yukaina_gorilla’s diary

ごりらぼくし(大麻ルーテル教会/北見聖ペテロ・ルーテル教会)です。聖書や教会のこと、社会のこと、ペットのことなど書いていきますね。

2018年7月22日 礼拝メッセージ

聖霊降臨後第9主日 2018年7月22日

 

「まことのいやし」

エレミヤ書23章1~6節・マルコによる福音書6章30~34節および53~56節)

 

わたしたちの父である神と、主イエス・キリストからの恵みと平和があなたがたにあるように。アーメン

 

今日の第一朗読エレミヤ書で告げられているみことばを聞くとき、私は牧師として、本当に胸に突き刺さる思いがします。《「災いだ、わたしの牧場の羊の群れを滅ぼし散らす牧者たちは」と主は言われる。それゆえ、イスラエルの神、主はわたしの民を牧する牧者たちについて、こう言われる。「あなたたちは、わたしの羊の群れを散らし、追い払うばかりで、顧みることをしなかった。わたしはあなたたちの悪い行いを罰する」と主は言われる。》

 

牧師としての働きを振り返る中で、私のかかわりが原因で、教会に定着しなかったり、教会から疎遠となったりした方々のことを思い起こします。もちろん人と人とのかかわりですので、その中には、必ずしも100%私のほうに問題があったというわけではなく、相手の側に多くの課題があったという場合もあるでしょう。けれども、だからと言って、私にまったく何も問題がないと、その責任を逃れることはできません。もう少し違ったかかわり方をすれば、もしかしたら異なる結果となったかもしれないということを思います。私のそうした今までの働きに対して、神さまから「災いだ」「わたしはあなたたちの悪い行いを罰する」そう告げられている、まずこのことを今日率直に認め、深く省みたいと思います。

 

同時に今日のこのエレミヤ書は、そうした私に実に慰め深いみことばでもあります。神さまは次のようにおっしゃっています。《「このわたしが、群れの残った羊を、追いやったあらゆる国々から集め、もとの牧場に帰らせる。群れは子を産み、数を増やす。彼らを牧する牧者をわたしは立てる。群れはもはや恐れることも、おびえることもなく、また迷い出ることもない」と主は言われる。》

 

私の働きのまずさのゆえに教会に定着しなかったり、教会と疎遠になったりした方々がいらっしゃるその事実に対して、神さまご自身がその人に直接かかわってくださり、その人を探し出して再び「集め」て、神さまの御前で生きるように「帰らせ」てくださる、そう告げておられる約束として、私はこのみことばを受け止めました。そして、神さまはさらに、その人たちを「恐れることも」「おびえることも」「迷い出ることもない」ように養い導かれる、そうしたまことの「牧者」、つまり羊飼いを立ててくださるとも告げておられます。

 

その牧者、羊飼いについて、神さまは続けて次のようにおっしゃいます。《「見よ、このような日が来る、と主は言われる。わたしはダビデのために正しい若枝を起こす。王は治め、栄え、この国に正義と恵みの業を行う。彼の代にユダは救われ、イスラエルは安らかに住む。彼の名は、「主は我らの救い」と呼ばれる。》

 

このみことばを私たちが理解するために、少し歴史的な背景について説明する必要があるでしょう。神さまが選ばれた民であるイスラエルの人々は、ソロモン王の死後、北のイスラエル王国と南のユダ王国に分裂してしまいました。ソロモンが王国がより強大なものにしようとした結果、民の間の貧富の差が拡大し、また政治的な腐敗がなされ、さらには人々に強制的な辛い労働が強いられた結果でした。それらのことで民の間に不平不満や大きな傷が生まれ、それがソロモン王の後継者争いとも絡み合い、王国が分裂してしまったのです。そのように王国が分かれてしまった結果、いずれの王国もその基盤が弱くなって、周辺の他の国から狙われるようになります。そして、やがて北イスラエルも南ユダも滅亡してしまいます。

 

そうした中で、神さまが、今一度神さまの選ばれた民を、南のユダの人々も北のイスラエルの人々も、ともに「治め」「栄え」「正義と恵みの業を行う」「正しい若枝を起こす」との約束が、預言者を通して語られるのです。そのとき、神の民は「救われ」「安らかに住む」、つまりもはや他の国の脅威にさらされず安心して暮らすことができるようになると約束されます。

 

そして、ここで「わたしはダビデのために正しい若枝を起こす」と約束されている、神さまが立ててくださるまことの牧者、羊飼いとは、やがてダビデの末裔としてお生まれになられた、救い主イエスさまのことであると、キリスト教会では信じられてきました。人々の側の問題や失敗、不十分さのゆえに分かたれ、深い傷を負ってきた神の民を、神さまが立ててくださる真の羊飼いであるイエスさまが、直接導き、養ってくださり、彼らを救い、平安を与えてくださると、今日のエレミヤ書のみことばは受け取られてきたのです。

 

先ほど、私は、今日のこのエレミヤ書のみことばから、牧師としての私のかかわりのゆえに、教会に定着しなかったり、教会から疎遠となったりした方々のことを思い、痛みを覚えるというお話をいたしました。また、そうした中で、同時に、今日のみことばから、また、深い慰めをもいただくことができるということもお話しいたしました。まさに私のかかわりの不十分さやいろんなまずさや失敗を超えて、まことの牧者、羊飼いとして、神さまが救い主イエスさまをお立てくださり、イエスさまがその人に直接かかわり働きかけてくださっている、今日そのことを信じることがゆるされています。

 

また、これは牧師としての働きに限らないと思います。牧師でなくても、私たちが神さまのみことばに導かれて、他の人に愛のかかわりをして、その人に仕えて、ともに生きようとするとき、私たち自身のいろんな不十分さのゆえに、そのかかわりがうまくいかない時があります。それは、私たちの忍耐力のなさであったり、自分勝手さであったり、傲慢さであったり、あるいは、必ずしもそうとは言えず、むしろ私たちがかかわりを持つその相手の側の問題であったり、いろんな原因が絡み合って、その人を神さまに繋げるどころか、その人から神さまをより遠ざけてしまったり、あるいは私たち自身その人と仲違いしたり、疎遠となってしまったり、そうしたことが少なからず起こります。私たちは、そうした私たちのかかわりの限界を、率直に認めたいと思います。

 

そうした中で、今日のみことばで、私たちはそのように不十分さを抱え、うまくいかないときも多いけれども、神さまが直接その人にかかわってくださり、また神さまは救い主イエスさまをまことの牧者、羊飼いとして立ててくださって、イエスさまがその人を導き、養い、お救いくださり、平安を与えてくださる、そのように約束されていることを、私たちの心に刻みたいのです。ですから、私たちは、私たち自身の不十分さを受け止めながら、その不十分さをまことの羊飼いであるイエスさまが繕い、補ってくださる、そのことを心にとめながら、人とかかわっていきたい、そう願います。

 

それでは、そのまことの牧者、羊飼いイエスさまのかかわりとは、一体どういうものなのか、今日の福音書のみことばから受け止めてまいりたいと思います。そのことを通して、私たちが他の人たちにかかわるそのかかわりについてもまた考えてまいります。

 

エスさまの弟子たち~マルコはここで珍しく使徒たち」という言葉を使っていますが、使徒とは遣わされた者という意味です。~イエスさまによって遣わされた彼らが、その働きの報告をした際、イエスさまは弟子たちに、「さあ、あなたがただけで人里離れた所へ行って、しばらく休むがよい」と告げられました。イエスさまの優しさ、暖かさを、このことばから思います。また、同時に、私たちが人とかかわりを持つ際に、休んだり、人々から離れて心静かに祈ったりすることも、必要なことであることも受けとめたいと思います。イエスさまに従って生きると言っても、ただ突っ走っているだけではなく、時には一旦立ち止まり、心と体を休め、また祈りのうちに自分の働きを省みることもまたとても大切なことなのです。

 

弟子たちはイエスさまの言葉に従い、人里離れた所に休息のために出かけられました。けれども、彼らを追って大勢の人たちがあらゆるところから、弟子たちが向かう先に先回りするということが起こります。そこでイエスさまはそうした人たちを「飼い主のいない羊のような有様」にご覧になられました。たびたびお話することですが、羊とは弱い動物です。羊は群れで生活しますが、その群れを離れてしまうと、いろんな危険に晒され、生きていくことが難しいのです。ですから、羊飼いが、群れの中で安心して安全に暮らすことができるように羊たちを見守り、養います。ここで弟子たちを追って集まってきた多くの人たちが、「飼い主のいない羊のような有様」にイエスさまの目に映ったということは、彼らが生きていく上でいろんな困難を抱え、深い傷を負っていたということを表し、彼らがイエスさまなしにはもうこれ以上生きていくことができないそんな状態であったことを意味しています。現代の人たちも同じではないでしょうか。生きていく上でいろんな困難を抱え、深い傷を負っている人たち、生きる辛さを覚えている人たちがたくさんいます。ですから、自分たちには気が付いていなくとも、現代の人たちにもやはり羊飼いイエスさまが必要なのです。

 

エスさまは、そうした彼らを「深く憐れ」まれます。聖書の中で、この「憐れみ」という言葉は、とても大切な言葉です。ただ上から目線で、「あの人たちかわいそうに」と思われたということとは違います。もっと重い意味を持つ言葉です。もともと「人のはらわた」を意味する言葉に由来します。また旧約聖書では、「母の胎」、「女性の子宮」を意味する言葉でもあります。そこから、人の痛みを見て、自分自身の腸がねじれるようなそんな痛みを覚える。あるいは自分のおなかを痛めて産んだわが子の苦しみを思って、母親自身が深く苦しむ。そうした意味を、聖書の中の「憐れみ」という言葉は表しているのです。ですから、イエスさまは、生きる辛さを抱えている彼らの「飼い主のいない羊のような有様」をご覧になられたということは、イエスさまご自身はらわたがねじれるような痛みを覚えられ、わが子の苦しみを思い親が苦しむような苦しみを、イエスさまご自身が感じとられたことが、ここで告げられています。イエスさまは現代の人たちのことも、そうしたイエスさまご自身の痛み、苦しみをもって、ご覧になっておられるということを、私たちはここから受け止めたいと思います。私たちも、他の人の痛みをただの他人事として傍観するのではなく、自分自身の痛みとして感じ取ることができるように祈りたいと思います。

