yukaina_gorilla’s diary

ごりらぼくし(大麻ルーテル教会/北見聖ペテロ・ルーテル教会)です。聖書や教会のこと、社会のこと、ペットのことなど書いていきますね。

2017年10月8日 礼拝メッセージ

聖霊降臨後第18主日 2017年10月8日

 

「神の物語の中の私」

(創世記50章15~21)

 

わたしたちの父である神と、主イエス・キリストからの恵みと平和があなたがたにあるように。アーメン

 

先日、ある方より、「運命ってキリスト教とは関係のないものなのですか」と尋ねられました。それに対して私は、「ぼくは関係ないと思っています。神さまの導きによって我々は生かされているのであって、運命なんかに人生が定められているわけじゃないと。神様はその時々に必要な導きや助けや試練を与えてくださるのであって、私たちは最初に決められたレールをただ決められた通りに動いているとは違うので」と答えました。

 

私たちの人生は、運命によって定められているのではなく、神さまの導きの中にあります。そして、神さまは時として、私たちのために、ご自分が決められた計画を変更することも厭われません。たとえば、ソドムとゴモラを滅ぼそうとされた際、アブラハムが甥のロトたち一家を心配して熱心に神さまにとりなしを願ったら、神さまは彼の願いを聞き入れられました。また、ヨナ書では、悪さばかりをしていたニネベの人たちを滅ぼそうとされていた神さまでしたが、彼ら一同が悔い改めたら、彼らを赦されました。何週間か前の福音の、カナン人の女性にも、イエスさまは彼女の熱心な願いを聞き入れて、最初の計画とは違ったけれど、異邦人である彼女の娘の病を癒されました。そのように、神さまは私たちの時々の必要や願いに応じて働いてくださいます。私たちはそうした神さまの柔軟性のある、フレキシブルな導きの中に生かされています。

 

今日は、第一朗読、旧約聖書の創世記のみことばに聴いてまいりましょう。今日の創世記50章は、創世記のほぼ終わりで、37章から始まるヨセフ物語の完結部分です。今日は、このヨセフ物語を振り返りながら、神さまの計画と私たちの人生について考えてみたいと思います。ヨセフは、ヤコブが年老いてからの子でしたので、ヤコブはヨセフのことを溺愛、いえ、他の兄たちに比べて明らかに偏愛をしました。そんなヨセフを、兄たちは妬み、意地悪をすることも少なくありませんでした。ヨセフもまた、そんな兄たちのことを、すぐに父親に告げ口するのでした。父ヤコブは、二人の妻や側室たちとの多くの子どもがいたのです。このように、まず、父親の側の問題を、ヨセフは身に帯びており、ヨセフ自身もそうした中で、少し思いあがった心で育ったのかもしれません。

 

ある日、彼が夢を見ました。それはヨセフと兄たちが畑で束を結わえていた夢でした。すると、ヨセフの束が立ち上がり、兄たちの束が周りに来て、ヨセフの束にひれ伏したというものでした。それを聞いた兄たちは、自分たちがお前にひれ伏すなんてと、ヨセフに、より大きな憎しみを抱くようになりました。ある日、またヨセフは別の夢を家族に話しました。それは、太陽と月と11の星がヨセフにひれ伏したというものでした。これについては、父ヤコブも、父や母や兄たちがお前にひれ伏すとは何事かと、ヨセフを叱りました。ヨセフが夢について持っている特別な才能は後々発揮されるわけですが、しかし、だからと言って、このように何も考えず、兄たちや親に向かって話す彼は、たいへん無邪気であるとともに、思いあがっているとも言えるし、周りの人たちの気持ちを少しも考えず、何でもペラペラ話してしまう青年であったとも言えるでしょう。彼が素晴らしい完璧な人だったわけではなく、彼にも、こうした弱さや課題があったということを、私たちは受け止めたいと思います。

 

そんなヨセフですが、兄たちの憎しみを買い、兄たちは彼を殺そうと企てますが、それをいざ実行しようとした段階で、兄たちの内の一人が、さすがに殺すのはやめようと思い留まらせます。その結果、ヨセフは命だけは何とか救われましたが、エジプトに売られてしまうことになりました。兄たちは父親に、獣の血をつけたヨセフの着物を渡して、ヨセフが死んだと思わさせます。父親は、そのことを非常に悲しみました。

 

ヨセフは、エジプト王ファラオの宮廷の役人の家に引き取られました。ヨセフは、神さまに支えられ、祝福されて、神さまから与えられた能力があったため、その役人に認められ、家の財産の管理を任されました。「主がヨセフとともにおられたので、彼はうまく事を運んだ」と聖書は告げています(38:2)。ヨセフを通してエジプト人もみな祝福されるほど、恵まれた日々を過ごしていました。

 

しかし、ある事件が起こりました。ヨセフは、イケメンで、体つきも優れていたので、彼の主人、ヨセフを引き取ったその役人の妻が、ヨセフに言い寄るのです。けれども、彼は、神さまと主人への忠誠ゆえに、その誘いを断り、彼女と一緒にいることも避けるようになりました。すると、ある日、彼女は実力行使に出ます。ヨセフが彼女の誘いを断ると彼の服をひっぱり脱がし、ヨセフが彼女を乱暴したとみんなに言い触れたのです。ヨセフは、そのことゆえに、主人に捕らえられ、投獄されました。

 

けれども、その獄中でも、ヨセフは神さまに祝福をされて、看守長の信頼を得て、他の囚人たちの管理を委ねられました。彼も立派にその期待に応えました。ここでも、「主がヨセフと共におられ、ヨセフがすることを主がうまく計らわれたからである」と告げられています(38:23)。その獄中で、ある二人が夢を見ました。その夢をヨセフが解き明かしました。一人は王の給仕役の夢で、ヨセフは彼がやがて元の職務に復帰できると解き明かしました。もう一人は王の料理長の夢で、ヨセフは彼がやがて処刑されると解き明かしました。そして二人ともヨセフが解き明かした通りになりました。ヨセフは給仕長に職務に復帰したら、自分の冤罪を王に伝えてくれるように話していたのですが、給仕長はすっかり忘れてしまいました。ここにも自分の立場が救われれば、もう他の人のことなど、たとえそれが自分のためによくしてくれた人だって忘れてしまう、人間の身勝手さを思います。

 

