yukaina_gorilla’s diary

ごりらぼくし(大麻ルーテル教会/北見聖ペテロ・ルーテル教会)です。聖書や教会のこと、社会のこと、ペットのことなど書いていきますね。

教団総会決議

ブログへの投稿は数年ぶりです。お久しぶりです。ご無沙汰しております。

 

以前こちらで、私たちの教団(日本ルーテル教団)で性差の区別なく牧師職として働く道が開かれることを願っていることを話題にしましたが、先日行われた教団総会でそのための教団規則の改正が総会出席議員の三分の二以上の賛成を得て可決されました。

 

本格的な議論が起こったのが1990年代の終わりですから、実に20年余を経て、今回実現したことになります。

 

これまで多くの方々の祈りと取り組みがありました。みなさんに敬意を表します。また、一緒に祈り取り組んでくださった方々で、地上の旅路を終え、天へ召された方々もいらっしゃいます。その方々のお顔や声を思い起こして、胸が熱くなります。そして何より、これまで私たちを導き励まし続けてくださった神さまに感謝します。

 

この先も、今、執事職として働いている女性の教職の方々を、どのような手順で牧師として働くことを可能とするのか、また、私たちの教団と聖壇と講壇の交わりの関係にあり、女性への按手を認めていないアメリカのルーテル教会との関係をどうするのかなど、様々な課題がありますが、乗り越えられないことはないと信じて、まずは今回の決定を大いに喜びたいと思います。

 

執事職にある女性の牧師への任用ですが、これは現在その教職が働いている地域教会のアクションが大事になってくると思います。教団総会の総意、また教団規則に基づき、私たちの教会は教職授任按手を受け私たちの教会で働いている教職を、牧師として招聘すると宣言して、その教会では牧師として任命した上で、教団にそのことを伝えて認めるよう働きかけること。各個教会主義の教団なのですから、それぐらいの矜持を見せても良いのではないでしょうか。教団も、「長い間議論を重ねて」という理由で、せっかくの規則の先延ばしにならないように努力していただきたいなと思います。

 

アメリカとの関係では、私たちの教団は日本での宣教のために性差の区別のない牧師の働きが必要と考え、これを決めたことを粘り強く訴え続け、たとえアメリカの側から関係を断たれたとしても、なおも一緒に取り組めることはないかと申し出続けていくことが大事ではないかと思います。もちろん相手があることですから、決して簡単なことではないでしょうが。

 

ところで、私には実力がないので(というか引っ越しを何度かしたので、資料が残っていないこともあり)無理ですが、どなたかこれまでの経緯を年表や論文にまとめる方いらっしゃいませんかね?大事な資料&史料になると思うのですが。

 

なお、この度の教団総会で決議した規則変更提案の提案文は以下の通りです。

 

※※※※※※※※※※


教団規則第2章第5条変更の件

北海道地区教会会議
(地区役員・運営委員連名 省略)

提案:教団規則第2章第5条の「牧師」について「成年の男子陪餐会員で、忠実な信仰生活にはげんでいる者」を「成年の陪餐会員で、忠実な信仰生活にはげんでいる者」と変更する。

提案理由:現在、私たち日本ルーテル教団は、教団規則第2章第5条により、牧師職を「成年の男子陪餐会員」に限っているが、聖書の記述によるならば女性牧師按手は禁じられておらず、それゆえ教理上の理解としては牧師職の性差は問われないため、教団総会の判断によりこれを決定することができるというのが、教団総会や信仰と職制委員会でたびたび確認されてきた共通かつ公式な理解である。
この理解に基づき、私たちの教団の教職として、教団規則で定めている一職務である執事職には性差を問わず女性も男性と共に、教職授任按手を受けた上で任用されており、現在すでに実際に複数の女性が執事として地域教会の宣教と牧会に携わり、礼拝における説教と聖礼典の働きにも従事している。また、そのうち教団役員や地区教会会議議長などの責任ある役職や神学教育にも携わってきた女性の教職者もおり、私たちの教団と地域教会が、キリストの体として立つために、もはや女性の教職者の働きは必要不可欠である。にもかかわらず、私たちの教団が未だ女性に牧師職の働きを閉ざし、男性のみにそれを限定していることは、キリストの宣教の委託に忠実に応えているとは言えない。
我が国の法律には、たしかに宗教上の理由がある場合に、その任用に性差を認めているが、これはその宗教の教義上の理由でその働きをいずれかの性に限る場合(カトリック教会における神父や神社における巫女など)に該当すると考えられる。しかし、私たちの教団においては、先に述べたとおり、信仰の教理上は牧師の働きには性差は問わず、教団総会の決定に委ねるというのが共通かつ公式の理解であるのだから、我が国の法律を理由として、女性の牧師按手を認めていない現状を正当化することはできないであろう。私たちの教団が、これからもこうした性差別を続けることは、社会に対する証しという観点からもふさわしくないと考える。
何よりも、私たちの宣教と牧会の働きは、性差を超えて担われてこそ、補完的かつより豊かなものとなり、また牧師職への道を性差を問わずに拓くことは、教職者の人数が不足している私たちの教団の現在と将来にとってもたいへん重要なことであると信じる。
これらの理由により、今回の教団総会において、教団規則を変更して、私たちの教団が牧師職を男性のみならず女性にも拓くことを提案する次第である。
なお、私たちの教団では、これまでも総会で検討されてきたが、教団の初期の宣教の礎を築き、また長い間宣教のパートナーとして歩んできた米国ミズリー・ルーテル教会(LCMS)との関係を考慮し、今まで女性への牧師按手を実施せずにきた。しかし、私たちの教団が女性の牧師職を認めることは、決して私たちの側からLCMSとの断絶を求めることを意味するものではなく、たとえ私たちの教団が女性の牧師職を認めても、なお友好で協力的な関係をLCMSに求め続けることには変わりがない。総会はそのための働きを教団常議員会に委ねるべきである。しかしだからと言って、いつまでもLCMSとの関係を理由として、私たちの教団が、女性の牧師按手を行うことを躊躇し続けることで、キリストの宣教の委託に十分に応えることをしないままでいることは、自立した教会共同体としてふさわしい在り方とは言えないであろう。
また、LCMSの宣教師が日本での宣教を開始して以来長年に渡って私たちに伝えてきてくださった宣教のスピリットを継承し、それに充分に応えるためにも、日本の宣教のために必要な女性牧師按手を、私たちの教団で実施することを決断することはふさわしいことであろうと信じる。
以上

 

「あなたの髪の毛はなくならない」

聖霊降臨後第23主日 2019年11月17日

 

「あなたの髪の毛はなくならない」

ルカによる福音書21章5~19節)

 

わたしたちの父である神と、主イエス・キリストからの恵みと平和があなたがたにあるように。アーメン

 

教会の暦では、来週で一年の最終の聖日の礼拝、教会暦の一年の終わりを迎えます。このため、今週の礼拝は、先週もお話した通り、世の終わり、終末について、イエスさまのみことばを聞いてまいります。

 

今日のみことばの舞台はエルサレムの神殿です。エルサレム神殿は、イスラエルの人たちにとっての誇り高き場所で、自分たちがイスラエルの民、神の民であるとのアイデンティティを確認する場でもありました。当時の建造物としては、たいへん立派で丈夫で素晴らしいものだったのですが、その神殿に見惚れて、すばらしいと話し合っていた人々がいました。イエスさまは、その人たちの話しているのを聞いて、「あなたがたはこれらの物に見とれているが、一つの石も崩されずに他の石の上に残ることのない日が来る。」とおっしゃいます。いつか必ずその神殿が崩れ去ると予告されるのです。事実、イエスさまがおっしゃった通り、エルサレムの神殿はその後、数十年して、ローマの攻撃によって崩壊してしまいます。この神殿に限らず、この世の、私たちの周りにあるものは、どれだけ素晴らしく丈夫なものであっても、それらは決して永遠に残されるものではなく、いつか必ず滅び消え去り失われるものです。

 

エスさまは、その神殿についてお話されることを通して、世の終わりの日、終末についてお話なさったのですが、聖書の歴史観は、神さまがこの世界を創られた初めがあり、やがてこの世界を終わらせる終わりの日が来るというものです。だから、いつまでもこの世の中がダラーっと続くわけでもないですし、グルグルと時間が回っているという考え方でもありません。初めがあり、そして必ず終わりがある、というもので、さらにはその終わりの日には、この世のものは全て滅び消え失せると、聖書を通して私たちに告げられています。そして、神さまがもたらしてくださる新しい天と新しい地に私たちは生かされると、聖書のみことばは私たちに約束をしているのです。

 

さて、そのイエスさまの言葉を聞いた彼らは、イエスさまに「先生、では、そのことはいつ起こるのですか。また、そのことが起こるときには、どんな徴があるのですか。」と尋ねました。世の終わりはいつなのか?そしてその時、一体どんなことが起こるのか?それは、彼らのみならず、多くの人たちにとって、たいへん気になるところです。ですから、昔から、巷では、なんとかの預言とかハルマゲドンだとか、そんなものが流行るわけです。

 

彼らの問いに対するイエスさまの答えは、次のようなものでした。その時には、救い主を名乗るものが大勢現れて、わたしがそれだ、時が近づいたと言う。戦争や暴動の噂が立ち、民は民に、国は国に対して敵対をする。大きな地震が起こり、方々に飢饉や疫病が発生して、恐ろしい現象や著しい徴が天に現れる。さらには、キリストを信じるものたちが迫害される。身内に裏切られたり、攻撃されたり、命奪われたりする。

 

どれもがとても恐ろしいことばかりですが、しかし、私たちはこのイエスさまの言葉を聴きながら思うことがあるのではないでしょうか。それは、こうしたこと全ては、まさに今の世の中に当てはまるのではないかということです。混沌とした混乱した世の中になってしまい、世の闇を感じる出来事も多くあり、恐ろしい災害や事件が各地で頻繁に起こっています。家族の不和や信仰に対する不理解も私たちに身近なことです。まさにイエスさまが告げておられることどれもが、今私たちの世の中にそのまま当てはまるように思えてなりません。

 

それでは、聖書のみことばが告げている世の終わりの日、終末は私たちにとって間もなく起こることなのでしょうか。この疑問に対する答えは、然りであり、同時に否であると言えるでしょう。

 

