yukaina_gorilla’s diary

ごりらぼくし(大麻ルーテル教会/北見聖ペテロ・ルーテル教会)です。聖書や教会のこと、社会のこと、ペットのことなど書いていきますね。

道内合同教職者会 閉会の祈りメッセージ

日本福音ルーテル教会日本ルーテル教団道内合同教職者会

 2017年8月18日 閉会の祈り

 

宗教改革500年

 私たちの改革、教会の一致、そして宣教」

 

聖書 ある夜のこと、主は幻の中でパウロにこう言われた。「恐れるな。語り続けよ。黙っているな。わたしがあなたと共にいる。だから、あなたを襲って危害を加える者はない。この町には、わたしの民が大勢いるからだ。」パウロは一年六か月の間ここにとどまって、人々に神の言葉を教えた。(使徒言行録18章9~11)

 

今年もこのように道内のルーテル教会で共に働く先生方と、JELC/NRKそれぞれの所属の違いを超えて、共に学び、共に祈り、共に交わる時として、合同教職者会を行うことができましたことを心より感謝いたします。

 

この閉会の祈りですが、実は、最初、K先生にお願いしようと思っておりましたら、先生は今回お休みということで、私が担当することになりました。「白井サボるな」という神さまとK先生からのお達しとして受け止めて務めさせていただきます。

 

宗教改革500年のこの年に行われる合同教職者会として、そのことに関連して、お話させていただきたいのですが、以前、これと似たことを教会でもお話しし、ネットにもあげております。もしかしたら読まれた方もいらっしゃるかもしれません。宗教改革500年を祝う私たちが、それをただの打ち上げ花火的なお祭りで終わらせてしまわず、より有意義な機会とするために、大切にしたいと私が思っております3つのことを、お話させていただきます。

 

まず一つ目は、ルターの宗教改革を今から500年前の過去の出来事にしてしまわないということです。「宗教改革500年記念」とフェイスブックで書くと、T先生が「500年記念というのはふさわしくない」とコメントをくださいます。それは、宗教改革は500年前に過去の起きた出来事なのではなく、500年前に始まった宗教改革が今なお続いており、私たちも宗教改革の中にいるという理由からです。

 

ですから、今年の宗教改革500年を、私たちもただの過去の出来事として記念し祝うというのではなく、私たちがルターの信仰や神学、宗教改革の精神を新たに学び受け止めて、それを受け継ぐ機会としたいと思います。そして、そのことを通して、私たち自身の信仰や教会を、改革することを志す、そんな機会にしたいのです。私たち日本ルーテル教団宗教改革500年のテーマは、「ルターの宗教改革から500年、そして私たちの改革」です。なかなかよい言葉だと思っています。私たちは、その心をぜひ大切にしたいと思っています。宗教改革カルヴァン「絶えず改革され続ける教会だけが真の教会である」と言ったといいます。私たちもぜひそうありたいものです。

 

私がこの三月まで仕えて働いていた旭川の教会では、ルターの生涯と信仰、そしてルターの著した小教理問答や大教理問答書、シュマルカルデン条項を学んできましたが、それを通して感じることは、ルターが500年前に語ったことは、決して古臭くなく、今の私たちの信仰の歩みに、そして私たちの教会に対して、とても新鮮に力あるメッセージであるということです。私たちは今一度ルターを学び、ルターを通して示された福音や教会の理解を、教会のみんなに伝える中で、私たちの信仰の在り方、教会の在り方を見つめ直し、改善すべきことは改善し、より力を入れるべきところには力を入れて、私たちの改革を目指し、絶えず改革され続ける教会でありたいと思います。

 

宗教改革500年を祝う私たちが大切にしたい二つ目のことは、教会の一致を願い、そのために取り組むということです。ルターが改めて見出して伝えた福音理解は、私たちにとってとても大切な、拠って立つべきところです。恵みのみ、信仰のみ、聖書のみ、さらには全信徒祭司性など、これらルーテル教会の旗印は、私たちが決して忘れても、また、ぶれてもならないものです。しかし、同時に、宗教改革は、結果として、教会の分裂を招いてしまったという残念な事実をも、私たちは真摯に受け止めたいと思うのです。ルターが当時の教会から破門され、ルターもかなり激しい性格で言動したということもあり、ローマ・カトリック教会ルーテル教会が分かたれました。さらには、宗教改革は、これまたたいへん残念で、かつ皮肉なことに、プロテスタントの諸教派に分かたれるきっかけともなりました。

 

それぞれの教派の教会が主張して大事にする伝統がありますので、すべての教会がひっくるめてまるまる一つの教派になるということは、この地上にある限りは、現実的には難しいことでしょう。でも、エスさまは、信じる者たちが一つであることを願い、そのことによって、神さまが御子を世に遣わしたことを知るようになると、ヨハネ福音書の中でおっしゃっています。このことを言いかえるならば、教会が一致できていないバラバラな状態は、イエスさまの願いに反することであり、それは宣教にとってもマイナスであるということです。ですから、この宗教改革500年が、私たちが教会の分裂の罪を悔い改め、イエスさまの祈りに応えて、教会の一致のための努力をするきっかけとしたいと願います。

 

いろんな伝統にある諸教会並びにそれぞれの教会に連なる同労者や兄弟姉妹と、一緒に交わりを持ち、一緒に祈り、一緒に話し合い、一緒に働く、そうした機会を大切にしたいと思います。もちろんルーテル教会の教えは素晴らしいものです。これからも私たちはそれを自信を持って伝えてまいります。同時に、神さまは他の教派の教会でも働いておられますので、私たちは他の教会の実践や霊性から神さまの御心を学び、ともに祈ることを通して、教会の働きや私たちの信仰の歩みをより豊かにすることができるでしょう。

 

また、私たち誰もが知っている御言葉ですが、ヨハネ福音書の中で、「神はそのひとり子を賜ったほどに世を愛された」と告げられています。神さまの深い愛にこの世界は包まれています。ですから、この世界がその神さまの愛にふさわしい在り方をするように、また、もし神さまの愛から外れている現実がこの世界にあるならば少しでも改善されるように、私たちは教派を超えて、主にある兄弟姉妹として、ともに祈りを合わせて働くことを、宗教改革500年をきっかけに、心新たに祈り、歩み出したいと思います。

 

そのためにも、(今年5月の連休に行われた、私たちNRKの宗教改革500年礼拝に来賓として参加されたJELCのT議長が礼拝後のあいさつの際におっしゃっていましたが、)そのいちばんの足元として、私たちJELCとNRKがより密接に協力していくことができればと願います。T先生も北海道での取り組みをとても評価してくださっており、るうてるにもそのことを書いておられましたね。これからもJELCの先生方、どうぞよろしくお願いいたします。

 