それから二年が経ち、今度はエジプト王ファラオが、自分がみた夢に悩まされました。王は、国中の賢者や魔術師を呼び集めて、夢の意味を尋ねたけれど、誰一人解き明かすことはできませんでした。その時、給仕長がヨセフのことを思い出し、王に伝えました。そこで王はヨセフを呼んで自分の夢を伝えました。すると、ヨセフは、それが今後7年間エジプトに豊作が訪れて、その後、7年間、それをしのぐ大飢饉が訪れることの予知であると解き明かしました。だから、王の命令により、この7年のうちにできるだけ穀物を蓄えて、その後の7年の大飢饉に備えるように、そしてそれを管理する責任者を選ぶように、進言しました。王は、ヨセフの忠告と進言を受け止めて、ヨセフ自身をその責任者に委ねました。ヨセフが夢を解き明かす際の、「わたしではありません。神がファラオの幸いについて告げられるのです」(41:16)との言葉は、とても印象深いものです。また彼は、王に与えられた働きを担う中で、授かった自分の長男に、忘れさせるという意味のマナセという名前を付け、「神は、わたしの苦労と父の家のことをすべて忘れさせてくださった」と言い、次男には増やすという意味のエフライムという名前を付けて、「神は悩みの地で、わたしの子孫を増やしてくださった」と言っています(41:51-52)。彼の苦しみと、その苦しみの中で働かれる神さまへの感謝を受け止めることができます。

 

ヨセフが告げたとおり、7年の豊作の後、大飢饉が始まりました。しかし、エジプトには彼の管理により蓄えてあった穀物があるので、国民は飢えずに済んだばかりか、周辺の国々からもエジプトに穀物を買いに来るようになりました。経済的な効果もあり、エジプトはより安定することができたのです。さて、イスラエルヤコブの子どもたち、すなわち、ヨセフの兄たちも、穀物を買いに、エジプトを訪れました。対応したのは責任者であるヨセフです。でも兄たちは、まさか自分の弟がそんな要職に就いているなんて思いませんので、それがヨセフだとは気づきません。もちろんヨセフは気づきました。また、かつて自分がみた、兄たちの束が自分の束にひれ伏した夢も思い出しました。彼は自分の身を明かさず、兄たちが言っている、末の弟であり、母が同じのベニアミンを連れてくるように命じました。そして人質として兄のうちの一人を残していくように命じて、穀物を一杯袋に入れて兄たちを帰国させました。

 

兄たちは帰国して、エジプトの責任者に、ベニアミンを連れてくるようにと命じられ、一人の兄が人質に取られたことを父親に話すと、父親は息子を二人も失ってしまったと悲しみました。そして、末の息子を連れて行くことだけは絶対に許さないと言いました。しかし、しばらくして穀物が再びなくなってしまいます。ですので、やむを得ず、父親は、末の息子べニアミンも連れて、兄たちをエジプトへ行かせました。ヨセフは、ベニアミンを見て、感極まり、席を外して泣きました。そして、兄弟を招き宴会をします。兄たちはまだそれがヨセフだとは気づきませんが、ヨセフは兄弟順に宴席を設けたので、兄たちは驚きました。ちなみにベニアミンだけ大盛でした。その後もいろんなやりとりがあり、兄たちが父親のことを話していた際、ヨセフはもう普通にしていることができなくなり、エジプトの役人たちをみな人払いして、大泣きし、自分のことを兄弟たちに告げました。「わたしはヨセフです。お父さんはまだ生きておられますか」と。そして続けて言うのです。「わたしはあなたたちがエジプトへ売った弟のヨセフです。しかし、今は、わたしをここへ売ったことを悔やんだり、責め合ったりする必要はありません。命を救うために、神がわたしをあなたたちより先にお遣わしになったのです。この二年の間、世界中に飢饉が襲っていますが、まだこれから五年間は、耕すこともなく、収穫もないでしょう。神がわたしをあなたたちより先にお遣わしになったのは、この国にあなたたちの残りの者を与え、あなたたちを生き永らえさせて、大いなる救いに至らせるためです。わたしをここへ遣わしたのは、あなたたちではなく、神です。神がわたしをファラオの顧問、宮廷全体の主、エジプト全国を治める者としてくださったのです。」(45:3-)。彼は、父ヤコブを連れてくるように、兄たちに言い、みんなと抱き合い、泣き合いながら語り合いました。

 

ヤコブと兄弟たちがエジプトで暮らすようになってしばらくして、父はこの世を去りました。兄たちは、また心配になりました。父亡き後、弟ヨセフは、かつて自分たちが彼にしたことの恨みを晴らすのではないかと。しかし、そんな兄たちの不安を知り、ヨセフは、涙を流しながら言うのです。「恐れることはありません。わたしが神に代わることができましょうか。あなたがたはわたしに悪をたくらみましたが、神はそれを善に変え、多くの民の命を救うために、今日のようにしてくださったのです。どうか恐れないでください。このわたしが、あなたたちとあなたたちの子供を養いましょう。」(50:19‐)

 

これがヨセフ物語です。ここでは、ヨセフ自身の弱さや課題と、彼を取り巻く様々な人の弱さや罪が蠢き、その中で波乱万丈の人生を送ったヨセフの姿が伝えられます。しかし、彼はそれらを「わたしではなく、神が働いてくださった」と受け止め、受け入れていくのです。神の導きの中にいる私であるとの信頼と信仰で生きた彼の姿を思います。あの王の給仕長がヨセフのことを伝え忘れた二年間も、彼がそうした信仰に立ち、また彼が謙虚になるために必要な時間だったかもしれません。

 

私たちが生きる上で、様々なことがある人生です。その中には必ずしも受け入れがたい事柄もあるでしょう。でも、そうした中で、神さまが私たちに働きかけ、私たちを導いてくださる。私たちはこのことを信じて歩みたいと思います。聖書にこんな言葉があります。「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています」、神さまは私たちへの愛の中で、様々なことがありながらもすべてを益としてくださるように働いてくださいます。また、「あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。 神は真実な方です。 あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます」とも聖書は告げています。私たちには、いろんな試練がある。でも、神さまはそれに耐える力を私たちに与え、逃れる道をも備えていてくださるという、この約束を信じたいものです。

 

今日のメッセージのタイトルを「神の物語の中の私」としました。私の人生の物語は、神さまの計画、神の物語の中にあるのです。そのことを信じ、神の導きの中で一日一日を生かされてまいりましょう。

 

主よ、わたしを導いてください。

 

神さま、いろんなことがある私たちの人生の歩みですが、あなたが、私のために働いて、すべてを益としてくださること、耐えられない試練に合わせず逃れる道も備えてくださることを信じて、一日一日を歩んでいくことができるように導いてください。救い主イエス・キリストによって。アーメン

 

希望の源である神が、信仰によって得られるあらゆる喜びと平和とであなたがたを満たし、聖霊の力によって希望に満ちあふれさせてくださるように。アーメン

 

動画 

 
(時間がなく、今週は、始めと終わりはトリミングしていません。)

