yukaina_gorilla’s diary

ごりらぼくし(大麻ルーテル教会/北見聖ペテロ・ルーテル教会)です。聖書や教会のこと、社会のこと、ペットのことなど書いていきますね。

黙想 マタイ14:22~33

マタイによる福音書14章22~33節 黙想

22それからすぐ、イエスは弟子たちを強いて舟に乗せ、向こう岸へ先に行かせ、その間に群衆を解散させられた。23群衆を解散させてから、祈るためにひとり山にお登りになった。夕方になっても、ただひとりそこにおられた。24ところが、舟は既に陸から何スタディオンか離れており、逆風のために波に悩まされていた。25夜が明けるころ、イエスは湖の上を歩いて弟子たちのところに行かれた。26弟子たちは、イエスが湖上を歩いておられるのを見て、「幽霊だ」と言っておびえ、恐怖のあまり叫び声をあげた。27エスはすぐ彼らに話しかけられた。「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」28すると、ペトロが答えた。「主よ、あなたでしたら、わたしに命令して、水の上を歩いてそちらに行かせてください。」29エスが「来なさい」と言われたので、ペトロは舟から降りて水の上を歩き、イエスの方へ進んだ。30しかし、強い風に気がついて怖くなり、沈みかけたので、「主よ、助けてください」と叫んだ。31エスはすぐに手を伸ばして捕まえ、「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」と言われた。32そして、二人が舟に乗り込むと、風は静まった。33舟の中にいた人たちは、「本当に、あなたは神の子です」と言ってイエスを拝んだ。 

 

「イエスは弟子たちを強いて船に乗せ、向こう岸へ先へ行かせ」られた。そして、イエスはまたひとり祈りの時を過ごされる。イエスは、きっと洗礼者ヨハネの死を悼み、また、イエスの周りに集まってきた一人ひとりの痛みを覚えながら、そして、弟子たちの歩みとその働きのために祈られたであろう。

 

私たちの歩みと働きは、イエスの祈りの中にある。イエスは、私たちのために祈ってくださっている。私たちは、自分の力で歩み、働いているのではない。イエスの祈りに包まれ、支えられて、歩み働いているのだ。弟子たちをただ無理やり向こう岸へ行かせて、決して、「我関せず」ではない。イエスは、私たちのために祈り、心の目で見守っていてくださる。

 

弟子たちの船旅。船は、世界教会協議会のシンボル。キリストの教会は、この世界の海原を旅する舟。そして、私たち一人ひとりの船旅。しかし、その弟子たちの船旅に嵐が起こる。思いもかけない嵐が、私たちを、そして教会を襲うことがある。「船は既に陸から何スタディオンか離れており」→もはや後には戻れず、かと言って前に進むこともできない状態。立往生。立ち向かう逆風。襲い狂う波によって。

 

しかし、どんなに大変な中にあっても、必ず夜明けが来る。イエスが彼らのもとに来られることによって夜明けが私たちにもたらされる。復活なさったイエスの「おはよう」という挨拶を思い起こす。死と滅びの闇が、いのちの主であるイエスの到来によって破られるのだ。

 

エスは、スーパーマンウルトラマンのように空を飛んでくるのでも、ドラえもんのようにどこでもドアを使って瞬間移動なさるのでもない。イエスは、湖を歩いてこられる。逆風に立ち向かい、荒波を乗り越えて、弟子たちのもとに来られるのだ。それは、イエスにだって苦しいことだ。イエスにとっても困難なことである。しかし、イエスは、たとえご自分が、そうした困難や苦しみを引き受けられることになっても、弟子たちを助けに来られる。苦難のしもべ、十字架の救い主。

 

ここからも、イエスの姿が見えなくても、沈黙されているように思えても、そして離れているように思えても、弟子たちを守り、配慮なさっていることを私たちは知ることができる。

 

しかし、イエスがすぐそこにおいでになったのに、残念ながら、弟子たちはそのことに気づくことができない。イエスが今彼らのために働こうとしてすぐ近くにいらしてくださっているのに、それに気づくことができず、むしろ恐れてしまう。それは私たちの姿だ。イエスが私たちを助けるために、すぐそばまでいらしてくださっているのに、私たちは恐れ、慌てふためき、叫びの声を上げてしまう。「幽霊だ」なんて、本当ならそんなもの存在しないのに、不安になり、恐れてしまう。

 

でも、イエスはすぐに彼らに、そして私たちに話しかけられる。私たちから見たら、イエスは長い時間沈黙しているようにしか思えないかもしれない。イエスの御声が聞こえてこないかもしれない。でも、主の時と私の時は違う。イエスは、私たちが本当に必要とする、ギリギリのその時、「すぐに」話しかけられる。

 

「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」。何が起こっていても、イエスがいらしてくださるとき、そこに安心がもたらされる。「わたしだ」出エジプト記モーセが、神に名前を尋ねる。その時の神の答え「わたしはある、わたしはあるという者だ」。「有って、有る者」。必ずおられるお方。何が失われても、どんなことが起ころうとも、「わたしはたしかにいる」ほかでもなく「わたしこそがいる」その神であるお方が、今、苦しみと困難を引き受けて、私のもとにいらしてくださる。私を助けてくださる。だからもう「恐れることはない」。恐れはこのお方によって私たちから取り除かれるのだ。恐れはもはやこのお方の前に敗北するのだ。

 

ペトロは、この方の助けを受け止めて、荒波の中、逆風に逆らって、新たな一歩を歩み出そうとする。そして、イエスの言葉に従って、彼が一歩を歩み出した時に、それが可能となる。しかし、そのように歩む中で、すぐに、彼は自分に向かって吹いている風に心を奪われる。そのとき、再び心が恐れに支配され、もう前に進めなくなり、またその状況に、彼は溺れかけてしまうのだった。イエスの言葉に従い、イエスを見つめているときは前に進めるが、その歩みを重ねる中で、イエスの言葉や助けを忘れ、逆風や荒波、そして自分自身の努力を見て、進めなくなり、溺れてしまう、そんな弱さや傲慢さを抱えている私たちの姿をここから思う。

 

そんなペトロ、そして私たちにイエスは手を伸ばされる。捕まえてくださる。私たちを捕えたもう力強い、そして優しい主の御手。このイエスの御手に捕らえられてこそ、私たちは歩んでいくことができる。しっかり私たちの手を握っていてくださる。その歩みの中で、私たちは弱さゆえに、失敗を繰り返し、たまに、いや、頻繁に、イエスに叱られてしまうかもしれない。でも、それでもまた、イエスはそのたびに手を伸ばして、私を捕えてくださる。