私たちが宗教改革500年を祝う中で大切にしたい3つ目のことは、宣教です。ルターが再発見し、「我ここに立つ」と言って、命がけでそこに立ち伝え続けた福音を、私たちもまた、たゆまず宣べ伝え続けたいと願います。もし、ルター再発見し、当時のみんなに伝えた宗教改革的な福音を、私たちがただルター派の神学的な命題として学ぶだけであったり、また、教会の中で自分たちの信仰のためのものだけにしてしまったりするならば、それは、宗教改革の精神にふさわしいことではありません。ルターを通して神さまが示された、神さまの恵み、神さまの救いを、多くの人に伝え、ともに分かち合い喜び合うことこそ、宗教改革500年を祝う私たちにふさわしいことであり、なすべきことです。そうです。宣教こそが、私たちが宗教改革に生きるということであると思います。

 

私たちが宣教について考える際に、「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。」とのイエスさまのいわゆる大宣教命令や、またテモテ書の「御言葉を宣べ伝えなさい。折が良くても悪くても励みなさい。」などの様々なみことばを想い起こします。そのように宣教について語っているみことばの中でも、今年、宗教改革500年を機に、改めて宣教を志す私たちが、ぜひ想い起こし、心に刻んでおきたいのが、先ほどご一緒に聴いた主がパウロに向かって語られた言葉です。

 

「恐れるな。語り続けよ。黙っているな。わたしがあなたと共にいる。だから、あなたを襲って危害を加える者はない。この町には、わたしの民が大勢いるからだ」。ここには、神さまが主体の、神さまがイニシアティブを取られる宣教が告げられています。これは、宗教改革的にとても大切なメッセージです。

 

みなさんもご存知の通り、パウロは、この時、なかなかうまく宣教が思うように進まない状態にありました。彼や仲間たちに対する迫害は段々と激しく強くなってきていましたし、アテネではイエスさまの復活について宣教したとき、それを聞いた人たちからは嘲笑われたり、「ま、その話はまた今度な」と邪険に扱われたりしました。コリントでも人々から反抗されたり罵られたり、そうした中でパウロもまたブチ切れてしまって、服の塵を振り払いながら、「お前たちの血は、お前たちの頭に降りかかれ。わたしには責任がない。今後、わたしは異邦人の方へ行く。」などと啖呵を切って、その場を去るのでした。

 

そうした中で、パウロは、もはや心身ともにへとへとに疲れて、眠っているとき、あるいは、幻でというのですから、眠れているか眠れていないかわからないような中で聴いたのが、このみことばなのです。「恐れるな。語り続けよ。黙っているな。わたしがあなたと共にいる。だから、あなたを襲って危害を加える者はない。この町には、わたしの民が大勢いるからだ」。

 

ここで告げられていることは、人間的にみて宣教が思うようにうまく行かない、みんな聞いてくれない、受け入れてくれない、反発されたり、ののしられたり、あざ笑われたり、バカにされたりすることも多々ある、そして、そうした中で、私たちもぶちきれそうになったり、心身ともにくたくたに疲れて、眠れぬ夜を過ごしたりする、けれど、そうした中でも、私たちの働きに先立って、主が宣教し、私たちの目に見える状況の如何に関わらず、主の民を必ず興してくださっているということです。

 

宗教改革とは、信仰も礼拝も宣教も、そして、教会のあらゆる事柄も、すべて、主が私たちに先立ち働きたもうことを信じることだと言えましょう。私たちは、その私たちに先立つ主の働きを信じ、主の働きに押し出され、主の働きに仕えるのです。

 

こんにち、宣教がとても難しい時代と言われます。事実、私たち、毎日毎日格闘しながら、そのことを実感、いえ、痛感しています。それは何もこんにちだけではなく、日本で宣教するということは、一時のキリスト教ブームの時以外、ずっと同じ厳しさがあるのかもしれません。遠藤周作が「沈黙」の中で、信徒の命を助けるためにやむを得ず踏み絵を踏んでしまった神父に言わせているように、この日本の地は、キリスト教がなかなか根付くことが難しい、すべてを腐らせてしまうような、そうした恐ろしい沼地なのかもしれません。

 

でも、そうした中で、主が私たちに、「恐れるな。語り続けよ。黙っているな。わたしがあなたと共にいる。・・・この町には、わたしの民が大勢いるからだ」、今日改めてそう語りかけてくださっています私たちに先立ち、私たちの住む町、この国、この世界で、主が既に宣教してくださっている。まだ私たちはその実りを見てはいないかもしれないけれど、多くの主の民を、既に確かに主が興してくださっているのです。

 

私たちはこのことを信じて、今年、宗教改革500年を新たな宣教の出発の年としたい、そして、そのために、ここに集っている同労者のみなさんが互いに祈り合い励まし合う仲間であることを改めて心に刻んで、ここから出かけてまいりたいと願います。

 

主よ、私たちを導いてください。

 

神さま、今年も道内のルーテル教会でともに働く仲間が、このようにともに集い、一緒に学び、交わり、語り合い、祈り合うことができましたことを心から感謝し、この機会を与えてくださったあなたの御名をほめたたえます。

宗教改革500年のこの年を、有意義な機会とすることができるようにお導きください。私たちの教会と信仰の歩みを改革し、教会の一致を願ってそのために努め、また宣教に励む機会とすることができますように。宣教の厳しさを感じる中にあっても、私たちとともにいて、私たちに先立って働いておられるあなたの働きを信じ、仕えることができるように、強め、励ましてください。

日本福音ルーテル教会日本ルーテル教団、それぞれが抱える課題をあなたが顧みてください。また、両教会が共に手を携え合い、あなたの栄光のために働くことができますように。10月に行われる合同修養会も豊かに祝福してください。

これからそれぞれの地に帰ります私たちのその道をお守りください。また、私たちを送りだしてくださったそれぞれの教会と信徒、また私たちの家族をも祝福してください。

あなたのお導きを改めて心から感謝して、私たちの、そして教会の主イエス・キリストによって祈ります。アーメン

 

全能の神の祝福があなたがたとともにあるように。父と子と聖霊のみ名によって。アーメン

「旅猫リポート」

小説「旅猫リポート」(有川浩著・2015年・講談社《文庫本は2017年発行》)を読んだ。内容は、主人公サトルと猫ナナ(というより、主猫公ナナと飼い主サトル?)の旅の様子を描いたもの。

「北見往復の移動中の暇つぶしに」と思い購入した作品だが、ぐいぐい引き込まれて読んだ。クライマックスでは(おじさんなのに)まさかの涙涙の号泣・・・。(もう一度言う、おじさんなのにw)「読んで笑えたらいいな」と思って、買って読み始めたのに、良い感じに期待を裏切られた。

「この作品、映画化やテレビドラマ化したら、よいのになぁ・・・」と思いつつ、他の人たちはこれを読んでどんな感想を持ったのかな?と思ってググったら、なんと来年映画公開とのこと。主演は、あの福士蒼太くん。うん!小説の主人公(じゃなく、主猫公の飼い主?w)のサトルとイメージ合うかも。

映画も、「観たらきっと泣くだろうな」と思いつつも、今からとっても楽しみなおじさんであった笑

tabineko-movie.jp

 

 

敗戦の日を迎えて(2017年8月15日)