まず、然り、その通り、終末は近いということをお話したいと思います。イエスさまが来られた時、イエスさまは人々におっしゃいました。「時は満ち、神の国は近づいた、悔い改めて福音を信じなさい」と。そうです。イエスさまの到来のその時からすでに終末、世の終わりの日は近いのです。ですから、キリストを信じる者たちはどの時代でも、その終わりの日が今日かもしれない、明日かもしれないという思いを抱き、そうした終末は近いとの緊張感を心に抱いて、このおよそ2000年の間代々と過ごしてきました。私たちも終末は近いとの思いや緊張感を持って生きることは、とても大切なことです。終末なんてまだまだ先のことで自分には関係ないことだとか、世の終わりなんて本当には起こらないおとぎ話のようなものだとか、そんな思いで過ごすのではなく、イエスさまがおっしゃった「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」とのみことばを心に刻んで、世の終わりの日、そして神の国の完成の日は、私たちにとって近づいているとの思いをもって、緊張感をもって過ごすことは大切なことでしょう。

 

同時に、終末は間もなくなのかとの問いに対する否という答えについてお話しします。それは、いまこの世の中で起こっている様々な現象は、たしかにイエスさまが話された終末の徴に合致しています。ですから終末は確かに近いと言ってよいわけですが、けれども同時にこれらのことは、よく考えてみるなら、いつの時代にも起こってきたことであり、これからも起こることです。

 

いつの時代にも、自分が再臨のキリストだ、今こそ終わりの日だと、人を煽動する者たちが現れました。戦争や暴動の噂もいつの時代にもありました。様々な争いがなかった時代こそ今までなかったと言ってもよいでしょう。いつの時代も、民は民に、国は国に対して敵対してきたのです。大きな地震も、方々に飢饉や疫病も、どの時代にもありましたし、天体に恐ろしい現象や著しい徴も、あらゆる時代に見られました。キリストを信じる者たちが迫害されることや身内に裏切られたり攻撃されたり命奪われたりすることも、これらもいつの時代にも起こってきたことです。また、これからもきっとどの時代にも起こることでしょう。こうしたものと全く無縁で私たちが過ごすことこそ本当に稀有なことで、実際は、いつも私たちはこうした終末的な出来事と隣り合わせなのです。だから、世界で大きな戦争が起きたから終末だとか、大きな災害があったから世の終わりはすぐだとか、私たちはそんな風に焦って恐れる必要はありません。

 

焦って恐れるのではなく、いつか必ずこの世界の終わりが来る、それはいつかわからないけど今ここで備えておくという姿勢が私たちにとって大切なのです。ルターが言ったとされるけれど、実際はそうではないようなのですが、次のような言葉があります。何度も紹介したことがある言葉ですが、「たとえ明日が世の終わりの日であっても、私は今日リンゴの木を植える」という言葉です。つまり、私たちはたとえ世の終わりの日が明日来ても、あるいはいつ来ても、与えられている役割を今日も精一杯果たしていくのです。明日世の終わりが来ると、今日植えたそのリンゴがどうなってしまうのか、無駄な働きになってしまうかもしれません。でもたとえこの先がどうなるかわからないし、この働きが無駄になるかもわからないけれども、私たちは今日、主に与えられている務めを果たしていく、そのことが大切なのです。先週もお話しいたしましたが、天のみ国に属する民として地上を旅する私たちです。天に属する者として、地に足をつけて、一歩一歩、世の終わりのその日まで歩み続ける、それが今日もみことばから私たちが受け止めたいことです。

 

今日のお話のタイトルを「あなたの髪の毛はなくならない」としました。3年前同じ箇所でお話しした時のタイトルは「髪の毛はなくならないのか」でしたが、今年は少し信仰深く「あなたの髪の毛はなくならない」と宣言、断言したいと思います。なぜならイエスさまがそうおっしゃっているのだから、それをしっかり信じたいと思ったのです。

 

これは今日のイエスさまの「しかし、あなたがたの髪の毛の一本も決してなくならない」とのみことばから付けたタイトルですが、しかし、今朝も鏡を見ながら、現実はどうだろうかと考えさせられるわけです。私たちの人生の歩み、日々、いろんな苦労があります。また年を重ねて私たちは段々と弱っていきます。そんな中で私たちの髪の毛は白くなったり、薄くなったりするのです。毎日鏡を見ていると、段々髪の毛が少なくなっていって、その現実を受け止めきれず、結構ショックを覚えます。そしてその薄いところを隠そうとブラシを使い必死な抵抗をして、これがなかなか大変です。その意味では、実際問題としては、私たちの髪の毛は少なくなり、失われていきます。体力も衰えて、思考も鈍く働かなくなっていくのです。今日のみことばの冒頭にあったエルサレムの神殿のように、またこの世のあらゆるものと同じように、私たちの肉体もやがて滅び消え去りゆくものです。

 

それでは「あなたがたの髪の毛の一本も決してなくならない」とおっしゃったイエスさまは私たちに嘘をつかれたのでしょうか。私たちを少しでも喜ばせ安心させようと、気休めをおっしゃったのでしょうか。そうならば、なかなか残酷なことです。昔から「食べ物の恨みは恐ろしい」との言葉がありますが、髪の毛の恨みもなかなか恐ろしい。それは昔も今も変わりません。

 

旧約聖書の列王記に、こんなお話が伝えられています。預言者エリシャが山を歩いていたら、子どもたちが彼に向かって「禿頭よ、登っていけ」「禿頭よ、登っていけ」と、からかったのです。その声にエリシャはイラッときたのでしょう。子どもたちのことを睨んで呪うと、熊がやってきてなんと子ども達を八つ裂きにしてしまってのでした。実にその子どもたちの数42人というなんとも恐ろしい話です。それだけ髪の毛のことを人は気にしてしまうのです。

 

また、私の父と私と私の息子の三世代の話をしたいと思います。私の父がある年代から髪の毛薄くなってきたので、私が中学生ぐらいの頃だったかな、「お父さん最近ハゲてきたね」と少し父のことをからかいました。父は笑いながらも「いや、そうか。そんなことないだろ」などと答えていたのですが、私もある年代から髪が薄くなってきました。すると息子に「父さん、最近、髪の毛薄くなってきたな」と言われたのです。それを聞いて、私は結構ショックを受けて、その時に初めて自分は子どもの頃に父にどれだけひどいことを言ったのかと深く反省をしました。でも私も負けていられませんから、息子に「人には遺伝子とかDNAとかいうものがあるのを忘れないように」と話しておきました。

 

このように髪の毛が薄くなってなくなってくるというのは結構心が痛むことで、イエスさま「あなたがたの髪の毛の一本も決してなくならない」とおっしゃったじゃないですか。なのになぜ?と嘆きたくなります。しかし、どれだけ嘆いても、実際、私たちの髪の毛は段々と薄くなり、体は衰え、思考は鈍っていきます。

 

けれども、私たちは知っています。私たちが髪の毛が薄くなり、身体が衰え、思考は鈍っていく、そんな人生の日々を歩んでいるその苦労、その重荷、その弱さを、主が受け取ってくださるということをです。主がそうした私たちと一緒に歩んでくださる、私たちはそのことを信じることができるのです。

 

質量保存の法則という化学の法則があります。化学反応の前と後で物質の総質量は変わらないという法則です。今日のみことばもこの法則で考えたいのです。たとえ私の頭の上から私の髪の毛がなくなっても、それはもはやただ失われてなくなってしまうのではありません。主が愛のみ手の中に私のすべてを受け取ってくださいます。ですから私の髪の毛は、イエスさまの約束の通り決して一本もなくならないのです。毎朝、シャワーを浴びる際、排水溝に抜けた髪の毛が詰まり、こんなに抜けてしまったのかと思いますが、でも私たちの人生のすべてを主が御手にしっかりと受け取ってくださるのです。だから、たとえ私たちの髪の毛が頭の上からなくなり、頭が光輝くようになっても、それで自分が惨めになってしまうのでなく、ますます主の栄光の光に私たちは生かされます。歳をとって体が衰えるときも、私たちは主の力に生かされ、段々と思考が鈍くなっていっても、主の知恵により私たちは導かれるのです。

 

そうした一歩一歩を、主とともに歩む。それこそ私たちの終末への備えであり、主が与えてくださる命を生かされる歩みです。イエスさまは今日のみことばの結びで、「忍耐によって命を勝ち取りなさい」とおっしゃっています。私たちはこの招きに応えて、これからも主と共に、この地上を一歩一歩旅していこうではありませんか。

 

大丈夫です、あなたのすべては主の愛の御手の中にあります。

 

主よ、私たちを導いてください。

 

神さま、愛に溢れる主の御手の中に私たちのすべてが受け取られていることを信じ、感謝いたします。いろんな苦労がありますし、段々と衰えいく私たちですが、その主の愛の御手の中で、地に足を付けて一歩一歩歩んでいくことができますようにお導きください。キリストの御名によって祈ります。アーメン

 

希望の源である神が、信仰によって得られるあらゆる喜びと平和とであなたがたを満たし、聖霊の力によって希望に満ちあふれさせてくださるように。アーメン

2018年7月22日 礼拝メッセージ

聖霊降臨後第9主日 2018年7月22日

 

「まことのいやし」

エレミヤ書23章1~6節・マルコによる福音書6章30~34節および53~56節)

 

わたしたちの父である神と、主イエス・キリストからの恵みと平和があなたがたにあるように。アーメン

 

今日の第一朗読エレミヤ書で告げられているみことばを聞くとき、私は牧師として、本当に胸に突き刺さる思いがします。《「災いだ、わたしの牧場の羊の群れを滅ぼし散らす牧者たちは」と主は言われる。それゆえ、イスラエルの神、主はわたしの民を牧する牧者たちについて、こう言われる。「あなたたちは、わたしの羊の群れを散らし、追い払うばかりで、顧みることをしなかった。わたしはあなたたちの悪い行いを罰する」と主は言われる。》

 

牧師としての働きを振り返る中で、私のかかわりが原因で、教会に定着しなかったり、教会から疎遠となったりした方々のことを思い起こします。もちろん人と人とのかかわりですので、その中には、必ずしも100%私のほうに問題があったというわけではなく、相手の側に多くの課題があったという場合もあるでしょう。けれども、だからと言って、私にまったく何も問題がないと、その責任を逃れることはできません。もう少し違ったかかわり方をすれば、もしかしたら異なる結果となったかもしれないということを思います。私のそうした今までの働きに対して、神さまから「災いだ」「わたしはあなたたちの悪い行いを罰する」そう告げられている、まずこのことを今日率直に認め、深く省みたいと思います。

 