 

http://bibledaily.files.wordpress.com/2011/01/josephs_dreams.jpg

lesser evil

lesser evil レッサーイーブル

これは、かつて若かりし頃、神学校で習ったことばである。

ある事柄について、AとBとCがあったら、私たちはどうした基準でそれを選択すべきか。

私は、そのうちの明らかに良く、より正しいものものを選ぶべきと考えた。しかし、そのことばを教えてくださった教師の考えは違った。

われわれ人間はみな、神の前に罪を犯し、その罪の限界の中にある。だから基本的に、人間のすることはみな、その限界の中で行われているのであって、選び決断する私も、また、選択肢であるAもBもCもいずれも、その例外ではない。だから、私も、AもBもCも欠けがあり、絶対的な善でも正義でもない。

そうした中で、私たちは、lesser evilの視点で物事を決断するのだ。lesser evilとは、直訳するなら「より小さな悪」となるだろうか。「まだまし」とか訳されているものもあるが(^_^;)

罪の限界と欠けの中にあるあらゆる事柄の中で、それでもlesser evilを選択し、決断していく、またその際に、他ならぬ、それを選択し決断する自分自身もまた、罪の限界の中で欠けある不十分な存在であることを忘れずに。

lesser evil。様々なことを考え決断する際に、このことばを思い起こす。そして、選挙を控えた今、特にこのことばを思う。

どの候補者、どの政党も、またそれを選ぶ私もみな、完璧ではなく、弱さがあり、欠けがある不十分な存在だ。絶対的な善でもなければ、絶対的な正義でもない。時には、失敗もするだろうし、罪も犯すかもしれないし、誤った判断をしてしまうことだってある。私自身、自分勝手な期待を寄せることもあるだろう。

すべて自分の希望にあった、完璧な人物や政党を、となると、誰も投票できず、棄権するしかない。そうであるなら、結局は無責任に多数派のアシストをしてしまうことになる。(多数派を支持することが悪いと言いたいのではなく、無責任に白紙委任することの問題だ。)

そうした中で、神のみ心を尋ね求めつつ、lesser evilの観点から、選択し、決断することができるならばと願うものだ。

黙想 マタイ18:21~35

マタイによる福音書18章21~35

21そのとき、ペトロがイエスのところに来て言った。「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか。」22エスは言われた。「あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい。23そこで、天の国は次のようにたとえられる。ある王が、家来たちに貸した金の決済をしようとした。24決済し始めたところ、一万タラントン借金している家来が、王の前に連れて来られた。25しかし、返済できなかったので、主君はこの家来に、自分も妻も子も、また持ち物も全部売って返済するように命じた。26家来はひれ伏し、『どうか待ってください。きっと全部お返しします』としきりに願った。27その家来の主君は憐れに思って、彼を赦し、その借金を帳消しにしてやった。28ところが、この家来は外に出て、自分に百デナリオンの借金をしている仲間に出会うと、捕まえて首を絞め、『借金を返せ』と言った。29仲間はひれ伏して、『どうか待ってくれ。返すから』としきりに頼んだ。30しかし、承知せず、その仲間を引っぱって行き、借金を返すまでと牢に入れた。31仲間たちは、事の次第を見て非常に心を痛め、主君の前に出て事件を残らず告げた。32そこで、主君はその家来を呼びつけて言った。『不届きな家来だ。お前が頼んだから、借金を全部帳消しにしてやったのだ。33わたしがお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか。』34そして、主君は怒って、借金をすっかり返済するまでと、家来を牢役人に引き渡した。35あなたがたの一人一人が、心から兄弟を赦さないなら、わたしの天の父もあなたがたに同じようになさるであろう。」

 

黙想

エスは、「7の70倍赦しなさい」と言う。

これについて、よく、これは7×70=490回という意味ではなく、7は聖書の中で完全数で、その70倍というのだからさらなる完全を表し、「完全の、もっと完全に赦しなさい」という意味だと説明される。

たしかにそうであろう。けれど、そんな風に考えなくても、7×70=490でもよいのではないか。実際、もし、私が人を490回赦そうとするならば、もはや491回目を赦さないということにはならないだろう。もはや何回赦したかなどということはどうでもよくなってくる。

むしろ大切なのは、赦すのが490回なのか、もっと完全なのかではない。1回1回を赦せるかどうか、このことではないだろうか。490回でも無限でも、すべては最初の1回から始まるのだ。

エスは、王によって借金の返済を免除された家来のたとえで、このことを説明する。

この家来は、一万タラントン、王から借金していた。一タラントンは、六千日分(16年以上休まずに働いた分)の賃金に相当する。一万タラントンであるから、その一万倍である。六千万日分(十六万日以上分か?)の賃金。もはや訳のわからないほどの膨大な金額だ。それは到底返すことができない金額である。

王は、彼に対して、家族も財産も持ち物何ものかもを売って返済するように、彼に命じた。彼は、王に「どうか待ってください。きっと全部お返しします」と懇願をした。嘘をつくな!到底返せるはずがない。

しかし、なんと王は彼の借金を帳消しにした。限りのない赦し。一方的な恵みのみ。

彼は、借金が帳消しをされて、喜びながら王宮から外に出る。そうすると、彼から借金をしている仲間に出会った。その額は100デナリオン。100日分の賃金に相当する金額だ。彼は、その仲間の首をつかまえて、その借金の返済を迫る。「どうか待ってくれ。返すから」と懇願する仲間の申し出も聞かず、ついには借金を返すまでと牢屋に入れてしまった。

それを見ていた仲間たちは心を痛めながら、その事実を王に伝えた。王は激怒する。自分はどれほどの借金をお前に赦してやったのだと。お前も私がお前にしたように憐れみ深く仲間に接するべきではなかったかと。そして、彼の借金が返済されるまでと、彼は牢屋に入れられてしまった。

彼が仲間に貸していただ100デナリ、100日分の賃金、もちろんこれも決して軽くはない。だから、彼にとって、それを返してもらわねば大変なことだということも理解できる。でもそれで仲間を牢屋に入れたら、逆にいつまでも返してもらえないだろう。その意味でも、愚かなことを彼はしているのだ。

彼が赦された一万タラントンに比べれば、100デナリは小さな額だ。といっても、もちろん彼にとっては大変な額なのだろう。だから、私たちの周りの人が抱えている課題に対して、そんなどうでもいい、それはたいしたないことだ、そうした受け止めはやめよう。たしかにその人には大きな課題であるということを受け止めたい。

でも、同時に、神の大きな憐れみによって限りない赦しの中に置かれていることを忘れないでいたい。その中で、一回の赦しを踏み出したいのだ。繰り返しになるが、7の70倍、490回であろうが、無限であろうが、いずれにしても、それは1回の赦しから始まるのだから。

主の祈り、赦しの中で赦される、あるいは赦される中で赦し合う歩み。

いろんな重い課題を抱えながら、人のすることに腹も立ちながら、でも、そこで、神の大きな憐れみ、キリストの大きな愛を思い起こして赦していく。自分こそ罪人のかしら、その最たるもの。でもこんな私が赦された。そのことを忘れない。