本日、8月15日、敗戦の日

1945年8月15日以降も、沖縄は長い間アメリカの統治下に置かれ、国外においてでは大勢の人が抑留されて強制労働が強いられた。また、アジア諸国を初めとする戦争の痛みを負う人たちに、日本は戦争責任・戦後責任を果たしておらず、隣国との平和を築く取り組みもまだまだ不十分だ。沖縄には今なお多くの米軍基地が残り、そのことに日本政府は無責任で不誠実な対応を続けている。その日以降も、日本に残ることになった外国にルーツのある人ととの共生も、まだまだ実現されず、今なお、その人たちに対する激しいヘイトクライムの現実がある。

このように本当の意味で、日本はまだまだ「終戦」は迎えていない。なにより、8月15日は、日本がはじめた愚かな戦争に、日本が敗れた日である。その意味でも、私は「敗戦」という言葉を用いたい。

さらには、特に近年、戦争の反省によって策定された日本国憲法を脅かし、その価値を否定する動きが強まり、かつての愚かな歩みを繰り返すかのような事実も数多く見られ、「終戦後」というよりも、あらたな「戦前」ではないかという思いすら強く抱く。

この敗戦の日、今一度、この国の愚かな罪を悔い改めるとともに、普段はそのことに無関心で過ごしている私の罪をも悔い改めたい。そして、平和を求める祈りとそのための奉仕の決意を、この日に、新たにしたい。

この国の大きな課題、世界の大きな闇の前に、私の平和の祈りや奉仕が一体何の役に立つのか、それは焼け石に水なのではないかと、そうした思いにもなる。しかし、からし種やパン種のような、そうした私たちの小さな祈りと奉仕を、神が受け止めてくださり、大きく育てて、用いてくださることを信じて、また、世界中の平和を願い働く多くの仲間と手を携え合って、ひっそり、こつこつと続けていきたい。

同時に、私自身の中にも平和を脅かす、自分勝手で残酷な、そうした悪魔的な毒麦の心があることをもいつも忘れずに、日々、平和の主の前に悔い改め続ける生涯を歩むことを志したい。

平和の主、この世界を創造され、そこに住むあらゆる命を養われる、あなたの御名が崇められますように。すべての人を愛のうちに治められる、あなたの御国が来ますように。私たちの思いではなく、あなたの御心こそが、天と同じく、この地上でも行われますように。

主、憐れんでください。キリスト、憐れんでください。

「主は国々の争いを裁き、多くの民を戒められる。彼らは剣を打ち直して鋤とし、槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず、もはや戦うことを学ばない。」(聖書:ミカ書2章4節)

「平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる。」(聖書:マタイによる福音書5章9節)

 

2017年8月13日 礼拝メッセージ (平和主日)

聖霊降臨後第10主日平和主日

「成長を信じて」

(マタイによる福音書13章24~35節)

                                                               

わたしたちの父である神と、主イエス・キリストからの恵みと平和があなたがたにあるように。アーメン

 

先週もお話しいたしましたが、8月を迎え、私たちは、いま、一年の中で特に平和を覚えて祈るべく季節を過ごしております。教会の暦でも、日本のルーテル教会では、8月に平和を特別に覚える礼拝をしてもよいと定められておりますので、今日は、みことばを通して、ご一緒に平和について考えたいと思います。

 

今日、「平和主日」の礼拝の色として、赤を用いておりますが、3つの理由があります。まず一つ目は、今までの戦争で多くの人の血が流されたその事実を心に刻むためです。二つ目は、そうした戦争で苦しみ痛みを覚える人たちと、十字架にかかられたイエスさまが一緒に苦しんでおられることと、イエスさまの十字架によって平和が与えられることを受け止めます。そして三つめは、世界の平和は、神さまの聖霊の導きによって私たちに届けられるものです。聖霊が人々の心に愛の炎を燃やし一つに結び合わせてくださることによってこそ、私たちに平和が与えられることを受け止めます。

 

私たちが、宗教や政治的な立場も超えて、ともに平和を祈るこの季節ですが、しかし、いま、世間で伝えられていることは、残念ながら平和を脅かし、私たちを不安に陥れる出来事です。ミサイルを他の国に向けて飛ばすかもしれないということを言及しているある国の指導者がいれば、それに対して、それ以上の攻撃をしてその国を破滅させるということを言及している別の国の指導者がいる。そうした中で、私たちの国とこの世界は一体どうなってしまうのだろうかと、私たちはたいへん不安になり恐れを抱くわけですが、イエスさまがおっしゃった「剣を取る者は剣で滅びる」ということの真実を心に刻み、私たちは、今こそ神さまに平和を祈り求めたいと思います。

 

ところで、なぜ、このように、礼拝の中で平和についてのお話をするのかと申しますと、これは天の国、神の国の福音に生かされる私たちの大切な課題であるからです。天の国、神の国というと、つい自分が死んだ後に行くあの世のことや、世の終わりに神さまが実現される場所のことを考えがちです。もちろんそれも大切な事実であり、大きな希望です。今日、午後からは簾舞の墓地において墓前礼拝が行われます。天の国を見つめて、私たちはその天の国に召されるその日までこの世の生涯を精一杯生きていく、また、この地上の生涯を終えた人たちが、今や、天の国で永遠の安息が与えられているという事実を私たちが信じる、それはとても大事な信仰です。その信仰があるからこそ、私たちは神さまを信じ、キリストの救いを受け入れています。でも同時に、イエスさまが約束される天の国、神の国は、ただそうした死後の世界や世の終わりに実現する場所のことだけを表しているのではありません。

 

「天の国」とは、聖書のもともとの言葉であるギリシア語では、「天の支配」という意味を持つ言葉です。そしてそれはマタイによる福音書で使われる言葉であり、他の福音書では、「神の国」という言葉が使われています。それは、「天の国」が「天の支配」を意味する言葉であったのと同じく、「神の国」は「神の支配」という意味を持つ言葉です。そして、その天の支配、神の支配は、ただ私たちが死んだ後に行く場所、世の終わりに実現する場所というだけでなく、今ここに生きる、分かりやすく言うならば「この世」に生きる私たちもまた、今もう既に天の支配、神さまのご支配の中に生かされているのです。ルカ福音書の中で、イエスさまはおっしゃっています。神の国は、見える形では来ない。『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ。」そのように、まさに私たちの間、私たちのただ中に、神の国はある。神さまのご支配が今既になされている。ですから、その神さまのご支配の中で起こる、この世の一つ一つの出来事は、私たちにとって大切な神の国、天の国の課題であって、私たちの祈りと奉仕の課題でもあるのです。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された」ヨハネによる福音書で告げられているように、私たちが生かされているこの世界は、神さまの深い愛の中にあります。その神さまの愛にふさわしい世界であるように、私たちはこの世の課題を覚えて祈り、もしそれにふさわしくない現実があるならば、少しでも神さまの愛にふさわしい在り方になるようにと、そのために仕え働いていくのです。

 

