはそんなことを考えていたのか。

 

エスは答えた。『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の掟である」これは申命記6:5のみことば。そこでは、その後に「今日わたしが命じるこれらの言葉を心に留め、子どもたちに繰り返し教え、家に座っているときも道を歩くときも、寝ているときも起きているときも、これを語り聞かせなさい。更に、これをしるしとして自分の手に結び、覚えとして額に付け、あなたの家の戸口の柱にも門にも書き記しなさい」と続く。つまり、決して忘れ去られてはならない、失われてもならない、子どもたちに教え、受け継ぐべき、そして肌身離さず必携すべき教え。心も、考えも、もっと深いところでも、私たちはすべてを尽くして、全身全霊を込めて、神を愛する。いつどんなときも一時もそのことを忘れずに。神を、わたしの神として愛する。主=イスラエルをエジプトから救い出した救い主である神。神が救い出してくださっただから愛する。申命記6:5も、「聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である」との言葉に導かれて語られている。

 

愛する=かつてキリシタン時代には「ご大切」と訳され伝えられた。ご大切にすること、それが愛。私たちは、心を込めて、全身全霊で、神をご大切にしているだろうか。

 

さて、イエスの答えは、神を愛するということだけにとどまらなかった。間髪入れずに続けて答えるのだ。「第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』」これはレビ記19章18。このように、神を愛することと、隣人を自分のように愛することは切っても切り離すことができないものだ。二つで一つ、ワンセットである。十戒の第一の石板と第二の石板、それではじめて十戒。神を愛する者として、その愛の中でこそ、人を愛するのだ。また、人を愛することなしに、神を愛することもできない。

 

ヨハネ「04:20「神を愛している」と言いながら兄弟を憎む者がいれば、それは偽り者です。目に見える兄弟を愛さない者は、目に見えない神を愛することができません。 21神を愛する人は、兄弟をも愛すべきです。これが、神から受けた掟です。05:01イエスがメシアであると信じる人は皆、神から生まれた者です。そして、生んでくださった方を愛する人は皆、その方から生まれた者をも愛します。02このことから明らかなように、わたしたちが神を愛し、その掟を守るときはいつも、神の子供たちを愛します。」このように神を愛する者は兄弟姉妹をも愛する。そうしなければ偽り者であり、神のことしてふさわしくない。

 

私たちが人を愛する際に大事なことは、ルターの小教理「わたしたちは神を愛し、恐れ、敬うべきです。だから・・・」とある通り、神を愛する愛によって、人を愛するということ。本当の愛をもって人を愛する。ヒューマニズムとは異なる愛。人間は罪びとであり、弱さがあり、欠けがある。だからヒューマニズムの愛は、利己的になり得る。神を愛する愛の中で、神のみことばに照らされ、導かれながら、私たちは人を愛するのだ。

 

今日のみことばで見落としがちな一つの言葉、それは、隣人を「自分のように」愛するということ。自分を愛することの大切さが語られている。自分を大切にして大事にする。その時、私たちは隣人を愛することができるのだ。自分を愛するために、まずは自分を赦し、自分を受け入れる。そのためには、神に愛され、神に赦され、神に受け入れられている自分であることを知り、信じること。つまり、出発点は、神が私を愛してくださったということ。そこから、その神を愛し、私自身を愛することへ。さらには、そこからこそ、隣人への愛に向かっていく。

 

ヨハネ「04:07愛する者たち、互いに愛し合いましょう。愛は神から出るもので、愛する者は皆、神から生まれ、神を知っているからです。08愛することのない者は神を知りません。神は愛だからです。09神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。10わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。11愛する者たち、神がこのようにわたしたちを愛されたのですから、わたしたちも互いに愛し合うべきです。 12いまだかつて神を見た者はいません。わたしたちが互いに愛し合うならば、神はわたしたちの内にとどまってくださり、神の愛がわたしたちの内で全うされているのです。」

 

まず神が私たちのことを愛された。私たちのために御子をお遣わしになり、私たちを生きるようにしてくださった。御子が私たちの罪を償うために命をささげられた。このことにこそ愛がある。この神の愛、御子の愛に導かれてこそ、私たちは自分を愛することができるようにされて、さらにはその愛の中で、喜びと感謝をもって、人を愛する者とされていくのだ。私たちが神を愛し人を愛するためには、神の愛をまずは自分が一杯いただくこと。みことばで祈りで礼拝で。その愛が私のうちに満たされ、神を愛し、自分を愛する者とされて、さらに私のうちを超えてあふれ出て、人を愛する者へとされていく。

 

1ペトロ「04:08何よりもまず、心を込めて愛し合いなさい。愛は多くの罪を覆うからです。」

 

