yukaina_gorilla’s diary

ごりらぼくし(大麻ルーテル教会/北見聖ペテロ・ルーテル教会)です。聖書や教会のこと、社会のこと、ペットのことなど書いていきますね。

2018年5月13日 礼拝メッセージ

主の昇天 2018年5月13日

 

「新しい物語」

使徒言行録1章1~11、ルカ24章44~53)

 

わたしたちの父である神と、主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなたがたにあるように。アーメン

 

今週のこのメッセージは、私にとってかなりレアな体験の中で生み出されたものです。私は、3日の木曜日より扁桃腺が腫れて熱が出ておりました。ま、それ自体は、一年に何度かあることですから、私にとってあまり珍しいことではありませんので、「また扁桃腺の熱か」と思っておりましたら、いつもなら大体二日ぐらいで下がる熱も、今回はなぜかなかなか下がらず、長引きまして、土曜日の北見教会の礼拝を終えて、その帰り道にまた熱がどんどんあがってきて、日曜日には大麻教会での礼拝をフラフラになりながらもなんとか終えて、そのあとダウンしました。月曜日の朝に幼稚園の礼拝を終えた後、病院に行ったら、「あ、これ、すぐ入院だね」ということになり、厚別の病院を紹介されて、あれよあれよという間に、即、緊急入院となってしまいました。

 

入院なんて子どもの時や、あるいは高校生の時の盲腸の経験ありますが、成人して自立してからはしたことがありませんので、どれぐらいの料金がかかるかもわかりません。それで、まず、旭川の両親に「これから入院するけど、お金ない」とメールをしました。しかし、冷静になって、よく考えてみますと、これってオレオレ詐欺そのものに誤解されても仕方がないような行為だったなと思います。ま、ある意味、リアルオレオレ詐欺なわけですが。

 

ということで、入院中の病院の病室で準備されたのが、今日のメッセージです。病室のベッドの脇にパソコンを置くのにちょうどいい高さと大きさの台があって、それがとても使いやすいので、にんまりしながら、片手には点滴を受けながら、このメッセージを作成いたしました。

 

さて、今日の第一朗読は使徒言行録の初めのところで、福音の朗読はルカによる福音書の終わりのところでした。実は、この使徒言行録の初めと、ルカ福音書の終わり、この二つは特別な関係にあります。第一朗読の使徒言行録の初めは、こんな言葉から始まっていました。テオフィロさま、わたしは先に第一巻を著して、イエスが行い、また教え始めてから、お選びになった使徒たちに聖霊を通して指図を与え、天に上げられた日までのすべてのことについて書き記しました」。ここにテオフィロさんという、一人の人物の名前が挙げられています。このテオフィロとは一体何者なのかと申しますと、はっきりしたことはわかってはいないのですが、きっとローマの位の高い官僚、役人ではなかっただろうかと考えられます。そのテオフィロさんに、使徒言行録の著者は「先に第一巻を著し」贈ったと言います。イエスさまの、その生涯と教えについて、イエスさまが天に昇られる日までのすべての事柄が、その第一巻に記した内容だとのことです。そして、この使徒言行録を、今から第二巻として著すのです。その第二巻では、「使徒言行録」と呼ばれるくらいですから、イエスさまによって遣わされた使徒たちが、聖霊の導きの中でどうしたことを語り、どのような行動をしたのかについて語られています。その第二巻のための巻頭言が、今日の第一朗読、使徒言行録の初めの部分です。

 

では、そのこの使徒言行録の著者が既に書いた第一巻とは、一体何の書物であるのかといいますと、それは私たちもよく目にしているものです。ルカによる福音書の初めをご覧ください。そこには、次のようなことが記されています。「わたしたちの間で実現した事柄について、最初から目撃して御言葉のために働いた人々がわたしたちに伝えたとおりに、物語を書き連ねようと、多くの人々が既に手を着けています。そこで、敬愛するテオフィロさま、わたしもすべての事を初めから詳しく調べていますので、順序正しく書いてあなたに献呈するのがよいと思いました。お受けになった教えが確実なものであることを、よく分かっていただきたいのであります」。ここにもテオフィロさま」の名前が登場していますよね。このルカによる福音書の著書は、彼テオフィロさんにこの福音書「献呈する」と記されています。

 

つまり、このように、使徒言行録とルカによる福音書は同じ、ローマの高官と考えられるテオフィロさま」に書き贈られたものであり、ルカによる福音書がその第一巻であって、使徒言行録がその第二巻であるということになります。そしてそれを著した著者も同一人物で、つまり、「ルカ」であるのです。ところで受取人のテオフィロですが、これはどうも本名ではないのではないだろうかと考えられています。「テオ」つまり「神」そして「フィロ」「フィロス」つまり「友」ですので「神の友」というような名前です。ルカが尊敬してやまない親しいある人物に「あなたは自分では気づいていなくても、もう既に神の友とされているんですよ」そんな思いを込めて、ぜひあなたにもイエスさまのことを知ってほしい、信じてほしい、一緒に信じたい、そう願って、二巻の書物を書き送ったのかもしれませんね。

 

今、今日の第一朗読の使徒言行録と第二朗読のルカによる福音書の関係についてお話しました。ところで、この使徒言行録のはじめの部分とルカによる福音書の終わりの部分は、同じ一つの出来事を伝えていました。それは、イエスさまが天に昇られた出来事です。イエスさまの昇天の出来事が、第一巻と第二巻の共通のテーマで、その二つの書の橋渡しの出来事となるのです。イエスさまの昇天の出来事で、イエスさまのご生涯を伝えるルカによる福音書の記述は閉じられます。そしてまた、このイエスさまの昇天の出来事こそが、やがて聖霊に導かれてなされる使徒たちの働きの新しい物語のプロローグとなるのです。終わりであり、始まりである出来事、それがイエスさまが天に昇られた出来事です。

 

このように、ルカがテオフィロへ書き送った書物の第一巻と第二巻の橋渡しとなった、イエスさまが天に昇られた出来事は、一体、どのような意義がある出来事なのでしょうか。今日はそのことをご一緒に受け止めてまいりたいのですが、イエスさまの昇天は、弟子たちにとって、彼らの自立、独り立ちの出来事となったのでした。イエスさまが天に昇られる。これは弟子たちにとって、イエスさまとの別れの出来事でした。十字架でイエスさまを失い、せっかくご復活によって再会することができたのに、またイエスさまが天に帰られて彼らのもとからいなくなってしまう。イエスさまの昇天は、そうした出来事であったのです。けれども、イエスさまの昇天の際、弟子たちは悲しんだのではなく、今日の福音書「彼らはイエスを伏し拝んだ後、大喜びでエルサレムに帰り、絶えず神殿の境内にいて、神をほめたたえていた」と伝えているように、大喜びと賛美の心でこの出来事を受け止め、それは十字架の時の彼らの姿とは大きく異なるものでした。

 

エスさまは復活なさってから40日間、弟子たちとともに過ごされ、彼らの心の目を開いて、つまり彼らが心の底から信じることができるように、神さまのこと、イエスさまのこと、聖書のこと、救いのこと、十字架のこと、復活のことなどすべてをわかりやすく彼らに話されました。そのようにして彼らを励まし、強め、彼らにやがて聖霊を贈るとの約束をなさって、イエスさまは弟子たちを福音を伝えて歩む者として整えられたのです。そして、今やそのイエスさまが天に帰られ、それからは弟子たちは彼らに約束の聖霊が降るのを待ち、聖霊が降ったら、聖霊の導きの中で、彼らは自分の足で立って宣教の働きを担う者とされるのでした。それがイエスさまの昇天の出来事なのです。イエスさまは弟子たちを信頼して、福音を宣べ伝えるという大きなわざを、彼らに託して、ご自分は天に昇られ、全世界のすべての人の主となられるのです。

 

エスさまの十字架を前にして逃げてしまった弟子たち、イエスさまの復活の知らせを聞いても信じることができず戸に鍵をかけて引きこもっていた弟子たち、復活なさったイエスさまと実際に出会いながらもまだ信じられず引きこもり続けた弟子たち、あるいは、イエスさまに遣わされながらも出かけることができず、漁師としての昔の生活に戻ってしまっていた弟子たち、そんな情けのない頼りない、ふらふらしたチャランポランな弟子たちではありましたが、でもイエスさまはなおも彼らを信頼して、彼らが分かるように、彼らの心に語りかけられ、彼らに福音宣教の大切な働きを託して、委ねて、ご自分は天に帰られるのです。

 

そして、事実、その後、彼らのもとに聖霊が降り、今までの情けない頼りない弟子たちの姿が嘘であったかのように、実に力強く宣教の働きを始めます。彼らの目の前にどんな力強い人がいようとも、どんな恐ろしい結果が待っていようとも、恐れることなく、イエスさまから託された福音を彼らは伝えるのです。それはきっとイエスさまがこんな自分たちを信頼してくださっている。こんな自分たちを用いてくださっている。その喜びに彼らが満たされたからでありましょう。

 