その際に、私たちが心しておくべきことがあります。それは今日のイエスさまがたとえ話の中でお話しなさっている毒麦についてです。せっかく良い種を蒔いた畑に、ある日、悪さをする敵がやってきて、毒麦の種を蒔いて行きました。そうすると、畑の中には、麦と一緒に毒麦も生えてきたのです。それを見て、畑で働くしもべたちが主人に、その毒麦を抜くことを提案します。しかし、主人は、毒麦と一緒に良い麦をも間違えて抜いてしまうかもしれないから、狩り入れの時までは毒麦もそのままにしておこうと答えるのです。私たちは、イエスさまのこのたとえ話から、自分の、私自身の心の中にも、こうした毒麦があることを受け止めておきたいと思います。

 

私たちは、この世の思わしくない現実を目の当たりにするとき、あいつらは悪魔に取りつかれているのではないかと、そんな風に思います。今、私たちの世界で起こっていることで言うなら、初めにお話しいたしました、ミサイルを飛ばすと言っている国の指導者も、それに対して、それ以上の攻撃をすると言っている国の指導者も、いずれも悪魔に取りつかれているのではないだろうか、そんな風な思いになります。でも、私たちはそこで忘れてはならないことがあります。それは、私たち自身の中にも、彼らと同じ悪魔的な心があるということです。私たちがただ彼らと違うところに立って、「あいつらはひどいよね、人間じゃないよね、悪魔だよね」と、そんな立ち方をしている限り、本当の問題の解決、平和の実現はいつまでも遠のいてしまうでしょう。そうではなく、私たちも根っこのところでは彼らと同じなのだということを受け止めることが大切です。もちろん私たちには彼らのような地位も権力もありませんから、彼らと同じことはいたしません。でも、私たちも根本的には彼らと同じような残酷な心を持ち、自分勝手な心を持っているということを忘れないでいたいのです。悪魔的な心、あるいは、今日のイエスさまのみことばで言うならば、毒麦が、私たちの心の中にはあるのだということを、肝に銘じておきたいと思います。

 

そのことを忘れてしまうなら、どこかで自分が絶対となってしまい、またどこかで自分こそが正義を行う神さまとなってしまいます。極端な例を挙げるならば、かつて私たちの国で起こった学生運動で、本来は平和を守るはずの運動をしていた人たちが、自分たちの中で裏切り者とされる人たちに対して暴行をして、命を奪ったということが起こりました。あるいは、アメリカでの中絶反対運動で、命を守るはずの運動を行う人たちが、中絶を行う病院を爆破したり、中絶を行う医師を殺害したりということが起こります。普通に考えるならば、これらのことがどれほどおかしいことなのか、平和や命を守るという彼らの主張とどれほど大きく矛盾していることなのか、すぐにわかるわけですが、しかしその渦中にいると、自分が絶対となり、自分が神さまとなってしまっていて、そのおかしさに気づけないのです。もし自分の中の毒麦を忘れてしまうならば、私たちもまた、そうした本末転倒な矛盾していることをしてしまいかねません。私たちがこの世に生きる限りは、私たち自身の中に毒麦の現実を抱えているということを忘れないでいたいと思います。そうした自分自身を見つめ、また悔い改めて、平和を脅かしているのはこの私自身でもあり、私もまた神さまの赦しが必要な者であるということを受け止めつつ、平和のために祈り、奉仕することの大切さを思います。

 

さて、私たちが平和を祈り、そのために奉仕をしていくときに、この世界が抱える問題の大きさの前に、自分の無力さを感じます。私が祈り、こんな奉仕をしても、果たして、一体、何の役に立つのだろうか、何の意味もないのではなかろうか、それは実に焼け石に水でしかないのではなかろうか、そんな思いになるのです。しかし、きょうイエスさまが続けてお話しなさっているたとえ話から、私たちはたいへん大きな希望をいただくことができます。それは、からし種とパン種のたとえです。

 

まず、からし種のたとえですが、小さな小さなからし種、あの粒々マスタードの中にある小さな粒を思い浮かべていただきたいのですが、それほど小さな種が、畑に植えられるとき、とても大きく育ち、立派に枝もつけて、そこに鳥が巣を作るようにすらなるであろうというお話です。次に、パン種のたとえですが、これまた本当に細かい粉、ベーキングパウダーを思っていただければよいですが、それを三サトンの小麦粉、これは約40リットルの小麦粉ですが、そこに、その細かなパン種を少し入れたら、とても大きく膨れて、実にたくさんの人、およそ150人が食べられるほどのパンを作ることができるであろうというお話です。からし種も、パン種も、目で見る限りは、いずれも何の役にも立たないような実にちっぽけなものです。でも、それが誰も思いもしないほどにたいへん大きく育ち、大きな働きをして、多くの命を養うようになると、イエスさまはおっしゃいます。

 

天の国、神さまのご支配に仕える、私たちの平和への祈り、平和への奉仕も同じです。それ自体は、本当にちっぽけなもので、何の役にも立たないのではないかという思いになるものです。この世界の現実の中で、その大きな課題と闇の中で、本当に無力なものとしか思えません。私たち自身は、そうした役に立たないような小さな種を蒔くしかできない。あるいは、私たち自身、吹けば飛ぶようなちっぽけな種でしかありません。でも、それを神さまが育ててくださり、天の国、神さまのご支配のために、思いもかけないほどの大きな働きとしてくださり、多くの命が育まれるようにしてくださると、イエスさまは今日約束してくださいます。先週のメッセージで、「木を植えた男」の絵本のお話をいたしました。荒れ果てた不毛な地に、やがて大きな命に溢れる森ができることを信じて、毎日毎日こつこつとどんぐりを植え続けた、あの彼のように、この大きな課題を抱える世界の中で、私たちも平和を求めて、神さまの働きを信じて、小さな祈り、小さな奉仕を続けていきたいと願います。

 

そして、今日のみことばからご一緒に受け止めたい、もう一つのことがあります。ここで語られているのは、からし種であり、また、パン種です。からし種は土に植えられて、パン種は小麦粉の中に混ぜられて、はじめてその役割を果たします。からし種やパン種自体がいつまでも外に現れているのではありません。外にある限り、それは種のままであって、必要な働きをいたしません。土に植えられえ、粉に混ぜられて、その存在が隠されて失われる中で、その時、それらは働き、大きく育つのです。私たちの平和の祈り、そして平和への奉仕も、これと同じです。私たちの平和の祈りやそのための奉仕が、周りの人たちから評価されることはないかもしれません。理解されないかもしれません。でもそれでよいのです。私たち自身は、種なのですから。たとえ誰も理解してくれなくても、誰も評価してくれなくても、それでいい。私たちは目立たないところで隠れて祈り、奉仕をしていくときに、神さまが豊かに育ててくださり、多くの実りを与えてくださる。私たちは、このことを信じてこの世界の片隅でひっそりと祈り、小さな奉仕を重ねていくのです。

 

