yukaina_gorilla’s diary

ごりらぼくし(大麻ルーテル教会/北見聖ペテロ・ルーテル教会)です。聖書や教会のこと、社会のこと、ペットのことなど書いていきますね。

全聖徒の日

教会の暦で、昨日10月31日は「宗教改革日」でしたが、きょう11月1日は「全聖徒の日」です。実は、この11月1日があったから、10月31日が宗教改革のきっかけとなったわけですが、そのことについて書いてみますね。

 

11月1日は、当時の教会の暦では「諸聖人の日」でした。そして、毎年、この日に、ルターが暮らし働いていた街のヴィッテンベルクで聖遺物の一般公開がなされていたのです。聖遺物とは、キリストに関係するいろんなものだとか、教会の歴史上のお偉いさんである聖人に関係するいろんなもののことです。たとえば、キリストが縛り付けられた柱だとか、十字架の一部だとか、幼な子イエスを包んだ布だとか、聖人の骨だとか、その服の切れ端だとか、そうした類のものです。

 

当時の教会では、そうした聖遺物を見たり触れたりするなら、私たちが犯した罪の償いが軽減される御利益があると教えられていました。死んだ後に、罪の償いをする煉獄という場所があると信じられていたのですが、その煉獄での苦しみが何万年分免除されるというような教えがなされていたのです。ですから、その11月1日の諸聖人の日に毎年なされた聖遺物の一般公開は、ヴィッテンベルクの人たちにとって、一年に一度の大事なとてもありがたい機会だったのです。

 

他方、他の町々では、罪の償いが完全に免除されるお札が売られていました。それが「贖宥状」、いわゆる「免罪符」として知られているお札です。そのお札を買えば、罪の償いがすべて免除されるとされていました。そのお札を買う代金を賽銭箱の中に入れて、その箱の底で「チャリン」と音がするや否や、魂は煉獄から飛び出て天国に行くことができるなんて、そんな説教?もなされていたそうです。ヴィッテンベルクがあるザクセン選帝侯が治めていた領内では、聖遺物の一般公開が廃れてしまうことを危惧して、このお札の販売は禁じられていました。でも、街のみんなは、隣の領までそのお札を買いに行ったと言います。

 

ルターは、ヴィッテンベルクでの聖遺物の一般公開の日である11月1日の前日、10月31日に、「贖宥の効力に関する討論」(95箇条の提題)を発表します。贖宥状や聖遺物によって、私たちの罪が軽減されるなんていうのはおかしい。イエス・キリストが「悔い改めよ」と言われたのは、そんなお札を買ったり、何か物を見たり触ったりしたら、もう罪の償いをしなくてよくなるということじゃないでしょ?そうじゃなくて、信仰者として一生涯悔い改め続けることを、キリストは私たちに望んでおられる。そしてそれは、私たちがお札を買ったり、聖遺物を見たり触ったりでなくて、キリストの十字架に立ち返ることでしょ?教会は、そのキリストの十字架をこそ宣べ伝えるべきで、お札や聖遺物を伝えるんじゃないよ!そのことをみんなで話し合いましょうよと、当時の教会の指導者に書き送ったのです。

 

ま、実際にはその話し合いには誰も参加せず実施されなかったということですが、でも、当時はちょうど活版印刷の技術が開発された時代で、しかもコピーフリーの時代ですから、ルターのその文書は、たくさん印刷されて、すぐに多くの地方に住む多くの人たちが目にすることになったのでした。それが宗教改革のきっかけとされ、10月31日が宗教改革日として位置付けられるわけです。

 

このように、11月1日の諸聖人の日と、10月31日の宗教改革日は、大きく関係があるわけですが、現在、私たちの教会では、11月1日は「諸聖人の日」ではなく、「全聖徒の日」と呼んでいます。「諸聖人」と「全聖徒」という言葉、似てますけれど、その意味合いは大きく違います。(英語では、All saint's dayで言葉は同じですが)

 

私たちが今日覚えるのは、一部の教会の歴史上のお偉いさんとしての諸聖人だけではありません。全聖徒です。つまり、キリストの十字架と復活によって、神の恵みとして、神のものとされたすべての人々(聖徒たち)を覚え、すべての聖徒たちを支え導く、神をたたえるのです。そして、私たちもその聖徒たちのひとりとされていることを喜び感謝する日でもあります。

 

なお、この全聖徒の日は、11月の第一日曜に「全聖徒主日」として振り替えて覚えることも可能とされています。そして、この日の主日礼拝を、地上の生涯を終えて天の神のみもとに召された方々を覚え、「召天者記念礼拝」として行う教会も多いですね。

 

みなさんとともに、いのちの神からの希望が豊かにありますように。

 

全聖徒の日の祈り

全能の神さま。あなたは信じる者を主キリストのからだ、唯一の聖なる教会に結び合わされました。恵みを注いで、私たちを聖徒たちの信仰と献身の生涯に倣わせてください。あなたの民のために備えられた喜びで満たしてください。あなたと聖霊と共にただひとりの神であり、永遠に生きて治められるみ子、主イエス・キリストによって祈ります。

 

ストラコレクション 新メンバー

以前、当ブログで、礼拝の際に用いる色である典礼色や、牧師が礼拝の際に首からかける布であるストラ(ストール)について、ご紹介・ご説明いたしました。

マイ ストラ/ストール コレクション - yukaina_gorilla’s diary典礼色について - yukaina_gorilla’s diary

 

そこで、は希望を表し、待降節に用いられることを書きましたが、伝統的に待降節にはを用いてきたこと、そして私はのストラはないのでを使っていることを書いたのですが、な、なんとこの度、いつも私のストラを作ってくださった方からプレゼントとして送られてきたのです!青のストラが!!!とっても素敵な青

 

感謝しつつ、早速今年の待降節アドベント(12月3日)より使わせていただきます。ありがとうございます!