 

小さな子どもは、すぐにどこかに行ってしまう。そして、転んだり、水たまりの中に入ってしまったり、けがをしてしまったり、そのたびに、親や先生方は、「大丈夫?」→「手を離したら、こうなっちゃうんだから、手つないでいてね」→「だから離しちゃダメって言ったでしょ!」そのように慰めたり、励ましたり、叱ったりしながら、また子どもの手を取って、しっかりと握って歩んでくださる。私たちとイエスの関係も、これと同じだ。

 

そして、イエスはペトロの手を取りながら、船に乗られる。その時、嵐は収まった。弱さある私たち、失敗を繰り返してしまう私たち。私たち信仰者の交わり、一人ひとりには、実にいろんなことがある。でも、イエスが私たちの手を乗り、人生の舟、教会の舟に乗ってくださる。そして、そのことで嵐を静めてくださるのだ。

 

「本当に、あなたは神の子です」私たちのために祈ってくださるイエス、私たちのために困難や苦しみを引き受け、私たちを助けにいらしてくださるイエス、みことばを力強く語り私たちを励ましてくださるイエス、そして弱いわたしのために手を伸ばし、しっかりと捕らえていてくださるイエス、私たちの船旅に乗り込んでくださるイエス、このお方が、神の子として私たちとともにおられる。

 

「安心しなさい、わたしだ、恐れることはない」!アーメン!

ミサイル騒動に思うこと

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これが今朝届いたJアラートのメールです。一通目として、今朝6時2分付のものが届きました。日本の上空を通過したのが、6時7分です。その間5分です。瞬間移動とかしない限り、これでは、どうにもできません。

 

携帯を持っていなかったり、充電が切れていたりするなら、これまたどうにもならないでしょう。私も充電があと20数パーセントでしたから、もう少し遅かったら、受信できなかったでしょうね。受信しても何もせずにテレビをつけて観ていたぐらいですが。

 

安倍首相は「ミサイルが発射されてからミサイルの動きは完全に把握している」と発言していましたが、かつて「放射能は完全にブロックされて、コントロール下にある」と言った彼が言うところの「完全」ですから、怪しいものです。

 

事実、政府は、今回、最初「6時6分」に日本上空を通過したと言っていたのに、後で「6時7分」に通過したと修正になりました。「完全に把握」していたら、こういうことは起こらないでしょう。1分の違いじゃないか?そうです。5分間のうちの1分です。「たかが1分、されど1分」です。

 

今回、日本上空数百キロの高さを、ミサイルが飛んでいたと言います。もうそこは、宇宙です。そして、千数百キロのところに落下。日本から離れてロシア領の近くです。でも、あれだけの騒ぎ。政府に何か騒ぎたい理由があるのだろうか?国民や隣国を煽りたいのだろうか?とも勘繰ってしまいます。

 

「狼少年」のおはなしではありませんが、こんな警報騒ぎをしていると、いざという本当に危ない時に、アラートを出しても誰も本気に反応しなくなるかもしれません。

 

もっとも反応できるとしても、たった数分で何ができるでしょうか。頭を抱えて屈む?それで防げるなら、あまりたいした心配は要らないでしょう。地下に逃げ込む?地下がないときはどうする?また、たとえば札幌で一斉にみんながチカホに逃げ込んだら、どうなる?きっと大パニックです。

 

迎撃?そんな簡単にできません。もし、簡単に撃ち落としてしまうなら、日本が先制攻撃をしたことになり、宣戦布告し、開戦したと受け止められてしまうでしょう。しかも国際法に違反してしまうことにもなりかねません。憲法を変えても、国際法上禁止されている攻撃はできませんよ。

 

アメリカに頼る?今回のアメリカの反応は「本国に脅威なし」ですって。それが実態です。

 

このように、ミサイルが本当に飛んできたら、もうどうにもできない、と考えたほうが良いでしょう。それではどうするか?

 

どれだけ厳しい状況でも、また、難しくても、ミサイルを撃たせないように、外交に努めることが、やはり大切であり、必要なことではないでしょうか。お花畑的な発想だと思われるかもしれませんが、この努力を辞めて解決するかのような思いこそ、それこそお花畑でしょ。

 

現在のアメリカ追従の外交姿勢を見直すことも必要でしょうね。日本がアメリカの手下のようにヘコヘコしている限り、他国からすれば、日本もまたアメリカの同類と見なされて、攻撃されてしまう危険は大いにあるでしょう。

 

さらに、やはり歴史をきちんと省みること。日本がいくら先の戦争の正当性を主張しても、アジア諸国がそう思っていないなら、その言い分は成り立たないでしょう。今日8月29日、日本が韓国を併合した日に、ミサイルが発射されたことにはそうしたメッセージもあるのかもしれません。

 

*ミサイルの発射自体を肯定する思いは毛頭ありません。「飛ばすなよ」という思いでいっぱいです。でも、それとともに、日本として考えること、改めるべきことがあるのでは?と思い、まとめてみた次第です。

性差を問わない牧師按手について(2)

性差を問わない牧師按手についてのテーゼ

(聖書からの考察[1]

 

1.神は、ご自分にかたどり、ご自分に似せて、人を男と女に創られた(創世記1:26,27)。男も女も双方とも、神の似姿によって創造された尊い存在であって、創造の秩序において、一切の序列や上下関係は存在しない。男女ともに、神の目から見て、「極めてよい」ものとして創造されたのである(創世記1:31)。

 

2.神は、人にこの地上を支配・管理する務めを与えられた(創世記1:26~28)が、これも男にも女にも、その双方に対してで与えられた使命であり、いずれか一方の性にのみ与えられたものではない。

 

3.神は、最初に男性を創り、「人が独りでいるのはよくない。彼に合う助ける者を創ろう」とおっしゃって(創世記2:7,18.21,22)、もう一つの性である女性を創造された。ここでの「助ける者」とは、男性より劣る、男性の補完的・助手的な立場ではなく、男性と対等の、その助けがなければ男性の存在そのものが危ぶまれるほど重要な存在である(「助け」=詩編121)。また、「彼に合う」という用語は、「相対する」「向き合う」「ぴったり合致する」という意味で、そこにも上下関係はない。割れた茶碗の欠片同士がぴったりと合わさって、はじめて一つの形となるように、その相手がいなければ、成り立たないそうした不可欠な存在である。

 

4.最初の男アダムは、最初の女エバを見たとき、「ついに、これこそ、わたしの骨の骨、わたしの肉の肉。これをこそ、女と呼ぼう、まさに男から取られた者だから」と感嘆の声をあげる(創世記2:23)が、これまた男女の優劣や上下関係について述べているものではない。相対して向き合って助け合って生きるべき、男性と女性の双方が、神によって創造されたことへの喜びの叫びである。