同時に今日のこのエレミヤ書は、そうした私に実に慰め深いみことばでもあります。神さまは次のようにおっしゃっています。《「このわたしが、群れの残った羊を、追いやったあらゆる国々から集め、もとの牧場に帰らせる。群れは子を産み、数を増やす。彼らを牧する牧者をわたしは立てる。群れはもはや恐れることも、おびえることもなく、また迷い出ることもない」と主は言われる。》

 

私の働きのまずさのゆえに教会に定着しなかったり、教会と疎遠になったりした方々がいらっしゃるその事実に対して、神さまご自身がその人に直接かかわってくださり、その人を探し出して再び「集め」て、神さまの御前で生きるように「帰らせ」てくださる、そう告げておられる約束として、私はこのみことばを受け止めました。そして、神さまはさらに、その人たちを「恐れることも」「おびえることも」「迷い出ることもない」ように養い導かれる、そうしたまことの「牧者」、つまり羊飼いを立ててくださるとも告げておられます。

 

その牧者、羊飼いについて、神さまは続けて次のようにおっしゃいます。《「見よ、このような日が来る、と主は言われる。わたしはダビデのために正しい若枝を起こす。王は治め、栄え、この国に正義と恵みの業を行う。彼の代にユダは救われ、イスラエルは安らかに住む。彼の名は、「主は我らの救い」と呼ばれる。》

 

このみことばを私たちが理解するために、少し歴史的な背景について説明する必要があるでしょう。神さまが選ばれた民であるイスラエルの人々は、ソロモン王の死後、北のイスラエル王国と南のユダ王国に分裂してしまいました。ソロモンが王国がより強大なものにしようとした結果、民の間の貧富の差が拡大し、また政治的な腐敗がなされ、さらには人々に強制的な辛い労働が強いられた結果でした。それらのことで民の間に不平不満や大きな傷が生まれ、それがソロモン王の後継者争いとも絡み合い、王国が分裂してしまったのです。そのように王国が分かれてしまった結果、いずれの王国もその基盤が弱くなって、周辺の他の国から狙われるようになります。そして、やがて北イスラエルも南ユダも滅亡してしまいます。

 

そうした中で、神さまが、今一度神さまの選ばれた民を、南のユダの人々も北のイスラエルの人々も、ともに「治め」「栄え」「正義と恵みの業を行う」「正しい若枝を起こす」との約束が、預言者を通して語られるのです。そのとき、神の民は「救われ」「安らかに住む」、つまりもはや他の国の脅威にさらされず安心して暮らすことができるようになると約束されます。

 

そして、ここで「わたしはダビデのために正しい若枝を起こす」と約束されている、神さまが立ててくださるまことの牧者、羊飼いとは、やがてダビデの末裔としてお生まれになられた、救い主イエスさまのことであると、キリスト教会では信じられてきました。人々の側の問題や失敗、不十分さのゆえに分かたれ、深い傷を負ってきた神の民を、神さまが立ててくださる真の羊飼いであるイエスさまが、直接導き、養ってくださり、彼らを救い、平安を与えてくださると、今日のエレミヤ書のみことばは受け取られてきたのです。

 

先ほど、私は、今日のこのエレミヤ書のみことばから、牧師としての私のかかわりのゆえに、教会に定着しなかったり、教会から疎遠となったりした方々のことを思い、痛みを覚えるというお話をいたしました。また、そうした中で、同時に、今日のみことばから、また、深い慰めをもいただくことができるということもお話しいたしました。まさに私のかかわりの不十分さやいろんなまずさや失敗を超えて、まことの牧者、羊飼いとして、神さまが救い主イエスさまをお立てくださり、イエスさまがその人に直接かかわり働きかけてくださっている、今日そのことを信じることがゆるされています。

 

また、これは牧師としての働きに限らないと思います。牧師でなくても、私たちが神さまのみことばに導かれて、他の人に愛のかかわりをして、その人に仕えて、ともに生きようとするとき、私たち自身のいろんな不十分さのゆえに、そのかかわりがうまくいかない時があります。それは、私たちの忍耐力のなさであったり、自分勝手さであったり、傲慢さであったり、あるいは、必ずしもそうとは言えず、むしろ私たちがかかわりを持つその相手の側の問題であったり、いろんな原因が絡み合って、その人を神さまに繋げるどころか、その人から神さまをより遠ざけてしまったり、あるいは私たち自身その人と仲違いしたり、疎遠となってしまったり、そうしたことが少なからず起こります。私たちは、そうした私たちのかかわりの限界を、率直に認めたいと思います。

 

そうした中で、今日のみことばで、私たちはそのように不十分さを抱え、うまくいかないときも多いけれども、神さまが直接その人にかかわってくださり、また神さまは救い主イエスさまをまことの牧者、羊飼いとして立ててくださって、イエスさまがその人を導き、養い、お救いくださり、平安を与えてくださる、そのように約束されていることを、私たちの心に刻みたいのです。ですから、私たちは、私たち自身の不十分さを受け止めながら、その不十分さをまことの羊飼いであるイエスさまが繕い、補ってくださる、そのことを心にとめながら、人とかかわっていきたい、そう願います。

 

それでは、そのまことの牧者、羊飼いイエスさまのかかわりとは、一体どういうものなのか、今日の福音書のみことばから受け止めてまいりたいと思います。そのことを通して、私たちが他の人たちにかかわるそのかかわりについてもまた考えてまいります。

 

エスさまの弟子たち~マルコはここで珍しく使徒たち」という言葉を使っていますが、使徒とは遣わされた者という意味です。~イエスさまによって遣わされた彼らが、その働きの報告をした際、イエスさまは弟子たちに、「さあ、あなたがただけで人里離れた所へ行って、しばらく休むがよい」と告げられました。イエスさまの優しさ、暖かさを、このことばから思います。また、同時に、私たちが人とかかわりを持つ際に、休んだり、人々から離れて心静かに祈ったりすることも、必要なことであることも受けとめたいと思います。イエスさまに従って生きると言っても、ただ突っ走っているだけではなく、時には一旦立ち止まり、心と体を休め、また祈りのうちに自分の働きを省みることもまたとても大切なことなのです。

 

弟子たちはイエスさまの言葉に従い、人里離れた所に休息のために出かけられました。けれども、彼らを追って大勢の人たちがあらゆるところから、弟子たちが向かう先に先回りするということが起こります。そこでイエスさまはそうした人たちを「飼い主のいない羊のような有様」にご覧になられました。たびたびお話することですが、羊とは弱い動物です。羊は群れで生活しますが、その群れを離れてしまうと、いろんな危険に晒され、生きていくことが難しいのです。ですから、羊飼いが、群れの中で安心して安全に暮らすことができるように羊たちを見守り、養います。ここで弟子たちを追って集まってきた多くの人たちが、「飼い主のいない羊のような有様」にイエスさまの目に映ったということは、彼らが生きていく上でいろんな困難を抱え、深い傷を負っていたということを表し、彼らがイエスさまなしにはもうこれ以上生きていくことができないそんな状態であったことを意味しています。現代の人たちも同じではないでしょうか。生きていく上でいろんな困難を抱え、深い傷を負っている人たち、生きる辛さを覚えている人たちがたくさんいます。ですから、自分たちには気が付いていなくとも、現代の人たちにもやはり羊飼いイエスさまが必要なのです。

 

エスさまは、そうした彼らを「深く憐れ」まれます。聖書の中で、この「憐れみ」という言葉は、とても大切な言葉です。ただ上から目線で、「あの人たちかわいそうに」と思われたということとは違います。もっと重い意味を持つ言葉です。もともと「人のはらわた」を意味する言葉に由来します。また旧約聖書では、「母の胎」、「女性の子宮」を意味する言葉でもあります。そこから、人の痛みを見て、自分自身の腸がねじれるようなそんな痛みを覚える。あるいは自分のおなかを痛めて産んだわが子の苦しみを思って、母親自身が深く苦しむ。そうした意味を、聖書の中の「憐れみ」という言葉は表しているのです。ですから、イエスさまは、生きる辛さを抱えている彼らの「飼い主のいない羊のような有様」をご覧になられたということは、イエスさまご自身はらわたがねじれるような痛みを覚えられ、わが子の苦しみを思い親が苦しむような苦しみを、イエスさまご自身が感じとられたことが、ここで告げられています。イエスさまは現代の人たちのことも、そうしたイエスさまご自身の痛み、苦しみをもって、ご覧になっておられるということを、私たちはここから受け止めたいと思います。私たちも、他の人の痛みをただの他人事として傍観するのではなく、自分自身の痛みとして感じ取ることができるように祈りたいと思います。

 

そこでイエスさまが具体的に彼らになさったことは、三つのことでした。まず「いろいろと教え始められた」ことです。つまり、イエスさまは彼らにみことばを語りかけられました。生きていく上で深い傷を負っている人たちにイエスさまのみことばが必要です。イエスさまのみことばが彼らの傷ついた心を癒し、慰め、強めます。渇いた砂漠に注がれる水のように、イエスさまのみことばが彼らの心を潤し、その人を生かす命の水となるのです。私たちも、私たちの周りで希望を失っている人に、イエスさまのみことばを届けることができるよう祈り働きたいと願います。

 

次にイエスさまがなさったことは、今日のみことばでは読まれませんが、35節以下の出来事にあるように、彼らに食べ物を与えられることでした。この出来事については、同じ出来事を伝えるヨハネ福音書より、来週聞いてまいりますが、イエスさまがなさったように、実際に困っている人のその必要を満たすことが、その人の生きる力になります。今、この日本では、先般の大雨の被害で苦しんでおられる方々が大勢いらっしゃいます。このたび教団からその人たちを支援するための献金が呼びかけられていますが、私たちが、そうしたことに応えることもまた、その人たちの必要を満たし、イエスさまの愛を届ける大切なかかわりであることを、今日のみことばから覚えます。

 

エスさまがなさった三つ目のこと、それは今日の福音の後半に伝えられている出来事です。そこでは、イエスさまのもとに病気を抱えている人たちが運ばれ、イエスさまがその人たちの病を癒されたことが伝えられています。イエスさまはこのように人の心だけでなく、身体の健康をも回復させてくださるお方です。私たちの周りの病を抱えている人たちが癒されるように、私たちも祈りによって、その人たちをイエスさまのもとに運び、また、私たちも実際にその人の病んでいるところに手を置いたり、いろんな助けをすることによって、イエスさまの癒しのわざに仕えたいと思います。

 

私たち自身はいろんな不十分さがあるけれど、イエスさまが真の羊飼いとしてかかわり、癒してくださることを信じ、私たちも深い傷を負い、痛みを抱えている人々と共に生きるために働くことができるならばと、今日のみことばから願うものです。