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黙想 マタイ22:15~22

マタイによる福音書22章15~22

それから、ファリサイ派の人々は出て行って、どのようにしてイエスの言葉じりをとらえて、罠にかけようかと相談した。そして、その弟子たちをヘロデ派の人々と一緒にイエスのところに遣わして尋ねさせた。「先生、わたしたちは、あなたが真実な方で、真理に基づいて神の道を教え、だれをもはばからない方であることを知っています。人々を分け隔てなさらないからです。ところで、どうお思いでしょうか、お教えください。皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか、適っていないでしょうか。」イエスは彼らの悪意に気づいて言われた。「偽善者たち、なぜ、わたしを試そうとするのか。税金に納めるお金を見せなさい。」彼らがデナリオン銀貨を持って来ると、イエスは、「これは、だれの肖像と銘か」と言われた。彼らは、「皇帝のものです」と言った。すると、イエスは言われた。「では、皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」彼らはこれを聞いて驚き、イエスをその場に残して立ち去った。

 

黙 想

「イエスの言葉じりをとらえて、罠にかけよう」として、イエスに質問をする彼ら。イエスの言葉をどのように聞くのか、その姿勢。自分自身にとって都合のよいような言葉を引き出そうとする彼ら。私たちの中に、そうした姿は、ないだろうか。聖書のみことばをどう読むか。どう受け止めるか。サタンでさえ、聖書のみことばを語りながら、イエスを誘惑したことを思う。自己正当化のために聖書のみことばを用いない。人を裁いたり、陥れたりする道具として聖書を用いない。「文字は殺すが、霊は生かす」

 

「皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか」。なかなか狡猾な問いだ。当時のイスラエルは、ローマの支配下にあった。そのため、イスラエルの人々はローマへの税金を納めなければならなかった。しかし、彼らのもともとの信仰は、神こそが我々の支配者であるというものだ。だから、この世の支配者に対して税金を納めることは、その信仰を侵すことになる。よって、本来的には信仰的にローマへの納税は律法的には認められないものだ。けれども、実際には、納税から免れることはできない。そうした中で、皇帝への税金の律法的な是非についてイエスに尋ねた場合、もしイエスがそれを是認するなら、皇帝の支配権を認めることになり、神の支配という信仰を侵し、さらには、民衆の生活苦への無理解を表すことになる。彼らファリサイ派の人たちが、イエスを訴える口実ができるのだ。また、逆に、イエスがそれを否認したとしても、それはローマ皇帝に対する反逆罪となり、皇帝の支配を重んじることで利益を得ている人たち、その勢力の人たち、主にヘロデ派の人たちが黙っていないだろう。このように、イエスがいずれを答えても、イエスを陥れて罪に定めることができることができることが意図された質問であった。

 

「先生、わたしたちは、あなたが真実な方で、真理に基づいて神の道を教え、だれをもはばからない方であることを知っています。人々を分け隔てなさらないからです。」と彼らはイエスに向かって言っているが、実際、イエスはそうしたお方であるから、これは字面的には彼らの言うとおりだ。しかし、彼らのこの言葉は本心ではない。イエスを追い込もうとする魂胆の中で語られた言葉だ。「だれをもはばからない」からこそ、「私たちの質問も誤魔化さずに答えなさい」という意味合いが込められているし、「人々を分け隔たなさらない」からこそ、皇帝の支配に反対する人たちにも、それを重んじる人たちにも忖度せずに、「真理に基づいて神の道を教え」「真実」のみを語るように、彼らはイエスに迫っているのだ。

 

エスは、彼らにローマに納めるための硬貨を持ってこさせる。そして、イエスは彼らに「これは、だれの肖像と銘か」と尋ねた。彼らは、「皇帝の者です」と答える。その硬貨には、皇帝の顔の絵が刻まれていた。また、ティベリウス・カイサル、いと高き神なるアウグストゥトゥスの子」という言葉も刻まれていたという。それゆえ、イスラエルの人々が、このお金を持ち歩くのは、律法的には本来ふさわしくない。なぜなら、何も刻み込んではならないという十戒の教えに反するし、神以外のものを神としてはならないというこれまた十戒の教えにも反する。つまり、彼らにとって重い罪である、偶像崇拝に当たるからだ。だから実際、神殿における献金に、この硬貨は用いることができず、両替所で両替してもらう必要があった。

 

エスは、その硬貨を手に取りながら、彼らの意地悪な質問に答える。「では、皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」

 

私たちは、この世の中で生かされている。この世の中で生かされている限り、この世のいろいろな柵の中で、様々なことに巻き込まれながら、この世の制度に従って生きていかなければならない。それが「皇帝のものは皇帝に」とイエスが語っていることの意味であると受け止めたい。けれど、同時に、もう一つ、私たちには忘れてはならないことがある。私たちが「神のもの」であるということを。私たちの人生は、究極的には神のものであるから、神にそれをお返しするためにこそ存在しているものなのだ。そうした中で、「神のもの」として、「皇帝のもの」=「この世のもの」にかかわりながら、私たちは生きていく。この世への怒りや悲しみ、葛藤や痛みを心に抱きながら、でも、そのこの世の中で、神のものとして生きていくのだ。

 