こう見てまいりますと、イエスさまの昇天の出来事が第二巻のはじめ、新しい物語のプロローグであるということがよくわかってくるのではないでしょうか。たしかにイエスさまの昇天によって、イエスさまの物語は、一応一段落しました。ですからルカによる福音書がイエスさまの昇天の出来事で、その記述を終えていることはふさわしいことです。しかし同時に、この同じイエスさまの昇天の出来事から、今度はイエスさまの思いを継いだ弟子たちが、喜びの中で、イエスさまに託された働きを担う歩みへの一歩が始まっていく。それが使徒言行録の初め、新しい物語の幕開けなのです。

 

さて、今日は、教会の暦で、主イエス・キリストの昇天をお祝いする礼拝となります。実は主の昇天日の当日は、この前の木曜日でした。昇天日は毎年木曜にあたります。なぜかと申しますと、今日の使徒言行録の1章3節に「イエスは苦難を受けた後、御自分が生きていることを、数多くの証拠をもって使徒たちに示し、四十日にわたって彼らに現れ、神の国について話された」とあるように、復活なさってから40日間イエスさまは地上におられ、そして天に昇られたということから、復活の主日、その日曜日から40日後は毎年木曜日だからです。しかし木曜日にみんなで教会に集まって主の昇天をお祝いしようというのも実際にはなかなか難しいということで、その直後の聖日の礼拝にずらして昇天主日の礼拝としてもよいですよと定められていることに、私たちの教会も従っています。

 

エスさまは、天に昇られるにあたり、私たちにもまた、尊い救いの福音を託されます。頼りのない、信仰の薄い、ダメダメでちゃらんぽらんな私たちではありますが、でもイエスさまはそんな私たちの心の目も開いてくださいます。そして、わかりやすく、私たちの心の中に、神さまのこと、聖書のこと、救いのことすべてを語りかけ、そして私たちにも聖霊を贈ってくださる約束をなさり、出会う人たちに福音を伝えるため送り出してくださいます。イエスさまによって強められ、自立させられて、私たちも、私たちのそれぞれの生活の中で、イエスさまの福音を伝える者とされるのです。そうです。私たちの人生の物語も、自分の足で立って歩む新しい第二巻が、イエスさまの昇天により幕開けするのです。

 

エスさまは天に昇られて、全世界のすべての人の主となられました。イエスさまと出会うために、私たちはもはや遠くに、あるいは、何か特別な場所に行く必要などありません。たとえ私たちがどこにいてもそこで天を見上げて「イエスさま」と呼びかけるならば、イエスさまは私たちの声を聴きとってくださいます。それがイエスさまが天に帰られたことの大切な意味です。私たちはぜひこのことも私たちの周りの人、特に悩んでいたり、病の中にあったり、いろんな課題を抱えている人に伝えたいと思います。それも私たちがイエスさまから託されている大切な働きであり、この世にあって大きなニーズのある働きです。

 

さて、私は最初、今日のメッセージを入院先の病室で作成したとお話をいたしました。正直、今週は説教を準備できず、穴をあけてしまうかもしれないとも一瞬思いました。しかし、神さまは、そうした中でも、私に力を与えてくださり、みことばの準備をさせてくださいました。と申しますよりも、この仕事があったおかげで、入院中の日々も楽しく過ごすことができました。入院する際に家から病院に持っていく持ち物に、一か八かでパソコンを入れていって本当によかったです。今日も、このようにみことばからのメッセージが与えられたことに、みなさんと一緒に心から感謝したいと思います。みなさんも神さまのお守りの中で、ぜひお体に気を付けて、イエスさまに託された福音宣教の働きをこれからも共に続けてまいりましょう。

 

主よ、私たちを導いてください。

 

神さま 御子イエスさまが私たちに救いの福音を託してくださり、私たちが福音を宣べ伝えて歩むように、御子によって送り出されています。弱く信仰の薄いものですが、御子に支えられ、そして聖霊によって強められてその働きを担うことができますように。主キリストによって。アーメン

 

希望の源である神が、信仰によって得られるあらゆる喜びと平和とであなたがたを満たし、聖霊の力によって希望に満ちあふれさせてくださるように。

 

動画 2018-05-13.MP4 - Google ドライブ

 

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/8/85/Jesus_ascending_to_heaven.jpg/1200px-Jesus_ascending_to_heaven.jpg

2018年5月6日 礼拝メッセージ

 

復活節第6主日 2018年5月6日

 

「真の愛の中で」

ヨハネによる福音書15章9~17)

 

わたしたちの父である神と、主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなたがたにあるように。アーメン

 

先週、私たちは、イエスさまのぶどうの木のたとえから、私たちがイエスさまにつながって生きることの大切さを受け止めました。イエスさまが差し伸べてくださった手に、私たちも手を添えて、イエスさまとつながりあって生きる、そのときはじめて、私たちに豊かな実りが与えられることを受け止めたのです。先週のみことばでイエスさまは、「ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。」とおっしゃっていました。また、「人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。」ともおっしゃっていました。このようにイエスさまは、私たちがイエスさまにつながって生きる中でこそ、はじめて実を結ぶことができるけれど、イエスさまを離れては、私たちが実を結ぶことはできないどころか、そもそも何もできないのだと、繰り返し語られるのです。

 

ですから、イエスさまにつながって生きる、そのことが私たちの出発点であり、いつも忘れてはならないことです。私たちが自分の力で何か良い働きができるというのではなく、イエスさまが私たちに良い働きをさせてくださる。そして、私たちがしたことで何か良い結果が与えられたとしても、得られた結果、その実は、イエスさまから与えられたものである。私たちはそのことを心に刻みたいと思います。「私がこんなにやったから」とか、「自分がすごいから」とかいうのではなく、イエスさまが私につながっていてくださったから、そこから力を与えられて、それをすることができるのです。

 

今日のみことばは、その先週のぶどうの木のたとえの続きです。イエスさまは今日のみことばで、「わたしの愛にとどまりなさい」とおっしゃっています。実は、今日のみことばの「とどまる」という言葉は、先週のみことばの「つながる」という言葉と、聖書の原文のギリシア語ではまったく同じ言葉で語られています。ですから、先週の「わたしにつながっていなさい」というイエスさまのみことばは、イエスさまの「わたしの愛にとどまりなさい」ということを表しているということが、ここからわかります。また、イエスさまは、「わたしの愛にとどまりなさい」とおっしゃる際に、「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。」とおっしゃっています。その上でイエスさまは、「わたしの愛にとどまりなさい」と私たちにおっしゃるのです。ですから、イエスさまが私たちを愛してくださっているその愛の中に、私たちがとどまって生きること、それがイエスさまの愛に留まるということであり、イエスさまにつながって生きるということです。

 

今日、イエスさまは、「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。」ともおっしゃっています。キリスト教は愛の宗教だとよく言われます。そして私たちが人を愛し、また互いに愛し合うことが大切だということもよく言われます。しかし、私たちがそこで忘れてはならないことは、イエスさまが「わたしがあなたがたを愛したように」とおっしゃっているという、このことです。ただ漠然と「愛が大切だ」、「互いに愛し合わなければならない」というのではなく、イエスさまが私たちを愛してくださっている、その愛の中で、その愛に導かれて、私たちも人を愛し、互いに愛し合って生きるのです。これが、ヒューマニズムの愛と、イエスさまの語られる愛は違うと言われる所以です。ヒューマニズムは、私たち人間の意思、人間の力ということを強調するわけですが、イエスさまの語られる愛は、先週のぶどうの木のたとえにあったように、私たちはイエスさまを離れては何もできない、イエスさまにつながっていなければ実りを得ることができない、でもそんな私たちであっても、イエスさまはなおも私たちを愛してくださっていて、そのイエスさまの愛の中で、私たちははじめて人を愛し、互いに愛し合って生きていくことができるのです。だからイエスさまに愛していただくこと、イエスさまの愛の中にとどまって生きること、このことが私たちにとってどうしても必要だし、そこを忘れてはなりません。

 

エスさまはおっしゃります。「もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである。」エスさまは、今日のみことばで、私たちのことを「友」と呼んでくださいます。英語で書かれたこどもの聖書物語の本を読んだことがあります。日本語では「イエスさまのお弟子さんたちは」となるところを、英語のその本では「Jesus’ friends」つまり「イエスさまのお友達たちは」と書いてあって、とても新鮮な思いがしました。私たちがイエスさまを信じて、イエスさまに従い、イエスさまの弟子として生きていくということは、何か堅苦しい、苦虫をつぶした顔のようにして生きていくことではなく、イエスさまの愛の中で、イエスさまの友達として喜びをもって生きていくということなのだということを、今日のみことばから思います。だからイエスさまは今日のみことばでおっしゃるのです。「これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである。」喜びに満たされて生きる、それが、私たちがイエスさまの愛の中でイエスさまの弟子として私たちが生きていくということです。

 

しかし、その喜びは、ただ手放しでバカ騒ぎするような喜びとは違います。イエスさまが今日「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。」とおっしゃっていますが、まさにイエスさまご自身が、私たちのために十字架で命を捨てられました。この十字架の愛に基づく喜びです。イエスさまが命を懸けて私たちを愛してくださっている、それほど大切な友と私たちのことを思ってくださっている。そのことを感謝する心から得られる喜びです。その喜びの中で、私たちは互いに愛し合う歩みをしていくのです。イエスさまの尊い命が私たちのためにささげられた、そして私たちの友となってくださった。だから私たちも人を愛し、互いに愛し合う歩みをしていくのです。