 

 主よ、私たちを導いてください。

 

 神さま、人々に関わる際に十分なかかわりをできず、逆にその人を傷つけたり、あなたから遠ざけたりしてしまっているこの私をおゆるしください。そうした私の不十分さを超えて、イエスさまがその人のまことの羊飼いとなられ、その人を養い、癒しお救いくださることを感謝します。そのイエスさまの愛の働きに私も従い仕えて歩むことができるように導いてください。救い主イエスさまのお名前によって祈ります。

 

永遠の契約の血による羊の大牧者、わたしたちの主イエスを、死者の中から引き上げられた平和の神が、御心に適うことをイエス・キリストによってわたしたちにしてくださり、御心を行うために、すべての良いものをあなたがたに備えてくださるように。栄光が世々限りなくキリストにありますように、アーメン。

 

動画 2018-07-22.mp4 - Google ドライブ

 

http://davidewart.typepad.com/.a/6a00d8345310da69e20223c84b1d0e200c-800wi

 

2018年7月15日 礼拝メッセージ

聖霊降臨後第8主日 2018年7月15日

 

神の国は なお我のもの」

(マルコによる福音書6章14~29)

 

わたしたちの父である神と、主イエス・キリストからの恵みと平和があなたがたにあるように。アーメン

 

大雨の被害が、本当に大きなものとなってしまいました。200人を超える方々が犠牲となり命を失い、今なお避難生活を余儀なくされている方々、様々な面で不自由な生活を強いられている方々が大勢いらっしゃいます。犠牲となられた方のいのちを神さまが憐れみのうちに受け取ってくださるように、また、いま大変な中を過ごされている方を神さまがお支えくださり、一日早く平安が取り戻されるように、さらには、私たちもその人たちと共に生きるために何ができるか神さまが示してくださるように、心からお祈りします。

 

さて、今日もみことばに聴いてまいります。私たちは、毎週、このように礼拝で聖書のみことばからメッセージを聴くわけですが、私は、そのメッセージは、福音、すなわち喜びの知らせであるべきと考えています。どれだけ厳しい悔い改めを迫るみことばでも、あるいは、悲しく残酷な出来事が伝えられているみことばでも、そのみことばから、慰めや励まし、救い、そうした喜びのメッセージを、私たちが受け取ることが大切だと思っています。ところが、今日の福音書には、そこから喜びのメッセージを聴くことが、困難な出来事が伝えられています。

 

今日のみことばは、先週の続きですが、先週のみことばには、イエスさまの弟子たちが、イエスさまから、宣教の働きのために遣わされた出来事が伝えられていました。イエスさまと弟子たちのその働きにより、あらゆる場所の多くの人々にイエスさまのことが知れ渡りました。もちろんイエスさまを信じ受け入れた人も大勢いましたが、そうではない人もまた大勢いたことでしょう。その人たちの中で、イエスとは何者かということについて、いろんな話がなされていました。「洗礼者ヨハネが死者の中から生き返ったのだ。だから、奇跡を行う力が彼に働いている。」と言う人や、「彼はエリヤだ」と言う人、あるいは「昔の預言者のような預言者だ」と言う人もいたと、みことばは伝えています。

 

それを脅え震えながら聞いていた人物が一人いました。当時のユダヤの王の立場にあったヘロデ・アンティパスです。彼は、自分の権力を利用し、洗礼者ヨハネの首をはねて殺してしまった人物で、人々がイエスさまのことを「洗礼者ヨハネの生き返りだ」と人々が言う声を聴いて、きっとそうに違いないと思ったのです。自分が殺した人物が生き返り、力強いわざをしている。それは彼に非常に大きな恐怖であり、脅威だったことでしょう。その死者ヨハネの生き返りであるイエスさまに自分が祟られるか呪われるかという恐怖、あるいは彼が復讐のため自分の命や地位を脅かすかもしれないという脅威を感じながら、彼は人々の話を聞いたと思うのです。

 

そもそもなぜ彼はヨハネを殺したのでしょうか。彼ヘロデ・アンティパスには、ヘロディアという妻がいたのですが、彼女はもともとヘロデの異母兄弟のフィリポと結婚をしていました。しかし、ヘロデとヘロディアが恋仲となり、結局はヘロディアはフィリポとの結婚を解消し離縁して、ヘロデと結婚をします。しかし、そのことで、洗礼者ヨハネが、厳しく二人を糾弾したのです。「自分の兄弟の妻と結婚することは、律法で許されていない」と。それを面白くなく思ったヘロデは、ヨハネを捕えて投獄しました。そして、妻ヘロディアも、自分たちのことをごちゃごちゃ言うヨハネに恨みを抱き、彼を殺してしまおうと企みつつ、それを実行できないでいたのです。

 

彼女がヨハネをすぐに殺すことができなかったのには、一つ理由がありました。それは、ヨハネを捕えて投獄した夫ヘロデでしたが、そうしながらも、同時に夫はヨハネを聖なる人として保護して、ヨハネの教えを聞くのを楽しみにしていたためでした。しかしだからと言って、ヘロデが特段、信仰深かったというのではなく、彼には、どこか宗教オタクというか、ミーハーな面があったのだろうと思います。後にイエスさまが捕えられ裁判にかけられた際にも、「彼はイエスを見ると、非常に喜んだ。というのは、イエスのうわさを聞いて以前から会いたいと思っていたし、イエスが何かしるしを行うのを見たいと望んでいたからである」と、ルカ福音書に、彼が、そうした宗教的なことに興味を持っていたか、みんなが騒いでいるイエスさまのなさる奇跡を自分も目にしてみたいと興味本位に思った様子が伝えられています。

 

そうした彼のもと、獄中にありながらも、しばらくの間、命は守られていたヨハネでしたが、結局ヘロデに殺されてしまいます。ヘロデが自分の誕生日に、家族や親族、また高官たちや軍や政財界の有力者たちを集め、パーティーを催した際の出来事です。その余興として、ヘロディアが離婚した前の夫フィリポとの間にもうけた娘が、踊りを披露したところ、ヘロデはたいそう喜び、何でもいいから好きなものを褒美にあげようということになったのです。もちろん彼は素直に妻の連れ子の踊りを喜んだのかもしれませんし、招待客たちの前で、自分の妻の連れ子への自分の寛大さや、気前のよさを自慢したかったのかもしれません。あるいは、その贈り物をみんなに見せつけることで、自分の豊かさや、そうした豪華なものを所有している自分の権力の大きさを自慢したかったのかもしれません。きっと、そんないろんな思惑があったことでしょう。ヘロデは、人々の面前で、彼女に「欲しいものがあれば何でも言いなさい。お前にやろう」と言い、さらには「お前が願うなら、この国の半分でもやろう」と豪語するのでした。すると彼女は母親に何を願うかを尋ね、母親の言う通り、彼女は「今すぐに洗礼者ヨハネの首を盆に載せて、いただきとうございます」と、ヘロデに答えるのです。ヘロデは、本意ではなかったのですが、みんなの手前、やむを得ず、彼女の申し出の通り、衛兵にヨハネの処刑を命じます。そして、ヨハネの首を彼女に渡し、彼女は母にそれを渡し、こうしてヘロディアの企みが実現したのでした。

 

何とも恐ろしい酷い出来事です。ヘロデも、ヘロディアも、またその娘も、みんながみんなおかしいと思います。自分のした悪さを指摘されたからと言って、その相手を殺すほど恨み、実際に殺してしまうヘロディア。まして娘に洗礼者ヨハネの首をヘロデに要求するように申し付けるなんて母親としてもどうかしています。またその娘も娘です。母親に言われたからと言って、それをそのままヘロデに伝えるとは…。そして、ヘロデです。「お前が願うなら、この国の半分でもあげよう」と人前で豪語したり、人目を気にして、人の命を簡単に自分の好き勝手に扱えるモノのように奪ってしまったり、この家族のみんながみんなどこか大きく狂っていて、正気ではない、そう思わずにはいられません。人が権力を持つことと、その権力の甘い蜜を吸いながら生きることの恐ろしさでしょうか。

 

私たちは、この話を実に恐ろしいむごい話だなと、そんな風に、私たちから遠い話で、私たちには関係のない話のように思うかもしれません。しかしです。私たちは私たちの生きているレベルで、もしかしたら、ヘロデのような、あるいはヘロディアやその娘のような、彼らと同じ面を持っているということはないだろうか、そのことを省みたいと思います。自分の持っているものは自分のものなのだから、自分の好き勝手に使ってよい、そんな思いで、周りのことを考えることなく、自分の好きにそれを使ったり、独占したりしていないだろうか。自分のまずいところを他の人から指摘されるとそれを受け入れることができず、逆にその人を恨んでしまったり、憎んでしまったり、自分の心の中からその人を追い出してしまったり、他の人にもそのことを同調するように求め、自分と自分の周りからその人のことを精神的に抹殺や処刑をしてしまうようなことをないだろうか。人目を気にしたり、周りの大きな声の言いなりになったりして、他の人のことを傷つけたり、正しいことを貫けなかったり、そうした面がないだろうか。そんなことを思います。もちろん私たちはヘロデやヘロディア、その娘と全く同じ恐ろしいことはしないでしょう。実際に人の命を奪ったり、それにつながるようなことをしたりはしないと思います。そうした力もないですから。でも、私たちがもし彼らと同じ権力を持ったり、彼らと同じような立場になったりしたらどうでしょうか。もしかしたら、私たちもヘロデやヘロディアやその娘と同じようなことをしてしまうかもしれない。私たちは私たちなりに彼らと同じ自分勝手さや残酷さを持っていることを見つめ、認め、悔い改め、神さまの赦しを願いたいと思います。

 

同時に、私たちは、この洗礼者ヨハネが殺された今日のみことばが伝えている出来事から、やはりこの世の力の身勝手さ、残酷さ、暴力性ということもまた、受け止めたいと思います。この世の権力や、その甘い蜜を吸っている人たちが、神さまの御心に反して暴走することが少なくありません。その時、そこで、あたかもモノのように不当に扱われてしまう命があります。人権を踏みにじられてしまい、尊厳を奪われ、実際に心や体に深い傷を負わされたり、命を奪われてしまったりする人たちがいます。神さまが示してくださる正しさが揺るがされてしまい、不正がまかり通ってしまうこともあります。暴力に対して、世の中全体が鈍感となり、その過ちに気づけなくなってしまう時もあります。私たちが神さまを信じる信仰が脅かされてしまうこともあるでしょう。私たちはそれらのことに、洗礼者ヨハネがそうであったように、ノーと言う勇気を持って生きていきたいと願います。それは、私たち自身に危険を及ぼすものかもしれない。周りの理解もあまり得られないかもしれない。でも、私たちが神さまの御心に従うために、また、イエスさまの愛に倣うがゆえに、あえてその苦しい道を選び取る必要がある時もあるのです。「平和を実現する人々は、幸いである。その人たちは神の子と呼ばれる。義のために迫害される人々は、幸いである。天の国はその人たちのためのものである。わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。」エスさまの約束の言葉を胸に刻みたいと思います。