テモテへの手紙一1:12~17

12 わたしを強くしてくださった、わたしたちの主キリスト・イエスに感謝しています。この方が、わたしを忠実な者と見なして務めに就かせてくださったからです。13 以前、わたしは神を冒涜する者、迫害する者、暴力を振るう者でした。しかし、信じていないとき知らずに行ったことなので、憐れみを受けました。14 そして、わたしたちの主の恵みが、キリスト・イエスによる信仰と愛と共に、あふれるほど与えられました。15 「キリスト・イエスは、罪人を救うために世に来られた」という言葉は真実であり、そのまま受け入れるに値します。わたしは、その罪人の中で最たる者です。16 しかし、わたしが憐れみを受けたのは、キリスト・イエスがまずそのわたしに限りない忍耐をお示しになり、わたしがこの方を信じて永遠の命を得ようとしている人々の手本となるためでした。17 永遠の王、不滅で目に見えない唯一の神に、誉れと栄光が世々限りなくありますように、アーメン。

また、しきりに赦しを願う人を赦さないのは、周りの人たちの心をも痛める行為であることもまた、忘れないでいたい。

 

と、ここまで黙想をして、それを記して、自分は今度の礼拝では、第一朗読、旧約聖書の日課でお話することにしていたことに気づいた。。。

 

あーあ、やっちまった^^;でもまだ火曜日、きっと間に合う。

NHKカルチャーラジオ歴史再発見「ルターと宗教改革500年」

宗教改革500年を意義深く過ごしましょう。

「ルターと宗教改革500年」 江口再起 氏

毎週火曜午後8時30分~9時@NHKラジオ第二

http://www4.nhk.or.jp/P1927/

2017年10月1日 礼拝メッセージ

聖霊降臨後第17主日 2017年10月1日

 

「兄弟を得る」

(マタイによる福音書18章15~20)

 

わたしたちの父である神と、主イエス・キリストからの恵みと平和があなたがたにあるように。アーメン

 

現在、ルーテル教会では、式文の改定作業が行われているのですが、今回の改定の一つに、信仰告白の文言の変更があります。現行では、式文をご覧になったらおわかりのように、「わたしは信じます」と一人称単数による告白となっていますが、改定式文ではわたしたちは信じます」と一人称複数による告白へと変更することにしました。

 

「わたし」わたしたちでは、単数形と複数形の違いなわけですが、この変更により、私たちが神さまへの信仰を告白するのは、ただ自分独りだけでしていることではなく、また私だけの独自の信仰を告白しているというのでもなく、いま一緒に礼拝に与っている教会のみなさんと、また世界中の主の民のみなさんと、さらには、時代も超えて代々の信仰の兄弟姉妹のみなさんと、一緒に一つの信仰を告白している、そのことを受け止めたいということを意図しており、またそのことを願っています。信仰とは、もちろん神さまと私の一対一の関係の事柄ですが、同時に、ただそこにとどまらず、ともに同じ信仰を告白する兄弟姉妹、神の家族とともに信じる共同体的な事柄でもあるという、この視点はとても大切なことです。

 

だから「別に教会など行かなくても、自分独りで聖書を読み、お祈りをして、神さまを信じていればそれでよい、それは立派な信仰だ」というようなお話を聴くと、私はそれに対して心から同意する気持ちにはなれません。「う~ん、本当にそれでいいのかな?ちょっと違うんじゃないのかな?」という思いを抱くのです。なぜなら、信仰とは、「わたしは信じます」ということにとどまらず、わたしたちは信じます」という共同性のあるものであり、同じ信仰の仲間と一緒に語り合ったり、学びあったり、祈り合ったり、賛美し合ったり、ということもまた、もっと素晴らしいことで、もっと大事なことではないだろうかと思うからです。

 

さて、今日のみことばで、イエスさまもまた、信仰の歩みをそのように共同体的なものとして受け止められ、弟子たちにそこで起こるある一つのことについて、非常に具体的なお話をなさっています。それは、信仰者の群れ、共同体、教会の中で、その仲間のうちの一人が罪を犯した場合に、信仰の仲間、兄弟姉妹、家族として、私たちは一体どのように対応するのがふさわしいのかということです。

 

私たちは教会について、「聖徒の交わり、聖なる公同の教会を信じます」と告白をしています。教会は、神さまによって聖とされた聖徒たちの群れであって、この世から特別に取り分けられた聖なる交わりであるという信仰を告白しているのです。しかし、その聖なる教会に集う、聖徒たちは、一体、どんな者たちであるのかというと、それは一人ひとり弱さや欠けがあり罪を犯す、そうした者たちなのです。もちろん神さまによって罪を赦された者たち、その意味で聖なる者、聖徒たちであるわけですが、しかし、ルターが言ったように、「罪びとにして同時に義人」である人たちなのです。神さまによって赦され、救われ、義、義しい者と認められた者たちだけれども、同時に依然として罪人であることには変わりはありません。ですから、教会に招かれたからと言っても、また、神さまの救いに与り義とされたからと言っても、教会のみんながもはや何も罪を犯さなくなるということはありません。依然として罪を犯しうる、いえ、犯さないでは生きていけないそうした存在です。ですから、教会の中で、同じ信仰の友、信仰の「兄弟があなたに対して罪を犯したなら」ということが起こってきます。教会は、そうしたこととは全く無縁の空間ではありません。

 

もし「兄弟があなたに対して罪を犯したなら」、まずは自分とその人の二人だけで語り合うように、イエスさまはおっしゃいます。腹を割って話し合うのです。あなたのこのことで私はこんな風に思った。あなたのこうしたことが間違えていると思う。改善した方がよいのではないか。そう真剣に語り合うのです。「行って二人だけのところで忠告しなさい」とイエスさまはおっしゃいます。ある人が自分に対して何か過ちを犯し、その人から被害を受けたからと言って、私たちは「誰々さんがこんなことをしたのよ」「誰々さんのせいでこんな風になったのよ」と、大っぴらにぺちゃくちゃ、いろんな人に話すのではありません。その人にわかってもらうように説明をするのです。いえ、その人にわかってもらうようにと言うよりも、お互いに分かり合えるように、話し合うのです。そして、その結果、相手がわかってくれて、分かり合えたとき、「言うことを聞き入れたら、兄弟を得たことになる」と、イエスさまはおっしゃいます。再び同じ信仰の仲間として、また兄弟姉妹、すなわち神の家族として、一緒に歩んでいける。もっと深い絆で結ばれて歩んでいけると、イエスさまはおっしゃるのです。

 