 

けれども、実際に、私たちが人を愛し、互いに愛し合うというとき、これはとてつもなく難しいことであると言わざるを得ません。結婚式の司式をする際によくお話することがあります。教会の礼拝でもお話したことがあるかと思います。コリントの信徒への第一の手紙の13章に愛の賛歌と呼ばれるみことばがあります。「愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。愛は決して滅びない。」ここには、聖書が教える真の愛が語られていて、たいへん美しい言葉が列挙されているわけですが、クリスチャン作家の三浦綾子さんだったかと思いますが、この愛という言葉のところに自分の名前を入れて読んでみるように勧めています。「白井真樹は忍耐強い。白井真樹は情け深い。ねたまない。白井真樹は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。白井真樹は決して滅びない。」読んでいて、嘘ばっかりという思いになって、穴があったら入りたい、そんな恥ずかしい思いになってきます。つまり、私はこの聖書が語る愛を全然実践できていない、そこから実にほど遠く生きているなと、そう思います。そのような私が人を愛し、互いに愛し合うというのは、実際にはとても難しいことです。また、愛すると言っても、物を愛するわけではなく、生身の人間を愛するわけですから、やはり感情的なすれ違いもあります。相手に自分の気持ちがなかなか通じなかったり、こんなに一所懸命しているのにどうしてわかってくれないんだという思いにもなったり、私のほうも打算的になったり、いい加減なかかわりになってしまったり、裏切られたり裏切ったり、愛を貫くことができなかったり、それが私たちの現実です。

 

だからこそ、私たちは、イエスさまの愛にとどまる、イエスさまが私を愛してくださったようにということに立ち返ることが大切になってきます。本当ならイエスさまに愛されるにふさわしくないこの私であっても、イエスさまはご自分の命をささげてまで私のことを愛してくださっている。イエスさまを離れては何もできないそんな私を、イエスさまはちゃんと捕らえて導いてくださっている。そのことをいつも確認をして、その喜びと感謝の中で、私たちはまた愛の歩みへと出かけていくのです。愛について語られる際に、良く十字架の縦の棒と横の棒ということが言われます。つまり、十字架の縦の棒は、神さまから、あるいはイエスさまから私たちへの愛であり、横の棒は、私たち同士の愛であると。このように、神さまから、またイエスさまから私たちへの愛があってこそ、そこに導かれてこそ、私たち同士が互いに愛し合うことができる。その縦の棒を忘れてしまうなら、横の棒の私たちが愛し合うという、つながりはできません。

 

そのために大切なことは、私たちが聖書のみことばに導かれ、祈りの生活を大切にすることです。ついつい毎日の忙しさに流されて生きていってしまう私たちで、日曜日だけのクリスチャンになってしまいがちです。でもそうした中で、毎日、一日の間で少しでも聖書を開き、神さまに祈ることを生活の中に取り入れていくこと。その中で、イエスさまの愛の大きさ、ありがたさに、私たちが日々気づかされ、その愛を喜びながら過ごすようにされていきます。それがイエスさまの愛にとどまって生きるということではないでしょうか。

 

今日のみことばは、イエスさまが十字架にかかる前の最期の言葉の一つで、いわばイエスさまの遺言であると言えます。イエスさまの熱い思い、切なる願いが込められた言葉が、今日、私たちにも託されています。イエスさまは、私たちにぜひイエスさまの愛にとどまって、互いに愛し合って生きていってほしい、そう願って、十字架を引き受けられます。私たちも心してイエスさまの言葉を受け止めたいと願います。イエスさまは今日のみことばの結びで、「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である。」とおっしゃっています。私たち自身を見るなら、実に頼りない私たちですが、にもかかわらず。イエスさまはそんな私たちを選んだとおっしゃいます。そして、実を残るようにしてくださり、そのために願うなら何でも与えてくださるようにしてくださると約束してくださいます。私たちは、このイエスさまの力強い約束の中で、互いに愛し合う歩みへと送り出されているのです。

 

ところで、「互いに愛し合う」ことは、一人ではできず、それは二人以上がいて、初めて可能となることです。しかし、はじめはイエスさまが私を愛する、そのことがスタートです。そのイエスさまの愛の中で、私も人を愛する。そして、その愛が相手にも伝わって、そうした中で互いに愛し合う関係が生まれていきます。さらにその愛が次の人に伝わって、その愛が少しずつ少しずつ大きくなっていくのです。以前にも紹介したことがあるかもしれません。こどもさんびかに「どんどこどんどこ」という歌があります。

「1.どんどこどんどこ歩いてゆけば どんどこどんどこ友達がきて どんどこどんどこ二人になって 君も笑ってぼくも笑って 神さまのこどもになって どんどこどんどこ歩いてゆけば 2. どんどこどんどこ歩いてゆけば どんどこどんどこ友達がきて どんどこどんどこ四人になって 君も歌ってぼくも歌って 神さまのこどもになって どんどこどんどこ歩いてゆけば 3. どんどこどんどこ歩いてゆけば どんどこどんどこ友達がきて どんどこどんどこ八人になって みんな仲良く肩を組んで 神さまのこどもになって どんどこどんどこ歩いてゆけば」

たいへんかわいらしい歌詞ですが、イエスさまの愛の中で、私たちが互いに愛し合う関係もこの歌のようであったらいいなと願います。そのためには、まず私がイエスさまの愛に生かされること、その愛の中で出かけていくことです。

 

主よ、私たちを導いてください。

 

御子イエスさまが命懸けで私を愛してくださることを感謝します。その真の愛の中で、私も人を愛し、互いに愛し合う歩みができますように。イエスさまを中心とした、イエスさまの愛に導かれる互いに愛し合う輪が少しずつ少しずつ大きくなり、この世界中を包み込みますように。私たちの友となってくださったイエスさまのお名前によって祈ります。アーメン

 

あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るように。アーメン

 

動画 2018-05-06.MP4 - Google ドライブ

(体温39度以上の熱がある中、朦朧としながら語り録画しました。録画の仕方も話し方も変ですが、おゆるしください)

 

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一年記念 しかし…

ここのブログ 「開設一年です」ってお知らせがサイトから届いていました。

 

この一年間、たくさんのみなさまがお寄りくださって ありがとうございます。

 

今日は一年を盛大にお祝いしたい、そんな風にも思ったのですが…

 

実は私 今週月曜日より入院しております。15歳の時の盲腸以来の入院かと思います。扁桃腺炎をこじらして、喉は痛いし、熱は上がったり下がったり、なかなか素敵な状態です。

 

いつ退院できるかわからないのですが、ちゃんと治して元気になろうと思います。

 

入院している病院のお食事なかなか美味しいです。

 

ということで、ブログこれからもよろしくお願いいたします。

 

この前の日曜日のメッセージも、入院のためアップできてません。ごめんなさい。

2018年4月29日 礼拝メッセージ

復活節第5主日 2018年4月29日

 

「つながりあって」

ヨハネによる福音書15章1~8)

 

わたしたちの父である神と、主イエス・キリストからの恵みと平和があなたがたにあるように。アーメン

 

マルティン・ルターは、十戒の第一の戒め「あなたはわたしをおいて他に神があってはならない」について、大教理問答の中で「ひとりの神とは人間がいっさいのよいものを期待すべき方、あらゆる困窮に際して避けどころとすべき方である。…今あなたがたの心をつなぎ、信頼を寄せているもの、それが本当のあなたの神なのである。」と説明しています。私たちは、「あなたはわたしをおいて他に神があってはならない」という戒めから、私たちが他の宗教の神々や何か手で作った偶像を拝んだり信じたりしてはならない、そんな意味だと考える場合が多いかもしれません。しかし、ルターはそうしたことではなく、繰り返しになりますが、「ひとりの神とは人間がいっさいのよいものを期待すべき方、あらゆる困窮に際して避けどころとすべき方である。…今あなたがたの心をつなぎ、信頼を寄せているもの、それが本当のあなたの神なのである。」と、この戒めについて説明するのです。

 

「困ったときの神頼み」という言葉があり、キリスト教ではその言葉をあまりよく捉えない人も多いのですが、ルターはここで「あなたが困ったとき、ちゃんと神さまを避け所としているか」「もう逃げる場所がないという時も、あなたは神さまの懐に助けを求めて飛び込んでいるか」「あなたがいろんなよいものを、ちゃんと神さまに期待しているか」「あなたの心をどこにつないで、誰に信頼しているか」そのことを私たちに問いかけています。私たちがもし神さま以外のものにいろんなものを期待しているなら、それは私たちが神さま以外のものを私たちの神としていることだ、私たちが作り上げた偽りの神である偶像を信頼していることだという意味です。どうでしょうか。

 