 

ヨハネはヘロデに捕らえられ投獄され、その命は、ヘロデまたヘロディア、その娘といったこの世の力によって蹂躙された結果、奪われてしまいました。けれども、そのことで、神さまの計画が妨げられてしまうことはありませんでした。ヨハネが捕えられたその頃、ちょうど、イエスさまがガリラヤで宣教を始められます。そしてヨハネが処刑された後も、イエスさまの福音は方々に宣べ伝えられ、弟子たちにもその働きが託され、さらに広められていくのです。このように、ヨハネの命は奪われてしまっても、神の救いの計画はなお前進したのです。この世の力と対峙して生きる私たち自身は、弱い者です。私たちがどれだけ叫んでも、世の力に負けてしまい、その声はかき消されてしまうかもしれません。けれども、神さまの計画は、そこで妨げられることなく、なお続けられていきます。私たちは、そのことを信じ、たとえ小さな声でも、声をあげ続けていきたいのです。

 

今日のさんびか、教会讃美歌450番「力なる神」は、マルティン・ルターの作ったさんびかです。ルターは、「私は弱い者だけど、神であるキリストが力強い私の砦となり、戦ってくださる。だからたとえ世の悪が満ちていても、私は恐れない。世の悪の力は主の裁きの前に滅びるだけだ。たとえ私から何が奪われようとも、神の言葉は決して滅びず、神の国はなお我のものだ」と力強く歌います。当時の激しい弾圧のゆえに、ルター自身、心が折れてしまいそうになる中で、いえ、実際に心が折れて病んでしまった中で、彼はこの歌を歌い、教会の改革を進めていきました。このさんびかは、ルーテル教会で、また教派をも超えて、実に500年の間、歌い継がれてきました。また、ルターは「私がこのビールを飲んでいるこの時にも、神の国は前進する」と言ったそうです。たとえどんなことがあっても、神の国は必ずやってくるという、神への信頼を表す言葉です。私自身はヘタレで弱い者です。何かあると、すぐに、もうダメだ、もう無理だと思ってしまいます。けれども、先週もお話しましたが、私の弱さの中でこそ、神の恵みに満たされ、力強く歩むことができるということを信じて、たとえどんなことがあっても、何かが奪われても、『神の国はなお我のもの』、私たちもそう力強く歌いつつ立ち上がり、あるいは這いつくばりながらも歩んでまいろうではありませんか。

 

主よ、私たちを導いてください。

 

私の心の中にもある自分勝手さ、残酷さと、私が向き合い、あなたに悔い改め、あなたの赦しの中を歩むことができますように。この世の力により苦しめられている人、尊厳や命を脅かされている人と、私も共に生きることができますように。世の過ちに対して、否と言うことのできる正しさと強さをあなたが私に与えてください。私自身は弱い者だけれど、あなたがともにいてくださる、そのことに希望を持って勇気をもって歩んでいくことができますように。大雨の被害に苦しむ人たちをあなたが助け、お守りください。失われた一人ひとりの命をあなたの憐れみのうちにお受け取りください。私たちの救い主、主イエス・キリストによって祈ります。アーメン

 

あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るように。アーメン

 

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2018年7月8日 礼拝メッセージ

聖霊降臨後第7主日 2018年7月8日

 

「弱いからこそ強い」

(マルコによる福音書6章1~13、コリントの信徒への手紙二12章9~10)

 

わたしたちの父である神と、主イエス・キリストからの恵みと平和があなたがたにあるように。アーメン

 

道内と道外で大雨の被害がありました。被害に遭われた方々に神さまからのお慰めとお支えを心よりお祈りいたします。先日もお話しましたが、地球全体が悲鳴を上げているようなそんな思いがいたします。私たち人類のみならず、すべての被造物をお救いくださる神さまの御国が速やかに到来することを祈るとともに、神さまの救いを私たちは宣べ伝え続けたいと願います。

 

さて、今日もみことばに聴いてまいりましょう。今日の福音には、二つの出来事が伝えられています。まず一つは、イエスさまがご自分の故郷にお帰りになって、礼拝の時にお話をされた時の出来事です。そこに集っていた人たちは、イエスさまのお話が力強いものだったのでしょう。驚いて言うのです。「この人は、このようなことをどこから得たのだろう。この人が授かった知恵と、その手で行われるこのような奇跡はいったい何か。この人は、大工ではないか。マリアの息子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。姉妹たちは、ここで我々と一緒に住んでいるではないか。」

 

エスさまの故郷に暮らしている人たちでしたので、イエスさまの家族のことも、またイエスさまがどのような子どもであったか、また青年であったか、よく知っているわけです。ですから、「あのマリアの子が…」「あの大工のイエスが…」「こんな力強いお話をして、あんな奇跡を起こして、なぜそんなことができるのか、どこでそんな力を身に着けたのか」と、みんながたいへん不思議に思ったというのです。

 

そして、彼らはイエスさまに「つまずいた」と、みことばは伝えています。「つまずく」という言葉は、もともと「疑念を抱く」とか、「憤りを抱く」という意味を持つそうです。聖書のもともとの言葉であるギリシア語では、「スカンダロス」という言葉で、英語の「スキャンダル」の元となった言葉です。私たちも政治家や芸能人のスキャンダルを耳にするわけですが、そうすると、その人に対して憤りを抱いたり、疑念を抱いたりして、その人のことを信頼できなくなってしまいます。イエスさまの故郷の人たちも、イエスさまに対して、「なんであんなことできるんだよ」「できるわけないじゃん、絶対何かトリックやインチキがあるに違いない」そんな感じで、憤ったり、疑念を抱いたりして、それ以上、イエスさまのことを信頼できなくなってしまったことを、「つまずいた」という言葉は表しているのでしょう。

 

エスさまはそれに対して、「預言者が敬われないのは、自分の故郷、親戚や家族の間だけである」とおっしゃっていますが、何週間か前にも同じようなことをお話しましたが、私たちも「自分は神さまやイエスさまのこと、また聖書のことをよくわかっている」という思いは、もしかしたら、その自分が「わかっている」と思っていることとは違う何かが起こるなら、それを素直に受け入れられず、つまずいて、信仰が揺らいでしまうことも、あるかもしれないと、そんなことを考えさせられます。イエスさまは、「そこでは、ごくわずかの病人に手を置いていやされただけで、そのほかは何も奇跡を行うことがおできにならなかった」とあります。「自分たちはよく知っている」「わかっている」という思いが、そこで暮らす人々がせっかくのイエスさまのみわざを受けることを妨げてしまったのです。自分には知らないこと、わからないことがまだまだたくさんある、「だから神さま、私に教えてください。イエスさま、私の心を開いてください。」そうした謙虚な思いで信仰生活を送り、また聖書と向き合うことが大切なことなんだなと思います。

 

今日の福音で伝えられている二つ目の出来事は、イエスさまが、ご自分の12弟子を宣教の働きにお遣わしになられたという出来事です。イエスさまは、彼らを二人ずつ組にしてお遣わしになられます。神さまの救いを伝え、また、神さまの愛を届ける働きは、信仰の仲間と助け合い、祈り合い、語り合いながらなされていくことであるということを、私たちはここから受け止めたいと思います。「私一人でも何がなんでも宣教するんだ」という思いも時には必要でしょうが、しかし、本来、「共に働く」というその姿勢が大切なのです。なぜなら、私たちはそれぞれ弱さを抱えているからです。だから、一緒に助け合い、祈り合う仲間が必要なのです。また、そうした弱さがある者でありながら、そのことをすぐに忘れてしまい、ついつい自分を絶対化してしまう、そうした者でもあります。もちろんそれも私たちの弱さであるわけですが、なかなかそれに気づかず、自分だけが暴走してしまったり、他の人たちを全部悪くしてしまったりということが、よくあります。そのため、「それはちょっと違うかもよ」「こんな風にしてみた方がいいかもね」と、そのように語り合える仲間の存在が私たちには必要なのです。イエスさまが弟子たちを二人ずつ組でお遣わしになられたことには、そうした意味があるのではないでしょうか。

 

エスさまは、弟子たちに汚れた霊と闘い、追い出す権能、権限を与えられました。私たちにもその権能、権限が、イエスさまから託されています。私たちの周りで苦しむ人に接して、また苦しみを抱えているこの世界で生きていく中で、その人やこの世界を苦しめている、その得体の知れない何かと、私たちはイエスさまからいただいた力によって闘い、それを追い出すために働くのです。その力は、私たち自身が初めから持っている力ではありません。イエスさまから託された権能、権限です。「イエスさま、いま苦しみの中にあるこの人を、またこの世界を助けてください。その苦しみを取り除いてください。」と粘り強く祈り、「イエスさまなら必ずそうしてくださる」と信じることです。また、もし、私たちがかかわることによって、その苦しむ人が助けられることがあっても、「私が助けてあげたんだよ」と、そうした思いになるのではなく、「イエスさま、この人のことを助けてくださってありがとうございます。イエスさま、そのためにこの小さな私を用いてくださり、ありがとうございます。」と、感謝することです。

 

ルーテル教会の作曲家ヨハン・セバスチャン・バッハは、多くの優れた作品を作りましたが、彼は自分が作った曲の楽譜の終わりに「SDG」と3文字のアルファベットを記しました。これはラテン語の「Soli Deo Gloriaソリ・デオ・グロリア」の略で、日本語では「ただ神に栄光」という意味です。バッハは、そう記すことで、自分の作品がどれだけ優れたものであろうとも、それは「あいつすごいよね」と自分がほめたたえられるためではなく、ただただ神さまの栄光のため、神さまが与えてくださった力で、神さまがほめたたえられるために作った作品であるという心を込めたのです。私たちも、私たち自身がほめたたえられるために、人ととかかわり、またこの世界のために奉仕するのではなく、神さまから、イエスさまからいただいた力で、神さま、イエスさまがほめたたえられるための働きであることを忘れずに大切にしたいと思います。

 