 

5.神は、アダムに対して「善悪の知識の木」の実を採って食べることを禁じ、もし食べるならば死に至ることを告げられた(創世記2:17)。エバは、それをアダムから聞いていたであろうが(創世記3章2,3節)、しかし蛇に騙されて食べてしまう(創世記3:1~6)。そして、エバから実を受け取ったアダムもそれを食べた(創世記3:6)。ここには、アダムとエバ、ふたりの罪が語られているのであって、そのいずれかの罪の大小について語られているものではない。

 

6.この出来事に対して、神はアダムとエバの双方を裁かれた(3:16~18)。エバには、生みの苦しみが与えられることと、「お前は男を求め、彼はお前を支配する」との裁きが告げられる(創世記3:16)。しかし、これは男が女の上に立って支配することが神によって容認されたわけではない。これは、アダムとエバ(男と女)が、神の戒めに反して罪を犯した裁きとして告げられていることであって、神が定めた恒久的な規定として定められたものではない。人の堕罪のゆえに生じた不均衡である。それゆえ、私たちが罪の悔い改めに生きるなら、この罪の裁きの状態を乗り越え、本来あるべき創造の秩序を目指さねばならない。つまり、男と女の双方が、お互い向き合いながら、互いに無くてはならない存在として助け合って、喜び合って生きる在り方を求め、その実現のために努めなければならないのだ。

 

7.後述もするが、1テモテ2章において、男が先に創られ、女が後に創られたこと、また、女が騙されてアダムは騙されなかったことが、女性は静かに学ぶべきで、教会で教えたり、男の上に立ったりすることを禁止する根拠とされている(1テモテ2:11~14)が、これはテモテ書の著者自身による解釈であり、全時代にあてはまる恒久的・恒常的な規定ではない。少なくても創世記そのものの記述からは、テモテ書のような解釈は導き出すことはできない。もしこれが恒久的・恒常的な規定であるならば、それに続く15節を、私たちはどう受け止めればよいのか。出産をしない/できない女性は、「救われない」ままとなってしまうではないか。

 

8.ヘブライ語聖書の中で、神の救いの歴史のために用いられた、多くの女性たちの存在が伝えられている。モーセの姉ミリアム(出エジプト記15:20ほか)、神のことばを伝えた預言者デボラ(士師4:4ほか)、王妃エステル(エステル記)など、男性たちと協働をして、民の指導的な立場にあった女性についても、聖書は言及している。神は、男性であっても、女性であっても、その性差を問わず、ご自分の選びによって、神の計画を進め、神のことばを伝える、民の指導的な立場として用いられるのだ。

 

9.ヘブライ語聖書には、祭司職には女性が登用されたことは記述されていない。また、女性には月経があるがゆえに、その期間は「汚れている」とされる(レビ記17:19など)ことが、神殿の奉仕にふさわしくないものとされた一つの理由として考えられる。しかし、男性もまた、射精がなされるならば、その者は汚れているとされたのであり(レビ記17章16)、女性の汚れだけを採り上げて論ずることはふさわしくない。また、ヘブライ語聖書には、様々な食物規定や安息日規定も定められており、現代の私たちは福音の信仰のゆえに、これらを遵守はしていないし、その必要性をも受け止めておらず、それらの規定からは自由である。それなのに、女性の月経による「汚れ」だけを理由に、女性按手を拒むことは、二重規範ダブルスタンダード)である。そもそも、現代の私たちも女性の月経や男性の射精を、宗教的な「汚れ」とみなすのか。

 

10.旧約聖書の中で祭司は、犠牲の動物をささげる働きを担い、それは男性の務めであった。しかし、現在の礼拝において、犠牲の動物がささげられることはなく、それゆえ、今日の教会において礼拝を司式する者が女性であってはならない根拠とはなり得ない。

 

11.エスは、従う者たちに、従い、仕えることを命じられた(マルコ8:34,10:43~45など)。福音書には、女性たちもイエスに従い、仕える歩みをしていたことが伝えられる(ルカ8:2~3ほか)。また、「もてなした」と訳される言葉も、直訳するなら「仕えた」という意味になる(マルコ1:31,4:39,10:40など)。さらには、イエスが十字架にかかり苦しみ死なれた時、その最期まで従ったのは、逃げ去った男性の弟子たちではなく、女性たちであった(マルコ15:41ほか)。イエスの復活を最初に知ったのも、イエスに従い仕えていた女性たちである(マルコ16ほか)。

 

12.たしかにイエスの12弟子たちは男性であったが、福音書において、イエスが「弟子が男性でなければならない」と言及し規定しているところは皆無である。イエスの弟子たちが男性であったからといって、現在の牧師が男性でなければならないという結論を導き出すことは不可能だ。牧師職は、イエスの弟子たちの働きを受け継ぐものではあるが、彼らの性別や彼らの存在そのものを受け継ぐものではない。むしろ、イエスが命じた、イエスに従い、仕える歩みを、イエスの死に至るまで貫徹し、復活を最初に知り伝えた女性たちの優れた弟子性をこそ、私たちは受け止めるべきであろう。

 

13.マルタの信仰告白ヨハネ11:27)、最初に復活の証人となったマグダラのマリアヨハネ20ほか)など、福音書は、女性たちの優れた信仰や活躍を伝えている。また、イエスの言葉には、そのどこにも女性が弟子であることを斥ける言及はない。

 

14.エスは、天の国の鍵の務めを、ペトロに授けられたが(マタイ16:19)、私たちは、福音の信仰のゆえに、それをペトロ個人にその務めが与えられたものとは受け止めない。イエスに従い、信仰を告白する弟子たち全体に、それが与えられたものとして受け止める。そして、それは、その後、使徒的な信仰を継承する教会に継承されていると考える。そこでも男性に特化して、これを受け止める必要も根拠もない。使徒的な信仰の継承は、特定の個人ではなく、教会に受け継がれているというのが、私たちの福音の信仰である。

 

15.エスは、十字架にかけられる前の夜、いわゆる最後の晩餐において、聖餐の制定をした。そして、その後、捕えられ、歴史的にただ一度だけ、決して繰り返されることのない出来事として、十字架にかかられて死なれた。また、三日目に死者の中から復活された。私たちの行う聖餐は、「これを行え」と命じられたイエスの言葉に従い、イエスが語られた聖餐の制定のことばを宣言し、主の晩餐を行い、イエスの十字架の死を記念し、復活をほめたたえて行うものである。聖餐において、司式者が十字架を再現するのではなく、また聖餐の物素を犠牲として神にささげるのでもない。