 

そこでイエスさまが具体的に彼らになさったことは、三つのことでした。まず「いろいろと教え始められた」ことです。つまり、イエスさまは彼らにみことばを語りかけられました。生きていく上で深い傷を負っている人たちにイエスさまのみことばが必要です。イエスさまのみことばが彼らの傷ついた心を癒し、慰め、強めます。渇いた砂漠に注がれる水のように、イエスさまのみことばが彼らの心を潤し、その人を生かす命の水となるのです。私たちも、私たちの周りで希望を失っている人に、イエスさまのみことばを届けることができるよう祈り働きたいと願います。

 

次にイエスさまがなさったことは、今日のみことばでは読まれませんが、35節以下の出来事にあるように、彼らに食べ物を与えられることでした。この出来事については、同じ出来事を伝えるヨハネ福音書より、来週聞いてまいりますが、イエスさまがなさったように、実際に困っている人のその必要を満たすことが、その人の生きる力になります。今、この日本では、先般の大雨の被害で苦しんでおられる方々が大勢いらっしゃいます。このたび教団からその人たちを支援するための献金が呼びかけられていますが、私たちが、そうしたことに応えることもまた、その人たちの必要を満たし、イエスさまの愛を届ける大切なかかわりであることを、今日のみことばから覚えます。

 

エスさまがなさった三つ目のこと、それは今日の福音の後半に伝えられている出来事です。そこでは、イエスさまのもとに病気を抱えている人たちが運ばれ、イエスさまがその人たちの病を癒されたことが伝えられています。イエスさまはこのように人の心だけでなく、身体の健康をも回復させてくださるお方です。私たちの周りの病を抱えている人たちが癒されるように、私たちも祈りによって、その人たちをイエスさまのもとに運び、また、私たちも実際にその人の病んでいるところに手を置いたり、いろんな助けをすることによって、イエスさまの癒しのわざに仕えたいと思います。

 

私たち自身はいろんな不十分さがあるけれど、イエスさまが真の羊飼いとしてかかわり、癒してくださることを信じ、私たちも深い傷を負い、痛みを抱えている人々と共に生きるために働くことができるならばと、今日のみことばから願うものです。

 

 主よ、私たちを導いてください。

 

 神さま、人々に関わる際に十分なかかわりをできず、逆にその人を傷つけたり、あなたから遠ざけたりしてしまっているこの私をおゆるしください。そうした私の不十分さを超えて、イエスさまがその人のまことの羊飼いとなられ、その人を養い、癒しお救いくださることを感謝します。そのイエスさまの愛の働きに私も従い仕えて歩むことができるように導いてください。救い主イエスさまのお名前によって祈ります。

 

永遠の契約の血による羊の大牧者、わたしたちの主イエスを、死者の中から引き上げられた平和の神が、御心に適うことをイエス・キリストによってわたしたちにしてくださり、御心を行うために、すべての良いものをあなたがたに備えてくださるように。栄光が世々限りなくキリストにありますように、アーメン。

 

動画 2018-07-22.mp4 - Google ドライブ

 

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2018年7月15日 礼拝メッセージ

聖霊降臨後第8主日 2018年7月15日

 

神の国は なお我のもの」

(マルコによる福音書6章14~29)

 

わたしたちの父である神と、主イエス・キリストからの恵みと平和があなたがたにあるように。アーメン

 

大雨の被害が、本当に大きなものとなってしまいました。200人を超える方々が犠牲となり命を失い、今なお避難生活を余儀なくされている方々、様々な面で不自由な生活を強いられている方々が大勢いらっしゃいます。犠牲となられた方のいのちを神さまが憐れみのうちに受け取ってくださるように、また、いま大変な中を過ごされている方を神さまがお支えくださり、一日早く平安が取り戻されるように、さらには、私たちもその人たちと共に生きるために何ができるか神さまが示してくださるように、心からお祈りします。

 

さて、今日もみことばに聴いてまいります。私たちは、毎週、このように礼拝で聖書のみことばからメッセージを聴くわけですが、私は、そのメッセージは、福音、すなわち喜びの知らせであるべきと考えています。どれだけ厳しい悔い改めを迫るみことばでも、あるいは、悲しく残酷な出来事が伝えられているみことばでも、そのみことばから、慰めや励まし、救い、そうした喜びのメッセージを、私たちが受け取ることが大切だと思っています。ところが、今日の福音書には、そこから喜びのメッセージを聴くことが、困難な出来事が伝えられています。

 

今日のみことばは、先週の続きですが、先週のみことばには、イエスさまの弟子たちが、イエスさまから、宣教の働きのために遣わされた出来事が伝えられていました。イエスさまと弟子たちのその働きにより、あらゆる場所の多くの人々にイエスさまのことが知れ渡りました。もちろんイエスさまを信じ受け入れた人も大勢いましたが、そうではない人もまた大勢いたことでしょう。その人たちの中で、イエスとは何者かということについて、いろんな話がなされていました。「洗礼者ヨハネが死者の中から生き返ったのだ。だから、奇跡を行う力が彼に働いている。」と言う人や、「彼はエリヤだ」と言う人、あるいは「昔の預言者のような預言者だ」と言う人もいたと、みことばは伝えています。

 

それを脅え震えながら聞いていた人物が一人いました。当時のユダヤの王の立場にあったヘロデ・アンティパスです。彼は、自分の権力を利用し、洗礼者ヨハネの首をはねて殺してしまった人物で、人々がイエスさまのことを「洗礼者ヨハネの生き返りだ」と人々が言う声を聴いて、きっとそうに違いないと思ったのです。自分が殺した人物が生き返り、力強いわざをしている。それは彼に非常に大きな恐怖であり、脅威だったことでしょう。その死者ヨハネの生き返りであるイエスさまに自分が祟られるか呪われるかという恐怖、あるいは彼が復讐のため自分の命や地位を脅かすかもしれないという脅威を感じながら、彼は人々の話を聞いたと思うのです。

 

そもそもなぜ彼はヨハネを殺したのでしょうか。彼ヘロデ・アンティパスには、ヘロディアという妻がいたのですが、彼女はもともとヘロデの異母兄弟のフィリポと結婚をしていました。しかし、ヘロデとヘロディアが恋仲となり、結局はヘロディアはフィリポとの結婚を解消し離縁して、ヘロデと結婚をします。しかし、そのことで、洗礼者ヨハネが、厳しく二人を糾弾したのです。「自分の兄弟の妻と結婚することは、律法で許されていない」と。それを面白くなく思ったヘロデは、ヨハネを捕えて投獄しました。そして、妻ヘロディアも、自分たちのことをごちゃごちゃ言うヨハネに恨みを抱き、彼を殺してしまおうと企みつつ、それを実行できないでいたのです。

 

彼女がヨハネをすぐに殺すことができなかったのには、一つ理由がありました。それは、ヨハネを捕えて投獄した夫ヘロデでしたが、そうしながらも、同時に夫はヨハネを聖なる人として保護して、ヨハネの教えを聞くのを楽しみにしていたためでした。しかしだからと言って、ヘロデが特段、信仰深かったというのではなく、彼には、どこか宗教オタクというか、ミーハーな面があったのだろうと思います。後にイエスさまが捕えられ裁判にかけられた際にも、「彼はイエスを見ると、非常に喜んだ。というのは、イエスのうわさを聞いて以前から会いたいと思っていたし、イエスが何かしるしを行うのを見たいと望んでいたからである」と、ルカ福音書に、彼が、そうした宗教的なことに興味を持っていたか、みんなが騒いでいるイエスさまのなさる奇跡を自分も目にしてみたいと興味本位に思った様子が伝えられています。

 

そうした彼のもと、獄中にありながらも、しばらくの間、命は守られていたヨハネでしたが、結局ヘロデに殺されてしまいます。ヘロデが自分の誕生日に、家族や親族、また高官たちや軍や政財界の有力者たちを集め、パーティーを催した際の出来事です。その余興として、ヘロディアが離婚した前の夫フィリポとの間にもうけた娘が、踊りを披露したところ、ヘロデはたいそう喜び、何でもいいから好きなものを褒美にあげようということになったのです。もちろん彼は素直に妻の連れ子の踊りを喜んだのかもしれませんし、招待客たちの前で、自分の妻の連れ子への自分の寛大さや、気前のよさを自慢したかったのかもしれません。あるいは、その贈り物をみんなに見せつけることで、自分の豊かさや、そうした豪華なものを所有している自分の権力の大きさを自慢したかったのかもしれません。きっと、そんないろんな思惑があったことでしょう。ヘロデは、人々の面前で、彼女に「欲しいものがあれば何でも言いなさい。お前にやろう」と言い、さらには「お前が願うなら、この国の半分でもやろう」と豪語するのでした。すると彼女は母親に何を願うかを尋ね、母親の言う通り、彼女は「今すぐに洗礼者ヨハネの首を盆に載せて、いただきとうございます」と、ヘロデに答えるのです。ヘロデは、本意ではなかったのですが、みんなの手前、やむを得ず、彼女の申し出の通り、衛兵にヨハネの処刑を命じます。そして、ヨハネの首を彼女に渡し、彼女は母にそれを渡し、こうしてヘロディアの企みが実現したのでした。

 