また、イエスさまは、弟子たちをお遣わしになる際に、『旅には杖一本のほか何も持たず、パンも、袋も、また帯の中に金も持たず、ただ履物は履くように、そして「下着は二枚着てはならない」と命じられた』とも、今日の福音は伝えています。まず、彼らに許されたことですが、杖一本とを持つことと履物を履くこと、そして下着を一枚着ることです。下着を一枚も着ないで出かけてしまうなら、それはとても大変なことになってしまいますので、これは当然なこととして、杖一本と履物について考えたいのですが、これはきっと「君たち自身が地に足を付けて生きる中で働け」ということであり、また「自分たちの足を使って働け」ということなのではないか、そんなことを、私はここから受け止めました。私たちが一人の人として地に足を付けて生きる、その中でこそ、神さまの救いを伝え、神さまの愛を分かち合う働きができるということ。また、「どうしたら教会に人が来てくれるんだろうね」とそんな風に待っているのではなく、自分から出かけて行くということ。そのことがこの杖一本と履物に込められた意味ではないかと思うのです。

 

次に彼らに許されていないことですが、パン、つまり食べ物、袋、つまりその袋に入れる持ち物、またお金、そして二枚目の下着、つまり着替えを携えていくことです。これらを持っていってはならないと、弟子たちは、イエスさまから命じられるのです。また、イエスさまは私たちにもそのことをおっしゃいます。なんと厳しいことかと思います。そんなの無理だよという思いになります。しかし、私たちはこのイエスさまのことばを「持っていってはならない」という禁止の命令としてではなく、「持っていかなくても大丈夫だよ」というイエスさまからの暖かい言葉として聴きたいのです。「あなたがたは何も持っていなくても大丈夫。わたしがあなたがたのためにすべてを準備するから」イエスさまはそう今日のみことばで、弟子たちに、そして私たちにおっしゃっているのです。

 

旧約聖書の創世記に、アブラハムが山の上で自分の子どもを犠牲として神さまにささげなければならないと思ったその時、そこに山羊がいて、それを犠牲として子どもは無事で済んだという物語が伝えられています。その時、アブラハム「主の山に備えあり」と言いました。私たちも「主の山に備えあり」そのことを信じて、神さまが、イエスさまがすべてを与えてくださる、備えてくださる、そう信頼して歩むことが、今日のイエスさまのみことばの心であると思います。

 

続けてイエスさまは、「どこでも、ある家に入ったら、その土地から旅立つときまで、その家にとどまりなさい」とおっしゃっています。神さまの救いを伝え、神さまの愛を分かち合う働きは、一朝一夕ですぐ実りが与えられるものではありません。腰を据えてじっくりと時間をかけて、かかわりを持ち続けることが大切であるということを、今日のイエスさまの言葉から思います。何より、頑なでなかなか悔い改めない私のためにイエスさまがどれだけ長い間忍耐してくださったか、なかなか実りの得られない私たちにどれだけ長い時間かかわり続けてくださっているかを考えるとき、私たちも自分がかかわるその人に時間をかけて働きかけることの大切さを思わざるを得ません。

 

同時にイエスさまは、「しかし、あなたがたを迎え入れず、あなたがたに耳を傾けようともしない所があったら、そこを出ていくとき、彼らへの証しとして足の裏の埃を払い落としなさい。」ともおっしゃっています。「できないから、また、うまくいかないからと言って、もうだめだと落胆せず、その時は新しい次を目指して歩み出せばいい」と、イエスさまはそうおっしゃるのです。「どうしても私がどうにかしなければ」、そう思わなくてもよいのです。「できないから私はダメだ」そんな風に思うこともないのです。その時は立ち上がって新しい次へ向かう、そのことも大切な時があります。イエスさまもちゃんとそのことをわかってくださっています。「彼らの証へと足の裏の埃を払い落としなさい」、なんだかとても厳しい、荒々しい言葉ですが、私たちにはその人に届けることができなかった、履物の裏の埃のような私の証が、いつか用いられることを信じたいと思います。イエスさまは別の箇所で、「言っておくが、神はこんな石からでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる。」とおっしゃっています。私たちが思いもしない形で、神さまが働きかけ続けてくださることを信じ、委ねつつ、次の新しい一歩を歩み出すのです。

 

このように、イエスさまは、弟子たちに、そして私たちに、「あなたがたの弱さの中で、その弱さを抱えつつ、仲間と共に、神さまの救いを伝え、神さまの愛を分かち合う働きをするように」とおっしゃって、私たちをお遣わしになります。自分自身を見るなら、神さまの救いを伝える伝道なんかできない、神さまの愛を分かち合う奉仕なんかできないと、正直そのように思います。でも、イエスさまは、その弱さのある私たちを、そのありのままの姿で送り出してくださるのです。

 

今日の第二朗読でパウロは言っています。『主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。それゆえ、わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです。』私たちもこの言葉を胸に刻み、弱さあるまま、主に遣わされる新しい一歩を踏み出そうではありませんか。

 

主よ、私たちを導いてください。

 

弱い私たちです。しかし、主の力に支えられて、弱さあるまま、あなたの救いを伝え、あなたの愛を分かち合う歩みができますように、私たちをお遣わしください。共にその労を担う信仰の仲間を与えてくださっていることも心より感謝いたします。大雨の被害に苦しむ人々を助け、癒してください。また、台風が続けて起こるこれからの季節も、すべての人をあなたがお守りください。あなたの御国が一日も早く速やかに来ますように。私たちの救い主、主イエス・キリストによって祈ります。アーメン。

 

希望の源である神が、信仰によって得られるあらゆる喜びと平和とであなたがたを満たし、聖霊の力によって希望に満ちあふれさせてくださるように。アーメン

 

動画 2018-07-08.mp4 - Google ドライブ

 

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2018年7月1日 礼拝メッセージ

聖霊降臨後第6主日 2018年7月1日

 

「あきらめないで!」

(マルコによる福音書5章21~43節)

 

わたしたちの父である神と、主イエス・キリストからの恵みと平和があなたがたにあるように。アーメン

 

今日の福音のみことばには、二つの出来事が伝えられているのですが、それが順序良く並んで伝えられているのではなく、一つの出来事のその途中に、別の出来事が入り込む形で伝えられています。けれども、そうした特別な構造で伝えられているその二つの話は、それぞれ別の出来事でありながら、同じ一つの主題で語られています。それは、36節でイエスさまが「恐れることはない。ただ信じなさい」とおっしゃっておられますが、「エスさまが私たちを顧み憐れみ助けてくださることを信じて生きることの大切さ、そしてその確かさ」です。今日、私たちがみことばから受け止めたいメッセージもまさにこのことにほかなりません。ご一緒に聴いてまいりましょう。

 

エスさまが弟子たちと共に船に乗って、再び向こう岸に渡られると、大勢の人たちがそのイエスさまのそばに集まってきました。それは、イエスさまのみことばや癒しを求める実に沢山の人たちだったことでしょう。そんな彼らの集まった湖のほとりにイエスさまはおられます。今、私たちの教会には、それほど多くの人たちが集まっているわけではありません。でも、そうであっても、実際には、イエスさまのみことばや癒しを必要としている人たちはたくさんいます。心や体にいろんな痛みを抱え、辛い思いをしている人たちが、私たちの周りにもたくさんいらっしゃるのです。そうした人たちの傍らに、イエスさまが共にいてくださる、イエスさまがその人のもとを訪れてくださる、私たちがそのことを伝えることができるならばと願います。そう考えると、イエスさまが弟子たちと船に乗って向かう、イエスさまを必要とする大勢の人たちが待つ向こう岸、その舟は私たち教会の姿であると思いますし、私たちもイエスさまと共に、イエスさまを必要としている人々が待つ向こう岸に向かっていると言えるのではないだろうか、そんな思いになりました。

 

そこに一人のヤイロという名前の人がやってきます。彼は、「会堂長」でした。「会堂管理者」と訳している聖書もあり、人々が礼拝や冠婚葬祭、あるいは聖書の学びのために集まるユダヤ教の会堂を管理し、さらには礼拝の司会者を決めるなどもする役割の人で、きっと町のみんなに良く知られている人だったことでしょう。彼はイエスさまの「足もとにひれ伏し」「わたしの幼い娘が死にそうです。どうか、おいでになって手を置いてやってください。そうすれば、娘は助かり、生きるでしょう。」とお願いします。「しきりに願った」とあり、彼の必死な姿が伝わってきます。「イエスさまならきっと何とかしてくださる」、そんな彼のイエスさまへの信頼をもここから受け止めることができると思います。イエスさまは彼の願いを受け入れ、彼の家へ向かわれました。その際に、「大勢の群衆も、イエスに従い、押し迫ってきた」と、みことばは伝えています。イエスさまの癒しの出来事を自分たちも一目見たいと願ってでしょうか。あるいは、ヤイロの娘の癒しが終わったら、一刻も早く自分たちもイエスさまの癒しをいただきたいと願ってでしょうか。理由はともかく、イエスさまと大勢の人たちがヤイロの家に向かいました。

 

けれども、その途中でもう一つの出来事が起こるのです。一人の女性、それは名前もわからない女性であったわけですが、彼女が、ヤイロの家に向かうイエスさまと大勢の人たちの中に紛れ込み、イエスさまの着ておられた服に触れるのでした。彼女は、「十二年間も出血の止まらない」そうした痛みを抱えていました。「多くの医者にかかって、ひどく苦しめられ、全財産を使い果たしても何の役にも立たず、ますます悪くなるだけであった」とあるように、それはほんとうに辛いものでした。今で言うなら、不正出血であり、婦人科系統の疾患です。実に12年間です。たとえば女性としての月のものがはじまる12歳ごろ、その頃からその症状がみられたとするなら、24歳です。それぐらいの長い間、ずっと出血が続いていたというのです。一人の人、また女性として、彼女の辛さを考えると、とても胸が痛みます。

 

もし彼女が結婚前にその症状が始まったのなら、その症状は男女の交わりができなかったことをも表しますから、きっと結婚することはできなかったでしょう。そうであるなら、当時女性が社会で働くことが難しい中で、しかも全財産を使い果たすほど医療費がかかっていたというのですから、経済的にも実に大変な生活だったと考えられます。結婚していたとしても、もしかしたらその病が原因で離縁されたかもしれませんし、当時の宗教のきまりでは、出血が続く限り、「汚れている」状態とみなされ、その女性に触れた人は誰でもその汚れが感染ると規定されていましたので、夫と寝床を共にすることも、食事を共にすることもできず、たいへん後ろめたい、また寂しい思いをしながら暮らしていたかもしれません。また、もし出産後にその症状が始まったとしても、人に触れないように生活をしなければならず、「ひどく苦しめられ」「ますます悪くなるだけであった」とあるように、実に苦しい日々を過ごしていたことになります。