 

16.その聖餐に仕えて司式をするものの性別について、イエスは何ら規定されない。私たちは、キリストの代理者となるわけではなく、キリストによって教会に託された働きを担うのであって、それは男性でも女性でも、教会の正規の召しによって担うことが可能である。

 

17.エス大宣教命令を、男性弟子たちにだけ与えられたものと、私たちは受け止めない。それは、全教会と全信徒に与えられたものである。それゆえ、それは、イエスによって、男性と女性の双方による共同体である教会に与えられた使命であり、また男性も女性もその双方に向けて託されている働きである。

 

18.福音書において、その他の、イエスが告げられた様々なみことばについても、私たちは、それをただ男性だけに語られたものとして聞きとり、説教することはない。性差を超えて男女双方に語られたメッセージとして、聞き取り、語っている。それゆえ、もし私たちが、牧師職についてのみ、ただ男性に特化したものとして受容するならば、それは二重規範である。

 

19.エス自身は、教会の中の特別な職制を設定されていない。イエスの昇天後、弟子たちの宣教と初代教会の形成の中で、当時の教会が、その必要性を感じ、職制は生み出され、時代や地域によってさまざまな形に変遷してきた。よって、イエス自身の言葉から、私たちが教会の職制の性差に関する規定を導き出すことはできない。

 

20.使徒言行録において、明確に牧師職についての言及はない。使徒たちや長老、預言者や、執事などの役割については語られているが、これはその後の教会の中で制度化された牧師職とは同等のものではない。

 

21.使徒の書簡に記述されている教会での働き人の呼称(たとえば監督や長老や奉仕者、預言者など)もまた、現在の教会での教職制度とは同等のものではない。このように教職制度は、キリスト教会の初めから存在していたものではなく、宣教が展開され、教会が形成される中で整えられてきたものであり、それぞれの地域や時代によって違いがあった。

 

22.エスの母マリア(使徒言行録1:14)、家の教会を主宰していたプリスカ(=プリスキラ。使徒18、ローマ16:3、1コリント16:19、2テモテ4:19など)、奉仕者(=執事)フェベ(ローマ16:1)など、使徒言行録や使徒の書簡に、初代教会にあって指導的な立場で活躍していた女性たちの名前も挙げられている。

 

23.ローマ16:6に名前が挙げられている使徒「ユニアス」は、古い写本で「ユニア」と記述されているものもあり、この「使徒」が女性であったことも考えられ、実際、教父の中にもこの人物を女性として解釈する者もいた。正確には、この人物が男女いずれであったかを明らかにすることは私たちにはできないが、しかし、たとえ、この人物が男性であっとしても、そのように古代教会において、聖書の中に女性の使徒が存在することが言及されていると解釈し、そのように伝えられていた事実があることには、注目すべきである。

 

24.1コリント14:13~14における、この「語ること」は、女性が礼拝で説教をすることを禁じることではなく、教会の中での秩序を乱した発言を禁止する言葉であると受け止める。また、このように女性が発言することが禁じられるということは、それまでは、指導的な立場にある女性たちが、男性たちと同等に、あるいはそれ以上に、コリントの教会の中で積極的に発言して、パウロもその対応に苦慮していた事実が実際にあったということもまた考えられる。

 

25.上記当該聖書箇所については、恒久的・恒常的な規定ではなく、当時のコリントの教会と社会の文化の状況の中での戒めとして受け止めるべきだ。もし、「聖書に書かれている」という理由で、私たちが教会において、女性による説教を認めず、さらには女性の牧師按手も認めないならば、他の様々な新約聖書にしるされている規定についても、私たちは守らなければならない。たとえば、エルサレム使徒会議における決定、「すなわち、偶像に献げられたものと、血と、絞め殺した動物の肉と、みだらな行いとを避けること」(使徒15:29)も守らねばならない。具体的には、卸売市場や収穫祭で神棚に備えられたものや、血が滴るレアステーキや、首を絞め殺された鶏肉などを、現代の信仰者は食べることができなくなる。あるいは、礼拝の際に男性がカツラをつけることは許されず、女性が被り物をつけないことも許されない(1コリント11章)。それらは過去の、もはや私たちが福音によって自由にされている、守る必要のない戒めとしておきながら、「女性は黙っていなさい」という戒めについては現在も守るべきとすることは、明らかな二重規範である。

 

26.1テモテ2:12~13については、先述の通り、この手紙の著者が述べている聖書理解が、必ずしも唯一の正しい聖書釈義ではない。アダムが先に創られ、エバが後に創られたことは、その優劣や上下関係を意味するものではなく、また、善悪の知識の木の実を食べたことについてもアダムもエバも双方とも罪を犯したのであり、そこに罪の大小はない。どうしても罪の大小をはっきりさせたいのであるならば、エバが蛇に騙されて先にそれを食べてアダムに渡したから、女性が男性よりも罪深いというよりも、神から直接的に禁止の戒めを聞き、エバよりも長い間、神とのかかわりをしていたアダムが、ただエバに勧められるままに食べたことの罪の重さを受け止めることもできよう。また、女性の出産による救いに関する言及にあるように、明らかに全時代のすべての人に適用することはできないし、してはならない記述もある。

 

27.上記当該聖書箇所は、「女は男の上に立つべきではない」ということを、女性が黙っていることの根拠として挙げているが、そもそも牧師職は「人の上に立つ」働きではない。それゆえ、女性が牧師として働き、また教会で語ること(説教をしたり教えたりすること)は「男の上に立つ」ことではない。むしろ、イエスがおっしゃったように、イエスに従い、奉仕者として歩むことこそ、イエスに学び従う弟子として、また牧師として大切な姿勢である。

 

28.1テモテ3:1~7およびテトス1:7~9で言及される「監督」が、直接、私たちの教会の牧師職と同等のものではない。また、たとえこれを今日の教会の牧師職の規定について述べられていると受け止めるとしても、「一人の妻の夫」のみが牧師になることができるということを文字通りに受け取るならば、独身男性は牧師になることはできないということになる。また、ここでは、そのようにその職務が既婚男性であることが前提されるのではなく、「一人の妻の夫」であること、すなわち「一夫多妻ではない者」ということが規定されていると考えられる。

 