何とも恐ろしい酷い出来事です。ヘロデも、ヘロディアも、またその娘も、みんながみんなおかしいと思います。自分のした悪さを指摘されたからと言って、その相手を殺すほど恨み、実際に殺してしまうヘロディア。まして娘に洗礼者ヨハネの首をヘロデに要求するように申し付けるなんて母親としてもどうかしています。またその娘も娘です。母親に言われたからと言って、それをそのままヘロデに伝えるとは…。そして、ヘロデです。「お前が願うなら、この国の半分でもあげよう」と人前で豪語したり、人目を気にして、人の命を簡単に自分の好き勝手に扱えるモノのように奪ってしまったり、この家族のみんながみんなどこか大きく狂っていて、正気ではない、そう思わずにはいられません。人が権力を持つことと、その権力の甘い蜜を吸いながら生きることの恐ろしさでしょうか。

 

私たちは、この話を実に恐ろしいむごい話だなと、そんな風に、私たちから遠い話で、私たちには関係のない話のように思うかもしれません。しかしです。私たちは私たちの生きているレベルで、もしかしたら、ヘロデのような、あるいはヘロディアやその娘のような、彼らと同じ面を持っているということはないだろうか、そのことを省みたいと思います。自分の持っているものは自分のものなのだから、自分の好き勝手に使ってよい、そんな思いで、周りのことを考えることなく、自分の好きにそれを使ったり、独占したりしていないだろうか。自分のまずいところを他の人から指摘されるとそれを受け入れることができず、逆にその人を恨んでしまったり、憎んでしまったり、自分の心の中からその人を追い出してしまったり、他の人にもそのことを同調するように求め、自分と自分の周りからその人のことを精神的に抹殺や処刑をしてしまうようなことをないだろうか。人目を気にしたり、周りの大きな声の言いなりになったりして、他の人のことを傷つけたり、正しいことを貫けなかったり、そうした面がないだろうか。そんなことを思います。もちろん私たちはヘロデやヘロディア、その娘と全く同じ恐ろしいことはしないでしょう。実際に人の命を奪ったり、それにつながるようなことをしたりはしないと思います。そうした力もないですから。でも、私たちがもし彼らと同じ権力を持ったり、彼らと同じような立場になったりしたらどうでしょうか。もしかしたら、私たちもヘロデやヘロディアやその娘と同じようなことをしてしまうかもしれない。私たちは私たちなりに彼らと同じ自分勝手さや残酷さを持っていることを見つめ、認め、悔い改め、神さまの赦しを願いたいと思います。

 

同時に、私たちは、この洗礼者ヨハネが殺された今日のみことばが伝えている出来事から、やはりこの世の力の身勝手さ、残酷さ、暴力性ということもまた、受け止めたいと思います。この世の権力や、その甘い蜜を吸っている人たちが、神さまの御心に反して暴走することが少なくありません。その時、そこで、あたかもモノのように不当に扱われてしまう命があります。人権を踏みにじられてしまい、尊厳を奪われ、実際に心や体に深い傷を負わされたり、命を奪われてしまったりする人たちがいます。神さまが示してくださる正しさが揺るがされてしまい、不正がまかり通ってしまうこともあります。暴力に対して、世の中全体が鈍感となり、その過ちに気づけなくなってしまう時もあります。私たちが神さまを信じる信仰が脅かされてしまうこともあるでしょう。私たちはそれらのことに、洗礼者ヨハネがそうであったように、ノーと言う勇気を持って生きていきたいと願います。それは、私たち自身に危険を及ぼすものかもしれない。周りの理解もあまり得られないかもしれない。でも、私たちが神さまの御心に従うために、また、イエスさまの愛に倣うがゆえに、あえてその苦しい道を選び取る必要がある時もあるのです。「平和を実現する人々は、幸いである。その人たちは神の子と呼ばれる。義のために迫害される人々は、幸いである。天の国はその人たちのためのものである。わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。」エスさまの約束の言葉を胸に刻みたいと思います。

 

ヨハネはヘロデに捕らえられ投獄され、その命は、ヘロデまたヘロディア、その娘といったこの世の力によって蹂躙された結果、奪われてしまいました。けれども、そのことで、神さまの計画が妨げられてしまうことはありませんでした。ヨハネが捕えられたその頃、ちょうど、イエスさまがガリラヤで宣教を始められます。そしてヨハネが処刑された後も、イエスさまの福音は方々に宣べ伝えられ、弟子たちにもその働きが託され、さらに広められていくのです。このように、ヨハネの命は奪われてしまっても、神の救いの計画はなお前進したのです。この世の力と対峙して生きる私たち自身は、弱い者です。私たちがどれだけ叫んでも、世の力に負けてしまい、その声はかき消されてしまうかもしれません。けれども、神さまの計画は、そこで妨げられることなく、なお続けられていきます。私たちは、そのことを信じ、たとえ小さな声でも、声をあげ続けていきたいのです。

 

今日のさんびか、教会讃美歌450番「力なる神」は、マルティン・ルターの作ったさんびかです。ルターは、「私は弱い者だけど、神であるキリストが力強い私の砦となり、戦ってくださる。だからたとえ世の悪が満ちていても、私は恐れない。世の悪の力は主の裁きの前に滅びるだけだ。たとえ私から何が奪われようとも、神の言葉は決して滅びず、神の国はなお我のものだ」と力強く歌います。当時の激しい弾圧のゆえに、ルター自身、心が折れてしまいそうになる中で、いえ、実際に心が折れて病んでしまった中で、彼はこの歌を歌い、教会の改革を進めていきました。このさんびかは、ルーテル教会で、また教派をも超えて、実に500年の間、歌い継がれてきました。また、ルターは「私がこのビールを飲んでいるこの時にも、神の国は前進する」と言ったそうです。たとえどんなことがあっても、神の国は必ずやってくるという、神への信頼を表す言葉です。私自身はヘタレで弱い者です。何かあると、すぐに、もうダメだ、もう無理だと思ってしまいます。けれども、先週もお話しましたが、私の弱さの中でこそ、神の恵みに満たされ、力強く歩むことができるということを信じて、たとえどんなことがあっても、何かが奪われても、『神の国はなお我のもの』、私たちもそう力強く歌いつつ立ち上がり、あるいは這いつくばりながらも歩んでまいろうではありませんか。

 

主よ、私たちを導いてください。

 

私の心の中にもある自分勝手さ、残酷さと、私が向き合い、あなたに悔い改め、あなたの赦しの中を歩むことができますように。この世の力により苦しめられている人、尊厳や命を脅かされている人と、私も共に生きることができますように。世の過ちに対して、否と言うことのできる正しさと強さをあなたが私に与えてください。私自身は弱い者だけれど、あなたがともにいてくださる、そのことに希望を持って勇気をもって歩んでいくことができますように。大雨の被害に苦しむ人たちをあなたが助け、お守りください。失われた一人ひとりの命をあなたの憐れみのうちにお受け取りください。私たちの救い主、主イエス・キリストによって祈ります。アーメン

 

あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るように。アーメン

 

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2018年7月8日 礼拝メッセージ

聖霊降臨後第7主日 2018年7月8日

 

「弱いからこそ強い」

(マルコによる福音書6章1~13、コリントの信徒への手紙二12章9~10)

 

わたしたちの父である神と、主イエス・キリストからの恵みと平和があなたがたにあるように。アーメン

 

道内と道外で大雨の被害がありました。被害に遭われた方々に神さまからのお慰めとお支えを心よりお祈りいたします。先日もお話しましたが、地球全体が悲鳴を上げているようなそんな思いがいたします。私たち人類のみならず、すべての被造物をお救いくださる神さまの御国が速やかに到来することを祈るとともに、神さまの救いを私たちは宣べ伝え続けたいと願います。

 

さて、今日もみことばに聴いてまいりましょう。今日の福音には、二つの出来事が伝えられています。まず一つは、イエスさまがご自分の故郷にお帰りになって、礼拝の時にお話をされた時の出来事です。そこに集っていた人たちは、イエスさまのお話が力強いものだったのでしょう。驚いて言うのです。「この人は、このようなことをどこから得たのだろう。この人が授かった知恵と、その手で行われるこのような奇跡はいったい何か。この人は、大工ではないか。マリアの息子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。姉妹たちは、ここで我々と一緒に住んでいるではないか。」

 

エスさまの故郷に暮らしている人たちでしたので、イエスさまの家族のことも、またイエスさまがどのような子どもであったか、また青年であったか、よく知っているわけです。ですから、「あのマリアの子が…」「あの大工のイエスが…」「こんな力強いお話をして、あんな奇跡を起こして、なぜそんなことができるのか、どこでそんな力を身に着けたのか」と、みんながたいへん不思議に思ったというのです。

 

そして、彼らはイエスさまに「つまずいた」と、みことばは伝えています。「つまずく」という言葉は、もともと「疑念を抱く」とか、「憤りを抱く」という意味を持つそうです。聖書のもともとの言葉であるギリシア語では、「スカンダロス」という言葉で、英語の「スキャンダル」の元となった言葉です。私たちも政治家や芸能人のスキャンダルを耳にするわけですが、そうすると、その人に対して憤りを抱いたり、疑念を抱いたりして、その人のことを信頼できなくなってしまいます。イエスさまの故郷の人たちも、イエスさまに対して、「なんであんなことできるんだよ」「できるわけないじゃん、絶対何かトリックやインチキがあるに違いない」そんな感じで、憤ったり、疑念を抱いたりして、それ以上、イエスさまのことを信頼できなくなってしまったことを、「つまずいた」という言葉は表しているのでしょう。

 