また、イエスのこの言葉から、この世の中に生きる者として、私たちが負っている罪や悪の現実をも受け止めたい。この世の支配は、神の支配を忘れ、それを蔑ろにして、人々を誤って支配してしまう。そこで、本来、神のものである人々に対して苦しみを強いてしまう。あるいは、そうしたこの世の支配に乗じて、そのことで自分の利益を得たり欲望を満たしたりしてしまう私たちの現実もある。(今日の福音で言うなら、皇帝の支配を認める立場の人たち、硬貨を両替していた両替人たち、税を取り立てていた収税人たち…。)さらには、やむを得ず、そうした立場で生きていかねばならない人たちを、差別したり、罵ったりする、そうした弱さもある。私たちは、そのような一つ一つの現実を見つめつつ、にもかかわらず神のものとされているのだということを忘れず、そこに立ち返って生きていく。

 

全聖徒主日。すべての聖徒の主日。「生きている者も死んだ者も」(信仰告白)聖徒=神のものとされた人たち。聖徒とは、この世の一般の人たちより偉い「聖人」たちのことではない。キリストにあって神のものとされたすべての人たちの意味。だから私たちも(ゆえに、こんなどうしようもない私だって!)聖徒の一人としてされている。そのことをまずこの「全聖徒」という言葉から受け止めたい。

 

私たちの人生は、神のものは神に返す。神のものとして、神の前を生き、神に返していく生涯。「わたしたちの本国は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られることを、わたしたちは待っています。天の民として、神のものとして、救い主キリストを待ち望みながら、この世を生きる。この世の様々な重荷を身に負いながら。でも神のものとして、天の民として。天を仰ぎながら、地を歩む私たち。

 

この世の現実(今日の聖書で言うなら、皇帝の支配)だけを見るならば、そこは悲惨で絶望的な神などいないような世界かもしれない。でも、「神の前で、神と共に、神なしにぼくらは生きる」のだ。

 

「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」これを、この世のことと神のことと二元論的に考え、キリストの教会や信仰者はこの世のことに関わるべきではないという受け止め方がされる場合もある。あるいは、この世のことには教会や信仰者は服従すべきであるという考えもある。でも、それらは違うだろう。

 

私たちは、この世のことに密接に関わり合いながら、そこから逃れることができず、神を信じて、救い主を待ち望むながらこの世のただ中で生きているものだ。この世を旅する神の民としての聖徒の歩みだ。この世のことと、神のことと、そんな風に分けて考えることも、そのように生きることもできない。神への信仰に関係のない、この世の事柄など存在しないのだ。この世のただ中で聖書のみことばを受け止める。その試練の中で。Tentatio!

 

究極的なことと究極以前のこと。神によって救われて神のものとされた私たちの尊厳が、皇帝のもの(この世の支配)によって脅かされるときに、私たちはそこでそれを放置していてはならない。それは究極以前の事柄であるが、私たち聖徒たちの課題である。その人の尊厳を脅かす現実を取り除き、皇帝(この世の支配)に対してそれをつき返して、神のものとしての私たちの尊厳を回復していく務めもまた、私たちにあるだろう。究極的なことだけを見つめて、究極以前のことに無関心であったり諦めたりしてはならない。

 

神が「極めてよかった」とおっしゃった状態を保つ、神の支配がこの地上で行われるために仕えて働く使命が私たちにはあるのだ。神のものとして創られ、キリストによって聖徒とされた、私たちの宣教の使命である。天のみ国に召されるその日まで。

宗教改革500年を迎えて

1517年10月31日に、マルティン・ルターが「贖宥の効力に関する討論」(95箇条の提題)を発表して、今日2017年10月31日でちょうど500年目を迎えました。

ルターが再発見して、命がけで伝えた福音の信仰に、500年を経た私たちも立つことができ、またそれを次の世代に受け継ぐべく召されていることを、心から感謝し、喜びたいと思います。また、ルターの改革の精神を私たちも大切にして、私たちの信仰もいつも見直し新たにしたいものです。Reformationは、私たちにとって福音によるRecreationであり、Restartの時であることを心に刻む今日でありたいと願います。

また、このルターの宗教改革をきっかけとして、これはルター自身が意図したことではありませんでしたが、たいへん残念なことに、ローマ・カトリック教会ルーテル教会が分かたれ、さらに他のプロテスタント諸教派として分かたれる結果となりました。私たちは、宗教改革500年を迎え、この現実に心を痛め、「主よ、憐れんでください」との祈りを新たにします。

イエス・キリストが「信じる者が一つであること」を、神に祈り願ったように、私たちも教会の一致を覚えて祈ります。お互いの多様性を尊重し合いつつ、一致して祈り、奉仕する機会がもっともっとたくさんあるように、また、具体的にもっともっと一つとなることができるように、心から願います。

そのために、私たちが今生かされているそれぞれの地域でも、教会一致のための取り組みがこれからも活発になされるよう努力していきたいと思います。グローバルなエキュメニズムももちろん大切ですが、同時にローカルな、足元でのエキュメニズムも大きな意味を持っていることでしょう。

「私たちの主であり師であるイエス・キリストが、《悔い改めよ》と言われた時、彼(キリスト)は信じる者の全生涯が悔い改めであることを望まれたのである」(贖宥の効力に関する討論 95箇条の提題 第一条)。私たちも絶えざる悔い改めと、主の十字架への立ち返りを心に刻み、今日を過ごします。

神さま。宗教改革500年を迎えました。すべてのキリストの教会が、主の福音に堅く立ち、祈りを合わせて、福音の宣教のため、また、この地上で神の御心が行われるため、ともに歩むことができますように、助け導いてください。教会と世界の主であるイエス・キリストによって。アーメン

Soli Deo grolia! 主の平和!