29.上記当該聖書箇所では、牧師職に関する性差に定められているのではなく、どのような姿勢で、召されている働きに仕えるかについて語られていると受け止めるべきだ。決して既婚男性であればそれでよいと言われているわけではない。たとえ既婚男性であっても、ここで言及されていることに反する在り方をしている場合も少なくない。しかし、そういう者であっても、神の憐れみの中で、召された働きに仕えて働くことが許されている。よって、牧師職の性差の規定ではなく、様々な自分の姿勢や現実を省みつつ、悔い改めながら、その働きに仕えることの大切さこそ、この個所の主題である。

 

30. ガラテヤ3:26~28にあるように、キリストの救いを信じて洗礼を受けた者は、信仰者の交わり、また教会において、あらゆる差別が克服され、そこから自由とされている。教会の職制についてもまた、この自由の中で考え、決断していくべきである。キリストは、律法による隔ての壁を取り除き、二つのものを一つになさり、真の平和をお与えくださるお方だ(エフェソ2:14〜16)。いつまでも性差によって、牧師按手の制限を続けることは、このキリストに従う教会としてふさわしくない。私たち人間の側の選びではなく、キリストの選びによって、キリストの弟子として働くことが許されるのであるから(ヨハネ15:16)、教会は性差によって、牧師職の道を禁じることはふさわしくない。

 

2017年8月28日

日本ルーテル教団 大麻ルーテル教会/北見聖ペテロ・ルーテル教会 白井真樹 

(c) 2017 SHIRAI,Masaki

 

[1] 筆者自身は、聖書批評学の立場で聖書を理解しているが、本稿ではあえて批評学の立場ではなく、聖書を原典において逐語的に受容する立場での論述を試みる。

宗教改革500年 記念講演会・合同礼拝

他の教派の方も、ぜひどうぞ!

宗教改革500年 記念講演会・合同礼拝

 

2017年10月9日(月・祝)午前10時~午後2時半
札幌市保養センター駒岡(真駒内

 

参加費 1500円(入館料・資料代・昼食込)

 

講 演 パウロの福音理解の変遷」

       藤女子大学 阿部包教授

 

礼拝説教 日本聖公会旭川聖マルコ教会 牧師 広谷和文司祭

 

主 催 日本福音ルーテル教会北海教区・日本ルーテル教団北海道地区

 

宗教改革500年に、教会一致のための一歩を!》
  カトリック教会の信徒さんによる講演。
  聖公会の司祭さんによる説教。
  道内のルーテル教会が、教団の違いを超えて、共催。

 

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2017年8月27日 礼拝メッセージ

聖霊降臨後第12主日 2017年8月27日

 

「しか」を差し出すとき

(マタイによる福音書14章13~21節)

 

わたしたちの父である神と、主イエス・キリストからの恵みと平和があなたがたにあるように。アーメン

 

教会の働きを思うとき、みなさんの働きが実に豊かな力となっていることを思います。お掃除をしてくださったり、礼拝の準備をしてくださったり、聖書を読んでくださったり、奏楽をしてくださったり、幼稚園で仕えて働いてくださったり、今日の準備をしながら、そうしたみなさんの働きに改めて感謝な思いに導かれました。ありがとうございます。

 

さて、今日も福音のみことばに聴いてまいりましょう。そこには、イエスさまのなさった奇跡が伝えられています。「5千人の給食」として知られているものです。実は、この出来事は、それぞれ細かい描写は違いますが、4つの福音書すべてに共通して伝えられているもので、これは実に珍しいことです。初代の教会にとって、この出来事がとても大きな意味を持っていたということを、私たちはそのことからも知ることができます。

 

この出来事は、次のことばから始まっています。「イエスはこれを聞くと、舟に乗ってそこを去り、ひとり人里離れた所に退かれた」。このようになんだかとても寂しい感じで始まっているわけですが、「これを聞くと」という、その内容は一体どんなものだったのでしょうか。イエスさまはここで何を聞かれたのかということについては、今日のみことばの直前で伝えられています。そこで伝えられていることは、洗礼者ヨハネが時の権力者であるヘロデ王によって斬首されたという出来事です。しかも、ヘロデ王の誕生日祝いの席での余興として義理の娘が躍ったことへのご褒美として、ヨハネは首を撥ねられて殺されてしまったのです。何とも残酷な知らせがイエスさまのもとに届けられました。

 

エスさまと洗礼者ヨハネは親戚筋にあたります。それだけでなく、イエスさまはヨハネから洗礼を受けられ、働きを始められました。新約聖書学では、イエスさまがかつて洗礼者ヨハネが指導していたグループに属していたのではないか、そして、ヨハネの弟子だったのではないかという説もあります。このように、イエスさまは、ヨハネのことを親族として、また、神の救いを伝える宣教者として、たいへん良く知っていたし、お互いに尊敬し合っていた、そうした関係でした。

 

そして、ヨハネは、神の救いを求めて暮らしていた、民衆にとっても、たいへん大きな希望でした。彼は、神さまがこの世界に約束のメシアをお遣わしになられたことを人々に告げ、そのお方を迎えるために、自分の罪を悔い改めて洗礼を受けるように宣べ伝えました。大勢の人々が彼のもとに集まり、彼が語るメッセージを聴き、それに応え、メシアを待ち望みながら、洗礼を受けたのです。そうした中で、ヨハネその本人を、その約束のメシアであると受け止める人たちもいましたが、ヨハネはそれに対して一貫して「違う」「わたしはその方の履き物をお脱がせする値打ちもない」と言って、自分はメシアではなく、小さなものであり、みんなの思いを自分にではなく、イエスさまに向けるように呼びかけました。

 

その彼が、愚かな時の権力者の横暴により、たいへん残酷な仕方で殺され、亡き者とされてしまった。イエスさまにとって、それはたいへん大きな痛みであり、悲しみの出来事でした。親しいヨハネを失い、同時に、当時の人々の希望が消されてしまった、その二つの意味においてでした。

 

エスさまはその悲しみの中で、「ひとり人里離れた所に退かれた」のです。この「人里離れた所」という言葉ですが、新約聖書の中でたいへんよく使われる言葉がここで用いられています。それは直訳するならば「荒れ果てた場所」という意味で、「砂漠」とか「荒れ野」とか訳すことができる言葉です。イエスさまはヨハネが斬首された知らせを聴き、ひとりで荒れ野へと退かれるのです。かつてヨハネから洗礼を受けられた後に荒れ野に行かれたのと同じようにです。

 

エスさまがそのようにひとりで出かけられるときなさることは、祈ることでした。ここでは、ヨハネの死を悼みながら、イエスさまは神さまに祈られたことでしょう。しかし、イエスさまの祈りは、ただの祈りだけでは終わりません。祈られて、そこから新しい歩みを始められるのです。イエスさまに洗礼を授け、聖書のみことばについて一緒に語り合い、イエスさまも大きな影響を受けておられたであろうそのヨハネを失い、民にとっての大きな希望も取り除かれた今、イエスさまは神さまに祈り、神さまからの慰めと励ましをいただき、そこからまた新しい歩みを始められます。