エスさまはそれに対して、「預言者が敬われないのは、自分の故郷、親戚や家族の間だけである」とおっしゃっていますが、何週間か前にも同じようなことをお話しましたが、私たちも「自分は神さまやイエスさまのこと、また聖書のことをよくわかっている」という思いは、もしかしたら、その自分が「わかっている」と思っていることとは違う何かが起こるなら、それを素直に受け入れられず、つまずいて、信仰が揺らいでしまうことも、あるかもしれないと、そんなことを考えさせられます。イエスさまは、「そこでは、ごくわずかの病人に手を置いていやされただけで、そのほかは何も奇跡を行うことがおできにならなかった」とあります。「自分たちはよく知っている」「わかっている」という思いが、そこで暮らす人々がせっかくのイエスさまのみわざを受けることを妨げてしまったのです。自分には知らないこと、わからないことがまだまだたくさんある、「だから神さま、私に教えてください。イエスさま、私の心を開いてください。」そうした謙虚な思いで信仰生活を送り、また聖書と向き合うことが大切なことなんだなと思います。

 

今日の福音で伝えられている二つ目の出来事は、イエスさまが、ご自分の12弟子を宣教の働きにお遣わしになられたという出来事です。イエスさまは、彼らを二人ずつ組にしてお遣わしになられます。神さまの救いを伝え、また、神さまの愛を届ける働きは、信仰の仲間と助け合い、祈り合い、語り合いながらなされていくことであるということを、私たちはここから受け止めたいと思います。「私一人でも何がなんでも宣教するんだ」という思いも時には必要でしょうが、しかし、本来、「共に働く」というその姿勢が大切なのです。なぜなら、私たちはそれぞれ弱さを抱えているからです。だから、一緒に助け合い、祈り合う仲間が必要なのです。また、そうした弱さがある者でありながら、そのことをすぐに忘れてしまい、ついつい自分を絶対化してしまう、そうした者でもあります。もちろんそれも私たちの弱さであるわけですが、なかなかそれに気づかず、自分だけが暴走してしまったり、他の人たちを全部悪くしてしまったりということが、よくあります。そのため、「それはちょっと違うかもよ」「こんな風にしてみた方がいいかもね」と、そのように語り合える仲間の存在が私たちには必要なのです。イエスさまが弟子たちを二人ずつ組でお遣わしになられたことには、そうした意味があるのではないでしょうか。

 

エスさまは、弟子たちに汚れた霊と闘い、追い出す権能、権限を与えられました。私たちにもその権能、権限が、イエスさまから託されています。私たちの周りで苦しむ人に接して、また苦しみを抱えているこの世界で生きていく中で、その人やこの世界を苦しめている、その得体の知れない何かと、私たちはイエスさまからいただいた力によって闘い、それを追い出すために働くのです。その力は、私たち自身が初めから持っている力ではありません。イエスさまから託された権能、権限です。「イエスさま、いま苦しみの中にあるこの人を、またこの世界を助けてください。その苦しみを取り除いてください。」と粘り強く祈り、「イエスさまなら必ずそうしてくださる」と信じることです。また、もし、私たちがかかわることによって、その苦しむ人が助けられることがあっても、「私が助けてあげたんだよ」と、そうした思いになるのではなく、「イエスさま、この人のことを助けてくださってありがとうございます。イエスさま、そのためにこの小さな私を用いてくださり、ありがとうございます。」と、感謝することです。

 

ルーテル教会の作曲家ヨハン・セバスチャン・バッハは、多くの優れた作品を作りましたが、彼は自分が作った曲の楽譜の終わりに「SDG」と3文字のアルファベットを記しました。これはラテン語の「Soli Deo Gloriaソリ・デオ・グロリア」の略で、日本語では「ただ神に栄光」という意味です。バッハは、そう記すことで、自分の作品がどれだけ優れたものであろうとも、それは「あいつすごいよね」と自分がほめたたえられるためではなく、ただただ神さまの栄光のため、神さまが与えてくださった力で、神さまがほめたたえられるために作った作品であるという心を込めたのです。私たちも、私たち自身がほめたたえられるために、人ととかかわり、またこの世界のために奉仕するのではなく、神さまから、イエスさまからいただいた力で、神さま、イエスさまがほめたたえられるための働きであることを忘れずに大切にしたいと思います。

 

また、イエスさまは、弟子たちをお遣わしになる際に、『旅には杖一本のほか何も持たず、パンも、袋も、また帯の中に金も持たず、ただ履物は履くように、そして「下着は二枚着てはならない」と命じられた』とも、今日の福音は伝えています。まず、彼らに許されたことですが、杖一本とを持つことと履物を履くこと、そして下着を一枚着ることです。下着を一枚も着ないで出かけてしまうなら、それはとても大変なことになってしまいますので、これは当然なこととして、杖一本と履物について考えたいのですが、これはきっと「君たち自身が地に足を付けて生きる中で働け」ということであり、また「自分たちの足を使って働け」ということなのではないか、そんなことを、私はここから受け止めました。私たちが一人の人として地に足を付けて生きる、その中でこそ、神さまの救いを伝え、神さまの愛を分かち合う働きができるということ。また、「どうしたら教会に人が来てくれるんだろうね」とそんな風に待っているのではなく、自分から出かけて行くということ。そのことがこの杖一本と履物に込められた意味ではないかと思うのです。

 

次に彼らに許されていないことですが、パン、つまり食べ物、袋、つまりその袋に入れる持ち物、またお金、そして二枚目の下着、つまり着替えを携えていくことです。これらを持っていってはならないと、弟子たちは、イエスさまから命じられるのです。また、イエスさまは私たちにもそのことをおっしゃいます。なんと厳しいことかと思います。そんなの無理だよという思いになります。しかし、私たちはこのイエスさまのことばを「持っていってはならない」という禁止の命令としてではなく、「持っていかなくても大丈夫だよ」というイエスさまからの暖かい言葉として聴きたいのです。「あなたがたは何も持っていなくても大丈夫。わたしがあなたがたのためにすべてを準備するから」イエスさまはそう今日のみことばで、弟子たちに、そして私たちにおっしゃっているのです。

 

旧約聖書の創世記に、アブラハムが山の上で自分の子どもを犠牲として神さまにささげなければならないと思ったその時、そこに山羊がいて、それを犠牲として子どもは無事で済んだという物語が伝えられています。その時、アブラハム「主の山に備えあり」と言いました。私たちも「主の山に備えあり」そのことを信じて、神さまが、イエスさまがすべてを与えてくださる、備えてくださる、そう信頼して歩むことが、今日のイエスさまのみことばの心であると思います。

 

続けてイエスさまは、「どこでも、ある家に入ったら、その土地から旅立つときまで、その家にとどまりなさい」とおっしゃっています。神さまの救いを伝え、神さまの愛を分かち合う働きは、一朝一夕ですぐ実りが与えられるものではありません。腰を据えてじっくりと時間をかけて、かかわりを持ち続けることが大切であるということを、今日のイエスさまの言葉から思います。何より、頑なでなかなか悔い改めない私のためにイエスさまがどれだけ長い間忍耐してくださったか、なかなか実りの得られない私たちにどれだけ長い時間かかわり続けてくださっているかを考えるとき、私たちも自分がかかわるその人に時間をかけて働きかけることの大切さを思わざるを得ません。

 

同時にイエスさまは、「しかし、あなたがたを迎え入れず、あなたがたに耳を傾けようともしない所があったら、そこを出ていくとき、彼らへの証しとして足の裏の埃を払い落としなさい。」ともおっしゃっています。「できないから、また、うまくいかないからと言って、もうだめだと落胆せず、その時は新しい次を目指して歩み出せばいい」と、イエスさまはそうおっしゃるのです。「どうしても私がどうにかしなければ」、そう思わなくてもよいのです。「できないから私はダメだ」そんな風に思うこともないのです。その時は立ち上がって新しい次へ向かう、そのことも大切な時があります。イエスさまもちゃんとそのことをわかってくださっています。「彼らの証へと足の裏の埃を払い落としなさい」、なんだかとても厳しい、荒々しい言葉ですが、私たちにはその人に届けることができなかった、履物の裏の埃のような私の証が、いつか用いられることを信じたいと思います。イエスさまは別の箇所で、「言っておくが、神はこんな石からでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる。」とおっしゃっています。私たちが思いもしない形で、神さまが働きかけ続けてくださることを信じ、委ねつつ、次の新しい一歩を歩み出すのです。

 

このように、イエスさまは、弟子たちに、そして私たちに、「あなたがたの弱さの中で、その弱さを抱えつつ、仲間と共に、神さまの救いを伝え、神さまの愛を分かち合う働きをするように」とおっしゃって、私たちをお遣わしになります。自分自身を見るなら、神さまの救いを伝える伝道なんかできない、神さまの愛を分かち合う奉仕なんかできないと、正直そのように思います。でも、イエスさまは、その弱さのある私たちを、そのありのままの姿で送り出してくださるのです。

 

今日の第二朗読でパウロは言っています。『主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。それゆえ、わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです。』私たちもこの言葉を胸に刻み、弱さあるまま、主に遣わされる新しい一歩を踏み出そうではありませんか。

 

主よ、私たちを導いてください。

 

弱い私たちです。しかし、主の力に支えられて、弱さあるまま、あなたの救いを伝え、あなたの愛を分かち合う歩みができますように、私たちをお遣わしください。共にその労を担う信仰の仲間を与えてくださっていることも心より感謝いたします。大雨の被害に苦しむ人々を助け、癒してください。また、台風が続けて起こるこれからの季節も、すべての人をあなたがお守りください。あなたの御国が一日も早く速やかに来ますように。私たちの救い主、主イエス・キリストによって祈ります。アーメン。

 

希望の源である神が、信仰によって得られるあらゆる喜びと平和とであなたがたを満たし、聖霊の力によって希望に満ちあふれさせてくださるように。アーメン

 

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2018年7月1日 礼拝メッセージ

聖霊降臨後第6主日 2018年7月1日

 

「あきらめないで!」

(マルコによる福音書5章21~43節)

 

わたしたちの父である神と、主イエス・キリストからの恵みと平和があなたがたにあるように。アーメン

 