でも、それでわかってもらえない時、分かり合えない時もあります。自分の気持ちを他の人に伝えることやお互いに理解し合うことは、なかなか難しいものです。「話せばわかる」ということがよく言われ、私ももちろんそう信じて人と接することはとても大切な姿勢であると思いますが、同時に、実際には、多くの場合は、「話してもわかり合えない」ことも多いのです。それは、こっちはこっちで正しいと思い込んで話していて、なかなか相手の話を聞きとろうとしないことが少なくないですし、相手も「自分は悪くない」、「自分は正しい」とか「そうしたのは、やむを得なかった、私には私の事情があるのだ」とか、そんな思いになっていることが少なくないためです。あるいは、相手も自分が悪いとわかっていても、それをどうしても認めたくないということだって多いでしょう。そうした中で「話せばわかる」どころか、「話せば話すほど余計にこじれてしまう」となることも多いのです。それが罪の奴隷である人間同士のかかわりの限界とでもいうことができるかもしれません。

 

その時、どうするか、「ほかに一人か二人、一緒に連れて行きなさい」と、イエスさまはおっしゃいます。ここでも、ペラペラ大っぴらに話すことは控えて、本当に信頼できる、他の人には話を伏せてくれる、そんな人を連れて、その人と会いに行って、また語り合うのです。「すべてのことが、二人または三人の証人の口によって確定されるようになるためである」とイエスさまはおっしゃっています。「証人の口によって確定される」というと何か裁判のようですが、平たく言うならば、客観的に事実を確認できるということです。ここで大切なことは、もちろん罪を犯したその人の事実が確認されることですが、同時に、最初の一対一の対話では、もしかしらそれを忠告する側の事実の誤認があったかもしれません。誤った裁きをしてしまうこともあるでしょう。だから、「ほかに一人か二人、一緒に連れて行きなさい」とイエスさはおっしゃいます。本当の事実は何か、誤解はないか、無実の罪を着せているようなことはないか、そのことを確かめるのです。そこで、その罪を犯した人が自分の罪を認めて悔い改めたり、あるいは誤解が判明したりして、そのようにして互いに分かり合うことができるならば、再び兄弟姉妹として、神の家族として深い絆で歩んでいくことができるのです。

 

しかし、それでも分かり合えないと言うことも少なくありません。そして、そうしているうちに、誰が話したということがなくても、みんな固く口を閉ざしていたとしても、段々と事態は明るみになり、みんなが知るところとなっていきます。そして、話に尾ひれや背びれがついて、あることないこと話が広まって行ってしまいます。そうした中でも、教会はその人と再び兄弟姉妹、神の家族として共に歩む努力を怠りません。みんながどう言っていて、どんな噂がある、そんなことでキリストの体である教会とそこに集められている一人ひとりが信仰の兄弟姉妹を諦めることはしません。教会全体の痛み、また課題として、その人と向き合い、寄り添い、語り合います。そして、世間がどう言っていようとも、事実は何か、またその人が神様の前に悔い改めて歩もうとしているのか、そのことだけを受け止めるのです。そして、もしその人が悔い改めて歩もうとするならば、また兄弟姉妹、家族として共に歩んでいきます。もうそれ以上どうこう勘ぐって話すのではなく、主にある赦しの中でともに歩んでいくのです。

 

けれども残念ながら、それでもその人が自分の罪を認めず悔い改めないということも起こってきます。その場合、どうするか。イエスさまはおっしゃいます。「教会の言うことも聞き入れないなら、その人を異邦人か徴税人と同様に見なしなさい。」これは実に厳しい言葉に聞こえます。「異邦人」「徴税人」、彼らはいずれも、神さまの救いに与ることができないと受け止められていた人たちです。聖なる集いにふさわしくないとされていたのです。そうした人たちと「同様に見なしなさい」ということですから、これは、何度忠告しても、教会のみんなで話しても、その人が自分の罪を認めず悔い改めないなら、もう救われなくても仕方ないとそんな風に扱いなさい。聖なる交わりである教会から追い出してしまいなさい。そうしたことをイエスさまはここで告げておられるのでしょうか。もちろん毅然として態度でその人と向かい合っていくことは大切です。「何したっていいのよ、大丈夫よ」と言うことが、必ずしもよいわけではありません。そんなことしたら教会の秩序が保てなくなってしまいます。

 

でも、ここで「教会の言うことも聞き入れないなら、その人を異邦人か徴税人と同様に見なしなさい」と告げておられるのは、一体誰なのかと、私たちが考える時、これがただそうした毅然とした厳しい言葉であるだけではない、もっと違った意味があることに気づかされます。ここでお話しなさっているのは、もちろんイエスさまです。かつてイエスさまが徴税人マタイをご自分の弟子として招かれ、そしてマタイがその喜びのうちにイエスさまやイエスさまの弟子たち、そして多くの徴税人や罪人たちを食事に招いたときに、当時の宗教的な指導者たちが、イエスさまの弟子たちに「なぜ、あなたたちの先生は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と非難したことがあります。それに対してイエスさまは答えられました。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。…わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」

 

そうです。イエスさまは、正しい人ではなく、罪びとを招くためにこの世界においでになられた方です。そして、罪びとを赦し、彼らを天の国に招かれます。そのために、ご自身、十字架を引き受け、ご自分の命すらささげられました。そのように罪びとの赦しのために命がけで働かれるお方が、「教会の言うことも聞き入れないなら、その人を異邦人か徴税人と同様に見なしなさい」と、ここでおっしゃるのです。ですから、これは、その人たちはもう裁かれても仕方ない、見捨てられるのはやむを得ない、決してそんな最後通告ではありません。なおも、わたしは見捨てない、わたしが悔い改めに導く、だからその人をわたしに委ねよ、わたしはその人を招くために来たのだ。失われた一匹の羊を決して諦めず、自らの危険を顧みず、必ず探し出すイエスさまは、そうおっしゃっているのです。

 

私たちはそのイエスさまのことばを信じて、イエスさまにその人のことを委ねます。私たちの手には負えないかもしれない。でもだからと言って、「もうだめだ」とその人を見捨てるのではなく、また、憎しみの中で追放するのでもなく、「イエスさま、あなたが働きかけてください。」「あなたはきっと助けてくださいますよね。」「再び兄弟姉妹として歩むことができることを期待して、信じて、希望を持って、あなたに委ねます」という、そうした心で、イエスさまにその人を委ねるのです。

 

このように、私たちはその人がたとえどんな人でも、それが私たちの手には負えないような人でも、なおも諦めないのはなぜか。それは、イエスさまが、この私を決して諦めなかったからです。失われた羊であり、罪人の頭、その最たる者である、この私をも、イエスさまが決して諦めず、私のために十字架にかかり、命がけで、悔い改めと赦しへ招いてくださった。神が私を救うために死なれた。だからこそ、私もまた、たとえその人がどんな人でも、決して諦めず、信仰の仲間、兄弟姉妹、神の家族として、かかわり続けるのです。もう無理だと思っても、なおもイエスさまにその人を委ねるのです。それが、十字架の救い主イエスさまを中心とした、神の家族、兄弟姉妹として、「わたしたちは信じます」と信仰を共に告白するキリストの教会の交わりなのです。