 

その時、大勢の人々がご自分についてきていることに、イエスさまは気付かれます。たとえ、この世の権力者によってヨハネが亡き者とされても、それによって、人々に向けての神さまの働きは終わりにはなりません。イエスさまに与えられた働きは、今なお、いえ、それまでよりも尚一層大きなものとなるのです。人々は、とても痛み傷ついていました。日々の生活に疲れ、とても苦しんでいました。イエスさまは、その人たちの痛みを、ご自身の痛みとして受け止められます。彼らをご覧になり、自分のはらわたが引きちぎれるような痛みを覚え、また母が自分のお腹を痛めて産んだ子の苦しみを思い悲しむように、一人ひとりの悲しみをご自分の身に受け止められるのです。

 

それはあたかも、イエスさまが今まさにそこにおられる荒れ野のような状況でした。人々は生きる希望も喜びも失われ、心が渇ききって荒れ果てた、そうした荒れ野のような状況だったのです。そんな彼らのことを、イエスさまがそのまま放っておくことはできません。人々の大きな希望だったヨハネが失われた今、尚一層、この世の荒れ野の中で、また、そこに生きる一人ひとりの心の荒れ野にとって、イエスさまの働きが必要なのです。

 

エスさまは、彼らにみことばを語られ、彼らの病いを癒されます。彼らの荒れ果て渇ききった心と体に、神さまからの癒しと潤いがもたらされ、彼らが少しでも慰められ、励まされて、再び希望を抱いて、歩み出すことができるように、時が経つのを忘れるぐらい、イエスさまは、熱心に一人ひとりとかかわられたのです。しばらく経って、その場にいた弟子たちのうちの一人が、イエスさまに申し出ました。「ここは人里離れた所で、もう時間もたちました。群衆を解散させてください。そうすれば、自分で村へ食べ物を買いに行くでしょう。」

 

この弟子の申し出は、何も間違ってはおりません。人里離れたその場所で、人々のお腹を満たす食べ物を得ることはできません。しかも、そこは荒れ野や砂漠のような場所なのですから尚更です。今ならちょっと行けばコンビニがあるかもしれませんが、当時はそう言う訳にもいきません。まして、今日のみことばの終わりに、「女と子供を別にして、男が五千人ほどであった」というのですから、少なくても五千人、いえ、イエスさまの周りに集まってきたのが成人男性だけだったはずはないでしょうから、五千人に加えて、あと他にもなお数千人の人たちがいたでしょう。そうした人々のお腹を満たす食べ物を、たとえ近くにお店があったとしてもそう簡単に調達することはできないでしょう。常識的に考えても、ここで弟子が申し出た通り、ここで人々を解散させなければならないのです。

 

でも、イエスさまは、ご自分の弟子たちに驚くべきことをおっしゃいます。「行かせることはない。あなたがたが彼らに食べる物を与えなさい。」「なんてことだ!」と言いたくなる、今のことばで言うならたいへんな無茶ぶりを、イエスさまはなさるのです。弟子たちは、きっと口々に、「いや無理でしょ」、「先生ったら、もう一体、何をおっしゃるんだ」と、そんな風につぶやいたことでしょう。そして彼らはイエスさまに答えます。「ここにはパン五つと魚二匹しかありません。」

 

そうです。荒れ野のようなこの世の荒れ果てた現実、一人ひとりの荒れ野のような渇ききった心を前にして、私たちは、何の役にも立たないような一人一人です。自分の持っているものや才能を見ても、「これしかありません」と、イエスさまに応えなければならない、そんな実にちっぽけな者なのです。本当にもどかしさと無力さを感じます。でも、イエスさまは、この世の荒れ野で、そして一人ひとりの荒れ野の心に関わるために、「あなたがたがどうにかしなさい」と、私たちにおっしゃいます。それに対して、「イエスさま、無理です。無茶です。できません。」私たちはそう答えるしかありません。

 

そのように、「しかありません」と応えざるを得ない弟子たちと、私たちにイエスさまはおっしゃいます。「それをここに持って来なさい」。弟子たちはイエスさまの言葉に応えて、彼らの持っていた、たった5つのパンとわずか2匹の魚、それだけ、しかし、彼らの持てるすべてを、イエスさまに差し出しました。イエスさまは彼らの手からそれをご自分の御手に受け取られます。そして、それを手にしながら、神さまを賛美しながら祈りをなさるのでした。

 

そうするとどうでしょうか。驚くべきことに、イエスさまがちぎっては弟子たちに渡し、ちぎっては弟子たちに渡すパンは、決して尽きることなく、そこにいた多くの人たちの手に渡りました。魚もイエスさまから弟子たちに手渡され、弟子たちがそこにいたみんなに配ったことでしょう。その結果、そこにいたみんなが満腹することができたのです。わずか5つのパンと2匹の魚が、弟子たちの手からイエスさまの手に差し出されるとき、そして、それをイエスさまが受け取られるとき、彼らが思いもしなかったことが起こったのでした。実にそこにいた何千人もの、みんなが満たされたのです。しかも、なおも、12の籠一杯に余ったと言います。12の籠です。イエスさまの12弟子一人ひとりが携えて、出会う人たちに配ることができるだけの分が余ったのです。

 

私たちはこういう出来事を聖書で読むと、「こんなこと、実際に起こるわけないだろう」と思うかもしれません。なにかお伽話のようなものだと。でも、ここで大事なことは、誤解を恐れずに言うならば、これが本当に起こったかどうかということではありません。私たちがここからどんなメッセージを聞きとり、そしてどのようにイエスさまに従うかということこそ、大切なことだと思います。

 

それは私たちも、私たちの「これしかありません」を、イエスさまに差し出すということです。この世の大きな力により実に荒れ果てた現実の中で、また一人ひとりの心も渇ききっている中で、そうした現代の私たちの世界の荒れ野、一人ひとりの荒れ野の現実で、何の役にも立たないような無力な私の「これしかありません」という、その「しか」を差し出す時に、それをイエスさまが受け取られます。そして、私たちが思いもしないような、信じられないような、常識的に考えたら起こり得ないような、驚くべきほどに豊かな働きをして、この世とそこに住む人たちに癒しと潤いを与えて、彼らを満たすために、イエスさまが働いてくださる。私たちは、今日、このことを、みことばから受け止めたいのです。本当か嘘か、事実かお伽話か、そんなことではなく、イエスさまに、あなたの「これしかありません」のその「しか」を差し出してごらん、「それをここに持って来なさい」と、イエスさまは今日私たちに語りかけられるのです。