今日の福音のみことばには、二つの出来事が伝えられているのですが、それが順序良く並んで伝えられているのではなく、一つの出来事のその途中に、別の出来事が入り込む形で伝えられています。けれども、そうした特別な構造で伝えられているその二つの話は、それぞれ別の出来事でありながら、同じ一つの主題で語られています。それは、36節でイエスさまが「恐れることはない。ただ信じなさい」とおっしゃっておられますが、「エスさまが私たちを顧み憐れみ助けてくださることを信じて生きることの大切さ、そしてその確かさ」です。今日、私たちがみことばから受け止めたいメッセージもまさにこのことにほかなりません。ご一緒に聴いてまいりましょう。

 

エスさまが弟子たちと共に船に乗って、再び向こう岸に渡られると、大勢の人たちがそのイエスさまのそばに集まってきました。それは、イエスさまのみことばや癒しを求める実に沢山の人たちだったことでしょう。そんな彼らの集まった湖のほとりにイエスさまはおられます。今、私たちの教会には、それほど多くの人たちが集まっているわけではありません。でも、そうであっても、実際には、イエスさまのみことばや癒しを必要としている人たちはたくさんいます。心や体にいろんな痛みを抱え、辛い思いをしている人たちが、私たちの周りにもたくさんいらっしゃるのです。そうした人たちの傍らに、イエスさまが共にいてくださる、イエスさまがその人のもとを訪れてくださる、私たちがそのことを伝えることができるならばと願います。そう考えると、イエスさまが弟子たちと船に乗って向かう、イエスさまを必要とする大勢の人たちが待つ向こう岸、その舟は私たち教会の姿であると思いますし、私たちもイエスさまと共に、イエスさまを必要としている人々が待つ向こう岸に向かっていると言えるのではないだろうか、そんな思いになりました。

 

そこに一人のヤイロという名前の人がやってきます。彼は、「会堂長」でした。「会堂管理者」と訳している聖書もあり、人々が礼拝や冠婚葬祭、あるいは聖書の学びのために集まるユダヤ教の会堂を管理し、さらには礼拝の司会者を決めるなどもする役割の人で、きっと町のみんなに良く知られている人だったことでしょう。彼はイエスさまの「足もとにひれ伏し」「わたしの幼い娘が死にそうです。どうか、おいでになって手を置いてやってください。そうすれば、娘は助かり、生きるでしょう。」とお願いします。「しきりに願った」とあり、彼の必死な姿が伝わってきます。「イエスさまならきっと何とかしてくださる」、そんな彼のイエスさまへの信頼をもここから受け止めることができると思います。イエスさまは彼の願いを受け入れ、彼の家へ向かわれました。その際に、「大勢の群衆も、イエスに従い、押し迫ってきた」と、みことばは伝えています。イエスさまの癒しの出来事を自分たちも一目見たいと願ってでしょうか。あるいは、ヤイロの娘の癒しが終わったら、一刻も早く自分たちもイエスさまの癒しをいただきたいと願ってでしょうか。理由はともかく、イエスさまと大勢の人たちがヤイロの家に向かいました。

 

けれども、その途中でもう一つの出来事が起こるのです。一人の女性、それは名前もわからない女性であったわけですが、彼女が、ヤイロの家に向かうイエスさまと大勢の人たちの中に紛れ込み、イエスさまの着ておられた服に触れるのでした。彼女は、「十二年間も出血の止まらない」そうした痛みを抱えていました。「多くの医者にかかって、ひどく苦しめられ、全財産を使い果たしても何の役にも立たず、ますます悪くなるだけであった」とあるように、それはほんとうに辛いものでした。今で言うなら、不正出血であり、婦人科系統の疾患です。実に12年間です。たとえば女性としての月のものがはじまる12歳ごろ、その頃からその症状がみられたとするなら、24歳です。それぐらいの長い間、ずっと出血が続いていたというのです。一人の人、また女性として、彼女の辛さを考えると、とても胸が痛みます。

 

もし彼女が結婚前にその症状が始まったのなら、その症状は男女の交わりができなかったことをも表しますから、きっと結婚することはできなかったでしょう。そうであるなら、当時女性が社会で働くことが難しい中で、しかも全財産を使い果たすほど医療費がかかっていたというのですから、経済的にも実に大変な生活だったと考えられます。結婚していたとしても、もしかしたらその病が原因で離縁されたかもしれませんし、当時の宗教のきまりでは、出血が続く限り、「汚れている」状態とみなされ、その女性に触れた人は誰でもその汚れが感染ると規定されていましたので、夫と寝床を共にすることも、食事を共にすることもできず、たいへん後ろめたい、また寂しい思いをしながら暮らしていたかもしれません。また、もし出産後にその症状が始まったとしても、人に触れないように生活をしなければならず、「ひどく苦しめられ」「ますます悪くなるだけであった」とあるように、実に苦しい日々を過ごしていたことになります。

 

その彼女が、イエスさまが自分の住んでいる村に来られたという話を聞き、必死な思いで、人ごみに紛れて、イエスさまの服に触れたのです。それは、「この方の服にでも触れればいやしていただける」と思ったからでした。実際、イエスさまの服に彼女が触れると、「すると、すぐ出血が全く止まって病気がいやされたことを体に感じた」とみことばが伝えているように、瞬時に彼女のその病は癒されました。イエスさまは、《自分の内から力が出て行ったことに気づいて、群衆の中で振り返り、「わたしの服に触れたのはだれか」と》おっしゃいます。このように、イエスさまが人を癒されるということは、決して「イエスさまだから簡単なことだ」というものではありません。イエスさまからも力が出て、イエスさまの力が消耗される、イエスさまも痛みを感じられる出来事なのです。イエスさまご自身、大変な思いをされながら、その人を癒されるのです。

 

エスさまは、ご自分の服に触れたその人のことを捜されます。でも大勢の人込みです。弟子たちも半ば呆れながら「群衆があなたに押し迫っているのがお分かりでしょう。それなのに、『だれがわたしに触れたのか』とおっしゃるのですか。」と、イエスさまに言いました。でも、イエスさまは彼女を捜されるのです。イエスさまにとって、ただどこかのだれかが癒されればそれでよいというのではありません。苦しく辛い思いをして生きてきたその人と出会い、その出会いの中でその人を癒される、そのことがとても大事なことでした。ですから、群衆の中に紛れたone of themの癒しではなく、イエスさまは彼女と出会い、語り合うことを求められるのです。

 

彼女は恐る恐る震えながらイエスさまの前に進み出ます。そして、自分の身に起こった「すべてをありのまま話し」ました。イエスさまはそんな彼女におっしゃいます。「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。もうその病気にかからず、元気に暮らしなさい」。なんと暖かな言葉でしょうか。彼女にとって、ただ病気が癒されただけでなく、ひどく苦しめられた12年間が報われるような一言であったと思います。「この方の服にでも触れればいやしていただける」そんな彼女の必死な思いを、イエスさまは「あなたの信仰があなたを救った」とおっしゃいます。決して「主なる神はどういうお方で、イエス・キリストはどういうお方で、聖霊はどういうお方で…」、そうした難しいことではありません。「イエスさまなら私を助けてくださる。せめてその服にでも触れれば」そうした彼女の必死な願いを、イエスさまは信仰として受け止め、彼女を救われるのです。

 

さて、今日のみことばは、彼女の病が癒されて、めでたしめでたしというわけにはいきません。もう一つの出来事、会堂長ヤイロの娘の出来事がまだ残っています。イエスさまが、その長い間の出血を癒された彼女と話しておられた時、一つの知らせが届けられます。ヤイロの家にいた人からの、ヤイロの娘が亡くなったので、もうイエスさまに来ていただかなくてもよいという知らせでした。きっと、ヤイロも、イエスさまの弟子たちも、そこにいたみんなも思ったことでしょう。「先を急ぐべきだった、彼女を捜し話す、そんな悠長なことをしているから間に合わなかったのだ」と。

 

でもイエスさまはヤイロにおっしゃいます。「恐れることはない。ただ信じなさい」。そして、イエスさまはなお歩みを進められます。私たちの目から見るならば望みなきところで、それゆえ足を進められないそうした状況の中で、なおもイエスさまが歩みを進めてくださいます。そして、ヤイロの家に着いたら、みんなは「大声で泣きわめいて騒いでい」たと言います。もちろん少女の死を悼み泣いていたこともあるでしょうが、当時の習慣として「泣き屋」とでも呼んだらよいのでしょうか、そういう職業の人がいて、人が亡くなったらその職の人たちが雇われ、泣き叫ぶ演出をしていたそうです。そのことで身内の人たちも周りを気にせず泣くことができる。また一緒に泣いてくれる人がいて慰められる。そんな効果があったのかもしれません。しかし、イエスさまはその人たちにきっぱりとおっしゃいました。「なぜ、泣き騒ぐのか。子供は死んだのではない。眠っているのだ。」彼らはそれを聞いて、イエスさまをバカにして嘲笑います。

 

エスさまは彼らを外に出し、「子供の両親と(ペトロとヤコブヨハネの)三人の弟子だけを連れて、子供のいる所へ入って行かれ」ます。そしてその《子供の手を取って、「タリタ、クム」と》おっしゃいました。「少女よ、わたしはあなたに言う。起きなさい」という意味です。その声にその子はすぐに起きて立ち上がり歩き始めました。死のただ中で、響くイエスさまの一声が、死を打ち破り、いのちをもたらすのです。望みなきところで、また悲しみが支配するところで、イエスさまの一声が大きな喜びと慰めを与えてくださるのです。今まで死んでいた子どもが歩いているのを見て、人々は驚きます。「それを見るや、人々は驚きのあまり我を忘れた」彼らの驚きようが伝わってくる感じで、なかなかの名訳です。イエスさまは私たちに、我を忘れるほどの驚きを与えてくださるお方です。

 