 

主よ、私たちを導いてください。

 

御子イエスさまが、自らの危険を顧みることなく、わたしを探し出し、命がけで私を赦し、救いへと招いてくださったことを感謝します。その、あなたのわたしのことを諦めない愛に導かれ、わたしたちも一人ひとりの兄弟姉妹を諦めずにかかわり続けることができますように。たとえ私たちの手に負えない人であっても、だからと言って見捨てるのではなく、御子が働きかけて心を開いてくださることを信じて、その御手に委ねて、心を一つにして歩むことができますようにお導きください。主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン

 

あらゆる人知を超える神の平和が 、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るように。アーメン

 

動画 2017-10-01.mp4 - Google ドライブ

 

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マタイ18:15~20 黙想

マタイによる福音書18章15~20 

15「兄弟があなたに対して罪を犯したなら、行って二人だけのところで忠告しなさい。言うことを聞き入れたら、兄弟を得たことになる。16聞き入れなければ、ほかに一人か二人、一緒に連れて行きなさい。すべてのことが、二人または三人の証人の口によって確定されるようになるためである。17それでも聞き入れなければ、教会に申し出なさい。教会の言うことも聞き入れないなら、その人を異邦人か徴税人と同様に見なしなさい。18はっきり言っておく。あなたがたが地上でつなぐことは、天上でもつながれ、あなたがたが地上で解くことは、天上でも解かれる。19また、はっきり言っておくが、どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。20二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」

 

黙想

先週の福音では、小さな立場に置かれている「一人」を重んじること(マタイ18章1~14)が語られていた。今日は、信仰者の交わりである教会において、その交わりの中にある一人が罪を犯した際の、教会としての対応について語られる。そこでも、罪を犯したその一人を見捨てないで、信仰者の交わりの中にある一人としてどこまでも重んじ、ともに歩むように努めることが告げられている。

 

まず、その一人の過ちに気付いた人が、その人だけで直接忠告する。ペラペラ周りに言い広めない。本当にその人のことを思いながら真摯に向き合って忠告する。忠告する→誤りを示す、説明する。ただ上から目線で、叱りつけたり、断罪したりするのでなく、わかってもらえるように、わかりあえるように、粘り強く語り合う。もし、そこでわかってもらえて、わかりあえて、その人が神と人の前で悔い改めるなら、ひとりの兄弟姉妹を得る。より深い信頼関係、ともに歩む関係。

 

もし、それでもわかってもらえなければ、次には、もう一人か二人を一緒に連れていく。もしかしたら最初に忠告したその人が事実を誤認し、誤って裁いているかもしれない。だから、もう一人、二人と一緒に行って話し合う。そうする中で、より真実が客観的に確認されていくことになる。ここでも、なんとかわかってもらいたい、わかりあいたい、そう願いつつ、粘り強く語り合うのだ。もし、そこで、相手が自分の過ちを認め、悔い改めるなら、あるいは、誤解が解かれるなら、ひとりの兄弟姉妹を得ることができる。

 

 

しかし、そのように粘り強く対話をしても、なかなかわかってもらえないケースもある。そうしているうちに、話はどんどん大きくなっていく、あることないこと広まっていくであろう。でも、もし、たとえそんな風になっても、教会の交わりは、その人とともに歩むことをなおも諦めない。

 

「世間がどう言っている」、「噂がどうだ」、そんなことによらず、キリストの体である教会の交わりとして、なおも真摯にその人と向き合って、語り合うのだ。周りの声に左右されず、実際には何が起こったのか、何が過ちであったのか、どうすればこれから悔い改めの歩みをすることができるのか。その過ちを犯した人と一緒に考え、一緒に話し合い、一緒に祈る。たとえ、世間が見捨てても、他のみんなが何を言おうと、教会は見捨てず、その人が悔い改めるなら、なおも一緒に歩んでいく。なぜなら、その人は私たちの兄弟なのだから。

 

それでも、なおもその人が自分の過ちを認めず、わかってもらえない場合、わかりあえない場合、その時は、「その人を異邦人か徴税人と同様にみなしなさい」と、イエスは言われる。これは、「もはやどうにもならないから見捨てなさい」、「交わりから追放しなさい」ということか。否!キリストの体なる教会の交わりは、なおもその人を見捨てないのだ。

 

このことを語っているイエスは、何のためにこの世界に来られ、何と言われたお方か。イエスは、罪人を招くためにこの世界に来られたお方だ。異邦人や徴税人の友となられたお方だ。そのお方が「その人を異邦人か徴税人と同様にみなしなさい」と言われるのだ。これは、その人を「もう見捨ててしまいなさい」とか、「追い出してしまいなさい」という意味ではない。「わたしが責任を持つから、わたしに委ねなさい」「わたしはその人を救うために来たのだ」と、イエスは告げておられるのだ。

 

もちろん、私たちには限界がある。一人で話しても、何人かで話しても、また教会全体で話しても、なかなかわかってもらえないこと、どうにもできないことがある。それでも、私たちは諦めず、その人を見捨てず、イエスに委ねるのだ。イエスが、きっとその人の心を開いてくださる。悔い改めに導いてくださる。そして、もう一度兄弟姉妹としてともに歩んでいくことができるようにしてくださる。私たちは、そのことを信じて、イエスにその人を委ねるのだ。

 

教会の中で「鍵の務め」という大事な使命がある。それは罪を犯した人に悔い改めを呼びかけたり、ある一定の期間聖餐を停止したり、破門をしたり、そうした務めだ。人間的には、決して嬉しいことではなく、残念なことだ。しかし、これらは、その人を断罪して「もう決して赦さない」、「お前なんかもう出ていけ」というために行うものではない。その人が悔い改めることを願い、信じ、再びともに歩むことができるようになることを願って、イエスに委ねるのだ。

 

エスは、私たちが互いに赦しあって、兄弟姉妹として、家族として、ともに歩んでいくそのことを諦めない。そして罪人を見捨てない。だから(今日の直前にあるように)群れから迷い出た一匹の羊を探しに行くのだ。イエスはその一匹を探すために来られたのだ。一匹の羊を探すその時、羊飼いも傷つき、命の危険がある。イエスも、自分が傷つき、命がけで一人の迷い出た者を探し、群れへと戻したもう。

 