 

今日、準備をしていて、一つの言葉をとても新鮮に受け止めました。それは、イエスさまが、弟子たちが差し出した5つのパンと2匹の魚を受け取られ、「天を仰いで賛美の祈りを唱え」られたということです。これは、新約聖書の研究では、礼拝で行う聖餐式と関係あると考えられるわけですが、今日はもっと単純に受け止めたいのです。この世の荒れ野、人々の荒れ野の中で、何の役にも立たないような無力な私たちが、イエスさまに差し出す「これしかありません」と言う、その「しか」をイエスさまは受け取られ、神さまに賛美なさるというのです。イエスさまがそれを喜んで受け取られて、「みんながこれを私に差し出してくれました、神さま本当に感謝します、あなたを賛美します」と、そんな風に心から喜んでくださるというのです。

 

それが大きなものであるのか小さなものであるのか、そんなことは関係ありません。「これしかありません」と私たちが謙虚にイエスさまに差し出す時に、イエスさまはそれを本当に喜び感謝して受け取り用いてくださる。私たちもそのことを喜びながら、イエスさまに私の「しか」を差し出すことができればと願います。

 

はじめに、教会で、みなさんの働きが実に豊かな力となっているとお話しいたしました。イエスさまも喜んでそれを受け取り、さんびしながら豊かに用いてくださいます。こんなことしかできない、あんなものしかささげられない、でも、それをイエスさまにお渡しできればと思います。

 

主よ、私たちを導いてください。

 

この世の荒れ野、人々の心の荒れ野を前にして、何の役にも立たないような無力な私であることを思います。でも、イエスさまにそのちっぽけなわたしを差し出すことができるようにお導きください。イエスさまが喜んでそれを受け取り、豊かに用いてくださることを感謝いたします。教会の中で、あるいはこの世の中で、みなさんがイエスさまを信じるものとして、様々な働きをしてくださっていることを思い、あなたがそれを受け止め、豊かに用いてくださることも感謝します。イエスさまのお名前によって祈ります。アーメン。

 

希望の源である神が、信仰によって得られるあらゆる喜びと平和とであなたがたを満たし、聖霊の力によって希望に満ちあふれさせてくださるように。アーメン

 

動画:2017-08-27.mp4 - Google ドライブ

 

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北海道外キ連キャラバン

8月24日、25日 外国人住民基本法の制定を求める北海道キリスト者連絡会(北海道外キ連)のキャラバンに参加しました。

 

(1)24日一日目は、日本キリスト教会室蘭教会の会場で集会(学習会)が行われました。この学習会は、キャラバンのメンバーが学ぶと同時に、開催地の教会や市民の方々ともに一緒に学び、課題と取り組みを共有する意義があります。

まずヘイトスピーチの動画を鑑賞しました。これは、今までに何度も観ましたし、私のパソコンにも保存されていますが、何度観ても大きなショックを覚えます。

その後、林炳澤さんから、ヘイトスピーチについてのお話を伺いました。ヘイトスピーチは、表現の自由の問題ではなく、いのちの尊厳を脅かす人権侵害であって、これをゆるしてはならないことを改めて受け止めました。また、そのために、ヘイトスピーチを禁止する法律、さらには、外国人住民基本法の制定をも取ることの大切さも受け止めました。

次のプログラムは、宋富子さんの講演でした。彼女の自分史を通して、在日コリアンに対する差別や偏見の現実を受け止め、そうした中で、彼女が一人の在日コリアンの牧師とキリスト教の出会いから、ありのままの自分として生きることと、また日韓の交流の歴史を伝えることの使命を受け止めました。

キャラバン参加者や、集会に参加された方と一緒に交流会を行いました。

 

(2)次の日は、朝食後、1月に行われる全国外キ協の打ち合わせの後、現地学習に向かいました。

一か所目は、室蘭のイタンキ浜の近くにある、「中国人殉難烈士慰霊碑」を訪ねました。室蘭では、969人の中国人が強制連行され、310人(32パーセント)が亡くなったそうです(人数については、異なる記録もある)。戦後、道路工事の際に、地中から多くの犠牲者の遺骨が発掘されました。その歴史を忘れないため、市民によって建立された慰霊碑です。

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二か所目は、登別にある、知里幸恵銀のしずく記念館を訪れました。知里幸恵さんは、ひとりのアイヌとして、アイヌ文学をアイヌ語と日本語で紹介した女性です。彼女は、心臓病により、わずか19歳で亡くなったのですが、彼女の作品は今なお愛され、また大きな評価を受けています。その彼女の生涯や作品などを紹介する記念館です。アイヌ差別と共生について考えさせられました。

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その後、太平洋を眺めながら入浴できる温泉を楽しんで、集会(学習会)の会場に向きました。

 

(3)二日目の学習会は、カトリック苫小牧教会を会場に、前日と同じプログラムで行われました。教会の方も参加してくださり、豊かな集いとなりました。

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集会後はキャラバンメンバーで交流会をいたしました。そして、今朝早く起きて、私は北見教会の礼拝のため、新千歳空港に向かい、女満別経由で、北見に行きました。

 

今年も、よき学び、よき経験、よき交流の時を過ごすことができたことを、心より感謝いたします。

 

 

ルーテル教会の礼拝 ローマカトリック教会との比較から(メモ的なまとめ)

先輩牧師より、「礼拝における、ルーテル教会ローマ・カトリック教会との違いは何?」という問い合わせのメールをいただいたので、メモ風に箇条書きにまとめてみました。

しかし、いまちょっと他にも色々やることもあって、急いで執筆したため、何一つ文献には当たっていません。純粋に(不純に?笑)自分の頭の中にある「記憶的な知識」wだけでのまとめですので、結構、雑な内容かもしれません。

(あと、個人的には、このように違いをまとめるよりも、「他の教派とどこが共通しているか」、「他の教派のどこから学べるか」ということをまとめるほうが好きです。)

 

礼拝における、ルーテル教会ローマ・カトリック教会の違いについて 

 

○ルターは、基本的にローマ・カトリック教会のミサを踏襲しているが、その中で、宗教改革的な福音理解にふさわしくないものを取り除いたり変更したりした。

○それゆえ、多くのルーテル教会では、カトリック教会のミサ式文のような礼拝式文を用いた礼拝を行い、また司式者はカトリック教会の司祭が着用するような式服を着用する。大きな教会や神学校、あるいは特別な礼拝では、十字架や聖書、蝋燭を持っての入場なども行われる場合もある。