エスさまがおっしゃった一粒の麦のみことばを思い起こします。「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。」これはイエスさまご自身の生涯について語られたみことばです。神さまからこの世界に遣わされた御子イエスさまが、十字架にかかり死んで命をささげることによって、多くの人が生かされ、神さまの救いに与ることが言われています。私たちもこのイエスさまに倣って、イエスさまに従って生きることを志す者です。ですから、私たちも、その心を大切にしたいと願います。たとえ自分が認められず、評価されなくても、それだからこそ、多くの実りが与えられると信じて、平和を求めて祈り仕えて働いていきたいのです。天の国に生かされる者として、自分の中にある毒麦を見つめ絶えず悔い改めながら、神さまが豊かに育ててくださることを信じて、土の中に、また、小麦粉の中に隠されたちっぽけな種としての歩みをしていきたいと、そう願います。

 

主よ、私たちを導いてください。

 

この世界に平和をお与えください。私の心の中にある、またこの世界にある、毒麦の現実を悔い改めます。あなたの赦しの中で平和を祈り、そのために仕えて働くことのできるように、私を用いてください。この世界の大きな闇の前に無力な私ですが、しかし、主が働いてくださって、大きく豊かに用いてくださることを信じて、小さな祈りと小さな奉仕を続けていくことができますように。私をも天の国に招いてくださる、平和の主イエスさまのお名前によって祈ります。アーメン

 

あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るように。アーメン

 

*動画(実は礼拝時、撮影ミスをして、壁を映していたのでw 礼拝後にもう一度ひとりで話して撮影し直したものです。ちゃんと式服ももう一度着用し直しました笑) 2017-08-13.mp4 - Google ドライブ

https://pastorross1.files.wordpress.com/2011/02/wheat-and-tares1.jpg

2017年8月6日 礼拝メッセージ

聖霊降臨後第9主日 2017年8月6日

 

「種を蒔き続ける」

イザヤ書55章10~11節・マタイによる福音書13章1~9節)

 

わたしたちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和があなたがたにあるように。アーメン

 

今年も8月を迎えました。私たちは、まず、戦争の罪を深く悔い改め、心から平和を祈り、決意を新たにいたしましょう。ローマ・カトリック教会教皇であったヨハネ・パウロ二世が広島を訪れた際に語った「戦争は人間のしわざです。戦争は人間の生命の破壊です。戦争は死です」私たちも改めてこの言葉を心に刻み、私たちが愚かな戦争の罪を繰り返すことがないように、いま戦争が行われているところに、神さまが平和を与えてくださり、一日も早くその争いが終わるように祈り、また、私たちも神さまの平和の器として平和を作り出す歩みに仕えたいと願います。

 

さて、今日のイザヤ書のことばは、私が好きなみことばです。「雨も雪も、ひとたび天から降れば、むなしく天に戻ることはない。それは大地を潤し、芽を出させ、生い茂らせ、種蒔く人には種を与え、食べる人には糧を与える。そのように、わたしの口から出るわたしの言葉も、むなしくは、わたしのもとに戻らない。それはわたしの望むことを成し遂げ、わたしが与えた使命を必ず果たす。」

 

私たちがみことばを宣べ伝えるとき、すぐにその成果が現れるとは限りません。何年みことばを伝えても、教会に来る人たちは増えるどころか、様々な事情で一人減り二人減りという寂しい現状です。洗礼を受ける人も、何年間に一人が加えられる程度です。ですから、多くの人たちが教会に集い、毎年何人も洗礼を受ける教会を、正直羨ましく感じ、自分たちの働きに空しさを覚えることもあります。もちろんそうした中で、「これでよかったのか、こうしたほうがよいのではないか」と、反省したり新しい試みをしたりすることは、大切なことです。でもだからと言って、何かをすると、すぐに豊かな実りが得られるとは限りません。

 

そんな風に思う私たちに、神さまは、今日、告げられます。「わたしの口から出るわたしの言葉も、むなしくは、わたしのもとに戻らない。それはわたしの望むことを成し遂げ、わたしが与えた使命を必ず果たす。」神さまのことばが語られっぱなしで終わってしまうということは決してない。必ず、神さまの御心を成し遂げ、神さまが働かれ、その使命を果たすという約束です。なんと力強いみことばでしょう。どれだけ努力しても実りがない、だから「無駄かな、ダメかな」と空しく思いがちな私たちに、「決してそんなことはない」と勇気が与えられるみことばです。たとえ目に見える現実がどうであろうと、私たちはこの神さまの約束を信じて、私たちのできることをし続ける。先ほども申しましたように、もちろん色々省み、新しい試みもしながら、神さまが働き、神さまが私たちの働きを通して、自分の周りの人やこの街の人たちに語りかけてくださることを信じて、みことばを伝え続けることが大切だという思いが与えられます。

 

今日の福音で、イエスさまも、そのことを私たちに告げられます。今日のみことばは、種撒きのたとえと呼ばれるみことばです。ある人が種を蒔きに出かけます。当時のイスラエルの人たちの種蒔きは、私たちが考えるのとは違ったやり方でした。一粒一粒、土の中に種を植えるのでなく、もっと大胆なダイナミックなやり方でした。籠か何かに入った種を、バラーっと投げ撒くのです。そして自然に根付くのを待つというものでした。そのことを頭に入れて、今日のみことばを受け止めてまいりましょう。

 

その人も、そうやって、種をバラーっと撒きました。そのうちのある種は、道端に落ちます。そうすると、それを雀でしょうか。カラスでしょうか。やってきて、その落ちた種を食べてしまいます。また、石だらけで土が少ない所に落ちる種もありました。その種は、芽を出すところまではいきましたが、土が少ない土地なので、そこに根付くことはできず、しかも、照り付ける太陽の熱にやられてしまい、結局枯れてしまいます。さらに別の種は、茨の間に落ちます。そうすると、たとえ芽を出して根付いたとしても、伸び盛る茨に邪魔されて、太陽の光が当たらずに、結局、それも枯れてしまいました。そのように、たくさん撒いた種のうち、なかなか実らないのですが、しかし、きちんと畑のよい土地に落ちた残りの種は、そこで芽を出し、根付き、太陽の光も浴びて、恵みの雨も受けて、どんどん育ち、収穫の季節になると、三十倍も六十倍も百倍もの、たくさんの実りを得ることができたというお話でした。

 

このたとえ話を、イエスさまご自身が説明なさっていますので、それも併せて見てみましょう。18節以下のところです。

 

「だから、種を蒔く人のたとえを聞きなさい。だれでも御国の言葉を聞いて悟らなければ、悪い者が来て、心の中に蒔かれたものを奪い取る。道端に蒔かれたものとは、こういう人である。石だらけの所に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて、すぐ喜んで受け入れるが、自分には根がないので、しばらくは続いても、御言葉のために艱難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまう人である。茨の中に蒔かれたものとは、御言葉を聞くが、世の思い煩いや富の誘惑が御言葉を覆いふさいで、実らない人である。良い土地に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて悟る人であり、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結ぶのである。」

 

ここで、道端にまかれた種、石だらけの地に撒かれた種、茨の中にまかれた種、そしてよい土地に撒かれた種、それらは撒かれた土地や土壌というそうしたことを、イエスさまはおっしゃっているのではなく、みことばを聞いた人が、それを受け取る際の姿勢についておっしゃっているとわかります。その人がみことばをどう受け取り、どう生きていくか、おっしゃっているのです。