 

その彼女が、イエスさまが自分の住んでいる村に来られたという話を聞き、必死な思いで、人ごみに紛れて、イエスさまの服に触れたのです。それは、「この方の服にでも触れればいやしていただける」と思ったからでした。実際、イエスさまの服に彼女が触れると、「すると、すぐ出血が全く止まって病気がいやされたことを体に感じた」とみことばが伝えているように、瞬時に彼女のその病は癒されました。イエスさまは、《自分の内から力が出て行ったことに気づいて、群衆の中で振り返り、「わたしの服に触れたのはだれか」と》おっしゃいます。このように、イエスさまが人を癒されるということは、決して「イエスさまだから簡単なことだ」というものではありません。イエスさまからも力が出て、イエスさまの力が消耗される、イエスさまも痛みを感じられる出来事なのです。イエスさまご自身、大変な思いをされながら、その人を癒されるのです。

 

エスさまは、ご自分の服に触れたその人のことを捜されます。でも大勢の人込みです。弟子たちも半ば呆れながら「群衆があなたに押し迫っているのがお分かりでしょう。それなのに、『だれがわたしに触れたのか』とおっしゃるのですか。」と、イエスさまに言いました。でも、イエスさまは彼女を捜されるのです。イエスさまにとって、ただどこかのだれかが癒されればそれでよいというのではありません。苦しく辛い思いをして生きてきたその人と出会い、その出会いの中でその人を癒される、そのことがとても大事なことでした。ですから、群衆の中に紛れたone of themの癒しではなく、イエスさまは彼女と出会い、語り合うことを求められるのです。

 

彼女は恐る恐る震えながらイエスさまの前に進み出ます。そして、自分の身に起こった「すべてをありのまま話し」ました。イエスさまはそんな彼女におっしゃいます。「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。もうその病気にかからず、元気に暮らしなさい」。なんと暖かな言葉でしょうか。彼女にとって、ただ病気が癒されただけでなく、ひどく苦しめられた12年間が報われるような一言であったと思います。「この方の服にでも触れればいやしていただける」そんな彼女の必死な思いを、イエスさまは「あなたの信仰があなたを救った」とおっしゃいます。決して「主なる神はどういうお方で、イエス・キリストはどういうお方で、聖霊はどういうお方で…」、そうした難しいことではありません。「イエスさまなら私を助けてくださる。せめてその服にでも触れれば」そうした彼女の必死な願いを、イエスさまは信仰として受け止め、彼女を救われるのです。

 

さて、今日のみことばは、彼女の病が癒されて、めでたしめでたしというわけにはいきません。もう一つの出来事、会堂長ヤイロの娘の出来事がまだ残っています。イエスさまが、その長い間の出血を癒された彼女と話しておられた時、一つの知らせが届けられます。ヤイロの家にいた人からの、ヤイロの娘が亡くなったので、もうイエスさまに来ていただかなくてもよいという知らせでした。きっと、ヤイロも、イエスさまの弟子たちも、そこにいたみんなも思ったことでしょう。「先を急ぐべきだった、彼女を捜し話す、そんな悠長なことをしているから間に合わなかったのだ」と。

 

でもイエスさまはヤイロにおっしゃいます。「恐れることはない。ただ信じなさい」。そして、イエスさまはなお歩みを進められます。私たちの目から見るならば望みなきところで、それゆえ足を進められないそうした状況の中で、なおもイエスさまが歩みを進めてくださいます。そして、ヤイロの家に着いたら、みんなは「大声で泣きわめいて騒いでい」たと言います。もちろん少女の死を悼み泣いていたこともあるでしょうが、当時の習慣として「泣き屋」とでも呼んだらよいのでしょうか、そういう職業の人がいて、人が亡くなったらその職の人たちが雇われ、泣き叫ぶ演出をしていたそうです。そのことで身内の人たちも周りを気にせず泣くことができる。また一緒に泣いてくれる人がいて慰められる。そんな効果があったのかもしれません。しかし、イエスさまはその人たちにきっぱりとおっしゃいました。「なぜ、泣き騒ぐのか。子供は死んだのではない。眠っているのだ。」彼らはそれを聞いて、イエスさまをバカにして嘲笑います。

 

エスさまは彼らを外に出し、「子供の両親と(ペトロとヤコブヨハネの)三人の弟子だけを連れて、子供のいる所へ入って行かれ」ます。そしてその《子供の手を取って、「タリタ、クム」と》おっしゃいました。「少女よ、わたしはあなたに言う。起きなさい」という意味です。その声にその子はすぐに起きて立ち上がり歩き始めました。死のただ中で、響くイエスさまの一声が、死を打ち破り、いのちをもたらすのです。望みなきところで、また悲しみが支配するところで、イエスさまの一声が大きな喜びと慰めを与えてくださるのです。今まで死んでいた子どもが歩いているのを見て、人々は驚きます。「それを見るや、人々は驚きのあまり我を忘れた」彼らの驚きようが伝わってくる感じで、なかなかの名訳です。イエスさまは私たちに、我を忘れるほどの驚きを与えてくださるお方です。

 

これが今日のみことばの二つの出来事です。そして、初めにお話ししましたように、二つの出来事ではありますが、「イエスさまが私たちを顧み憐れみ助けてくださることを信じて生きることの大切さ、そしてその確かさ」という、一つのテーマが貫かれています。私たちが人生の歩みの中でもうダメだと思うそうした状況においても、イエスさまはなおも私たちを見捨てず、助けてくださるお方である、このことをしっかりと今日心に留めたいと思います。そして、12年間も不正出血が続いた女性、また娘が死に瀕していたヤイロのように、必死にイエスさまに助けを求めて生きていきたいと願うのです。

 

しかし、私は今日のみことばから、なお思うことが一つあります。それは、私たちが生きているこの現実世界では、私たち自身や私たちの周りの大事な人が重い病気になったり、亡くなったりするとき、今日のみことばのように病気が治ることがない場合もありますし、亡くなった人が再び生き返るなどというようなことは実際には起こらない、このことをどう受け止めればよいかということです。どれだけ祈っても病気はますます悪くなるばかりで、またどんなに悲しんでもその人が亡くなった事実は変えられません。

 

でも、今日のみことばで、当時の社会で「汚れている」とみなされた出血の症状のある女性がイエスさまに触れたことは、イエスさまもご自分の身にその汚れを引き受けられたことを表し、また死んだ子どもの手をイエスさまが取られたことも、当時の考えによるなら、死の汚れをイエスさまがご自分の身に引き受けられたことを表します。このように、イエスさまが、ご自分の身に、私たちの汚れも病も恥も死もそのすべて一切を引き受けてくださる、つまり十字架のお方であることが伝えられているのです。たとえ私たちにどんなことが起こっても、十字架のお方であるイエスさまが私たちのすべてを引き受け、そのただ中で私たちに希望や慰めを与えてくださる。それは実際に病気が治ったり、死から生き返ったりすることとは違うかもしれないけれど、でも、イエスさまが必ず共にいて、私たちの思いを超えた驚くべき救いを与えてくださることを信じて、イエスさまにすがって生きていきたいと願います。「恐れることはない。ただ信じなさい」。

 

主よ、私たちを導いてください。

 

大きな苦しみの中にある時、また希望を失う時、その時も御子が私たちを顧み、私たちを助けお救いくださることを信頼し続けることができるように、私たちを導いてください。私たちの汚れも病も死も恥も、そのすべてを御子が引き受けてくださることを感謝します。救い主、主イエス・キリストによって。アーメン

 

希望の源である神が、信仰によって得られるあらゆる喜びと平和とであなたがたを満たし、聖霊の力によって希望に満ちあふれさせてくださるように。アーメン

 

動画 2018-07-01.mp4 - Google ドライブ

 

 

https://dominicanes.files.wordpress.com/2012/06/yelena-cherkasova-christ-raises-the-dauther-of-jairus1.jpg?w=500&h=350

2018年6月24日 礼拝メッセージ

聖霊降臨後第5主日 2018年6月24日

 

「だいじょうぶ!」

(マルコによる福音書4章35~41)

 

わたしたちの父である神と、主イエス・キリストから、恵みと平和があなたがたにあるように。アーメン

 

聖書は、「初めに、神は天地を創造された」と、神さまが天と地とそこに住むあらゆる命、そして私たち人間を創られた、天地創造の出来事を最初に伝えています。そして、その際に、「神はお造りになったすべてのものをご覧になった。見よ、それは極めてよかった」と、神さまが創られた、そのすべてのものがとても素晴らしく、とても美しく、とてもよいものであり、さらには、「天地万物は完成された」と、この世界が何一つ欠けのない、完全にパーフェクトな状態であったことをも伝えています。

 

しかし実際には時として、この世界で自然災害が襲ったり、痛ましい事故や残酷な事件があったりして、神さまが天地創造を完成された時にご覧になられたように、極めてよかった、完成された状態からは大きく異なっているとしか、私たちには思えないような現実が起こります。みなさんもご存じのように、つい先日も、私たちの国の大阪で大きな地震があり、その犠牲となられた方々、被害に遭われた方々がいらっしゃいます。私たちは心を痛めつつ、愛する人を失った人々に神さまからの慰めと癒しが与えられるように、また被害に遭われた方々に神さまからの平安と守りが与えられるように心からお祈りいたします。同時に、そのような痛ましいことが起こるたびに、私たちは、嘆き悲しみつつ大きな疑問を抱くのです。もし神さまがお創りなられたこの世界が、聖書が伝えているように、極めてよい、完成されたものであるのなら、なぜそうしたことが起こるのだろうかと。

 

私たちは、それに対して、これが正解であるという答えを見出すことはできません。けれども、私がそのことを考える時、思うことがあります。それは、聖書が天地創造に続いて伝えている出来事から考えさせられることです。聖書は天地創造の出来事に引き続き、神さまと最初の人間アダムとエバとの間に起こった一つの出来事を伝えています。神さまはアダムとエバを、エデンの園という本当に素晴らしい、極めてよい場所で暮らすようになさいました。そこは、神さまと(人を含めた)すべての被造物との間も、人と人との間も、さらには人と他の被造物との間も、本当に調和のとれた、とても麗しい完全な場所でした。その際、神さまは、そのエデンの園に生えているどの木からも実を採って食糧としてもよいけれども、善悪を知る知識の木からは実を採って食べてはならないと命じられます。しかし、人はそれを破り、その木からの実を採って食べてしまいました。その結果、人はその素晴らしいエデンの園から追い出され、それ以降、多くの苦しみを避けることのできない世界で生きなければならなくなったのです。いわゆる楽園喪失と呼ばれる出来事です。