これが今日のみことばの二つの出来事です。そして、初めにお話ししましたように、二つの出来事ではありますが、「イエスさまが私たちを顧み憐れみ助けてくださることを信じて生きることの大切さ、そしてその確かさ」という、一つのテーマが貫かれています。私たちが人生の歩みの中でもうダメだと思うそうした状況においても、イエスさまはなおも私たちを見捨てず、助けてくださるお方である、このことをしっかりと今日心に留めたいと思います。そして、12年間も不正出血が続いた女性、また娘が死に瀕していたヤイロのように、必死にイエスさまに助けを求めて生きていきたいと願うのです。

 

しかし、私は今日のみことばから、なお思うことが一つあります。それは、私たちが生きているこの現実世界では、私たち自身や私たちの周りの大事な人が重い病気になったり、亡くなったりするとき、今日のみことばのように病気が治ることがない場合もありますし、亡くなった人が再び生き返るなどというようなことは実際には起こらない、このことをどう受け止めればよいかということです。どれだけ祈っても病気はますます悪くなるばかりで、またどんなに悲しんでもその人が亡くなった事実は変えられません。

 

でも、今日のみことばで、当時の社会で「汚れている」とみなされた出血の症状のある女性がイエスさまに触れたことは、イエスさまもご自分の身にその汚れを引き受けられたことを表し、また死んだ子どもの手をイエスさまが取られたことも、当時の考えによるなら、死の汚れをイエスさまがご自分の身に引き受けられたことを表します。このように、イエスさまが、ご自分の身に、私たちの汚れも病も恥も死もそのすべて一切を引き受けてくださる、つまり十字架のお方であることが伝えられているのです。たとえ私たちにどんなことが起こっても、十字架のお方であるイエスさまが私たちのすべてを引き受け、そのただ中で私たちに希望や慰めを与えてくださる。それは実際に病気が治ったり、死から生き返ったりすることとは違うかもしれないけれど、でも、イエスさまが必ず共にいて、私たちの思いを超えた驚くべき救いを与えてくださることを信じて、イエスさまにすがって生きていきたいと願います。「恐れることはない。ただ信じなさい」。

 

主よ、私たちを導いてください。

 

大きな苦しみの中にある時、また希望を失う時、その時も御子が私たちを顧み、私たちを助けお救いくださることを信頼し続けることができるように、私たちを導いてください。私たちの汚れも病も死も恥も、そのすべてを御子が引き受けてくださることを感謝します。救い主、主イエス・キリストによって。アーメン

 

希望の源である神が、信仰によって得られるあらゆる喜びと平和とであなたがたを満たし、聖霊の力によって希望に満ちあふれさせてくださるように。アーメン

 

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2018年6月24日 礼拝メッセージ

聖霊降臨後第5主日 2018年6月24日

 

「だいじょうぶ!」

(マルコによる福音書4章35~41)

 

わたしたちの父である神と、主イエス・キリストから、恵みと平和があなたがたにあるように。アーメン

 

聖書は、「初めに、神は天地を創造された」と、神さまが天と地とそこに住むあらゆる命、そして私たち人間を創られた、天地創造の出来事を最初に伝えています。そして、その際に、「神はお造りになったすべてのものをご覧になった。見よ、それは極めてよかった」と、神さまが創られた、そのすべてのものがとても素晴らしく、とても美しく、とてもよいものであり、さらには、「天地万物は完成された」と、この世界が何一つ欠けのない、完全にパーフェクトな状態であったことをも伝えています。

 

しかし実際には時として、この世界で自然災害が襲ったり、痛ましい事故や残酷な事件があったりして、神さまが天地創造を完成された時にご覧になられたように、極めてよかった、完成された状態からは大きく異なっているとしか、私たちには思えないような現実が起こります。みなさんもご存じのように、つい先日も、私たちの国の大阪で大きな地震があり、その犠牲となられた方々、被害に遭われた方々がいらっしゃいます。私たちは心を痛めつつ、愛する人を失った人々に神さまからの慰めと癒しが与えられるように、また被害に遭われた方々に神さまからの平安と守りが与えられるように心からお祈りいたします。同時に、そのような痛ましいことが起こるたびに、私たちは、嘆き悲しみつつ大きな疑問を抱くのです。もし神さまがお創りなられたこの世界が、聖書が伝えているように、極めてよい、完成されたものであるのなら、なぜそうしたことが起こるのだろうかと。

 

私たちは、それに対して、これが正解であるという答えを見出すことはできません。けれども、私がそのことを考える時、思うことがあります。それは、聖書が天地創造に続いて伝えている出来事から考えさせられることです。聖書は天地創造の出来事に引き続き、神さまと最初の人間アダムとエバとの間に起こった一つの出来事を伝えています。神さまはアダムとエバを、エデンの園という本当に素晴らしい、極めてよい場所で暮らすようになさいました。そこは、神さまと(人を含めた)すべての被造物との間も、人と人との間も、さらには人と他の被造物との間も、本当に調和のとれた、とても麗しい完全な場所でした。その際、神さまは、そのエデンの園に生えているどの木からも実を採って食糧としてもよいけれども、善悪を知る知識の木からは実を採って食べてはならないと命じられます。しかし、人はそれを破り、その木からの実を採って食べてしまいました。その結果、人はその素晴らしいエデンの園から追い出され、それ以降、多くの苦しみを避けることのできない世界で生きなければならなくなったのです。いわゆる楽園喪失と呼ばれる出来事です。

 

私は、まさにその時に、最初に神さまが創造されたこの世界の、そのどこかに大きな歪み、ゆがみが生じてしまったのではないかと思うのです。神さまとすべての被造物との間、人と人との間、そして人と他の被造物との間に保たれていた、極めてよかった完成されたエデンの園における完全な調和が、その出来事以来、どこかで崩れてしまったのではないでしょうか。ローマの信徒への手紙で、パウロが、「被造物がすべて今日まで、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっていることを、わたしたちは知っています。」と言っていますが、このあらゆる被造物=その中にはもちろんこの地球も宇宙も含まれます、そのうめきや苦しみの中で、この世界で、災害や事故や事件、そうしたいろんな痛ましいことが起こるのではないだろうか、そのように私は考えています。もしかしたら、この地球がどこかで悲鳴を上げているのかもしれない、そんな風にも思います。

 

しかし、そうした中で、今日の第一朗読、ヨブ記38章のはじめの言葉から、私は大きな慰めと希望と勇気を与えられました。「主は嵐の中からヨブに答えて仰せになった。」みことばはそう告げています。大きな災害や事故や事件が起こると、私たちの心は大きく騒ぎます。悲しみ、嘆き、憤り、いろんな思いで心の中がぐちゃぐちゃになってしまいます。きっと大阪で被害に遭われた方の、今の心の中もそうした状態でしょう。そのような中で、「主は嵐の中から…答えて仰せにな」るのです。どうしようもできない、そのぐちゃぐちゃな心の嵐の中で、そのただ中で、神さまは私たちの嘆きや叫びに答えてくださるお方です。そして、「ここまで来てもよいが越えてはならない。高ぶる波をここでとどめよ」とおっしゃって、神さまが私たちの苦しみを堰き止めてくださいます。私たちは、今日、まずこのことを今一度心に刻み、地震の被害に遭われ、心の中に大きな嵐が今まさに起こっている人たちのことを覚えて祈り続けたいと願います。

 

さて、今日も、福音のみことばに聴いてまいりましょう。今日の福音は、私が好きなみことばの一つです。「その日の夕方になって」とのことばから始まっています。イエスさまと弟子たちがその日一日、宣教の働き、癒しの働きに忙しく過ごし、疲れを覚えている、その一日がいま終わりを迎えようとしています。そしてまた暗い夜の闇が、間もなく彼らに訪れようとしていました。「その日の夕方になって」、この言葉から私たちはそうした事実を受け止めます。私たちが使う言葉に「黄昏る」という言葉がありますが、この言葉を多くの人が「ぼーっとして過ごす」とか「物思いにふける」とかそんな意味で用いていて、私も今までそうした意味で用いていたのですが、実はそれは誤っており、正しくは「日が暮れて薄暗くなる」という意味から「盛りを過ぎて衰える」という意味を持つ言葉だそうです。ですから、「人生の黄昏」というと、私たちが若い盛りを過ぎて段々と勢いを失って衰えていっていることを言います。そして、私たちも、そうした人生の黄昏を迎えます。「その日の夕方になって」、この言葉から、そうしたことをも考えさせられました。

 

エスさまはその夕方、黄昏時に、弟子たちに「向こう岸に渡ろう」と声をかけられました。私たちは日々の疲れを覚える弱さの中でも、また、間もなく闇が近づいてきているその時にも、盛りや勢いを失い段々と衰え行く人生の黄昏の時にも、イエスさまの「向こう岸に渡ろう」という言葉を聞いて生きてまいります。「向こう岸に渡ろう」、たとえ私たちがどんな状態にあっても、新しい場所、そして、向かうべき場所が、イエスさまから与えられるのです。

 

弟子たちは、そのイエスさまの招きに応えて、イエスさまと共に船に乗りこんで、向こう岸を目指して船旅を始めました。「ほかの舟も一緒であった」と、みことばは伝えていますが、これは同じこの世の中に生きる人々とともに人生を旅するキリストの教会、またその教会に連なる私たち信仰者の姿でしょうか。しかし、その船旅のさなかに「激しい突風が起こり」ます。それは「船は波をかぶって、水浸しになるほどであった」と言いますし、イエスさまに向かって彼ら弟子たちが「先生、わたしたちがおぼれても構わないのですか」と訴えているほどですから、命の危険を感じるほど、彼らにとって恐ろしい大きな危機だったことでしょう。もしかしたら、そこで彼らは「ほかの舟も一緒であった」ことなど、もはや忘れてしまい、自分たちの苦しみだけしか見えなくなっていたかもしれません。

 