 

つまり、道端に落ちた種は、みことばを聞いても、悟らず、根付く前に、何か悪いものにみことばが奪われてしまう。それは自分の心の中の悪いものかもしれないですし、誰か他の人のことかもしれません。語られたみことばに対し、「そんなことあるわけない」、「そんなのただの気休め」、そんな声が、みことばを心の中で芽を出さないようにしてしまうのです。あるいは、「いいお話だ、ぜひ続けて聖書のみことばを学びたい、信仰を持ちたい」と思うのだけれども、人生の歩みで辛いことや信仰生活で厳しいことが起こると、「いや、みことばどころでない、信仰なんて何の役にも立たない」と、つまづいてしまう、石だらけの地に落ちた種です。さらには、みことばを聞いて、「みことばっていいなぁ、神さまを信じたいな」と思うのですが、でも「これも大事だし、あれも大事だな」、「もし信仰を持つなら、これをできなくなる、あれも続けられない」、そんな思いの中で信仰が育つことができない、茨に落ちた種です。

 

このように考えてまいりますと、「うん、そうそう、だから伝道って難しい」、「あの人はあのタイプ」、「あそこのあの人はこのタイプ」と、そんな風に思うのですが、でも同時に、私たちは尚もう一つのことに気づきます。それは、「あ、これは、私自身のことだ」ということです。神さまのみことばを聞いても受け取ることができなかったり、ちょっとしたことですぐにつまづいてしまったり、様々なことに煩わされて信仰が育つことができなかったり、もちろん、私の周りの人も、よく当てはまるかもしれないけれども、他の誰でもなく、この私もまた、いえ、他でもない、この私こそが、ここでイエスさまが語ってらっしゃる実らない種そのものだということに気づかされるのです。私自身が、みことばを受け取れない、すぐにつまづき、なかなか育たない、そのものだと。

 

では、私たちは実らないから、もうそこでダメなのかというと、そうではありません。自分自身を見るなら、たしかにみことばの実りをつけられない者だけれども、でも、神さまはそんな私を見捨てず、諦めずに働きかけ続けてくださる。イエスさまは、そんな私のために、命すら惜しまず、私を救い、命を与えてくださった。そうした中で、私たちに、信仰の芽が与えられ、育てられ養われて、三十倍も、六十倍も、百倍も実りを与えてくださると約束してくださると信じることが、私たちには許されているのです。

 

伝道とは、このことに気づくことがスタートではないでしょうか。「私はみことばを信じて救われてるから大丈夫」というところに立って、「まだ救われていないあの人に伝えよう」という、そんな上から目線の姿勢ではなく、自分自身、どうしようもない実りが得られない者だけれども、でもそんな私を神さまが見捨てず、捉え、育ててくださっていると気づかされる。イエスさまが命懸けで私を救ってくださり、命を与えてくださっている中で、私たちにも信仰の実りを与えてくださると知らされる。その喜びと感謝を分かち合い伝えていく。それが伝道だと思います。

 

もちろん、すぐにそれが受け入れられるわけではないでしょう。なかなか受け入れてもらえず、信じてもらえない。そうした現実があります。でも、私たちは諦めない。この私だって、このように神さまに捕らえられ、イエスさまに養われている。そうであるなら、神さまはあの人にも働いてくださり、イエスさまはあの人のことも育ててくださる。そう信じて、私たちはみことばの種を捲き続けます。最初に申しましたように、神さまは、「わたしの口から出るわたしの言葉も、むなしくは、わたしのもとに戻らない。それはわたしの望むことを成し遂げ、わたしが与えた使命を必ず果たす」と、力強く約束してくださっています。

 

実際には、「無駄だよな。ダメだよな」と思うことも少なくないですが、でも、私たちは、神さまの働きを信じて、なおも諦めずに、みことばを宣べ伝え続けたいのです。テモテへの第二の手紙の中で、「御言葉を宣べ伝えなさい。折が良くても悪くても励みなさい」と語られています。見た目でよい時だけでなく、見た目では思わしくないような最悪な時も、私たちは、神さまの約束を信じてみことばを宣べ伝え続けたい。神さまが私を諦めず、私を救い、養い、実りを与えてくださっているように、私たちも諦めず、みことばを伝え続けるのです。イエスさまは、三十倍、六十倍、百倍の多くの実りを約束してくださいます。その実りは、必ずしも、すぐにということではなく、もしかしたら私たちの知らないところで、あるいは、モーセが約束のカナンの地を山の上から望み見ながら結局彼自身はそこ入れずに人生を終えたように、私たちの働きの実りも、私たちがこの世を去った後に与えられるものかもしれません。でも、イエスさまが、必ず実りを与えてくださることを、私たちは信じて種を捲き続けたいのです。

 

「木を植えた男」という絵本があります。ある青年が長旅をした際、荒れ果てた不毛の地で水も食料も切れてしまうのですが、一人の羊飼いが彼に水を分けて、家に泊らせてくれます。翌朝、青年は、その羊飼いに着いていったら、羊飼いは丘の下に羊を放牧した際、丘の上に行き、どんぐりを100個そこに丁寧に植えるのです。彼は、今まで10万個どんぐりを植えて、そのうち2万本芽を出したといいます。しかし、そのうち、その半分はダメになり、結局1万本の木が、この丘に育つだろうと、そう信じて、毎日、毎日ドングリを植え続けてきたのです。この羊飼いは、早くに子どもと妻を亡くしていました。そこら辺一帯は、経済的な貧しさや生活の厳しさから来る、いろんな争いや混乱でとても荒れており、人々はみんな村を去り、廃れていました。もしこの地に木がなくなればこの土地も滅びてしまうと、羊飼いは考え、家族もおらず、時間も自由な自分が、そのために働こうと、その地にドングリを植え続けたのです。それから一年後、青年は戦争に駆り出されました。5年間の戦争が終わって、彼は、またそこを訪れます。村に近づくと、一万本の木が広がっているのを、彼は見ます。青年は、羊飼いはもう亡くなったと思っていましたが、彼は生きていて、なおもどんぐりを植え続けていました。やがて丘には緑が広がり、かつて干からびた土地に水が流れていました。獣たちも住むようになり、猟をする者たちがそこを訪れるようになりました。誰もこれが一人の羊飼いの働きだとは思いませんでした。その後も、羊飼いは木を植え続けます。やがてそこは森となり、再び、人々が暮らすようになり、花も植えられて、多くの新しい命も誕生しました。荒れ果てて希望なく命尽きて乾ききった地だった場所が、命あふれる希望に満ちた潤いの地となったのです。不毛の地でもきっと大きな森になると信じて毎日毎日ドングリを植え続けた、一人の羊飼いの働きによってです。

 

私たちも、この彼のように諦めずにみことばの種を蒔き続けましょう。神さまが森のように育て、イエスさまが豊かな実りを与えてくださることを信じて。

 

主よ、私たちを導いてください。

 