私たちは何に期待し、何を避け所、逃れ場とし、何に心をつなぎ、何に信頼しているでしょうか。もちろん神さまです、とそう答えたいと思うのですが、実際は怪しいものです。自分の能力だとか、お金だとか、持ち物だとか、地位だとか、他の人の目だとか、そうしたものに私たちが期待したり、それを避け所としたり、そうしたものに私たちの心をつないだり、信頼したりしていることを思います。それは、そうしたものを失ったとき、露になります。つまりお金が無くなったり、地位を失ったり、能力が足りなかったり、他の人の目が冷たくなった時、私たちは途端に「どうしよう、どうしよう」と不安になり、恐れ、「もうだめだ」と諦めモードになったり、パニックになったりしてしまう。神さまが私たちといつどんな時も共にいてくださり、私たちのためにすべてを整えてくださっているのだから、本当はそこで何の心配もいらないし、恐れる必要もないのだけれど、そうできない。それは、私たちが神さまよりもその他のいろんなこの世のものに期待し、避け所とし、心をつなぎ、信頼していること、つまりそれらのこの世のものを、私たちが、私たちの神としてしまっていることの現れなのです。

 

今日の福音で、イエスさまはそんな私たちにおっしゃいます。「わたしにつながっていなさい。」エスさまにつながって私たちは生きていく。先週のメッセージの初めに、復活なさったイエスさまが私たちにとってどういうお方なのか、今も生きておられるイエスさまが私たちにどのようにかかわってくださるのか、そのことを私たちはみことばから聞いていきたいとお話ししましたが、今日は、復活なさったイエスさまこそ、私たちにとって一切の良いものを期待し、あらゆる困窮に際して避け所とし、私たちの心をつなぎ、信頼すべきお方であり、そのように私たちにかかわってくださるお方であるということを、私たちは受け止めます。

 

でもイエスさまにつながって生きるというのは、私たちにとってなかなか困難なことのようにも思えます。もちろん、イエスさまにつながって生きていきたいと、私たちは願いますし、そのように努めます。でも、実際のところ、イエスさまの崇高な教えを私たちはなかなか行うことはできないですし、イエスさまの十字架の道に従うこともなかなかできません。今よく使われる言葉で言うなら、イエスさまの前にまったくもってヘタレな私たちです。ですから、イエスさまが「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」などとおっしゃっている言葉を聞いて、それを文字通りに受け止めようとするとき、正直、私は「なかなか難しい、いや、私にはできないな」という思いになりますし、そこから「私たちはイエスさまがおっしゃる通りすべてを捨てて、十字架のイエスさまに従わなければ救われません」などという説教を聞くと、「私は救われないんだな」と思わざるを得ません。もし今日のイエスさまの言葉が「あなたがたはわたしにしっかりとつながっていなければもうだめだ」という意味なら、もうダメなんだなと思うのです。今日イエスさまが、「わたしにつながっていない人がいれば、枝のように外に投げ捨てられて枯れる。そして、集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまう。」とおっしゃっているように、「私はイエスさまにつながっていられないから、投げ捨てられて枯れてしまって、火の中に投げ入れられて焼き滅ぼされてしまうしかない」、そうした者なのだと思います。そして事実、イエスさまが今日「わたしにつながっていなさい」と、ただそのようにだけおっしゃっているなら、私はまさしくそうした残念な運命を辿るしかありません。

 

でも、イエスさまは「わたしにつながっていなさい」とだけおっしゃったのではありませんでした。続けておっしゃるのです。「わたしもあなたがたにつながっている」と。イエスさまが私たちにつながっていてくださる。これは大きな恵みです。私は自分の力では、イエスさまにつながっていることはなかなかできない。でも、そんな私たちにイエスさまが「わたしもあなたがたにつながっている」とおっしゃってくださっている。私たちは、ただそこでのみ立っていくことができるのだと思います。

 

幼稚園に新しい子どもたちが入ってきました。子どもたちの中には新しい生活に慣れるまで不安で、泣いている子もいます。そうしたとき、先生方が子どもたちに手を差し伸べて、手をつないでくださる。しっかりと抱きしめてくださる。そうした中で、子どもたちの不安が少しずつ取り除かれ、笑顔で幼稚園で過ごすことができるようになってきます。先生との信頼関係もできていきます。時にはお友達が心配して、そうした子どもたちを自分の中に受け入れてくれる場合もあります。そのようにして子ども同士が一緒に過ごす喜びが湧いてきます。イエスさまが「わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている」とおっしゃるとき、イエスさまと私たちの関係が、そのような先生と子どもの関係、子どもたち同士の関係のようなものだと感じました。イエスさまが手を差し伸べてくださっている。イエスさまが抱きしめてくださっている。そのイエスさまの手に、私たちの手を添えていくこと。イエスさまの抱きしめてくださった背中に私たちの手も回していくこと。それが私たちがイエスさまにつながるということだと思うのです。イエスさまが「ちゃんとわたしがあなたにつながっているから、だからそのつながりの中で、あなたも私につながり合って生きていけばいいんだ」そうイエスさまがおっしゃっている。それが今日の「わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている」というイエスさまのみことばに込められた心であると受け止めたいと思います。

 

エスさまは次のようにも今日おっしゃっています。「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。」と。先週、新約聖書の原文はギリシア語で書かれていて、ギリシア語では動詞の形を見れば、主語を省略することができる。それゆえに主語がわざわざ書かれていることは、その主語が強調されている。そんなお話をいたしました。今日のイエスさまの言葉「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である」も、本当なら、「わたしは」という主語はわざわざなくても、動詞の形を見れば、「ぶどうの木」であるのは、これを語っておられるイエスさまご自身のことだということがわかるわけですが、今日のみことばでもわざわざ「わたしは」という主語が原文でも語られています。ですから、イエスさまはここで単に「わたしはぶどうの木」とおっしゃっているだけでなく、「ほかの誰でもなく、このわたしこそがぶどうの木で、あなたがたはその枝なのだ」と、「わたしは」ということを強調しておられるということになります。イエスさまは、他の誰でもなく、他の何物でもなく、このわたしこそが、あなたがたにしっかりとつながっている、ぶどうの木であり、あなたがたはそのわたしの枝だと、力強くここで語っておられるのです。

 

この世のいろんなもの、お金も物も自分の地位も、名誉も、能力も、他の人の評判も、他の人の目も、それらはどれも生きていく上で、あるに越したことはないものなのは、そうでしょう。でも、それらはどれも不確かなものです。何かのきっかけで失われてしまうことがあります。一瞬でそれらすべてを失ってしまう、そうした不運な、あるいは不幸な出来事だって起こるかもしれません。あるいは、そもそも最初からそれらに恵まれないという場合もあるでしょう。またさらに、私たちは誰しもいつかはこの世を去らねばなりません。その時、この世のどんなものも私たちは手放さなければならなくなります。冥途の土産という言葉がありますが、私たちは冥途に土産を持っていくことなどできない。あの旧約聖書のヨブが、次々自分を襲う災難の中で「わたしは裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう。」と言っているように、私たちはいつしか必ず裸で空手でこの世を去って行かねばならないものなのです。

 

そうした私たちにイエスさまはおっしゃるのです。「そうしたこの世のほかの何物でもなく、このわたしこそがぶどうの木だ。あなたがたはその枝だ。わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている」と。この世のあらゆるものを失っても、あるいは、いつかすべてを手放してこの世を去らねばならないその時も、イエスさまは私たちにしっかりとつながりつづけてくださるぶどうの木です。そして、私たちはそのイエスさまというぶどうの木に手を添えてつながり合って生きることがゆるされている枝なのです。そのぶどうの木であるイエスさまは、この世のすべてを失い、十字架の木にかかり、死なれた方、しかし、その死をもって死に打ち勝ち、復活なさって今も生きておられる方です。ですから、私たちがこの世のすべてを失っても、その命を終えて死んでも、イエスさまの手はなおも私たちに差し出され続けます。私たちが生きている時もすべてを失う時も死ぬ時も死んだ後も、イエスさまはそこで私たちになお手を差し伸べて「わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。わたしはあなたの手を決して離さない」とそうおっしゃってくださるのです。

 

以前、私が働き、生活していた深川教会のベランダから見える近所の方の家の庭ではぶどうを育てていました。ぶどうの枝は、本当に細く弱々しいものです。嵐が来たり、雪が積もったりしたらもうだめになってしまうのでは…と思うようなものでした。でも、毎年、秋にはみごとなおいしそうなぶどうがたわわに実りました。枝は細く弱々しいけれど、ちゃんとぶどうの木から栄養が運ばれ、毎年実りが与えられていたのです。私たちも弱々しいものです。私は、体は人一倍太いですが、けれど、心はすぐに折れてしまいそうな弱い者です。神さまとの関係でも、すぐに離れてしまいそうなそんな者です。でも、イエスさまがそんな私にしっかりとつながっていてくださる。そして、みことばを通して、また、洗礼と聖餐を通して、栄養を与え、強めてくださって、実を実らせてくださいます。

 

それは、決して私自身の力ではありません。イエスさまが「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。」と今日おっしゃっているように、イエスさまにつながっていなければ私自身は何もできません。けれど、そんな私たちにイエスさまがしっかりつながっていてくださり、実を与えてくださるとの約束に励まされ、感謝したいと思います。そして、私の手を握ってくださるイエスさまに私も手を添えて、私を抱きしめてくださるイエスさまの背中に私も手をまわし、イエスさまとつながりあって生きていきたいと、そう心から願います。

 

主よ、私たちを導いてください。

 

心細く弱い私にイエスさまがしっかりとつながっていてくださることを感謝いたします。どうか、私も差し延ばされたイエスさまの手に、私たちの手を添えてイエスさまとつながり合って生きていくことができますように。イエスさまというたしかなぶどうの木の枝として生かしてください。復活なさって今も生きておられる主イエス・キリストによって祈ります。アーメン