何よりも「罪人のかしら」その「最たるもの」であるこの私もまた、そのようにイエスの命がけの愛の捜索によって探し出された一人だ。私も、イエスのゆるしの中でこそ教会の交わりに加えられている。また、このイエスのゆるしを受け止める多くの兄弟姉妹の赦しの中で交わりに迎え入れられている。イエスは私を諦めなかった。兄弟姉妹も私を受け入れてくださった。私も、迷い出た一人を諦めない。私も、罪を犯したひとりを受け入れる。

 

エスは、ここでも「つなぐこと」と「解くこと」が語られる。私たちは、イエスによって、天の国につないでいただいた。そのために、すべての罪を解いていただいた。私たちもそのイエスのなさったことに従いたい。諦めずに、人を天の国につなぎ、罪を解く。兄弟姉妹としてともに歩むために。

 

教会とは、そのようなイエスのゆるしに与った者たちの交わり。神は、その交わりを豊かに祝福してくださる。その交わりで、みんなが心を合わせて祈ることは、必ず神は聞いてくださる。迷い出た一人とともに、再び兄弟姉妹してともに歩みたい、その祈りに神は必ず応えてくださるのだ。

2017年9月24日 礼拝メッセージ

聖霊降臨後第16主日 2017年9月24日

 

「小ささの重さ」

(マタイによる福音書18章1~14)

 

わたしたちの父である神と、主イエス・キリストからの恵みと平和があなたがたにあるように。アーメン

 

聖書が文字として記されたのは、新約聖書なら、今からおよそ2000年前のことです。にもかかわらず、そこに書かれていることは、全く古臭くなく、まさに今を生きる私たちに語りかけられている言葉として聞こえてきます。

 

今日の第二朗読、ローマの信徒への手紙では、次のように語られていました。

「愛には偽りがあってはなりません。悪を憎み、善から離れず、兄弟愛をもって互いに愛し、尊敬をもって互いに相手を優れた者と思いなさい。怠らず励み、霊に燃えて、主に仕えなさい。希望をもって喜び、苦難を耐え忍び、たゆまず祈りなさい。聖なる者たちの貧しさを自分のものとして彼らを助け、旅人をもてなすよう努めなさい。あなたがたを迫害する者のために祝福を祈りなさい。祝福を祈るのであって、呪ってはなりません。喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。互いに思いを一つにし、高ぶらず、身分の低い人々と交わりなさい。自分を賢い者とうぬぼれてはなりません。だれに対しても悪に悪を返さず、すべての人の前で善を行うように心がけなさい。できれば、せめてあなたがたは、すべての人と平和に暮らしなさい。」

 

ここで語られている言葉一つ一つに、「うん、うん、そうだね」「本当そうそう」という思いにさせられます。ここで語られていることは、信仰をもって、愛のうちに、謙虚に、隣人と共に心を通わせて平和に生きるように、ということです。本当にそうした生き方をしたいと願います。そのために、自分が接する相手を尊び、うぬぼれず、高ぶらないことを大切にしたい。それは、私たちがイエスさまの姿を見つめ、その十字架に従う歩みをする中で可能となることです。イエスさまを見つめ、十字架に従うとき、私たち自身がどれほど罪深い者で、不十分で欠けのある弱い者であるかを知らされます。その時、他の人を尊敬する心が与えられ、他の人の前にうぬぼれることも高ぶることもできない自分であることを知るのです。しかし、私たちがイエスさまを見失い、十字架を忘れてしまうなら、自分の罪深さや、小ささ、弱さを忘れて、他の人を見下し、うぬぼれ、高ぶる心が起こってきます。今一度、このことを心に刻みたいと思います。

 

また、今のこの世界にとっても、このローマ書のみことばは、とても大切だと思います。軍事的な力で他国を脅かそうとしている指導者、それに対して、その国を完全に破壊せざるを得ないなどということを表明する指導者や、対話ではなく圧力こそが大切だと発言する指導者、そこで忘れられているのは、今日のみことばが語っている、相手を尊敬して、うぬぼれず、高ぶらない姿勢です。どこかで相手を見下し、うぬぼれ、高ぶっている、そうした姿勢が、今の非常に残念な状況を生み出しているのではないでしょうか。ですから、今こそ、十字架の福音が、一人ひとりの個人のレベルでも、この社会やこの国やこの世界というレベルでも、とても必要となってきています。私たちの身近で、また世界中のあらゆるところで、喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣くことができるように、切に祈ります。

 

今日の福音でも、イエスさまは、私たちに、相手を尊び、うぬぼれず高ぶらない姿勢の大切さを告げておられます。イエスさまの弟子たちが、イエスさまに「いったいだれが、天の国でいちばん偉いのでしょうか」と尋ねました。自分たちのうちで誰がいちばん偉いか、イエスさまに岩と呼ばれたペトロなのか、いつもイエスさまに寄り添っていたヨハネなのか、あるいは、イエスさまの身内であったヤコブなのか、そうしたことが弟子たちの間で話題になっていたのかもしれませんし、もしかしたら、「俺こそがいちばんだ」、「イエスさまの王国で自分こそきっとよい地位に就くことができるに違いない」という思いが、それぞれの弟子たちの心の中にあったのかもしれません。他の福音書では、そうしたことで口論していた弟子たちの姿にも出会います。

 

エスさまはそんな彼らの問いに答えるために、「一人の子供を呼び寄せ、彼らの中に立たせ」られました。そして、「はっきり言っておく。心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。自分を低くして、この子供のようになる人が、天の国でいちばん偉いのだ。わたしの名のためにこのような一人の子供を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。」、そうおっしゃいました。

 

当時は、子どもは、数える人数にも含めてもらえない扱いでした。今、レストランなどに行くと、「何名様ですね」と店員に確認をされます。家族連れで来店した人をよく見ていますと、昔は、子どもはその人数に入らず、大人だけの人数が言われるお店が多かったですが、最近は子どもの人数もきちんとカウントして「何名様ですね」と確認するお店のほうが多くなってきました。子どもも立派な一人のお客様であるということが社会的にも認知されてきたのでしょう。しかし、聖書の時代は、まったくそうではありませんでした。子どもは取るに足らない存在だと思われていたのです。でも、イエスさまは違いました。子どもをまず彼ら弟子たちの真ん中に立たせられます。社会の端っこに追いやられ、数にも含まれないそうした子ども、またそのうちのたった一人を、イエスさまは真ん中に招かれるのです。イエスさまがもたらし、イエスさまが治められる天の国、神さまのみ国は、このように一人の子どものような小さく弱い立場に置かれている者こそが、主人公で真ん中に立たされるべきだというメッセージが聞こえてきます。

 