かたくなで不信仰なこの私にみことばの種を捲き、諦めずに育ててくださり、実りを与えてくださることを感謝いたします。私もまた、あなたの働きを信じて、時がよくても悪くても、みことばを語り続けることができますように励ましお遣わしください。あなたが多くの実りを与えてくださることを信じます。御子イエスさまのお名前によって。アーメン

 

希望の源である神が、信仰によって得られるあらゆる喜びと平和とであなたがたを満たし、聖霊の力によって希望に満ちあふれさせてくださるように。アーメン

 

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軛(メッセージを終えて番外編)

「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。 わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」(マタイ福音書11章28~30)

 

今日のみことばの一節である。

 

このみことばの「軛」について、今日のメッセージにおいて次のように語った。

 

軛は、牛などの二頭の家畜の首の上に横棒をつけて、それぞれ別の方向に行ってしまわないようにする道具・・・そうして二頭をつなげて、荷物をひかせる》

 

そしてここで言われている可能性として、二つのことを話した。

 

(1)当時の宗教とのかかわり。律法を守ることを強要され、それが守れない人は罪びとで、神の裁きを受けるとされていた民衆。宗教は、喜びや平安ではなく、重荷であった。しかし、イエスは、神を信じることはそうしたことではなく、神の赦しや救いの中で、喜びをもって平安に生きることだと伝えた。これが、重荷をおろして、イエスの軛を負え、その軛は軽いということの一つの意味。

 

(2)イエスの軛を負え、その軛は軽いということのもう一つの意味は、エスが私と共に重荷を負ってくださるということ。あの牛の絵のように、私の隣で、私の軛の片棒を担いで、イエスが重荷を負ってくださる。だからもう独りで苦しまなくてよい。イエスが一緒だ。私の重荷の負担は、イエスが一緒に負ってくださるのだから、単純にも、今までの独りで負うよりも半分の重さ、いや、もっと軽減されるだろう。

 

そして、話し終わって、今一度この絵を見る時、あまりに牛がかわいそうになってきた。牛にとって、これは本当につらいことだろう。毎日毎日これをしなければならない。このように動物を道具として使う、これは先人の知恵ではあろうが、同時に、自然や神の被造物に対する、私たち人間の、ある意味、残酷さをも思う。

 

さらに思った。イエスが私の軛を私と共に負ってくださるということ、それはこんなにもつらく苦しいことをイエスが引き受けてくださったのだということ。イエスが、私と一緒に苦しんで、一緒に歩んでくださっているとは、このようなことなのだと。

 

深い畏れと感謝に導かれた。

 

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2017年7月30日 礼拝メッセージ

聖霊降臨後第7主日 2017年7月30日

 

「重荷をおろして」

(マタイによる福音書11章25~30節)

 

わたしたちの父である神と、主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなたがたにあるように。アーメン

 

私たちは、毎日、実に様々なことを考え、色々なことを行いながら暮らしています。外での仕事や家での働き、人とのかかわりや自分自身のこと、あるいは社会や、この国や、世界のことなど、やるべきこと、考えるべきことが本当にたくさんあります。その中で、心身ともに、くたくたになりながら、あるいは、のどが渇くように心がからからに渇きながら、このように今日も礼拝に集められました。礼拝において、みことばと聖餐、また、祈りや賛美を通して、神さまからの癒しと潤いをいただいて、また元気にされて、一週間の生活へと出かけていきたいと、そう心から願って、ここに集っているのです。そうした私たちに、イエスさまは今日も慰めのみことばを語ってくださっています。

 

エスさまはおっしゃいます。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」これは、本当にスッと私たちの心の中に入ってきて、心の隅々にまで沁みとおるみことばです。いろんな疲れを感じながら、また、重荷を負いながら過ごしている私たちにとって、このイエスさまのみことばは、たいへん大きな慰めです。ここで、イエスさまは「だれでも」とおっしゃっています。そこに例外はありません。「だれでも」です。たとえ自分では「私なんか、ふさわしくないよな」とそう思っていても、また「あの人は、ふさわしくないよ」とそう思っても、私も、その人も、イエスさまは「だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」と招いてくださっています。そのイエスさまの招きから漏れる人はだれ一人としておりません。「だれでも」みんなが招かれているのです。

 

ところで、イエスさまは今日のみことばの初めにおっしゃいました。「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。そうです、父よ、これは御心に適うことでした。」これは、イエスさまの祈りの言葉です。ここでは、イエスさまがお語りになったことを「知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました」と、イエスさまはおっしゃっています。この「知恵ある者や賢い者には隠して」という言葉と、初めにお話しした「だれでもわたしのもとに来なさい」とみんなが招かれているということと、一見、矛盾するように思えるかもしれません。「だれでも」とおっしゃいながら、「知恵ある者や賢い者」は除外されるのだろうかと。

 

しかし、もちろんそうではありません。イエスさまは「だれでも」すべての人を招いてくださっています。そこには何の例外もありません。イエスさまから招かれていない人など、誰一人としていないのです。これはどれだけ強調しても強調しすぎることはない、大切で、また確かな事実です。それでは、それに先立って、イエスさまがおっしゃっている「知恵ある者や賢い者には隠して」とは、一体、どういうことなのでしょうか。それは、イエスさまは「だれでも」例外なくすべての人を招いてくださっているのだけれども、その招きを「自分への招き」「私への招き」として受け取ることができない人たちがいるということだと思います。それが「知恵ある者や賢い者」だということです。この「知恵ある者や賢い者」は、「幼子のような者」と対比して語られています。これは、きっとこういうことではないかと思います。「知恵ある者や賢い者」のように、私たちが頭の中であれこれ難しく考えているならば、イエスさまがお話しなさっていることを自分に語りかけられている招きの言葉として受け取ることは難しい。大切なのは、そのように頭の中で難しく考えてみことばを受け取ろうとすることではなく、「幼子のよう」に受け取ることだと。

 

では、「幼子のような者」とは、どういうことでしょうか。「知恵ある者や賢い者」が頭の中で難しく考えて、イエスさまのみことばを受け取ろうとして、結局、受け取ることができない人ならば、「幼子のような者」とは、そのように頭の中で難しく考えてみことばを受け取ろうとするのではない、それとは違った受け取り方をする人のことであると言えるでしょう。それは、「幼子のよう」に、「素直に」「まっすぐに」イエスさまのみことばを受け入れる人ということかもしれません。もちろん、そうした意味合いもあるでしょう。頭の中であれこれ難しく考えるのではなく、素直にまっすぐにみことばを受け入れる姿勢は大切なことですし、そうした人のことを私たちは尊敬をいたします。しかし、同時に、もっと違ったことがここで語られているのではないかとも、私は考えています。

 