 

あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るように。アーメン

 

動画 2018-04-29.MP4 - Google ドライブ

 

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2018年4月22日 礼拝メッセージ

復活節第4主日 よい羊飼いの主日 2018年4月22日

 

「囲いの中も外も」

ヨハネによる福音書10章11~18)

 

わたしたちの父である神と、主イエス・キリストからの恵みと平和があなたがたにあるように。アーメン

 

先週までは私たちは、復活なさったイエスさまと弟子たちとの出会いの出来事を伝えるみことばを聞いてきましたが、今週からは復活なさったイエスさまが私たちにとってどういうお方であり、今も生きておられるイエスさまと私たちはどういう関係にあるのか、みことばより聞いてまいります。

 

今日、復活節第4主日は、「良い羊飼いの主日」と呼ばれます。復活なさったイエスさまが私たちにとって良い羊飼いである、イエスさまが復活なさったことによって、私たちにとって良い羊飼いになってくださったということを受け止めるのです。イエスさまが私たちにとってよい羊飼いであるということは、羊があってこその羊飼いですから、私たちがイエスさまの羊であるということをまた表しています。

 

このことを受け止めるために、私たちが羊であるとは一体どういうことであるのかということについてまず考えたいと思います。これは毎年のように繰り返しお話していることですが、羊とはたいへん弱い動物であるということを、私たちが受け止めることがとても大切になってきます。羊は目が離れているから周りはよく見えているようですが、あまり遠くが見えず、自分の前で起こっていることが見えない動物です。群れで生活する動物で、一匹だけはぐれてしまうならどうしてよいかわからずパニックになってしまう。道にも迷いやすい。暗いところが苦手です。ライオンや狼などの猛獣にすぐにやられてしまいます。

 

私が牧師になるための準備をする神学校に通っていた時、学校では毎日礼拝の時間、チャペルの時間があるのですが、ある学生が、自分が羊にたとえられるのはあまり好まなかったとお話していましたが、たしかに羊のような弱い動物にたとえられるのは気が進まないかもしれません。しかし、私たちは聖書のみことばを通して、イエスさまがよい羊飼いであり、私たちはその羊であるということを聞きます。このことは、私たちがそのように弱い羊のようなものだ、羊のようにそうした弱さがある存在であるということを、いつも忘れずに心に刻んで過ごすことが大切であるということを表しています。イエスさまの前に決して強い者ではない。弱い私たちなのだということを、私たちは忘れてはならないのです。

 

私たちも、自分にはちゃんといろんなことが見えていると思っていながらも、実のところはそんなに見えていない。特に自分の前で今何が起こっているのか見えていないものです。また、自分は一人が好きなんだということを言いながらも、しかし、どこかで孤独に耐えられない弱さがある。そもそも「人が独りで生きるのはよくない」と、神さまが天地創造の際におっしゃったように、私たちは一人きりで生きるのではなく、支え合って人と人との間で生きてこそ人間としてよりよく生きていくことができる存在なのです。一人突っ走って生きていくと、どこかで道に迷ってしまう。どうしてよいかわからなくなってしまう。再び歩むべき道に戻れなくなってしまう。特に神さまとの関係の中で、神さまに従って生きることが時にうざく感じて、煩わしく感じて、自分の好きな道を生きていこうとして、どんどん人生に迷ってしまう。よく言われることですが、聖書の中で用いられる罪という言葉は、もともと的外れという意味です。本来目指すべき的から外れて生きていること、これが聖書が語る罪です。私たちも本来は神さまの御心に従った生き方、人を大事にした生き方、つまり神を愛し人を愛する生き方をすべきところを、実際はそうできない。的外れな歩みをして、その的へともう戻れなくなってしまっている。私たちの前に立ちはだかるこの世の大きな力に、すぐ負けてしまう、飲み込まれてしまう。そうした弱い私たちであるということを、私たちはいつも忘れてはならないのです。そして毎年、必ず、この良い羊飼いの主日に、私たちは、そのことを思い起こし、改めて心に刻むのです。

 

私たちが弱い羊のような存在である、このことを私たちが謙虚に受け止める時、復活なさったイエスさまがそんな弱い羊である私たちにとっての良い羊飼いであるということの大きいな慰めが、初めて心に響いてくるのだろうと思います。自分は強いものだ、誰の助けも必要としない、自分独りで大丈夫だ、何ら間違えたこともしていない、そんな風に思っているならば、イエスさまがそんなあなたのよい羊飼いであると言われても、あまりピンとこないだろうし、その必要性を感じることができないのではないかと思います。ですから、まず私たちが自分の弱さをしっかりと見つめること、そしてその弱さを認めること、その弱さに打ち砕かれること、そのことがとても大切なことです。

 

そんな私たちに向かって、イエスさまは今日の福音でおっしゃいます。「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる」と。新約聖書ギリシア語で書かれています。ギリシア語は、動詞の形を見ればその主語が何であるかがわかる言語です。わざわざ「私は」という主語がなくても、動詞の形をみれば、この主語は私であるということがわかるのです。ですから、主語が省略されることが多いのですが、イエスさまがここで「わたしは良い羊飼いである」とおっしゃるとき、わざわざ「わたしは」という主語が語られています。この場合、本来は省略できる主語がわざわざ語られているわけですから、その「わたしは」という主語が強調されているということになります。つまり、ただ単に「わたしは良い羊飼いである」ということを、イエスさまがここでおっしゃっているのではなく、もっと強いニュアンスで、そのことをお話なっておられるということになります。「ほかの誰でもなく、このわたしこそが、羊のために命を捨てる、その命を惜しまない、よい羊飼いなのだ。」そんな風にイエスさまはここでおっしゃっているのです。

 

とても力強い言葉です。次の言葉を見る時、よりその力強さを思います。「羊飼いでなく、自分の羊を持たない雇い人は、狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして逃げる。」これもギリシア語から直接訳すならこんなニュアンスになります。「しかし、羊飼いではない、雇い人は、それが自分の羊じゃないので、オオカミが来るのを見ると、羊を放って、逃げて行ってしまう」。つまり、この雇い人と良い羊飼いの違いは、良い羊飼いは羊たちのことを自分の羊だと思っているけれど、雇い人たちは別に自分の羊だとは思っていないというところにあります。良い羊飼いはこれは自分の羊たちなのだから、他の誰かではなく、この私こそが、羊たちを守るんだ、そのために命を惜しまないんだと。でも他の人たちは、別の自分の羊だと思っていないから、自分の身の危険を感じたら、羊をそこに放っておいて、わが身を守るために逃げてしまうと、そうしたことがここで語られているのです。

 

私は、来月で47歳になります。47年間生きてきて、人生の中でいろんな失敗をしてきました。今もしてしまいます。そうした中で、私はよい人に出会い、助けられてきたなと感謝のうちに思います。周りのみんなから見捨てられても仕方がないようなそんなとき、ある恩師が「俺がどうにかして責任を取るから、お前はお前でできることをしっかりしろ」と、そんな風に言ってくれました。そして、あまり私自身はそのようにしっかりすることはできなかったのですが、でもその恩師はその言葉の通り、どうにかしてくれましたし、最後まで見捨てず私にかかわってくれました。他のみんなから見捨てられてもどうしようもないようなそんなとき、そんな中でも「たとえ他のみんながどうでも俺がどうにかする、俺が責任を取る」、その言葉はどれほど私にとって心強かったことでしょう。そして、その恩師は、私を守るために、周りのみんなからいろんなことを言われました。その恩師自身が傷ついたり、腹を立てたり、悲しく思ったりする、そうしたこともたくさん言われました。でも、恩師は自分の言った言葉に責任を取り、それをちゃんと守ってくれて、そのことで私を守ってくれたのです。そうした中で、私は人生のピンチから立ち上がることができました。今日の福音のみことばからそうしたことを思います。

 

エスさまが「ほかのだれでもなく、私こそが、羊のために、あなたがたのために命を捨てるよい羊飼いだ」そうおっしゃるとき、たとえ周りのみんなが「わたしたちはもう知らない」「別にあいつら自分の羊じゃないし」と見捨ててしまっても、また、置き去りにして逃げてしまっても、「他のみんながどうであっても、わたしだけは絶対にあなたがたを見捨てない。あなたがたのために命を張って、必ずあなたがたのことを守る」と、そう堅く誓ってくださるのです。私たちは、そのイエスさまの堅い誓いの中で守られて生きていくことができます。

 

エスさまはまた、「わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている」と、そのようにもおっしゃっています。私たちのことを、良い羊飼いであるイエスさまは、ちゃんとわかっていてくださるというのです。私たちが羊のように弱い者であること。神さまの前に的外れな生き方をして迷ってしまっていること。本当は一人じゃ生きていけないということ。イエスさまは、そのことをちゃんと全部わかっていてくださる。他の誰でもなくわたしこそが良い羊飼いなのだから、わたしの自分の羊であるあなたがたのことをちゃんとわかっている、イエスさまはそうおっしゃるのです。その良い羊飼いであるイエスさまは、ご自分の言葉を守り、実際に私たちのためにご自身の命を投げ出されます。あの十字架の出来事です。罪と悪と死の力に囚われ、自分ではどうすることもできない私たちであるということを、イエスさまは知っておられたがゆえに、その私たちを救い生かすため、ご自身の命をイエスさまは投げ出されるのです。