2017年10月29日 礼拝メッセージ 宗教改革500年・大麻ルーテル教会50年

聖霊降臨後第21主日

宗教改革500年 大麻ルーテル教会50年感謝礼拝 2017年10月29日

 

「走り続けよう」

(マタイによる福音書22章1~14、フィリピの信徒への手紙3章12~16)

 

わたしたちの父である神と、主イエス・キリストからの恵みと平和があなたがたにあるように。アーメン

 

今日、私たちは3つの意味を込めて礼拝します。一つは、宗教改革500年礼拝です。1517年10月31日にマルティン・ルターが一つの文書を発表しました。それから今年は500年目、10月31日の直前の日曜日である今日の礼拝を「宗教改革500年礼拝」として行います。ルターが書いたその文書は、「贖宥の効力に関する討論」というのが正式なタイトルですが、「95箇条の提題」として知られています。

 

その冒頭には、こう書かれています。「わたしたちの主であり師であるイエス・キリストが『悔い改めよ』と言われた時、彼キリストは信じる者の全生涯が悔い改めであることを、望まれたのである」。当時の教会は、キリストに関わる様々なモノだとか、教会の歴史上の偉人である聖人の骨だとか服の切れ端とか、そんなもの(聖遺物)を見たり、拝んだりしたら、私たちの罪の償いが軽くなると信じられていました。さらには、教会で売られていた贖宥状と呼ばれる、いわゆる免罪符のお札を、買うなら、すべての罪の償いが免除されて、天国へ行くことができると教えられていたのです。それに対してルターは疑問を呈します。人の罪が赦されるのは、そんななことによってではない。私たちの罪はそんなことで赦されるほど軽いものではなく、私たちは、どんなことをしても自分で自分の罪の赦しを得ることなど出来ない、ただただキリストの招きに応えて一生涯かけて悔い改め続けること。そのためにいつもキリストの十字架に立ち返ること、ただそのことによると述べたのです。

 

今日、宗教改革500年の礼拝をしている私たちに大切なことは、そのルターの宗教改革を過去の500年前の出来事して記念してお祝いするということではありません。今の私たちが、まさに、そのルターが述べたのと同じ信仰に生きることこそが大切です。つまり、何かこの世のモノだとか、自分自身の行いだとか、そんなことで、私たちは神さまの赦しを得られるのではない。どれだけ努力をしても、この世のどんなものを手に入れても、私たちの抱える罪は、そんなことで赦されるほど簡単な軽いものではなく、自分ではどうしようもできないもの。だから、ただただキリストの呼びかけに応えて、一生涯悔い改めを続ける。キリストの十字架に立ち返って生きる。その信仰を私たちも大切にして、日々そこに立ち返る、それが今日、私たちが宗教改革500年の礼拝を行うことの意義なのです。

 

今日の礼拝の二つ目の意味、それは私たちのこの大麻ルーテル教会の50年感謝礼拝です。この札幌のベッドタウン、江別の大麻の地で宣教が開始されたのは、1966年、今から51年前のことでした。そして、それから一年が経過して1967年には、この地に会堂が建てられて、一つの地域教会として認められました。また、この年に、大麻ひかり幼稚園も仮開園しています。今日は、この1966年の宣教開始と、翌67年の地域教会としての創立、その二つを覚えて、大麻ルーテル教会50年感謝礼拝として行っています。この地域に、キリストの福音を伝えるために、今から51年前に宣教が始められて、そして、50年前に信仰者たちがともに集い、神さまを礼拝し、また宣教に出かけるための家として、この教会が建てられた。私たちは今日、このことを覚えて礼拝をしているのです。

 

今年の春に行われた私の牧師就任式の際に、粂井先生が説教の中でお話しくださいましたが、私はこの教会の7代目の牧師です。つまり、今まで6人の先生方がこの教会に仕えて、大麻の地の宣教のために働いてくださいました。また、それぞれの時代に、信徒の方々もともに、宣教の働きを担ってこられました。幼稚園でも、今まで多くの先生方が子どもたちにキリストの愛を伝えてくださいました。そして何よりも、神さまがこの50年の間、私たちの教会の歩みを導いてくださいました。途中、教会の活動自体は休まざるを得なかった時代もありましたが、その際も幼稚園の働きは休むことなく続けられて、この地でキリストの愛が伝えられることが途絶えることはありませんでした。私たちはこのことに、今日改めて心から感謝します。

 

同時に、宗教改革500年と同じく、私たちがこの50年をただ過去の記念として覚えるだけならば、その意味が半減してしまいます。ただ昔のことを振り返って記念し祝うための、50年礼拝ではありません。その50年間、神さまが導き、それぞれの時代の信徒のみなさんや牧師たち、また幼稚園の先生方が担ってこられた宣教の働きを、私たちも今ここで担い、また次の世代に受け継いでいく、そのことを改めて心に刻み決意するときが、今日の礼拝の意味なのです。50年前の昔のことではなく、50年前に開始された宣教によって、今の私たちにも福音とその信仰が託されている。そしてその福音と信仰を私たちの周りの人に分かち合い、そのバトンを次の世代の人たちに渡していく。オリンピックの聖火が消えることなく、次から次へと受け継がれていくように、50年前にこの大麻ルーテル教会で灯された聖火が私たちにも託されている。私たちもその聖火の炎を消してしまわず、次の人に渡していく。その歩みが大切なのです。

 