そして、私たちが「子供のようになる」ことと「一人の子供を受け入れる」ことこそ、天の国で一番偉く、また、イエスさまを受け入れることだと、イエスさまはおっしゃいます。「子供のようになる」ということは、どういうことでしょうか。ただ子どものように素直にとか、心を真っ白にして生きるという意味で子どものようになるというのではないでしょう。子どもだってなかなか意地悪だし、腹黒い面を持っています。ここでは、そうではなく、きっと私たちが低く小さな一人になるということ。私たちの周り、またこの社会で低く小さな立場に追いやられている人と、私たちが自分を同じ一人にしていくということだと思います。天の国、イエスさまが中心のお神さまのみ国での「偉さ」とは、私たちが普通に考えるそれとは、全く違うものでだということを、イエスさまはここで伝えようとなさっているのです。人の上に立って、他の人たちとどこか別の場所で、人にあれこれ指図するのが、イエスさまにとっての「偉さ」ではないということ。そうではなく、この世の中で小さく弱い立場に置かれている人と、一緒に生きる、そのために自分も小さな一人、弱い一人になって生きることを、イエスさまはここで語っておられるのです。

 

そのために必要なことは、私たちが「心を入れ替えて」生きることです。この「心を入れ替えて」という言葉は、「ぐるっと回って」という感じの意味の言葉です。今までそうだと思ってきたこと、みんなが当たり前だと言っていること、それに対して「本当にそれでよいのか」「いや、もしかしたらそうではないのではないか」と、一旦立ち止まって問い直し、「やっぱりこれは違う」、「これからはこうしよう」と、ぐるっと回って、新たな方向へと歩み直していくこと、それが今日イエスさまがおっしゃっている「心を入れ替えて」ということです。私たちが、天の国、神さまのみ国での本当の「偉さ」に生きるためには、そのように「ちょっと待てよ。うん、これは違うから、これからはこうしよう」という姿勢が大切だということなのです。

 

それは最初に申しました、イエスさまを見つめて、その十字架に従う歩みの中で可能となることです。普通に自分の思う通りに生きている限り、なかなかそうした気づきや新たな歩みは得られません。イエスさまを見つめて生きる、十字架に従って歩む中でこそ、私たちが自分の歩みをいったんストップさせて、考え直して、今までの生き方をやめて、新たな歩みを始めることができるのです。その意味で、このマタイ福音書の18章が、イエスさまの最期のエルサレムへの旅の始まりだということは、とても意味深いと言えましょう。イエスさまが語られるこのみことばを、私たちが受け止め、そこに生きるためには、このイエスさまの旅の終着地であるエルサレム、その十字架を心に刻むことがどうしても必要であるということを、私たちはここから受け止めるのです。

 

私たちがそのようにイエスさまの十字架への歩みから、新たな視点を与えられて新たな歩みをしていくときに、今まではそれほど大したことないと思っていたことの重さに気づかされます。世の中でつまはじきにされていた人や私たちの周りで「あの人はちょっとね」と、そんな風に言われて軽く扱われていた一人が、イエスさまにとって、どれほど大切な重みのある一人であるかということに気づかされるのです。また、私たちが今までそのように人を小さくみなして軽く扱っていたことがどれほど罪深いことであるのかについてもまた知らされます。

 

エスさまはおっしゃいます。「わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首に懸けられて、深い海に沈められる方がましである」、何とも恐ろしい言葉に聞こえるかもしれませんが、イエスさまは、ここで、私たちが見下していたり、軽く扱ったり、小さな立場に追いやったりしている一人は、私たち自身の命と同じだけ大切な一人であるとおっしゃっているのです。もし、私たちがその一人を傷つけるなら、あなたの命を持って償わなければならないほど、その人は大切な尊い存在であり、私たちが今までしてきたことは、それほど重い罪なのだと、イエスさまはおっしゃるのです。

 

ここで「つまづき」ということについて語られています。これは、一人の人が生きていく際に、そのことの邪魔となる者と言えましょう。私たちが他の人が生きる邪魔になっていないかということです。イエスさまはその問いに対してきっぱりと答えておられます。「つまずきは避けられない。だが、つまずきをもたらす者は不幸である」と。自分が、他の人をつまづかせることなどしていない、そう言える人は誰一人としていないということです。私たちにとって、「つまづきは避けられない」、つまり私が生きる際に他の人の邪魔となってしまうということは決して避けることはできないのです。生きていく上で、誰かをつまづかせてしまっている私であるということ、そして、それは本当に不幸なことであるということを、今日、しっかりと受け止め、認め、省みたいと思います。そこからすべてが始まると思います。自分は無縁だ、無罪だ、潔白だと言っている限り、私たちは「心を入れ替え」て新しい歩みをすることは不可能です。

 

「もし片方の手か足があなたをつまずかせるなら、それを切って捨ててしまいなさい。両手両足がそろったまま永遠の火に投げ込まれるよりは、片手片足になっても命にあずかる方がよい。もし片方の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出して捨ててしまいなさい。両方の目がそろったまま火の地獄に投げ込まれるよりは、一つの目になっても命にあずかる方がよい」と、恐ろしいことが重ねて告げられますが、私たちはこのイエスさまのことばから、今までどれほど、他の人の歩みを邪魔したり、真実を見つめることを邪魔したりしてきたかを省みたい。それが自分自身の手足や目を傷つけられるのと同じほどの重さであり、痛みであるということを受け止めてこなかったことを深く悔い改めたいのです。

 

しかし、なお、その痛みの中で、私たちに命を与えてくださるイエスさまの憐れみを同時に受け止めます。他の人をつまづかせてしまう不幸を抱える私たちだけれども、なおも「永遠の火」、また、「火の地獄」と呼ばれる滅びではなく、「命にあずかる」道を、イエスさまは私たちのために開いてくださっているのです。ですから、私たちは「心を入れ替えて」、他の人を尊び、遜って、うぬぼれず、高ぶらない生き方を志したいと願います。

 

エスさまはおっしゃいます。「これらの小さな者を一人でも軽んじないように気をつけなさい。言っておくが、彼らの天使たちは天でいつもわたしの天の父の御顔を仰いでいるのである。」どんな人にも神さまが遣わした尊い天使がついている。私たちがもし一人を軽んじることはその天使を軽んじることで、しいてはその天使を遣わした神さまを軽んじることだということを、これは意味します。だからどんな一人であっても決して軽んじられても失われてもならないのです。それほどの重さをもって一人を尊び、喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣く歩みを目指したいものです。

 

主よ、私たちを導いてください。

 

小さく弱い罪深いわたしが、御子イエスさまの尊い十字架により、天の国へと招かれたこの恵みを心から感謝いたします。わたしもまた、この社会の中で小さく弱い立場に置かれている人たちを尊んで、共に歩み、喜ぶ人とともに喜び、泣く人共に泣く、そうした歩みができるようにお導きください。あなたの御前に遜り、うぬぼれず、高ぶらずに歩むことができますように。救い主イエス・キリストによって祈ります。アーメン

 

あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るように。アーメン

 

動画:2017-09-24.mp4 - Google ドライブ

 

 

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