 

今日のみことばの結びにイエスさまは「だれもわたしから命を奪い取ることはできない。わたしは自分でそれを捨てる」とおっしゃっていますが、イエスさまはご自分の決断でそれを実行なさいます。イエスさまが十字架にかかった時に、「神の子なら、自分を救ってみろ。そして十字架から降りて来い」と周りにいた人がイエスさまに言いました。それまで嵐を静め、人の重い病気を癒し、死んだ人を生き返らせた、そんなイエスさまにとって、ご自分が十字架から降りて来ることは、実はたやすい朝飯前のことだったでしょう。でもイエスさまは十字架から降りてこられませんでした。できないからしなかったのではなく、できるけれどそれをしなかったのです。なぜなら私たちのことをよく知っておられたからです。もしイエスさまがここで十字架から降りてくるならば、イエスさまの大切な、命を懸けて守ると約束したご自身の羊である私たちが決して救われることはない、イエスさまがご自分の命を捨てることで初めて私たちの救いが可能になる、そのことをよくご存じだったがゆえに、イエスさまは「自分でそれを捨てる」とおっしゃった言葉を守られたのです。

 

東方正教会の復活祭で用いられる聖画、イコンで、イエスさまが、死者の国で棺の中のアダムとエバの手を引き上げているそんな様子を描いたものがあります。まさに、良い羊飼いであるイエスさまご自身が死の国に赴き、イエスさまにとって大切な羊である私たちのことをその死の世界から引き上げ救い出してくださった、それがイエスさまの十字架と復活の出来事です。

 

このようにご自身の命を懸けて私たちを救い出してくださったよい羊飼いであるイエスさまですが、今日もう一つとても大切なことをおっしゃっています。「わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない。その羊もわたしの声を聞き分ける。こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる」。私たちは、イエスさまに導かれ救われ生かされている一人ひとりです。そして、この教会がそのイエスさまの羊の群れであると表現することができるでしょう。でも、そのように自分たちが導かれ救われて生かされている、ああよかったねと、私たちがただそこに満足し留まっているのではなく、未だ教会に足を踏み入れていない人、私たちの群れに加わっていない人もまた、よい羊飼いであるイエスさまのお導きをともに喜ぶことができるようになるために働く務めが、私たちに、私たちの教会には委ねられています。教会を、「囲い」と表現するのは何か閉鎖的な感じがして、おこがましいようにも思いますが、しかし、もはや囲いなどなく、その中も外も、ただ独りの良い羊飼いイエスさまの導きのもとにある、そのことを心に刻み、喜ばしい知らせ、福音を分かち合いながら歩んでまいりたいと願います。

 

主よ、私たちを導いてください。

 

良い羊飼いであるイエスさま、弱く、さ迷う私たちを導き救い出してくださったことをありがとうございます。この喜びを分かち合いながら歩むことができるように私たちを導いてください。アーメン

 

永遠の契約の血による羊の大牧者、わたしたちの主イエスを、死者の中から引き上げられた平和の神が、御心に適うことをイエス・キリストによってわたしたちにしてくださり、御心を行うために、すべての良いものをあなたがたに備えてくださるように。栄光が世々限りなくキリストにありますように、アーメン。

 

動画 2018-04-22.MP4 - Google ドライブ

 

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2018年4月15日 礼拝メッセージ

復活節第3主日 2018年4月15日

 

「復活のリアル」

ルカによる福音書24章36節b~48節)

 

わたしたちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなたがたにあるように。アーメン

 

昨日は、北見教会の今まで用いてきた礼拝堂での最終の感謝礼拝でした。今の会堂は間もなく取り壊されて、そして今年の秋までには新しい会堂が与えられます。昨日の礼拝で小樽教会の木村先生が説教をしてくださったのですが、新しい礼拝堂は器であり、そこに集う人たちが何をするかが大切だ、それを忘れてしまうならその器は空しいものとなると話されて、本当にそうだと思わされました。みんなで礼拝をし、主の福音を宣教し、聖なる交わりを築くこと、それこそ教会にとって大切な務めであると改めて感じました。

 

さて、私たちが悲しんだり落ち込んだり恐れたりして心が塞ぎ込んでしまう時、人は自分の殻の中に閉じこもってしまいます。先週の福音で、イエスさまの弟子たちが恐れのゆえに、家の中に閉じこもり、戸に鍵をかけて引きこもっていたことも、そうした人の姿をよく表しています。そうしたとき、自分の抱えているその問題しか見えなくなってきて、それで心がいっぱいになってしまい、ますますふさぎ込んでしまい、なかなか殻から出てこられなくなってしまいます。

 

そのように塞ぎこみ引きこもっていた弟子たち。だれもその中に入れないように戸にはしっかりと鍵をかけて。しかし、そんな弟子たちのもとを、復活なさったイエスさまが訪れてくださった出来事を、先週私たちは聞きました。堅く閉ざし、がっしりと鍵をかけていた弟子たちの心の扉を、イエスさまが破って、その真ん中に立たれたのです。何度でも何度でも、イエスさまはそのように弟子たちのもとを訪れてくださいました。そのことによって、堅く閉ざされた弟子たちの心が、少しずつ少しずつ開かれていきました。私たちはちょうど今、春の季節を迎えていますが、大きなそして頑丈な雪の塊が暖かい日の光に照らされて、少しずつ少しずつ溶けていくように、弟子たちの心の塊も、復活なさったイエスさまが繰り返し繰り返し彼らを訪れる中で溶かされていったのです。

 

エスさまは今も生きておられ、私たちのもとをも何度でも何度でも訪れてくださると先週お話しいたしました。私たちの心の中の塊をも、イエスさまの愛の暖かさによって溶かしてくださるのです。そうした中で、私たちも心開かれ、癒されることを、信頼したいと思います。だれもこじ開けることができない、塞ぎこんでいる私たちの心の真ん中に、復活なさったイエスさまがおいでくださり、開いてくださる。そのことを信頼したいのです。

 

けれども、なおも人は弱く不信仰なものです。イエスさまが訪れてくださっているのに、なかなか信じることができません。それもそのはずです。弟子たちにとっても、私たちにとっても、イエスさまは十字架で死なれたお方であって、普通の常識なら、そこですべてが終わりだからです。ですから、イエスさまが復活なさって、今も生きておられ。自分たちのもとを訪れてくださった、このことをなかなか信じられないのです。弟子たちの前にイエスさまが現れても、彼らはそれを信じることはできませんでした。「彼らは恐れおののき、亡霊を見ているのだと思った」と、今日の福音でルカは告げています。復活なさったイエスさまと出会って、彼らは亡霊、幽霊、お化けだと思ったというのです。

 

私たちも実際にイエスさまが目の前に現れたら、きっと彼らと同じように恐れおののくでしょうし、亡霊だ、お化けだと思うかもしれません。私たちはなかなか、自分の理解を超えたことを受け止めきれないのです。私が学生の時、ある教会で、ある方が聖書の学びをしていました。その人はイエスさまのことが大好きで惚れ込んだようなそんな思いで、その学びに参加していました。でも、その人がある日からパタッとその学びに来なくなりました。その方が、久しぶりに教会に来た時、なぜ学びに来なくなったかを話してくださいました。それは、キリストが復活なさったという出来事を学んだからだということでした。死んだ人間が生き返るなんてそんな馬鹿なことあるわけないじゃないかと、その方はおっしゃって、だからその時から学びには来なくなったのだとお話しておられました。でも、その方がそのように、また教会に来て礼拝に参加しておられる姿を見ながら、神さまはなおもその方の心に働きかけて、その方のことを招いておられるのだなと私は思ったのですが、このようにイエスさまの復活の出来事を受け止めるということは、普通の常識をもってはなかなか難しいことなのです。

 

でもパウロは、コリントの信徒へ向けた手紙の中で、そんな私たちに向かって言っています。「キリストは死者の中から復活した、と宣べ伝えられているのに、あなたがたの中のある者が、死者の復活などない、と言っているのはどういうわけですか。死者の復活がなければ、キリストも復活しなかったはずです。そして、キリストが復活しなかったのなら、わたしたちの宣教は無駄であるし、あなたがたの信仰も無駄です。更に、わたしたちは神の偽証人とさえ見なされます。なぜなら、もし、本当に死者が復活しないなら、復活しなかったはずのキリストを神が復活させたと言って、神に反して証しをしたことになるからです。死者が復活しないのなら、キリストも復活しなかったはずです。そして、キリストが復活しなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお罪の中にあることになります。そうだとすると、キリストを信じて眠りについた人々も滅んでしまったわけです。この世の生活でキリストに望みをかけているだけだとすれば、わたしたちはすべての人の中で最も惨めな者です。しかし、実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました。」

 

このように、「実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられ」た、これが初代のキリスト者より今まで大切にされてきた大事な信仰です。先週、東方正教会の復活祭についてお話しました。その礼拝の中では「ハリストス復活、実に復活」と何度も言い交すと。実は、この「ハリストス復活、実に復活」は、このコリント書15章の言葉から採られたものです。キリストは復活なさったんだ、実際に復活なさったんだと、キリストの教会と信仰者たちは2000年の間言い続けてきたのです。