そして、今日の礼拝の3つ目の意味、それは今日は聖霊降臨後第21主日、通常の主の日、日曜日の礼拝であるということです。この私たちの教会の50年の礼拝をいつ行うか、私が考えた際に、最初、休日か日曜日の午後に行うことを考えました。けれども役員会で、日曜日の通常の礼拝の中で行うことが決まりました。そのことで、北海道地区内の他の教会の複数の方々より、「日曜日の礼拝の時間に行うなら、私たちは自分の教会の礼拝があって参加できないから、もっと違った時間にしてくれればよいのに」というお話もいただきました。それに対して、私は「みなさんはそれぞれご自分が行かれている教会の礼拝の際に、どうぞ心の中で大麻のことも覚えてお祈りしてくださいね」と答えましたが、もしかしたら、他の教会のみなさんがおっしゃったように、日曜日の主日礼拝とは別の時間にこの50年の礼拝を行った方がよかったのかもしれません。しかし、私は、今、この私たちの教会の50年の礼拝を通常の主の日の礼拝の中で行うということに、とても大きな意味があると、考えています。

 

主の日の、日曜日の礼拝、これは、神の御子、主イエス・キリストが、私たちの救いのために十字架を引き受け、死なれて、そして三日目の日曜日の朝にご復活なさり、私たちに永遠の命を与えてくださる、そのことを覚えて祝うために行われるものです。このことは、宗教改革の500年も、私たち大麻ルーテル教会の50年も、ただこの神の御子イエス・キリストの十字架と復活に収斂されるということを、よりはっきりと明らかに示してくれるのです。

 

私たちが宗教改革500年を覚え、大麻ルーテル教会の50年を感謝することは、キリストが私たちの救いのために、十字架を引き受けて死なれ、永遠の命を私たちに与えてくださるためご復活なさった、ただこのことのゆえです。宗教改革の500年も、私たちの教会の50年も、今からおよそ2千年前の主イエスの十字架と復活の出来事から始まった、一本の線の上に存在するのです。宗教改革、それは他の何事でもなく、キリストの教会が、主の十字架を覚え、ご復活を心から喜ぶ、そこに立ち返った出来事でした。私たちの教会も、主の十字架を覚え、ご復活をお祝いする共同体に他なりません。その歩みを500年、また50年続けてきたのですし、これからも続けていくのです。そのことを、今日、この日曜日、主の日の礼拝の中で心新たに受け止めたいと願います。

 

さて、今日の聖霊降臨後第21主日の福音で、王は、善人も悪人もだれでも婚宴に招くように、家来たちに命じています。その人たちは、本来なら招かれないはずだった人たちです。でも、誰でもよいから招くように、王は命じます。私たちも、そうした一人として、この教会に招かれ、そのことを通して天の国への招きを、神さまからいただきました。本当ならば、そのことに全くふさわしくないこの私です。神さまの前に多くの罪を重ねて、神さまから遠く離れて歩んでいる私。もっと言うなら、今日の福音に登場する最初に招かれていた人たちのように、神さまの招きを無視したり、忘れたりして毎日を過ごしている一人であり、また、いろんな自分の事柄や楽しみを大切にして、神さまの招きをどこかにポイっと捨てていた、そんな私であることを思います。でも、それでも、神さまは、私たちを見捨てず、キリストの体である教会へと招き、天の国の民の一人としてくださいました。これは、私たちの側に何一つの理由もなく、ただただ神さまの恵みによってのみ、私たちに届けられた招きです。私たちはその招きを本当に心から喜び感謝するものです。

 

そして、今度は、私たちがその喜びと感謝をもって、この地域の人たちを教会に招き、また天の国への招きを届けるべく、神さまからその務めを託されていることを、今日受け止めたいのです。今日の第一朗読にあったように、「立て、我らはシオンへ上ろう。我らの神、主のもとへ上ろう」と、周りの人たちに声高らかに呼びかけたい。その人が善人であろうと悪人であろうと、そんなことは関係なく、この罪人の頭、その最たる者である私ですら招かれたのですから、その相手がたとえどんな人でも、「あの人は神さまの救いにふさわしくない」とか「あの人は神さまの招きを受け入れるはずはない」とか、私も諦めることなく、その人に神さまの招きを伝えたいと願います。

 

ところで、今日の福音で、王の招きに応えて、その宴に集おうとして、一人だけ集えなかった人が登場します。その人は、その席にふさわしい礼服を着ていなかったというのが、その理由でした。なんだかとても気の毒な気がします。ただ王様の恵みによって婚宴に招かれたというならば、別に礼服なんて着ていなくてもよいではないか、そんな風にも思います。でも実際に、その人は礼服を着ていなかったという、ただその一つの理由によって宴から追い出されました。これは、イエスさまが語られた天の国のたとえです。ですから、天の国の喜びの宴に私たちが集うときにも、礼服を着ていなければならないということになります。よく「ありのままの私が招かれている」と語られます。「そのままの私で神さまの招きに応えればよい」と言われます。しかし、今日の福音を見る限り、「ありのまま」、「そのまま」ではなく、きちんと礼服を着ないといけないということになります。神さまの前にそのように着飾らないといけないのか。そうなると、ルターが語った「恵みのみ」は間違えなのか。そんなことを思うかもしれません。

 

けれども、私たちは、ここで、この「礼服」とは一体何であるのかを考えたいのです。私はそのことを考えたとき、パウロが手紙の中で、「主イエス・キリストを身にまといなさい」とか、「あなたがたは皆、キリストを着ているからです」とか述べている言葉を思い起こしました。さらには、黙示録で、長老たちが天の国で、小羊、つまりイエスさまの血によって洗われた白い衣を着て、神さまを礼拝している姿を思い起こしました。そうです。私たちは、主イエス・キリストを身にまとい、キリストを着て、神さまの招きに応えるのです。神の小羊であるキリストが十字架において流された尊い血によって洗われた白い衣を着て、天の祝宴に参加するのです。私たちにとっての天の祝宴のドレスコード、それはイエス・キリストです。ありのままの私が招かれている。そのままの私で神さまの招きに応えればよい。その通りです。しかし、そのありのままの私、そのままの私は、罪と汚れでぼろぼろなのです。そんなぼろぼろな私が、私たちのために十字架にかかられた救い主キリストを着る。キリストの血により洗われた白い衣を着る。その時、神さまは、「おっ、あなたいい服着てるね、さあ、こっちにおいで」と、天の祝宴に招いてくださるのです。