ローマ・カトリック教会では、教皇庁や司教協議会が正式な承認したミサ式文を用いるのに対して、ルーテル教会では、それぞれの教会で異なる式文を用いることができる。これはアウグスブルク信仰告白の第7条に《また、われらの諸教会は、かく教える。唯一の聖なる教会は、時のつづく限り、つづくべきものであると。さらに、教会は、聖徒の会衆(congregatio)であって、そこで、福音が純粋に教えられ聖礼典が福音に従って正しく執行せられるのである。そして教会の真の一致のためには、福音の教理と聖礼典の執行に関する一致があれば足りる。また、人間的伝承、人間によって設定せられた儀式、或は式典がどこにおいても、同じでなければならぬことはない。「信仰は一つ、バプテスマは一つ、すべての者の父なる神は一つなり」(エペソ4:5~6)とパウロもいっている通りである。》(下線は筆者)と定められているとおりである。

○ルターがローマ・カトリック教会のミサ式文を変更する際の基準は、礼拝が「Gottesdienst」(神の奉仕)にふさわしいものであるか否かと言うことができよう。当時の礼拝は、「人が神に奉仕する」そうした場であると考えられていた。それに対して、ルターは、礼拝は「Gottesdienst」=神の奉仕であると出張した。すなわち、神が人に奉仕してくださる、それが礼拝であると、ルターは受け止めたのだ。具体的には、神が、みことばとサクラメント(洗礼と聖餐)によって私たちに仕えてくださるのが礼拝であるということを意味する。

○また、「恵みのみ」、「信仰のみ」、「聖書のみ」、「全信徒祭司性」(いわゆる「万人祭司性」)など、宗教改革の旗印となった主張もまた、ルターおよびルーテル教会の礼拝理解に反映される。

○当時のラテン語による礼拝を、時間をかけて、ドイツ語による礼拝に変更した。ただし、急進改革派の立場の指導者が、いきなりラテン語の礼拝を廃止してドイツ語による礼拝を行い始め、会衆が大きな混乱に陥ったことに対しては、ルターはそれを認めず、一時、ラテン語による礼拝に戻した。会衆が混乱せず、理解した上で、ともに喜んで行うことができる礼拝改革をこそ、ルターは望んだのであろう。

○ドイツ語による会衆の賛美を取り入れ、また、聖書もドイツ語に翻訳をした。

○「今ここで語られる生ける神の声」としての、礼拝での説教を重視した。今もみことばの説教は、ルーテル教会の礼拝で必須なものである。

○ミサ式文の中の、司祭がパンとぶどう酒をキリストの体と血として父なる神にささげるという犠牲の概念を撤廃した。これは、今も同様である。

○司祭がキリストを代理する者となるのではない。司式者である牧師は、会衆の中から正規に召された、みことばとサクラメントに仕える機能が与えられている。それゆえ、司式者がキリストを代理して聖餐を司るのではなく、教会から委ねられた務めとして、制定のことばを礼拝で告げるのである。同時に正規の召しなしには、誰も、説教することやサクラメントを執行することはゆるされない。

○ルターは、キリストが「これはキリストのからだである」「これはキリストの血である」とおっしゃっているのだから、私たちはそれをそのまま信じることが大切なのであり、「パンとぶどう酒がキリストのご聖体となり、御血となる」という実体変化の理解を斥け、そうした「聖変化」のための文言も式文から取り除いた。ルーテル教会では、キリストの言葉どおり、「真のキリストの体であり、真のキリストの血である」と信じて、パンとぶどう酒をいただくのだ。

ローマ・カトリック教会ではミサが終わった後も、パンとぶどう酒はもはやキリストの体と血になったままであり、それゆえパン=ホスチア(聖体)は教会の聖櫃に保管されて、ミサの際に繰り返し用いられる。聖櫃に聖体が納められているときは、ランプがついて、それを表すことになっている。ぶどう酒はミサの間に司祭が飲み干す。それに対して、ルーテル教会では、聖餐式の間は信仰のうちにそれをキリストの体と血と信じていただくが、聖餐が終わるなら、それはただのパンでありぶどう酒である。しかし丁寧に扱うことは心がけたい。

ルーテル教会では、聖餐で用いられるパンやぶどう酒について、ローマ・カトリックのような規定はない。必ずしもホスチアでなくても市販されている食パンでもよい。神学校では一つの大きなパンを裂いて分かち合って聖餐を実施している。ぶどう酒についても、カトリック教会のような特別なミサワインではなく、酸化防止剤が入った市販のぶどう酒を用いてもよい(もちろんないもののほうが好ましいが)。ルーテル教会では、小児陪餐や病者、運転者などへの配慮のため、聖餐の際に、ぶどうジュースを用いる教会も多くある。大事なのは、どんなものが使われるかではなく、そこでキリストの聖餐のことばが語られ、聞かれ、信じられるということである。

○キリストの制定のことばに基づき、ルターは、パンとぶどう酒による二種陪餐を復活し、今のルーテル教会でも二種陪餐が行われる。カトリック教会では、最近は二種陪餐を行う教会も増えてきたが、今でも信徒はパン(聖体)一種のみを受餐する教会も少なくない。その際のカトリック教会の理解は、体には全実在が(それゆえ血も)含まれるという理解である。

聖母マリアや聖人に対する、神へのとりつぎの祈願も、ルーテル教会の礼拝ではなされない。

○教会の会衆と共に行うのがルーテル教会の礼拝であるから、ローマ・カトリックの司祭独りで行うミサのような礼拝は原則的にはルーテル教会では行われない。

○ここでは、あえてローマ・カトリック教会のミサとルーテル教会の礼拝の違う面を挙げてきたが、しかし、ローマ・カトリック教会は私たちにとって兄のような存在であり、そのミサと礼拝の内容は、非常に似ているものであることを受け止めたい。聖餐式も、聖餐が行われている最中は、それが真のキリストの体であり、真のキリストの血であると信じて、パンと杯をいただくことでは共通している。ルターも自分が改革派の象徴説に立つと思われるぐらいなら、カトリック教会の実体変化説に立つと言われた方が断然よいというようなことも発言している。

○両教会がともに礼拝を行うために、ネックとなるのとは、ミサ/聖餐の司式者の理解である。カトリック教会は、使徒継承を受けた司祭が、ミサを司式することができるのに対して、多くのルーテル教会では使徒的な信仰を継承するために制度としての使徒継承は斥けているからである。既述したが、ルーテル教会における司式者・牧師は、みことばとサクラメントの司式のための機能を与えられた者であるという理解であり、信徒と身分的な違いは生じないのである。