しかし、そのように彼らが恐れ騒いでいたとき、イエスさまはどうなさっていたか。なんと、「イエスは艫の方で枕をして眠っておられた」、そう今日のみことばは伝えています。これは、普通ならあり得ないような展開です。弟子たちは、必死になって、その寝ているイエスさまを起こし、先ほども申しましたように、「先生、わたしたちがおぼれても構わないのですか」とイエスさまに訴えました。するとイエスさまは起きられて、風を叱りつけて、湖に向かって「黙れ、静まれ」と言われ、風も波も静められます。そして弟子たちに向かっておっしゃるのです。「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか」と。

 

私は、最初、このみことばを聞いて、たいへん驚きました。弟子たちが命の危険を感じている、それほどの本当に大変な危機の中で、なぜイエスさまは呑気に、悠長に眠っておられるのかと。「ひどいじゃないか、すぐに起きて、彼らを助けるべきだろう」と、そう思ったのです。しかも、起きたと思ったら、「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか」と弟子たちに向かっておっしゃったイエスさまに、「おいおい、それはないだろ、これで叱られてしまうなら、彼らはたまったものじゃないぞ」と、そんな風にも思いました。でも、何度か繰り返して、このみことばを聞く中で、段々とそれとは違った風に受け止めるようになりました。

 

私たちの人生の旅の中でも、イエスさまが一緒にいてくださるはずなのに、イエスさまの助けを感じられないような、そうした時、苦しみが続くときが少なくありません。それはあたかも、今日のみことばで、弟子たちが嵐の中で恐れ騒いでいるのにもかかわらず、彼らと同じ船に乗っておられたイエスさまが眠っておられた出来事のようです。そんなとき、弟子たちが「ほかの舟も一緒であった」そのことを忘れて、自分の苦しみだけしか見えずに、「先生、わたしたちがおぼれても構わないのですか」とイエスさまに向かって訴えたように、私たちも自分の苦しみだけしか見えなくなって、「イエスさま、私たちがどうなってしまっても構わないのですか」そんな思いになります。

 

しかし、私は思ったのです。イエスさまが、今日のみことばで、嵐の際に船の中で眠っておられたのには、そのことにイエスさまなりのきちんとした意図があったのではないだろうかと。それはどんな意図かと申しますと、彼ら弟子たちのことを信頼して、「君たちだったら、きっと大丈夫!この危機を乗り越えられるはずだ」そうイエスさまは信じて、あえてすぐに彼らに助けの手を差し伸ばすことをされなかったのではないかと、そう思いました。もし、どんな時も、すぐにパッと簡単に助けの手を差し伸ばしてしまうなら、彼らがイエスさまに信じ従う者として、いつまでも自立した歩みをすることができなくなってしまいます。ですから、イエスさまだってすぐに彼らを助けたいのをじっとこらえて我慢しておられた姿が、この船の中で眠っておられるイエスさまの姿だったのではないか、そう思うようになったのです。「船は波をかぶって、水浸しになるほどであった」のですから、きっとその船の中で眠っておられたイエスさまにだって、たくさんの水がかかっていたことでしょう。それは、当然、イエスさまにとっても、苦しいことだったはずです。でも弟子たちのために、その苦しみの中でも、イエスさまはそれを耐え、あえてそこに留まられるのです。

 

子どもが思春期を迎える頃、子どもが何か困難の中にある時、その子の成長のために、親がすぐに具体的に助けるのではなく、今すぐにでもどうにかしてあげたい気持ちをぐっとこらえて、しばらくの間、わが子がその困難と闘う姿を見守る、そんな時があります。それは親にとっても大変辛いことです。でも、「きっとあの子なら大丈夫、立ち上がることができる」とそう信じて、その子の成長、自立を考え、あえてすぐに手を差し延ばさず見守るのです。イエスさまもきっとそうした思いで、ご自身苦しみつつも、じっとそれに耐えながら、船の中で眠っておられたのではないだろうか、そのように思います。

 

でも、だからと言って、決してイエスさまはただいつまでも眠っていただけではありませんでした。彼らが「もうだめだ」!と、そう思ったそのギリギリのところで、イエスさまはちゃんと起き上がられ、風と波を静められ、彼らを助けてくださいました。私たちに対しても、イエスさまは、「君なら大丈夫!きっとできる」そうやって私たちのことを信頼して、痛みを覚えながらも見守ってくださっておられ、でも、その中で、私たちが「もうだめだ!」という、そうしたギリギリのところでは、決して私たちを見捨てず、必ず助けてくださる。イエスさまはそうしたお方であるということを、今日、私たちはみことばから受け止めたいと思います。

 

エスさまがご覧になるなら、「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか。」と、きっといつまでもそう言われてしまい続けるであろう、そんな私ではあるけれども、でもそんな私であっても、にもかかわらず、「君なら大丈夫!きっとできる」そう信頼して見守ってくださる、そしてもうだめだというギリギリの時に助けてくださる、イエスさまのその暖かいまなざしを心に刻み、主を信じ、主に従ってまいりたい。そのお方は、「いったい、この方はどなたなのだろう。風や湖さえも従うではないか」とまことに驚くべき力強いお方です。

 

主よ、私たちを導いてください。

 

様々なことに恐れ不安になる弱い私ですが、御子の暖かなまなざしの中に見守られていることを感謝いたします。また、困難の中で立ち上がれずダメになってしまいそうなその時、御子の助けの御手が延ばされることも感謝します。これからも私たちをお導きください。大きな地震で困難の中にある人たちを助け守り平安を与えてください。そのことで失われた尊い命をあなたが御手に受け取ってくださり、その周りの人を慰め癒してください。私たちの教会に、私たち一人ひとりにできることを示してくださり従わせてください。愛の主、救い主イエスさまのお名前によって祈ります。アーメン

 

あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るように。アーメン

 

動画 

2018-06-24.MP4 - Google ドライブ

 

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2018年6月17日 礼拝メッセージ

聖霊降臨後第4主日 2018年6月17日

 

「オートマティック」

エゼキエル書17章22~24、詩編92編13~16、マルコ福音書4章26~34)

 

わたしたちの父である神と、主イエス・キリストからの恵みと平和があなたがたにあるように。アーメン

 

私たちが自分自身を見つめる時、その罪深さと弱さを痛感いたします。しかしそうした私たちを神さまが赦し育ててくださる、これは私たちに大きな慰めであり希望です。今日の第一朗読と詩編、そして福音書のみことばは、みな、神さまが私たちを養い育ててくださり、豊かな実りを与えてくださる、このことを共通して語っています。

 

まず第一朗読のエゼキエル書では次のように語られていました。「主なる神はこう言われる。わたしは高いレバノン杉の梢を切り取って植え、その柔らかい若枝を折って、高くそびえる山の上に移し植える。イスラエルの高い山にそれを移し植えると、それは枝を伸ばし実をつけ、うっそうとしたレバノン杉となり、あらゆる鳥がそのもとに宿り、翼のあるものはすべてその枝の陰に住むようになる。そのとき、野のすべての木々は、主であるわたしが、高い木を低くし、低い木を高くし、また生き生きとした木を枯らし、枯れた木を茂らせることを知るようになる。」主であるわたしがこれを語り、実行する。」

 

梢とは、木の幹や枝の先っぽの部分のことです。背の高いレバノン杉(レバノン杉とはどういう木か調べてみましたら、杉と呼ばれるけど実は松の一種で、高さが実に40メートル程にもなるとのことでした。)その大きく立派な木から生え出ている小さな小さなその梢を、神さま自ら切り取り植えてくださる。また、その木から生えたばかりの、今にも折れてしまいそうな柔らかい若枝を、神さま自ら切り取り、イスラエルの高い山、その神々しい場所に植え変えてくださる。まずそのことが語られています。これはその前の章を見るとわかるのですが、神さまに背き、その御前に何度も何度も罪を犯し、そのことで傷ついたイスラエルの人たちを表しています。彼らが自分たちの犯した罪のせいで、深く傷ついていた。それは彼らの自業自得です。にもかかわらず、神さまは、そんな彼らを憐れみ、赦してくださり、悔い改めて新しく歩み始めようとする彼らを受け止めてくださるというのです。彼らは、大きなレバノン杉の小さな梢のように取るに足らないほどの小さな者で、すぐに折れてしまいそうな柔らかい若枝のように弱々しい者だけれども、神さまがそんな彼らを本当に丁寧に大切に扱い、新しく植えてくださる。神さまのみもとに導いてくださる。そのことがここで約束されています。

 

そして、神さまはその梢と若枝を植えるだけでなく、育ててくださるお方であることが続けて語られます。その小さな梢、弱々しい若枝を神さまはみもとで育て、「うっそうとした」というのですから、本当に立派な木へと育て、さらにはそこにたくさんの鳥、多くの命が宿るようにしてくださると、語られています。罪を犯し、傷つき、自ら滅びの道を歩んでいた彼らを、神さまは憐れみ赦してくださるだけでなく、新しい歩みを与え、養い、彼らを通して多くの人たちが命満たされるように育ててくださるのです。「主であるわたしがこれを語り、実行する」と、本当に力強い神さまの約束です。

 

これはかつてのイスラエルの人たちに語られただけではありません。新しい神の民、新しいイスラエルである私たちにも語られている神さまの約束です。私たちも神さまに背き、その御前に多くの罪を犯し、神さまを悲しませ、周りの人も悲しませ、さらには自分自身もその罪のせいで、辛い思いをし、滅びの道を歩まねばなりませんでした。それはまさに私たちの自業自得で、身から出た錆にほかならないわけですが、神さまは、そんな私たちであっても、にもかかわらず、見捨てず、その悔い改めの歩みを受け止めてくださるのです。神さまの御前に梢、また、若枝のような、そんな小さな私、弱々しい私を、神さまは憐れみ赦し、愛をもって大切に受け取り、新しく生かしてくださる。そして、養い育て、私たちが生き生きと生きていけるようにしてくださり、さらには、こんな私たちを、他の人たちが生き生きと生きていけるため用いてくださる。そのことを神さまは今日のみことばで、私たちにも力強く約束してくださっています。