 

神さまの招きに応え、イエス・キリストを着て、天の国の宴に集う。私たちはその喜びの日を待ち望んで、この教会で信仰を養い、出会う人々に福音を分かち合いながら、これからも歩んでまいります。教会の歴史を振り返るなら、昔は人が沢山いて、みんな若くて活気にあふれてよかったと、懐かしく思うでしょう。でも、今日のフィリピ書でパウロ「なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです」と語っています。この言葉を今一度胸に刻んで、さあ前を向いて、ともに走り続けようではありませんか。

 

主よ、私たちを導いてください。

 

天の国にふさわしくない私ですが、あなたの憐れみによって招いてくださったことを心から感謝いたします。御子キリストの贖いを身にまとい、そのあなたの尊い招きに応えることができますように、そしてその喜びと感謝をもって主がみ国へと召してくださるその日まで信仰の道のりを走り続けることができますように、私たちを導いてください。この教会の50年の歩みをあなたが導いてくださったことをありがとうございます。どうか、この50年間、私たちの教会で受け継がれてきた福音のバトンを、私たちも周りの人に、また次の世代の人々に渡していくことができますようにお導きください。ルターが今から500年前に明らかにした恵みのみ、信仰のみ、聖書のみの信仰に、私たちも今一度立ち返ることができますように。主イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン

 

希望の源である神が、信仰によって得られるあらゆる喜びと平和とであなたがたを満たし、聖霊の力によって希望に満ちあふれさせてくださるように。アーメン

 

動画 2017-10-29unedited.mp4 - Google ドライブ

 

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弟子屈集会メッセージ

弟子屈 摩周チャペルアワー 2017年10月26日

「ルターの宗教改革、そしてわたしたちの改革」

 

ルーテル教会とは、ルターの教えを大切にする教会のことを意味するが、今年はマルティン・ルター宗教改革から500年を迎えている。1517年10月31日に発表した一つの文書をきっかけに。その文書は、「贖宥の効力に関する討論」「95箇条の提題」として知られる。ルターが、教会の扉に、その文書を貼りだしたと言われるが、その真偽のほどは確かではない。その文書が、その日付で送付されたことは確か。その当日から間もなく、500年が経とうとしている。

 

その文書は、贖宥状、免罪符のお札に対する、ルターの疑問が述べられたもの。当時、聖遺物(キリストの生涯に関わるいろいろなもの《キリストが縛りつけられた柱?など》や聖人に関するもの《骨とか服の切れ端とかなど》)を見たり拝んだりしたら、私たちが犯した罪の償いが軽くなり、免罪符を買ったら、そのことで、罪の償いが免除されて、罪の赦しが得られると教えられていた。ルターはこれに対して「おかしいだろ?」と疑問を呈した。そのように私たちが「何かをしたから」と言って、私たちの罪の償いが軽減されたり、罪が赦されたりすることはない。私たちが日々犯す罪は、そんなに軽い簡単なものではない。私たちが自分でどれだけ頑張っても、そのことによっては私たちの罪は赦されない。自分の努力では、どうすることもできない。聖書が、「義しい者はいない、一人もいない」と言っている通り、自分の努力では、神さまのみ前に、だれ一人として正しいものになれない。

 

当時、免罪符が販売されるとき、大きな箱が置かれ、その側で説教された。「あなたがたのお父さんやお母さんが煉獄で苦しんでいる。(煉獄とは、天国と地獄の間にあるとされた、天国に行くまでに罪の償いを果たす場所。天国へのリハビリテーションセンター。)あなたがたはお父さんやお母さんに生前一杯お世話になったのに、そのまま放っておいてよいのか。あなたがたはそんなに薄情なのか。さあ、この免罪符のお札を買いなさい。そのお金をこの箱に入れて、その箱の底でチャリンと音がするや否や、その魂は煉獄から飛び出て天国に行くことができるのだから」。もうめちゃくちゃ。こんなエピソードも。昼間から飲んだくれて道端でなまけて寝ていた酔っ払いのおっちゃんがいた。「そんな怠惰な生活はダメだろ。ちゃんと働きなさい」とルターは注意した。するとその酔っ払いは、ポケットから一枚のお札を出して、それを見せながら、どや顔で「旦那、大丈夫でっせ。あっしにはこれがありますから」と。それは免罪符のお札だった。

 

ルターは、「そんなのおかしいだろう。聖書はそんなこと教えていない。大事なのは、私たちが一生涯かけて罪を償うこと、そのためにキリストの十字架に立ち返って、日々そこに生きることだ。キリストの十字架、私たちには、ただそれしかない。教会は、そのことを宣べ伝えて、ただそこに立つべきだ」と主張したのだ。

 