神の愛が私の罪を覆う。それと同じように、私たちも、愛によって、お互いの罪を覆い、乗り越えていきたい。罪がない者同士が愛し合うのではない。あるいは、自分が正しく、相手に罪があるというのでもないし、相手が正しく、自分にこそ罪があるというのでもない。私も相手もともに罪がある。でも互いに愛によってその罪を覆い、乗り越えていくのだ。「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、私もその中にいるのである」とおっしゃるキリスト。私と相手とのお互いの間に救い主キリストがおられる。そこに十字架が立っている。私たちはその中でキリストの十字架のフィルターを通して、愛し合っていく。そして、互いに神を愛することができることを願いながら。

 

「これらすべてに加えて、愛を身に着けなさい。愛は、すべてを完成させるきずなです。」(コロサイ3:14)

2017年11月5日 礼拝メッセージ

聖霊降臨後第22主日・全聖徒主日 2017年11月5日

「天を仰ぎ、地を歩む」

(マタイによる福音書22章15~22)

 

わたしたちの父である神と、主イエス・キリストからの恵みと平和があなたがたにあるように。アーメン

 

教会の暦で、毎年11月初めの主日は、「全聖徒主日」にあたります。これは、本来11月1日が「全聖徒の日」なのですが、平日に教会で特別な礼拝を守ることが、みなさんなかなか難しいので、11月の初めの主日に「全聖徒主日」として振り替えてもよいと定められていることによるものです。

 

ところで、もともとこの11月1日は、「諸聖人の日」、「万聖節」として記念されていました。つまり、教会の歴史上、聖人と呼ばれる、何か特別な働きをした人たちを記念する日だったのです。しかし、私たち日本のルーテル教会では、11月1日を「諸聖人の日」ではなく、「全聖徒の日」と呼びます。英語では、いずれもAll Saint’s Dayで同じですが、日本語でそのように呼び方を変えているのは、この日の意味を、よりはっきり私たちに伝えてくれると思います。私たちがこの日に記念するのは、諸聖人、何か特別な働きをした聖人たち、そうした一部の人たちだけでなく、主イエス・キリストの福音によって神さまに召されたすべての聖徒たちを覚えるのです。この「聖徒たち」とは、神さまのものとして、神さまが受け入れてくださった人たちという意味です。

 

ですから、キリストの福音によって神さまのものとして受け入れられたすべての聖徒たちを覚えるのが、11月1日の全聖徒の日であり、今日、全聖徒主日なのです。特別な働きをした聖人と呼ばれる信仰者たちも、また、世界の片隅でひっそりと信仰生活を送った無名の信仰者たちも、ともにキリストによって神のものとして受け入れられた、同じ聖徒であると、私たちはこの日に覚えます。「あの聖人がこんな素晴らしいことをした」とか、「あんな不思議な奇跡を行った」とか、そうしたことを記念する日ではなく、「私たちの教会のあの人も、キリストの福音によって救われ、神さまに受け入れられた一人だよね」、「いやぁ、この人はちょっと問題ある人だったけど、でもこの人もキリストの福音によって神さまに受け入れられた一人だよね」と、そんな風にキリストの福音によって一人ひとりが救われて、神さまが恵みをもって、その人のことをご自分のものとして受け入れられたことを覚え、感謝し、神さまを賛美する日が、全聖徒の日、また、全聖徒主日です。

 

さらには、聖徒たちという時、それは、地上の生涯を終えて神さまのみもとに召された、すでにお亡くなりになられた方々のことだけを表すのではありません。今、この地上を生かされ、キリストの福音に与っている私たちもまた、神さまのものとして受け入れられ、聖徒たちの交わりの一人に加えられている。このことも、今日私たちが覚えたいことです。全聖徒主日に記念する全聖徒、私たちも、その一人ひとりなのです。そして、私たちがそのように聖徒たちの群れに加えられているのは、私たちが何か特別な働きをしたとか、神さまの前に特別にふさわしい歩みをしているというからではなく、ただただキリストの福音によって神さまの恵みで、神さまが私たちをご自分のものとして受け入れてくださっている、このことによります。私たち自身を見るなら、神さまの前に弱さを抱えて、罪深い歩みをしていて、神さまの御前にふさわしくないと痛感せざるを得ません。でも、神さまは、そんな私たちを、キリストにあって、「お前は、わたしのものだ。さあ、わたしの御国に集いなさい」とおっしゃってくださっている、これが私たちが聖徒であるということの意味です。

 

さて、今日も、私たちは、与えられた福音からみことばを聞いてまいりますが、そこで話題となっているのは、直接的には、神さまを信じる者たちは、皇帝に税金を納めるべきか否かということです。イエスさまに敵対するファリサイ派の人たちが、イエスさまを陥れて罠にかけようと企み、普段は仲が悪いヘロデ派の人たちと一緒に、イエスさまに大変意地悪な質問をしました。私たちが税金を納めることは、聖書の中のきまりである律法に適っているかどうかと。これは、どちらに答えても、イエスさまを罪に定めることができる、実に狡猾な質問でした。