 

けれども、なかなかイエスさまの復活という出来事を受け止められない弟子たち、そして私たちに、イエスさまはおっしゃいます。「なぜ、うろたえているのか。どうして心に疑いを起こすのか。わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ。触ってよく見なさい。亡霊には肉も骨もないが、あなたがたに見えるとおり、わたしにはそれがある。」この光景をぜひ想像してみてください。どんな思いになられるでしょうか。私は何か拍子抜けした感じを受けました。ふさぎ込んでいた弟子たちのもとを訪れたイエスさま。そのイエスさまを恐れおののき、お化けだと思っていた弟子たち。何とも言えない緊張感を覚えるのですが、しかし、そこで、イエスさまは、「ほら、手や足に触ってごらん、お化けには肉とか骨とかないけど、わたしにはあるでしょ。だから恐れないで疑わないでいいから」そんな風におっしゃるのです。なんか緊張の糸がぷつんと切れてプッと噴き出すような思いになります。

 

エスさまの復活を信じるというと、何か大それたことのような思いになります。でも、そうじゃないのではないだろうかとここから思うのです。「いや、大丈夫よ、わたしはたしかに生きているよ」と語りかけてこられるイエスさまを「あ、そうか」と受け入れること。死人が復活するなんてありえないじゃないか、科学的にそんなことは無理だとか難しく突き詰めて考えるのではなく、「あ、そうか、イエスさま生きておられるんだ」と素朴に思うこと、これが復活信仰なのではないかと、そんなことを思うのです。

 

よく人がよりよく生きるために、「根拠なき自信」が大切だということが言われます。「ぼくは大丈夫」「わたしならできる」そんな思いです。じゃその根拠は何なのかと問われても、それを論理的に明確に答えられるわけではなく、「どうしてかと言われても、わからないけど、でも大丈夫、できるさ」そんな「根拠なき自信」が大事なのです。私たちが「なんだかわからないけど、イエスさま生きておられるんだ」この思いは、そうした根拠なき自信に通じると思います。難しく考え、イエスさまは復活しておられると科学的に証明する、このことはあまり私たちの力にはなりません。でもふさぎ込んでいる心に風穴を開けるように、イエスさまが「いや大丈夫だから。わたしは生きているんだから。さあ手を伸ばしてごらん」と語りかけてくださることを受け止める時、私たちも立ち上がって、新しい一歩を踏み出すことができるのだろうと思います。

 

とは申しましても、弟子たちはなおもイエスさまのご復活の事実をなかなか信じることができませんでした。「彼らが喜びのあまりまだ信じられず、不思議がっているので」と福音は告げています。きっと「え?嘘?まじかよ?」そんな感じだったのではないかと思います。そこでイエスさまはおっしゃるのです。「ここに何か食べ物があるか」。弟子たちはきっと恐る恐るだったことでしょう。魚を一匹イエスさまに差し出すと、イエスさまはそれを採ってむしゃむしゃ食べ始められたのです。想像すると、おかしくてたまらないそんな光景です。なんかふさぎ込んでいたり、信じられないでいたりすることが馬鹿らしくなってくるようなそんな印象を受けます。

 

復活信仰って、そうやって与えられるものだろうと思うのです。難しく考えるんじゃなくて、イエスさまが私たちの心に与えてくださる。イエスさまが魚をむしゃむしゃ食べられたというのも印象深いですよね。あ、復活なさったイエスさま、物食べられるんだと。ヨハネ福音書でも、復活なさったイエスさまが朝の食事の準備をしておられた姿が伝えられていますし、今日の福音書の前のところでも、旅する弟子たちと一緒にパンを分かち合われたイエスさまの姿が伝えられています。これは、きっと私たちがご飯を食べたりするそんな日常の一コマで復活なさったイエスさまが私たち任出会い、復活の信仰を与えてくださる、ふさぎ込んだ私たちに笑いを笑顔を与えてくださる、そのことが伝えられているのではないだろうかと思うのです。

 

ルカは今日の福音で続けて、イエスさまの言葉を伝えています。《イエスは言われた。「わたしについてモーセの律法と預言者の書と詩編に書いてある事柄は、必ずすべて実現する。これこそ、まだあなたがたと一緒にいたころ、言っておいたことである。」》

 

モーセの律法と預言者の書と詩編に書いてある事柄」これは旧約聖書全体を表します。イエスさまのおられたころはまだ新約聖書はありませんでしたから、旧約聖書全体というより聖書全体と言ってもよいでしょう。聖書のみことばを私たちが受け止めるとか、信じるとか、それは何も何か仰々しいことではなくて、日々の歩みの中で悩んだりふさぎ込んだり恐れたりするとき、そうした中で今も生きておられるイエスさまと出会って、笑顔になる、そうした素朴なことなんだということを、このイエスさまの言葉から受け止めたいと思います。

 

さらに、福音は、《そしてイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて、言われた。「次のように書いてある。『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と。エルサレムから始めて、あなたがたはこれらのことの証人となる。」》と告げています。

 

エスさまが、私たちの心の目を開いてくださる。ふさぎ込んでいる私たちの心の真ん中を訪れて、心の風穴を開けて、ホッとした思いと笑顔をくださって、そのようにして心の目を開いてくださるのです。そうした中で、イエスさまの十字架のこと、復活のことが、私たちも少しずつ受け止められるようにされていく。そして、自分の罪深さも知らされ、悔い改めへと導かれ、赦しの中で復活の証人として私たちも遣わされ用いられていくのです。信じるということも、イエスさまのことを伝えるために遣わされ用いられるということも、何か難しいように思うかもしれないし、事実、難しい面もたくさんあるけれど、でも、本質的には、もっと素朴で単純なことだということを、今日のみことばから知らされます。

 

日々の歩みの中で、日常の生活の中で、イエスさまによって生かされる命、そしてその中で与えられる素朴な信仰を喜び、大事にしたいと思いますし、その信仰を分かち合って歩んでいきたい。そのために私たちもまた遣わされ用いられていることを、心に留めたいと、今日のみことばから願わされます。 

 

主よ、私たちを導いてください。

 

私たちが日々の歩みの中に復活なさった御子イエスさまと出会い、復活の信仰が与えられていくことができますように導いてください。そして復活の証人として、この私もまた遣わされますように。いのちの主イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン

 

あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るように。アーメン

 

動画 2018-04-15.MP4 - Google ドライブ

 

 

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(取り壊される北見教会の会堂より。

復活のキリスト)

2018年4月8日 礼拝メッセージ

復活節第2主日 2018年4月8日

 

「恐れと疑いの真ん中に」

ヨハネによる福音書20章19~31)

 

わたしたちの父である神と、主イエス・キリストからの恵みと平和があなたがたにあるように。アーメン

 

先週、私たちは、イエスさまのご復活を祝うイースターの礼拝とお祝い会をいたしました。「主キリストは復活なさいました。主はほんとうに復活なさいました」と喜びのうちに共に言い交しました。実はこれは、もともと東方教会ギリシア正教ロシア正教の伝統に基づくものです。日本の正教会は、ロシア正教の伝統にありますので、キリストのことを「ハリストス」という言葉を用いて、次のように司祭と信徒の間で言い交すのです。「ハリストス復活」「実に復活」と。正教会の復活祭の礼拝で、何度も何度もこの言葉が交わされます。実は正教会の復活祭は、夜を徹して行われます。「ハリストス復活、実に復活」、この言葉が幾度も幾度も繰り返して交わされる中、復活の朝を迎えます。キリストが復活なさったことにより、新しいいのちの光が私たちにもたらされる。本当に主は復活なさったのだと、心に刻みながら朝の光を迎えるのです。

 

闇から光へ、これは復活祭に、とても大切なメッセージです。天地創造の初め、「光あれ」との神さまの御声によりこの世界は創られ、私たちも、その光の中で生きる者として創られたものであるけれども、その後、アダムとエバが神に背いて以来、人は皆、罪と悪と死の闇の中に生きる者となってしまいました。私たちには、どうすることができない、その罪と悪と死の闇。しかし、その深い深い闇が、主キリストのご復活によって、あのご復活の朝の到来と共に打ち破られたことを、覚え心に刻むのです。「死は勝利に飲み込まれた、死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前のとげはどこにあるのか」そうパウロが声高らかに告げているように、今や圧倒的なキリストの光、命と赦しと勝利の光が、罪と悪と死の闇を飲み込んでしまったのです。私たちは、この大きな光の中に生かされています。

 

先週土曜日、私は北見での復活祭の礼拝の後、その日の夜、札幌のカトリック教会で行われた復活徹夜祭の礼拝に出席いたしました。徹夜祭といっても実際は二時間半ぐらいの礼拝なのですが、その礼拝は暗闇の中で大きな蝋燭に火を灯し、「キリストの光」「神に感謝」と司祭と会衆が言い交すことから始まります。ここでもまた、この世の闇の中で、神がキリストの復活によって、真の光を与えてくださった、そのことを喜び合う、そのことからご復活の祝いがはじまるのだと改めて思うことができました。

 