ルターが、そのような理解を持つことになった経緯。ルターは、ある日、歩いて旅をしていた時に、強く激しい雷に遭遇する。彼は、その落雷に命の危険を感じて、「聖アンナ様(ルターの大事にしていた守護聖人)、私を助けてください。私は修道士になります」と言って、その後、親や友達の反対を押し切って、実際に修道院に入った。そして、修道院で規則を守り、一所懸命お祈りをして、聖書も読んで、模範的な修道士となった。その当時、ルターは、神さまのことを恐れて、怖がっていた。神は、自分を罰して裁くお方だと。だから、彼は一所懸命修行に励んだし、自分の罪を神父様に告白した。そして、その帰りにまた自分の罪を思い出して、さらに神父様のもとに戻って罪の告白したということも少なくなかったという。ルターは、それほど神さまを恐れて、何とかして神さまの赦しと救いを自分の手に入れようと努力した。けれども、努力すればするほど、自分は決して正しいものにはなれない、自分はどうしようもない罪人だと思うばかりだった。だからこんなダメな罪深い自分は神さまに裁かれて、罰せられてしまう。そのように恐れていた。

 

その当時、彼は大学で聖書を教えていた。だから聖書をひたすら読んで考えた。その中で、ある一つのことに気づく。それは、大切なことは、今まで自分がしてきたように、自分で頑張って神さまに近づいて、何とか正しく生きようとすることではなく、そうした多くの罪を抱えて、本来ならば、神さまに裁かれ罰せられるべき自分を、神さまが憐れんでくださる、神さまが私たちを救うために大事な独り子イエス・キリストを私たちのもとにお遣わしくださり、キリストは私たちの罪と、その罪のゆえに私たちが受けなければならない罰を、ご自分の身に引き受けてくださり、十字架にかかり苦しみ、命をささげられた。そしてそれと引き換えに、その交換として、神さまの赦しと永遠の命を私たちに与えてくださる。「喜ばしい交換」=キリストが十字架で私たちの罪と罰を受け取られ、それと交換に、私たちに赦しと命を与えてくださる。どう頑張っても、神さまの前に正しくない私たちだけど、キリストが十字架において、神さまとの間の正しさを私たちに回復してくださる、私たちを義しいと認めてくださる、そのことこそ大切であると。

 

だから、私たちの罪が免罪符のお札で赦されたり、その償いが軽減されるなんてことは認められない。そうではなく、ただただ十字架、十字架。そこにこそ平安がある。神とキリストの一方的な愛と憐れみによってのみ、私たちにプレゼントとして与えられる恵みとしての赦し。私たちにとって大切なのは、その神の恵みに立ち返って生きること。生涯かけて、日々、そこに生き続けていくこと。そこにこそ、神さまの赦しがあり、救いがある。私たちは、その神さまの恵みを信じる。それがルターの、宗教改革の信仰で大切な、「恵みのみ」「信仰のみ」の信仰だ。

 

そして、ルターは、この信仰を、ただただ、私たちは聖書のみことばによってからのみ知ることができると、主張した。それが「聖書のみ」の信仰だ。でも当時は、聖書を読むことができるのは、本当にごく一部の人のみだった。ルターも「修道院に入って初めて聖書を手に取った」と言っているほど。聖書は、それほど貴重なものだった。そして、もう一つ当時の人々が聖書を読むことができなかった理由は、当時は、聖書はラテン語の訳しかなく、一般の人たちはそれを読めなかった。だからルターは、後に聖書をドイツ語に翻訳した。民衆がわかる言葉、普段使っている言葉で。ルターは、「私は民衆の口の中を覗き込んで、聖書を訳した」と言っている。みんなが自分たちの言葉で聖書を読んで、神さまの恵みを知り、信じることができるように。

 

そして、聖書のみことばを誰でも学び、理解することができるように努力した。識字率が低く、字が読めない人も多かったので、賛美歌もたくさん作った。「会衆の説教」としてのさんびか。聖書のみことばを理解すること、そして、それを伝えることに、教皇だとか神父だとか修道士だとか牧師だとか差はない。みんな神さまの前に等しく、神さまの前に立って、みことばを理解し、みことばを伝えることができる、誰だってその役割が与えられているということも、ルターは主張した。「全信徒祭司性」(「万人祭司」)の主張だ。

 

それから500年が経って、私たちが今年、宗教改革500年を迎える際に大切なことは、それを過去の昔話として、記念してお祝いするというのではなく、ルターが発見し、大切にし、主張したことを私たちも大切にしていく。つまり、私たちも自分で自分のことを救おうとしない。自分が、何か他の人よりも清い偉そうな人間だと思わない。自分が神さまの前に徹底的にどうしようもない罪人。罪人の頭、その最たる者であるという認識。でも、神さまは、そんな私を徹底的に愛してくださり、キリストは十字架で死なれるほど命がけで私を愛してくださった。この恵みに立ち返って、ただそのことによって赦していただくしかない私であることを認め、キリストの十字架を受け入れ、信じる。そのために、聖書のみことばをいつも味わい、そこに生きていく。また、自分もまたみことばを伝える一人であることを受け止める。そうした自分であるように、自分自身を改革していくことが大切。

 

ルターの宗教改革から500年、そしてわたしたちの改革。これこそ、宗教改革500年を迎える私たちにとって必要な姿勢である。

黙想 マタイ22:1~14

マタイによる福音書22章1~14

1エスは、また、たとえを用いて語られた。2「天の国は、ある王が王子のために婚宴を催したのに似ている。3王は家来たちを送り、婚宴に招いておいた人々を呼ばせたが、来ようとしなかった。4そこでまた、次のように言って、別の家来たちを使いに出した。『招いておいた人々にこう言いなさい。「食事の用意が整いました。牛や肥えた家畜を屠って、すっかり用意ができています。さあ、婚宴においでください。」』5しかし、人々はそれを無視し、一人は畑に、一人は商売に出かけ、6また、他の人々は王の家来たちを捕まえて乱暴し、殺してしまった。7そこで、王は怒り、軍隊を送って、この人殺しどもを滅ぼし、その町を焼き払った。8そして、家来たちに言った。『婚宴の用意はできているが、招いておいた人々は、ふさわしくなかった。9だから、町の大通りに出て、見かけた者はだれでも婚宴に連れて来なさい。』10そこで、家来たちは通りに出て行き、見かけた人は善人も悪人も皆集めて来たので、婚宴は客でいっぱいになった。11王が客を見ようと入って来ると、婚礼の礼服を着ていない者が一人いた。12王は、『友よ、どうして礼服を着ないでここに入って来たのか』と言った。この者が黙っていると、13王は側近の者たちに言った。『この男の手足を縛って、外の暗闇にほうり出せ。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。』14招かれる人は多いが、選ばれる人は少ない。」 