 

続いて詩編ですが、その結びで次のように語られていました。「神に従う人はなつめやしのように茂り、レバノンの杉のようにそびえます。主の家に植えられ、わたしたちの神の庭に茂ります。白髪になってもなお実を結び、命に溢れ、いきいきとし、述べ伝えるでしょう。わたしの岩と頼む主は正しい方、御もとには不正がない」

 

初めにお話ししましたように、ここでも神さまが私たちを育ててくださることが語られています。主の家、神の庭、つまり神さまのみもとで、私たちに豊かないのちが与えられ、私たちが白髪になっても、つまり、私たちが歳を重ね、肉体的に弱さを感じるようになっても、なおも神さまが私たちに豊かな実りを与え、生き生きと生かしてくださり、さらには神さまを力強く証しして宣べ伝えることをさせ続けてくださると語られています。歳を重ね、身体が弱くなってくると、自分はもう神さまのために何もできなくなったと、私たちはそんな思いになるかもしれません。でも決してそうではないと、ここで語られるのです。もちろんそれまでできていたのに、歳を重ねると、できなくなることもたくさんあって、段々と寂しさが増していきます。けれども、歳を重ねても、身体が弱くなっても、そのことでできなくなることが増えていっても、そのありのままの姿で、私たちが神さまに生き生きと生かされ、豊かな実りを与えられ、なおも神さまを証しして生きることができる、神さまがそのために人生の喜びや慰めを私たちに与えてくださいます。

 

今日の第二朗読の終わりでパウロは、「キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた」と語っています。私たちは、歳を重ねても、いろんなところに弱さを感じるようになっても、このキリストにある新しさに日々生かされるのです。そして、その中で、日々新しい喜びと実りと証が与えられます。アンチエイジングという言葉があります。年を重ねる中で、どのように若さを保って生きていくか、美容や健康の分野でよく言われる言葉ですが、どれだけその努力をしたとしても、いずれは私たちのお肌も衰えるし、健康も弱っていきます。でも、私たちは、たとえ髪の毛が白くなったり、照り輝くようになったりしても、なおも死に至るその日まで、世が追い求めるアンチエイジングとは異なる、キリストにある新しさ、神さまによる若さに生かされ、成長させていただける、みことばは私たちにそう告げています。

 

そして、今日のイエスさまの福音です。イエスさまは、今日、二つのたとえをお話されます。短いですので、もう一度、お読みいたします。『イエスは言われた。「神の国は次のようなものである。人が土に種を蒔いて、夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。土はひとりでに実を結ばせるのであり、まず茎、次に穂、そしてその穂には豊かな実ができる。実が熟すと、早速、鎌を入れる。収穫の時が来たからである。」更に、イエスは言われた。「神の国を何にたとえようか。どのようなたとえで示そうか。それは、からし種のようなものである。土に蒔くときには、地上のどんな種よりも小さいが、蒔くと、成長してどんな野菜よりも大きくなり、葉の陰に空の鳥が巣を作れるほど大きな枝を張る。」』

 

ここでイエスさまが、神の国は次のようなものである」神の国を何にたとえようか。どのようなたとえで示そうか」とお話しされているように、この二つのたとえは、いずれも神の国についてのたとえです。神の国と聞くと、私たちは私たちが死んだ後に召され赴く、死後の世界としての天国のことを思い浮かべるかもしれません。もちろんそれも間違いではありません。私たちがこの地上の生涯、この世の命を終えたとき、神さまが永遠の天の御国に私たちを迎え入れてくださる。これは私たちのとても大切な希望です。しかし、聖書が伝える神の国とは、ただそうした死後、私たちが召される場所のことだけを表すわけではありません。神さまが私たちを支配なさる、そのことを表しています。もっとわかりやすく言うなら、神さまの導きの中で私たちが生かされること、それが聖書が告げている神の国であると言ってもよいでしょう。その延長線上に、死んだ後に私たちが召される天国もあるわけです。ですから、イエスさまは今日の二つのたとえで、神さまの導きの中で私たちが生かされるとは、一体どういうことであるのかを告げておられるということになります。

 

まずは、種のたとえです。人が種を蒔き、私たちにはどういう仕組みかわからないけど、ちゃんと芽が出て、毎日ちゃんと成長し、収穫が与えられることが語られています。次に、からし種のたとえ、吹けばどこかに飛んで行ってしまうような小さな小さなからし種。でもそれが植えられると、どんどんどんどん育ち、どんな野菜よりも大きくなって、たくさんの鳥がそれに巣を作るほど、とてつもなく大きな枝になることが語られています。

 

ここで語られているのは、小さな小さなものが、その仕組みを私たちはわからなくとも、たしかに大きく育ち、そこに豊かないのちを宿すということです。神の国、神さまの導きの中を私たちが生かされるとはそういうことだと、イエスさまはお話しなさり、やはり、今日の共通する主題、神さまが私たちを育ててくださることがここでも語られています。私たちが神さまを信じて過ごす中で、「こんなに長く信仰生活を送っているのに、なぜ私はこれほどまで罪深く、私の信仰はこんなに弱いのだろう」と思い嘆くことが少なくありません。神さまの悲しむことを繰り返ししてしまうし、何かあったらすぐに不安になるし。私たちが、そうした自分の姿をしっかりと見つめ、省みることはとても大切なことです。「自分は清く信仰深いのに、あの人は罪深く信仰も弱くてダメだ」、もし万が一、私たちがそんな思いを持っているなら、それこそ大きな問題です。自分の不信仰さ、罪深さをしっかりと見つめ、認めたいと思います。

 

しかし、私たちがそうした自分の姿を受け止める時、今日のイエスさまのみことばが、私たちの心に響いてきます。罪深いあなたの弱く小さなその信仰を、神さまが育ててくださると。私たちが自分で見るならば、もうどうしようもない、そんな自分でしかないかもしれないけれど、でも神さまがちゃんと芽を出させ、育て、こんな私たちでもそこで多くの命が育まれるように用いてくださる、イエスさまの約束が私の心に響くのです。

 

今日、イエスさまは「土はひとりでに実を結ばせる」とおっしゃっていますが、この「ひとりでに」という言葉は、新約聖書のもともとの言葉のギリシア語では「アウトマテー」という言葉です。この「アウトマテー」は、英語の「オートマティック」のもととなった言葉です。自動車のオートマティック車、オートマ車のオートマティックです。運転手がいちいち自分でギアチェンジをしなくても、走っている最中に車が自動的に、「ひとりでに」ギアを切り替えてくれる車のことです。私たちの信仰も、それは土の中にある種のような目に見えないものであるけれど、私たちがあれをしてこれをして、私たちが理解して、というのでなく、私たちがわからなくても、私たちには「えっ?いつの間に?どうして?」と、そのように思う驚くべきことだけど、神さまが私たちのその信仰を、ちゃんと育てて実りを与えてくださる。そうして神さまの導きの中に私たちを生かし、私たちを通して多くの人をも神さまの導きの中に生かしてくださり、神の国が広がる、イエスさまはそう今日お話しなさるのです。私たちの目には見えなくても、神さまは確かに働き、この私を育ててくださいます。

 

このように、今日のみことばは、繰り返し、神さまが私たちを育て実らせてくださると約束しており、「成長させてくださったのは、神です」パウロが語っているこの言葉を思い起こします。植物が育つ際、水や栄養分が必要なように、神さまも、私たちを養い育てるため、日々命の糧を与え、豊かに働きかけてくださいます。みことばにより、洗礼と聖餐により、また祈りやさんびにより、さらには他の人の暖かな愛のかかわりにより、私たちは、自分たちでは気づかないうちに、神さまの働きで「ひとりでに」育てられているのです。何よりも神さまは、御子、救い主イエスさまをお遣わしになり、その十字架と復活という驚くべき仕方で、罪深く弱い私たちの救いと命を「ひとりでに」成し遂げられました。私たちはこのことを深く神さまに感謝し、神さまの聖霊の導きより日々新たに生かされ、育てていただきたいと願います。

 

主よ、私たちを導いてください。

 

罪深く弱い私たちを、あなたの憐れみによって赦し、またあなたの働きによって育ててくださっていることを心より感謝いたします。御子の十字架と復活により罪赦され永遠のいのちを与えられたその救いの新しい命を感謝して、これからもあなたによって日々新たにされながら歩んでいくことができますように。あなたの働きのために、この私を用いてください。救い主イエス・キリストによって。アーメン

 

あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るように。アーメン

 

動画 2018-06-17.MP4 - Google ドライブ

 

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洗礼と聖餐

きょう礼拝の後、はじめて礼拝にいらしてくださった方から、洗礼聖餐について質問がありました。

 

なかなかわかりやすく説明するのは難しいのですが…頑張ってみます(^_^;)

 

洗礼とは、私たちが、神さまの独り子であるイエスさまのことを神さまが私たちのために遣わしてくださった救い主として信じて、クリスチャンとして生きるために、神さまへの信仰を告白して、頭に水を注いだり、全身を水に浸したりする儀式のことです。その洗礼によって、神さまが私たちの罪の汚れを洗ってくださって、神さまを信じ、神さまに従う新しい人として生かしてくださることを信じます。

 

聖餐とは、イエスさまが十字架にかかる前の夜の食事(最後の晩餐)で、パンとぶどう酒を「これはわたしの体である」「これはわたしの血である」と言いながら、弟子たちに与えられたことを起源とするもので、私たちもイエスさまの体と血(すなわち、十字架)によって神さまの救いが与えられることを信じて、パンとぶどう酒をいただく儀式です。現代では、教会によっては、パンとしてウェハースのようなもの(ホスチアと言います)をいただき、ぶどう酒の代わりにアルコール依存症の人や車の運転手、また子どもたちに配慮してぶどうジュースをいただくところも多いです。(もちろん実際に普通のパンやぶどう酒をいただく教会もたくさんあります。)