 

私は、まさにその時に、最初に神さまが創造されたこの世界の、そのどこかに大きな歪み、ゆがみが生じてしまったのではないかと思うのです。神さまとすべての被造物との間、人と人との間、そして人と他の被造物との間に保たれていた、極めてよかった完成されたエデンの園における完全な調和が、その出来事以来、どこかで崩れてしまったのではないでしょうか。ローマの信徒への手紙で、パウロが、「被造物がすべて今日まで、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっていることを、わたしたちは知っています。」と言っていますが、このあらゆる被造物=その中にはもちろんこの地球も宇宙も含まれます、そのうめきや苦しみの中で、この世界で、災害や事故や事件、そうしたいろんな痛ましいことが起こるのではないだろうか、そのように私は考えています。もしかしたら、この地球がどこかで悲鳴を上げているのかもしれない、そんな風にも思います。

 

しかし、そうした中で、今日の第一朗読、ヨブ記38章のはじめの言葉から、私は大きな慰めと希望と勇気を与えられました。「主は嵐の中からヨブに答えて仰せになった。」みことばはそう告げています。大きな災害や事故や事件が起こると、私たちの心は大きく騒ぎます。悲しみ、嘆き、憤り、いろんな思いで心の中がぐちゃぐちゃになってしまいます。きっと大阪で被害に遭われた方の、今の心の中もそうした状態でしょう。そのような中で、「主は嵐の中から…答えて仰せにな」るのです。どうしようもできない、そのぐちゃぐちゃな心の嵐の中で、そのただ中で、神さまは私たちの嘆きや叫びに答えてくださるお方です。そして、「ここまで来てもよいが越えてはならない。高ぶる波をここでとどめよ」とおっしゃって、神さまが私たちの苦しみを堰き止めてくださいます。私たちは、今日、まずこのことを今一度心に刻み、地震の被害に遭われ、心の中に大きな嵐が今まさに起こっている人たちのことを覚えて祈り続けたいと願います。

 

さて、今日も、福音のみことばに聴いてまいりましょう。今日の福音は、私が好きなみことばの一つです。「その日の夕方になって」とのことばから始まっています。イエスさまと弟子たちがその日一日、宣教の働き、癒しの働きに忙しく過ごし、疲れを覚えている、その一日がいま終わりを迎えようとしています。そしてまた暗い夜の闇が、間もなく彼らに訪れようとしていました。「その日の夕方になって」、この言葉から私たちはそうした事実を受け止めます。私たちが使う言葉に「黄昏る」という言葉がありますが、この言葉を多くの人が「ぼーっとして過ごす」とか「物思いにふける」とかそんな意味で用いていて、私も今までそうした意味で用いていたのですが、実はそれは誤っており、正しくは「日が暮れて薄暗くなる」という意味から「盛りを過ぎて衰える」という意味を持つ言葉だそうです。ですから、「人生の黄昏」というと、私たちが若い盛りを過ぎて段々と勢いを失って衰えていっていることを言います。そして、私たちも、そうした人生の黄昏を迎えます。「その日の夕方になって」、この言葉から、そうしたことをも考えさせられました。

 

エスさまはその夕方、黄昏時に、弟子たちに「向こう岸に渡ろう」と声をかけられました。私たちは日々の疲れを覚える弱さの中でも、また、間もなく闇が近づいてきているその時にも、盛りや勢いを失い段々と衰え行く人生の黄昏の時にも、イエスさまの「向こう岸に渡ろう」という言葉を聞いて生きてまいります。「向こう岸に渡ろう」、たとえ私たちがどんな状態にあっても、新しい場所、そして、向かうべき場所が、イエスさまから与えられるのです。

 

弟子たちは、そのイエスさまの招きに応えて、イエスさまと共に船に乗りこんで、向こう岸を目指して船旅を始めました。「ほかの舟も一緒であった」と、みことばは伝えていますが、これは同じこの世の中に生きる人々とともに人生を旅するキリストの教会、またその教会に連なる私たち信仰者の姿でしょうか。しかし、その船旅のさなかに「激しい突風が起こり」ます。それは「船は波をかぶって、水浸しになるほどであった」と言いますし、イエスさまに向かって彼ら弟子たちが「先生、わたしたちがおぼれても構わないのですか」と訴えているほどですから、命の危険を感じるほど、彼らにとって恐ろしい大きな危機だったことでしょう。もしかしたら、そこで彼らは「ほかの舟も一緒であった」ことなど、もはや忘れてしまい、自分たちの苦しみだけしか見えなくなっていたかもしれません。

 

しかし、そのように彼らが恐れ騒いでいたとき、イエスさまはどうなさっていたか。なんと、「イエスは艫の方で枕をして眠っておられた」、そう今日のみことばは伝えています。これは、普通ならあり得ないような展開です。弟子たちは、必死になって、その寝ているイエスさまを起こし、先ほども申しましたように、「先生、わたしたちがおぼれても構わないのですか」とイエスさまに訴えました。するとイエスさまは起きられて、風を叱りつけて、湖に向かって「黙れ、静まれ」と言われ、風も波も静められます。そして弟子たちに向かっておっしゃるのです。「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか」と。

 

私は、最初、このみことばを聞いて、たいへん驚きました。弟子たちが命の危険を感じている、それほどの本当に大変な危機の中で、なぜイエスさまは呑気に、悠長に眠っておられるのかと。「ひどいじゃないか、すぐに起きて、彼らを助けるべきだろう」と、そう思ったのです。しかも、起きたと思ったら、「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか」と弟子たちに向かっておっしゃったイエスさまに、「おいおい、それはないだろ、これで叱られてしまうなら、彼らはたまったものじゃないぞ」と、そんな風にも思いました。でも、何度か繰り返して、このみことばを聞く中で、段々とそれとは違った風に受け止めるようになりました。

 

私たちの人生の旅の中でも、イエスさまが一緒にいてくださるはずなのに、イエスさまの助けを感じられないような、そうした時、苦しみが続くときが少なくありません。それはあたかも、今日のみことばで、弟子たちが嵐の中で恐れ騒いでいるのにもかかわらず、彼らと同じ船に乗っておられたイエスさまが眠っておられた出来事のようです。そんなとき、弟子たちが「ほかの舟も一緒であった」そのことを忘れて、自分の苦しみだけしか見えずに、「先生、わたしたちがおぼれても構わないのですか」とイエスさまに向かって訴えたように、私たちも自分の苦しみだけしか見えなくなって、「イエスさま、私たちがどうなってしまっても構わないのですか」そんな思いになります。

 

しかし、私は思ったのです。イエスさまが、今日のみことばで、嵐の際に船の中で眠っておられたのには、そのことにイエスさまなりのきちんとした意図があったのではないだろうかと。それはどんな意図かと申しますと、彼ら弟子たちのことを信頼して、「君たちだったら、きっと大丈夫!この危機を乗り越えられるはずだ」そうイエスさまは信じて、あえてすぐに彼らに助けの手を差し伸ばすことをされなかったのではないかと、そう思いました。もし、どんな時も、すぐにパッと簡単に助けの手を差し伸ばしてしまうなら、彼らがイエスさまに信じ従う者として、いつまでも自立した歩みをすることができなくなってしまいます。ですから、イエスさまだってすぐに彼らを助けたいのをじっとこらえて我慢しておられた姿が、この船の中で眠っておられるイエスさまの姿だったのではないか、そう思うようになったのです。「船は波をかぶって、水浸しになるほどであった」のですから、きっとその船の中で眠っておられたイエスさまにだって、たくさんの水がかかっていたことでしょう。それは、当然、イエスさまにとっても、苦しいことだったはずです。でも弟子たちのために、その苦しみの中でも、イエスさまはそれを耐え、あえてそこに留まられるのです。

 

子どもが思春期を迎える頃、子どもが何か困難の中にある時、その子の成長のために、親がすぐに具体的に助けるのではなく、今すぐにでもどうにかしてあげたい気持ちをぐっとこらえて、しばらくの間、わが子がその困難と闘う姿を見守る、そんな時があります。それは親にとっても大変辛いことです。でも、「きっとあの子なら大丈夫、立ち上がることができる」とそう信じて、その子の成長、自立を考え、あえてすぐに手を差し延ばさず見守るのです。イエスさまもきっとそうした思いで、ご自身苦しみつつも、じっとそれに耐えながら、船の中で眠っておられたのではないだろうか、そのように思います。

 

でも、だからと言って、決してイエスさまはただいつまでも眠っていただけではありませんでした。彼らが「もうだめだ」!と、そう思ったそのギリギリのところで、イエスさまはちゃんと起き上がられ、風と波を静められ、彼らを助けてくださいました。私たちに対しても、イエスさまは、「君なら大丈夫!きっとできる」そうやって私たちのことを信頼して、痛みを覚えながらも見守ってくださっておられ、でも、その中で、私たちが「もうだめだ!」という、そうしたギリギリのところでは、決して私たちを見捨てず、必ず助けてくださる。イエスさまはそうしたお方であるということを、今日、私たちはみことばから受け止めたいと思います。

 

エスさまがご覧になるなら、「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか。」と、きっといつまでもそう言われてしまい続けるであろう、そんな私ではあるけれども、でもそんな私であっても、にもかかわらず、「君なら大丈夫!きっとできる」そう信頼して見守ってくださる、そしてもうだめだというギリギリの時に助けてくださる、イエスさまのその暖かいまなざしを心に刻み、主を信じ、主に従ってまいりたい。そのお方は、「いったい、この方はどなたなのだろう。風や湖さえも従うではないか」とまことに驚くべき力強いお方です。

 

主よ、私たちを導いてください。

 

様々なことに恐れ不安になる弱い私ですが、御子の暖かなまなざしの中に見守られていることを感謝いたします。また、困難の中で立ち上がれずダメになってしまいそうなその時、御子の助けの御手が延ばされることも感謝します。これからも私たちをお導きください。大きな地震で困難の中にある人たちを助け守り平安を与えてください。そのことで失われた尊い命をあなたが御手に受け取ってくださり、その周りの人を慰め癒してください。私たちの教会に、私たち一人ひとりにできることを示してくださり従わせてください。愛の主、救い主イエスさまのお名前によって祈ります。アーメン

 

あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るように。アーメン

 

動画 

2018-06-24.MP4 - Google ドライブ

 

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