 

と、申しますのは、当時イスラエルの国は、ローマに支配されており、その皇帝の支配下にありましたが、主なる神こそがこの世の真の支配者であり、異国の支配者であるローマ皇帝の支配を認めるわけにはいかない、それは神の支配を否定することだというのが、もともとファリサイ派の信仰でした。ですから、もしイエスさまが、彼らの質問に、税金を納めることは律法に適っていると答えるなら、その信仰に反して、イエスさまは神さまの支配を否定して、宗教的な罪を犯したと定めることができるわけです。また、逆に、税金を納めるのは律法に反していると、もしイエスさまが答えるなら、それは、ローマ皇帝の支配を大事にするヘロデ派の人たちからするなら、イエスさまがローマ皇帝の支配に反逆する言動をしたということになり、社会的な罪を犯したと定めることができることになります。ですから、この質問をした彼らは、実にしてやったりで、「お前もこれでもう終わりだな」というそんな思いで、イエスさまにこの問いを尋ねたのだろうと考えられます。

 

しかし、その彼らの問いに対して、イエスさまは、驚くべき答えをなさるのです。イエスさまは、まず彼らに税金として納める硬貨を持ってこさせます。そして、その硬貨に刻まれているものは何であるかを、彼らに逆に尋ねました。それに対して、彼らは「皇帝のものです」と答えました。その答えの通り、そこには、ローマ皇帝の顔と、「皇帝ティベリウス、いと高き神アウグストゥトゥスの子」という言葉が刻まれていたと言います。実は、これは、神さまの信仰に生きようとするイスラエルの人にとっては、たいへん耐え難いものでした。なぜなら、彼らは、主なる神さま以外のものを神としてはならない、また、いかなる像も刻んではならないという、あの十戒の教えをとても大事にしていたからです。けれども、実際には、そのように、皇帝の顔が刻まれた、しかも神以外のものを神であるとして刻んである、その硬貨を持ち歩き、それを用いて生活しなければならなかったのです。ちなみに、この硬貨は、そのまま彼らの神殿への献金として納めることはできませんでした。なぜなら、今述べた理由からです。神以外のものを神として、またその顔の絵が刻まれているそんなものを、真の神さまへのささげものとすることなど、彼らの信仰にとって決して認めることができないことだったのです。ですから、神殿に献金する際には、伝統的なユダヤのお金に交換しなければなりませんでした。すると、当然、その際に両替手数料もかかり、毎日、やっとの思いで暮らしていた人々にとっては、それもまた大変な重荷でした。

 

エスさまは、その硬貨を手に取りながら、答えました。「では、皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」。このイエスさまの答えに対して、「イエスさまのお言葉の通り、私たちクリスチャンもちゃんと税金を納めるべきです」などという説明がなされる場合がありますが、ここでイエスさまがそんなことをおっしゃりたいわけではないでしょう。イエスさまは、きっと、本当なら、そんなローマ皇帝の顔や名前が刻まれている硬貨なんか持ち歩きたくないし、ローマの支配のもとで大変な生活を強いられるのはもううんざりだという、人々のそうした痛みや苦しみを受け止めながら、振り絞るような思いで、この答えをなされたのだと思います。

 

つまり、この地上の世界において、この社会のただ中で生かされている私たちですけれども、そのように私たちがこの地上に生きている限り、この世のいろいろな柵の中で、様々なことに巻き込まれながら、否が応でも、この世の様々な制度に従って生きていかなければなりません。イエスさまは、そうした人々の痛みや苦しみを受け止めながら、「皇帝のものは皇帝に」とおっしゃったのでしょう。つまり、あなたがたは、今は、そのように皇帝のこと、この世のことに縛られながら生きていかざるを得ない。それは本当に大変で、辛く悲しく、そして腹立たしいことであろう。でもそのように生きていかねばならない現実がある。そんな思いで、イエスさまは「皇帝のものは皇帝に」とおっしゃったのではないかと思うのです。でも、イエスさまの答えはただそれだけでは終わりません。「皇帝の者は皇帝に」その生活を強いられる私たちですが、もう一つ、私たちに忘れてはならないことがある。それは、私たちが他でもなく「神のもの」であるということです。私たちは神さまのものとして、神さまに私たちの人生の歩みをお返しすべく、そのためにこそ生かされている私たちの人生であるのです。つまり、私たちはこの世で、「神のもの」として、「皇帝のもの」つまり、「この地上の、この世のもの」にかかわりながら生きています。この世に対するいろんな怒りや悲しみ、葛藤や痛みを心に抱きながら、でも、そうしたこの世のただ中で、神さまのものとされ聖徒たちの群れに加えられて、私たちは生かされているのです。