「幼子」とは、親などのおとなの助けなしには生きていけない存在です。おとなにご飯を与えてもらって、おとなに守られて、また、おとなからいろんなことを教えてもらって、その中で養われて、はじめて生きていくことができる存在です。この「幼子のような者」という言葉で、イエスさまの前で、私たちがそうした者として生きていくということを、イエスさまはおっしゃっているのではないでしょうか。つまり、イエスさまの助けなしには生きていけない者、イエスさまから必要なものを与えていただいて、イエスさまから何が大切なのか教えていただき、イエスさまに守られて生きる、そうした者として、私たちがイエスさまに養われ生かされる、頭の中であれこれと難しく考えて、結局、みことばを受け取ることができずに生きるのでなく、「このイエスさまのみことばなしには私は生きていけないんだ」と、「このみことばが私のことを生かしてくれるんだ」と、切にみことばを求めて生きていく、そうした生き方を、イエスさまはここでおっしゃっていると思うのです。

 

ですから、「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」このイエスさまのみことばもまた、「このみことばがなければ、私は生きていけない」、「このみことばが私を生かしてくれるんだ」と、そんな思いで切実に、喜び感謝して、私に語られた招きの言葉として受け入れたいと思います。

 

ところで、イエスさまは今日のみことばで「休ませてあげよう」とおっしゃっています。「もうこの先あなたは疲れなくなる」とはおっしゃいませんし、「もうあなたの重荷はすべてなくなった」とも、おっしゃっていません。私たちは、イエスさまのもとで休んで、また、立ち上がって再び歩み出すのです。その中で、また疲れを覚えるし、さらにいろんな重荷を負いながら歩んでいかねばなりません。イエスさまのもとに行ったら、もう疲れないとか、もう重荷がなくなるというのではなく、イエスさまのもとに行っても、疲れるし、重荷を担いながら歩んでいく私たちです。ですから、たとえ、もし私たちがいろんなことで悩み苦しんでも、「こんな風に悩むなんて、私の信仰はダメなのだろうか」とか、「苦しみを感じるなんて、自分はクリスチャン失格なのではないだろうか」と、そんな風に悩まないでください。イエスさまを信じていたって、私たちは、くたくたに疲れてしまいますし、いろんな重荷を負って苦しみながら生きていかねばならないのです。そうした中で、イエスさまのもとに赴くならば休んで、力を得て、また、再びそこから新たに出発することができると、イエスさまはおっしゃいます。

 

エスさまは続けておっしゃっています。「わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」エスさまは、ここで「軛」ということをおっしゃいますが、これは、現代の私たちにはあまりなじみのない言葉かもしれません。私も調べなければわかりません。軛は、牛などの二頭の家畜の首の上に横棒をつけて、それぞれ別の方向に行ってしまわないようにする道具です。そうして二頭をつなげて、荷物をひかせるのです。

 

ここでイエスさまがおっしゃっていることには、二つの意味があると考えられます。まず一つは、当時の宗教とのかかわりです。当時は、神さまを信じるとは、いろんなきまりを守って生きることで、そのきまりを守らなければ、その人は罪人であって、神さまから裁かれてしまうと、人々はそのように教えられていました。ですから、神さまを信じることは、当時の人たちにとって、必ずしも喜びではなく、きつく苦しいことでした。それに対して、イエスさまは、神さまを信じるとは、そのようにいろんなきまりにがんじがらめになって苦しんで生きることではなく、神さまの赦しや救いをいただいて、平安のうちに喜びと感謝をもって生きることだと教えられました。そして、その神さまの救いを私たちに与えてくださるために、イエスさまご自身が十字架を引き受けられるのです。そのことを信じて平安に生きていきなさいということが、ここでイエスさまが「わたしの軛を負い、わたしに学びなさい」ということであり、「わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽い」とおっしゃっていることの一つの意味であると考えられます。

 

もう一つは、軛でつながれて一緒に歩む二匹の家畜のように、私たちがイエスさまと一緒に重荷を負って生きるということです。私たちにとって、自分独りで重荷を負わなければならない。そのことが本当につらく大変なことです。だれも私の辛さをわかってくれない。だれも私を助けてくれない。私たちは、そのことに余計に辛く悲しくなってきますし、時には腹立たしくなってすらきます。でも、そんな私たちに、イエスさまが「わたしがあなたと一緒にあなたの重荷を負って歩もう」とおっしゃるのです。イエスさまが、私の隣で、私の重荷の片棒を担ぎながら歩んでくださるというのです。もうひとりぼっちで、私たちが苦しみながら歩んでいるのではありません。自分だけでこの重い負担を負わなければならないのでもありません。イエスさまが私とともに歩んでくださっている。イエスさまが一緒に私の重荷を負ってくださっています。

 

もちろん、だからと言って、先ほどから申している通り、私の重荷はなくなることはありません。イエスさまを信じていても、私たちは重荷を負い続けなければならず、いろんなことに悩み苦しみ疲れながら過ごさねばなりません。でも、もはや独りじゃない。イエスさまが一緒です。重荷も、イエスさまが一緒に担ってくださっているのだから、単純に考えても、それは今までとは、半分の重さになります。実際には、半分どころではなく、イエスさまが一緒なら、私たちにとって、かなりの負担の軽減になります。何よりももう「誰もわかってくれない」とか「私一人で大変な思いをして」という、そんな思いから解放されて過ごすことができます。イエスさまが一緒です。イエスさまがわかってくださっています。ともに私の苦しみを負ってくださっています。

 

さらに、イエスさまは十字架を引き受け、私たちのどんな重荷をも、ご自分の身に引き受けられたお方です。私たちが自分では負いきれないあらゆる重荷を、イエスさまがご自分の身に引き受け、十字架にかかられました。そして、命すら惜しまずにささげられるのです。そのイエスさまが、「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」と、今日私たちにおっしゃって、招いておられます。これは決して気休めの空しい言葉ではありません。命がけの言葉です。この言葉を前にして、私たちはあれやこれや頭の中で難しく考えなくてもよいのです。このイエスさまのことばがなければ、私は生きていけない、このことばがあるから私は生きていくことができる、このことばにこそ私の救いがある、そんな切実な思いで、イエスさまの懐に飛び込んでいけば、それでよいのです。その時、他のものからは決して得ることのできない、真の安息、本当の癒しが、私たちに与えられます。

 

そして、そのイエスさまのもとからまた、私たちの新しい歩みが始まるのです。もはや独りぼっちではなく、イエスさまとともなる歩みが始まります。もちろんその後も、いろんなことが私たちの身に降りかかることでしょう。大きな重荷も担わなければならないこともあるでしょう。自分のこと、家族のこと、友のこと、社会のこと、様々なことで私たちは疲れを覚えます。でも、もう独りじゃありません。隣を見れば、そこにはイエスさまがおられます。イエスさまが十字架を担ぎながら、命がけで私の重荷を共に負いながら歩んでくださっているのです。

 

「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」このイエスさまのことばを胸に刻んで、新しい一週間も、ここから歩み出したい、そのように願うものです。

 

主よ、私たちを導いてください。

 

多くの重荷を担い、いろんな疲れを覚えて生きる私に、イエスさまが「わたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」と語りかけてくださいます。感謝します。どうかイエスさまのもとで休み、癒され、また新しい歩みを始める力が与えられますように。私の隣にイエスさまがおられ、ともに重荷を担っていてくださることを信じて歩ませてください。救い主イエスさまのお名前によって祈ります。アーメン。

 

あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るように。アーメン

 

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