さて、このように闇から光へと新しい命に生かされた私たちは、今日も引き続き、イエスさまのご復活をお祝いいたします。しかし、そのように、キリストのご復活によって、闇を包む圧倒的な光の中に生かされることになった私たちですが、今日のみことばは、依然として世の闇という現実が、私たちに忍び寄ってくることを伝えています。「その日、すなわち週の初めの日の夕方」、そんな言葉から今日の福音は始まっています。「その日、すなわち週の初めの日」というのは、イエスさまがご復活なさった、イースターの日曜日のことです。その朝に、イエスさまがご復活なさって、弟子たちはその知らせを聞くのです。本当なら、彼らはこの知らせに大いに喜んでその日を過ごしているはずです。イエスさまがかねてから言われていたことがほんとうに実現したのであり、また、一度は十字架の死によって失ってしまった愛するイエスさまが今も生きているという知らせを、彼らは受けたのですから。でも、その朝の喜びの出来事を、彼らの心の中から消してしまうような闇が、今まさに訪れようとしている、そんな「夕方」が彼らに訪れるのです。

 

みことばは私たちに告げています。「その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた」。彼ら弟子たちは、イエスさまの復活の知らせに喜んでそのイースターの日を過ごしていたのかというと、実は、そうではありませんでした。恐れの中で、家の中に閉じこもって、鍵をかけていた。まったくもって閉ざした心の中で、彼らはその日を過ごしていたのです。ユダヤ人を恐れて」とあります。イエスさまが捕えられ、十字架で殺されてしまったように、自分たちもそうされてしまうのではないかと、彼らは恐れたのでしょう。イエスさまのご復活という、たいへん大きな喜びの知らせを聞いていながらも、それを超えたそうした大きな恐れの中に、彼らはいたのです。イエスさまは、かつて「体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい。」とおっしゃったけれど、しかし、彼らはやはり自分のこの世の命のことで悩み、堅く心を閉ざし、イエスさまのご復活の知らせを喜ぶことができずに、部屋の中に閉じこもり引きこもってしまっていたのです。

 

この彼らの姿、それは私たちの姿でもあります。私たちもキリストは復活なさった、本当に主は復活なさったと、主のご復活を祝ったはずです。でもどうでしょうか。いつもその喜びの中で過ごしていられるだろうと考える時、決してそうではない自分の姿に出会うのです。私たちもいろんな恐れの中にいるのです。自分の健康のこと、生活のこと、周りの人とのかかわりのこと、様々なことで恐れ心配になり、主のご復活を喜ぶことができない、どこかで心閉ざし閉じこもって引きこもってしまう、そんな姿が私たちにもあります。ヨハネによる福音書の中でユダヤ人」という言葉は、決して一つの民族としてのイスラエル人のことだけを表すのではありません。イエスさまや、その信仰に敵対する、そうした世の力を象徴的に表す言葉でもあります。私たちも世の力に恐れながら過ごしている。ご復活の喜び、その光を覆ってしまう闇の中に閉じこもってしまっています。

 

しかし、そんな堅く鍵をかけて部屋の中に閉じこもり引きこもっていた弟子たち、心に鍵をかけて闇の中に閉じこもり引きこもっている私たちに、みことばは告げます。《そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。》恐れの中で引きこもった弟子たち、そして私たちの「真ん中に」、イエスさまはおいでになって立たれます。鍵をかけて誰も入ってこられないその部屋に、その心の中に、それを打ち破ってイエスさまが、「真ん中に」立たれるのです。そして、おっしゃいます。「あなたがたに平和があるように」。イエスさまが十字架にかかる前の夜に弟子たちにおっしゃいました。「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな。」ここで復活なさったイエスさまが弟子たちに、私たちに与えてくださる平和は、「この世が与えるように与えるのではない」つまりこの世の誰も何も与えることができない、ただイエスさまだけが与えてくださる真の平和です。

 

エスさまはそうおっしゃりながら何をなさったか。福音書は告げています。「そう言って、手とわき腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ。」エスさまは手とわき腹をお見せなります。その手とわき腹には、十字架にかけられた際の釘跡、そして死なれた際にわき腹にやりがさされた傷跡がくっきりと残っていたことでしょう。「この世が与えるように与えるのではない」エスさまの真の平和は、イエスさまの十字架の苦しみと死を通して、弟子たちに、そして私たちに与えられるものなのです。イエスさまのご復活の知らせを聞きながらも恐れて堅く扉を閉ざし閉じこもり引きこもってしまっている弟子たち、そして、堅く心を閉ざし閉じこもり引きこもっている私たちに、イエスさまは十字架の御傷を示しながら、「そんなあなたを、わたしは見捨てず、命がけで愛している」イエスさまはそう語りかけられる。そのイエスさまの命がけの愛によってのみ与えられる平和です。

 

エスさまはおっしゃいます。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」弟子たちは何も彼らが信仰深かったからとか、彼らが強かったからとか、そんな理由でイエスさまによって遣わされたのではありません。イエスさまのご復活の知らせを聞いたけど、なおも恐れて、戸に鍵をかけて閉じこもっていた、そんな彼らがその弱さの中で遣わされるのです。私たちもまた、「キリストは復活なさいました、主はほんとうに復活なさいました」と、イエスさまのご復活の知らせを聞いていながら、でもこの世の力に恐れ、心を閉ざし、引きこもってしまいがちなものです。でもそんな私たちであっても、その恐れの「真ん中に」エスさまが訪れてくださって、十字架の御傷を示しながら、その愛の中で私たちをお遣わしくださいます。

 

エスさまはおっしゃいます。聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」弟子たちも私たちも自分の力で働くのではありません。聖霊の力によって、神さまに押し出されて、その力によって働くのです。弟子たち、私たちは依然として恐れてしまう弱い者です。すぐに心を閉ざして引きこもってしまう、そんな者です。だから私たちの力では働くことはできません。でもそうした彼らを、私たちを遣わしてくださるイエスさまが聖霊によって、神さまの力によって働くように送り出してくださるのです。

 

今日の福音はこの後に、それからおよそ一週間後の、イエスさまの弟子のトマスと復活なさったイエスさまとの出会いの出来事について告げています。その中でも《戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた》と告げられています。彼ら弟子たちはまだ鍵をかけて引きこもっていたのです。どれだけイエスさまが復活なさったという知らせを聞いても、実際に復活なさったイエスさまと出会ったとしても、さらには聖霊をいただいて遣わされたとしても、なお心を開いて、世へと自信を持って力強く出かけることができない、依然として恐れの中にある弟子たち。でもイエスさまは何度でも何度でも繰り返し繰り返し彼らの真ん中に訪れてくださいます。そして十字架の命がけの愛による平和を与えてくださるのです。イエスさまは私たちのもとにも何度でも何度でも訪れ、平和をお与えくださいます。その中で、弟子たちも私たちも強められ励まされて信じる者とされえていく、主のために働くものとされていきます。

 

トマスは、あのイエスさまのご復活の夕べ、他の弟子たちとは一緒にいませんでした。イエスさまを失った悲しみの中でその交わりを離れていたのでしょうか。仲間たちが復活なさったイエスさまに出会ったと語り合っているのを聞いて、彼は言うのです。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」彼の悲しみと憤りの声が聞こえてくるような思いがします。「主を見た?そんなことあるわけないじゃないか。先生はもう死んでしまったんだ。もうお会いできないんだ」と。でもそんな彼のもとにもイエスさまは訪れてくだいます。彼の疑いの心の真ん中にイエスさまはいらしてくださるのです。そしておっしゃいます。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」トマスが目をあげてみると、そこには十字架の傷跡がはっきりありました。彼のために苦しまれ死なれたイエスさまの傷がくっきりと彼の目の前に示されるのです。彼は思わず言います。「わたしの主、わたしの神よ」

 

私たちが信じられない時、疑うときも、その真ん中にイエスさまが訪れてくださいます。そして、「この傷に触れよ、あなたのためのこの傷に」とおっしゃって、御傷を示されるのです。私たちもその中で信じる者とされていきます。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」とイエスさまがおっしゃっているように、「見ないのに信じる信仰」が与えられるのです。

 

エスさまのご復活により、闇から光へ入れられた私たち。でも、私たちはすぐに恐れの闇、疑いの闇の中に、心を閉ざし、引きこもってしまいます。でもその真ん中にイエスさまが何度でも何度でも訪れてくださり、十字架の傷を示しながら、「大丈夫、そんなあなたがたのためにわたしは十字架を引き受け、命がけで愛している、だから信じる者になりなさい」と告げられるのです。そのキリストの十字架と復活により与えられた光と愛と平和を分かち合うために、私たちは遣わされます。新しい一歩を踏み出そうではありませんか。

 

主よ、わたしたちを導いてください。

 

恐れと疑いの闇に襲われ、心を閉ざし引きこもってしまう私たちのもとを、ご復活なさった主が訪れてくださることを感謝します。どうか真の光を分かち合うために私たちを遣わしてください。イエスさまのお名前によって。アーメン

 

希望の源である神が、信仰によって得られるあらゆる喜びと平和とであなたがたを満たし、聖霊の力によって希望に満ちあふれさせてくださるように。アーメン

 

動画 2018-04-08.MP4 - Google ドライブ

 

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