 

そのことを忘れず、神さまの前に、神さまを見つめながら、神さまのものとして生き、神さまに私たちの人生をお返しする、そんな生き方を、イエスさまは私たちに望んでおられる。それが「神のものは神に返しなさい」ということの意味であると思います。この世の現実を見る時、実に多くの残酷なことや不安なことがあり、もはや神などいないのではないだろうか、そんな思いになることも少なくありません。ドイツのルーテル教会の牧師であり神学者ディートリヒ・ボンヘッファーは、ヒトラーが率いるナチスの横暴がなされているその時代に、自分自身もナチスによって捕えられて牢に閉じ込められながら、友人に「神の前に、神と共に、ぼくらは神なしに生きる」と書き送りました。「神なしに生きる」と言っても、これはボンヘッファーが「もう神などいない」と思ったというわけではありません。自分の周りを見るなら、神さまなどもうどこかへ行って、いなくなってしまった、そんな風に思わざるを得ないような状態だけれども、でも、そんな神がいないようなそのただ中にあっても、自分は神さまの前に誠実に、神さまがともにいてくださるという希望をもって生きていくのだという、彼の信仰の告白です。「では、皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」との今日のイエスさまのみことばも、まさにそのことを私たちに告げているのだと思います。皇帝が支配している、つまり、この世の厳しい支配のもとで、私たちはそれに苦しみながら生きていかねばならない。しかし、そのただ中で、私たちは、神さまのものとされたことを信じて、神さまの前に誠実に、神さまと共に希望を持って歩んでいく、そして、神さまに私たちの人生をお返ししていく、そうした歩みをイエスさまは私たちに望んでおられるのではないでしょうか。

 

パウロは、フィリピ書の3章で「しかし、わたしたちの本国は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、わたしたちは待っています」と語っています。パウロも、この手紙を牢屋の中で書いたと考えられています。いつどんな風に自分が処されるかわからない大変厳しい状況です。そうした本当に大変な中で、パウロはただそのことだけを見ていたのではなく、天を見上げ、天に生かされる、神のものとされた者として、キリストを待ち望みながら、この地上での日々を過ごしていたのです。いろんな心配があり、不安があり、危険があり、苦しみがある。そうした世の中を、私たちも生きていかねばなりません。「しかし、わたしたちの本国は天にあります」。神さまのものとされた、天の民として、その天を仰ぎながら、この地上を歩むのです。やがて必ずキリストがおいでになり、私たちを救い出してくださる。私たちの苦しみにピリオドを打ってくださる。そのことを信じて、天を仰ぎながら、この地に足をつけて歩むのが、私たちが「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」とのイエスさまのみことばに従って生きる歩みです。

 

今日、全聖徒主日。キリストにあって、神さまの恵みによって、神さまのものとされたすべての人たちを覚え、その人たちを導かれた神さまを賛美する日であり、私たちもその聖徒の群れに加わえられていることを覚える日です。すでに地上での生涯を終えた信仰の兄弟姉妹が、その生涯を「神のものを神に返し」て、今や天のみ国に生かされていることを信じて、私たちも今はまだしばらく「皇帝のものは皇帝に」という地上の歩みを続けていかねばなりませんが、神さまのものとされた者として、「神のものは神に」と天を仰ぎながら、なお残された生涯を神さまの導きの中で全うしようではありませんか。

 

主よ、私たちを導いてください。

 

神さま この世の厳しさの中で、その重荷に苦しみ押しつぶされそうになりながら歩んでいる私たちを、御子キリストによって、あなたのものとして引き受けてくださり、御国の民として、天を仰ぎながら、この地上の生涯を歩むことができますことを心より感謝いたします。なおこの地上の重荷を抱えつつ生きていかねばなりませんが、あなたに私の人生をお返しするその日まで、あなたが私たちとともにいてください。救い主、イエス・キリストの御名によって。アーメン。

 

希望の源である神が、信仰によって得られるあらゆる喜びと平和とであなたがたを満たし、 聖霊の力によって希望に満ちあふれさせてくださるように。アーメン

 

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キリスト教教理を学ぶ ルターの小教理問答を手引きとして

教会での信徒学習会のため、また、洗礼や堅信準備教育のため、今から15年ぐらい前かな?もっと前かな?に執筆して、その後チョコチョコ改訂してきたものです。ルターの小教理問答を手引きとしています。下のリンクからご覧ください。

 

キリスト教教理を学ぶ -ルターの小教理問答書を手引きとして-

 

キリスト教教理を学ぶ(PDF版)