 

黙想

 

天の国のたとえ。「ある王が王子のために婚宴を催した」。王~主である神、王子→御子キリストを、それぞれ表す。天の国での王子の婚宴~天の国でのキリストの大きな喜びの宴。

 

しかし、その願ってもみない宴席に、予め招かれていた招待客たちが来ない。神の恵みを忘れてしまったり、天の国を捨ててしまったりしてる私たちの姿。

 

王は、使いを出して、彼らを呼びに行かせる。神は、天の国の招きを忘れて過ごしている私たちに、恵みを思い起こさせてくださる。そして、再び天の国へと招いてくださる。

 

「しかし、人々はそれを無視し、一人は畑に、一人は商売に出かけ、また、他の人々は王の家来たちを捕まえて乱暴し、殺してしまった」。神の招きを無視する私たちの姿がここで語られる。「畑」のことや「商売」のことに夢中になる人たち→自分の日々の生活のため、収入を得てそれを浪費する欲のため、そのように、天の国よりも他の様々なことに忙しい私たち。さらには、神の招きを無碍に扱い、自分の心の中から追い出して、なかったことにしてしまう。

 

天の国の宴に連なることをどれほど大きな、尊い恵みとして受け止めているのか。軽いちっぽけなものとしてしまっていないだろうか。

 

最初の招待客が婚宴に集わなかったため、王はその補充として違う人たちを招かれる。「町の大通りに出て、見かけた者はだれでも婚宴に連れてきなさい」「だれでも」である。そこで資格は問われない。本当ならふさわしくない、招かれなかったはずの人たちが、ただただ神の恵み深い招きのみによって、だれでも天の国に招かれる。

 

「見かけた人は善人も悪人も皆集めてきたので、婚宴は客でいっぱいになった」。このように善人も悪人にも天の国に招かれた。ただ神の招きのことばをかけられたという事実によってのみ。みことばのみ、聖書のみ。

 

また、言い換えるならば、たとえどれだけの善人であっても、その人が善人であるという理由によっては、天の国に入ることはできない。彼らは最初は招かれていなかったのだ。神の招き、神の恵みがあって初めて、天の国に招かれる。どれだけ素晴らしい善人であろうと、どれだけ極悪な悪人であろうと。行為義認ではなく、恩寵義認。私たちの行いに先立つ神の恵み。

 

さて、そこに一人礼服を着ていない人がいた。その理由を王に尋ねられたが、彼は黙っていた。もし正当な理由があるなら、彼は申し出ればよい。しかし彼は黙っていた。きっと礼服を着ることを拒否したのであろう。すると、結局、彼はその宴席から追い出されてしまった。そしてそこで悲しみ苦しむことになる。せっかく招かれたのに、何と残念なことか・・・。

 

これは何を意味しているのか。天の国に入るために、私たちは着飾らなければだめなのか。ありのままの私ではだめなのか。自分を覆い隠す必要があるのか。自分でない自分にならなければならないのか。

 

ここでは、天の国への招きに応える私たちの姿勢について語られていると受け止めたい。私自身のそのまま姿では、やはり天の国にふさわしくないのだ。なぜなら、私たちは神の前に罪を抱え、汚れある一人ひとりだから。

 

だから、礼服を着て、天の国の招きに応えねばならない。それでは、礼服とは何か?

 

私たちにとっての天の国の宴に着ていくべき礼服は、イエス・キリスト十字架の小羊の血によって洗われた白い衣を着る(黙示録)。イエス・キリストを身に帯びて生きる。キリストを着て生きる(ガラテヤ3:27、ローマ13:14)。

 

恵みのみに応えて、贖い主キリストを着る私たち。恵みに応える信仰。信仰のみ。

 

礼服は既に用意されている。神の招きの言葉に応え、その礼服キリストを着て、天の国の宴に行こう。私の側に何の理由もないが、ただただ神の恵みによってのみ招かれたその宴に、ふさわしいのはキリストを着て集う者なのだ。

 

宗教改革主日。恵みのみ、信仰のみ、聖書のみ。

 

神の恵み深い招きの言葉、聖書によってのみ恵みを知らされる。人の側に救いの理由はこれっぽっちもなく、ただただ善人も悪人も誰であっても招かれる恵みのよってのみ、私たちも天の国の民とされる。その恵みを、私たちはキリストを着て、キリストの救いを信じることによってのみ受け入れるのだ。

 

その恵みをいただいた者として、救いの完成の日を待ち望みつつ、罪の世界を忘れ、前を向いて、ひたすら走り続ける。(第二朗読 フィリピ3:12~16)

 

宗教改革500年・大麻ルーテル教会50年礼拝。この信仰によって500年、また、50年を重ねてきた私たち。今ここで、その歩みを続けていく。新たな気持ちをもって、喜びと感謝のうちに。

 

「立て、我らはシオンに上ろう、我らの神、主のもとに上ろう」!(第一朗読 エレミヤ31:1~6)