yukaina_gorilla’s diary

ごりらぼくし(大麻ルーテル教会/北見聖ペテロ・ルーテル教会)です。聖書や教会のこと、社会のこと、ペットのことなど書いていきますね。

2017年4月16日 礼拝メッセージ 復活祭!

復活祭 2017年4月16日

 

「ここにはおられない」
(マタイによる福音書28章1~15節)

 

わたしたちの父である神と、主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなたがたにあるように。アーメン

 

よく言われることですが、人は産声を上げ、この世に生を受けたその瞬間から、死ぬその日に向けて旅をしています。いえ、母の胎に宿ったその瞬間から、死に向かっているという方が正しいかもしれません。

 

今日のプログラムに一枚の絵画を挟めておきましたが、これは、画家のゴーギャンが描いた作品です。この作品の左上には、フランス語で、「我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか」と書かれており、これがこの作品の題名です。

 

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/e/e5/Paul_Gauguin_-_D%27ou_venons-nous.jpg/1920px-Paul_Gauguin_-_D%27ou_venons-nous.jpg

 

画面の右側には、赤ちゃんと子どもが描かれており、人の人生の始まりを表しています。人はみんなに見守られながら生まれてきます。でも、何となく暗さや不気味さも感じます。背中を向けて座っている人や暗い影の中に生きる女性たち。その後の人生の闇を表しているのでしょうか。そして作品の中央、真ん中には、青年期、果物を収穫する命みなぎる人の姿が描かれます。しかし、その背後には、何かの像が描かれています。これはきっと彼岸、死んだ後のあの世を表すものであり、人が充実して暮らしているその時も、死の影が人を見つめているのです。そして、画面左側には、死を迎えることを受け入れて、もはや諦めている老婆が描かれ、その下には謎の白い鳥が描かれています。そこでは、人は死を前にして、何を語っても言葉は無力なものとなるということを表しています。ゴーギャンは、先ほども申しましたように、この作品に、「我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか」と記し、人の人生、その一生をこの作品に込めるのでした。

 

実は、彼がこの作品を描いたとき、彼にとって大変な危機的な状況でした。彼は自ら命を絶つことを心に決め、服毒自殺を試みます。結局、それは未遂に終わるのですが、その直前に描かれたのが、この作品です。ですから、彼自身、自分の人生の闇を見つめながら、そして、まもなく、自分が死のうとしている死を見つめながら描いた作品です。そうした中で描かれた作品なので、なんとなく全体的に暗さや不気味さを感じる仕上がりになっているのでしょう。生まれたときも、青年期も、人生の終わりも、どこかで闇があり、人生のどの場面でも死の影が迫っていると表現できるかもしれません。

 

もちろん私たちは、彼と同じ人生ではありません。でも、私たちもやはり、初めに申しましたように、産声を上げた瞬間、いや、母の胎に宿ったその時から死ぬその日に向かって生きている存在です。そうした中で、いつも明るい人生とは言えず、常にどこかで闇の部分を抱えており、死の影の中を生きている、それは私たちもまた同じではないでしょうか。「我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか」、この疑問は、私たちの問いでもあるのです。この問いに私たちはどう答えるでしょうか。これは私たちにとってたいへん難しい問いです。しかし、今日、私たちは、イエスさまのご復活を祝う中で、この問いに一つの答えが示されるのです。

 

あの金曜日の午後、イエスさまが十字架につけられ、苦しみのうちに亡くなられた。これは、弟子たちにとってとても悲しい出来事でした。特に男性の弟子たちは、イエスさまが捕えられた際に、みんなイエスさまを見捨て、イエスさまのもとから逃げ去ってしまいました。ペトロなどは、「お前もあの人の仲間だ」と人々から言われて、「そんな人知らない」と、イエスさまの弟子であることを否定して、自分のしてしまったことの重大さに大泣きします。女性の弟子たちも、イエスさまが苦しまれ亡くなられるのを、ただ佇んで見守ることしかできませんでした。それぞれに悲しみと後悔しか残らなかったのです。

 

その極みの中で、彼ら、彼女たちは、土曜日を一日過ごします。その日はユダヤ教安息日であったため、遠くへ出かけることも、また、死に触れる、つまりイエスさまの亡骸が葬られているお墓を訪れることも、ユダヤ教の掟で禁止されていたのです。また、そうした理由と共に、この一日は、みんなが立ち上がるために必要な一日であったかもしれません。この日本の習慣でも、人が亡くなった時、その日の夜にお通夜をすることは少ないでしょう。一晩なり二晩なり経過してから、お通夜を行うことが多いと思います。私は、この度、祖母が召され、牧師としても、また遺族としても、葬儀を経験する中で、改めてその一晩なり二晩なりが、とても大切な時間だと気づかされました。やはり近しいものが亡くなると、心がどんと落ち込み、立ち上がれない思いになります。もちろんやるべきことがたくさんあり、それをこなすわけですが、でも心はなかなか立ち上がれない。でも、一晩なり二晩なり過ごす中で、少しずつ気持ちが整えられて、これから行われる一連の葬儀に向けて立ち上がることができるようにされていくのでした。亡くなってすぐにお通夜だ、葬儀だというと、なかなかそうはいかなかったでしょう。イエスさまに従ってきた者たちもまた、金曜日の日没から土曜日、そして日曜日の夜明けまでの、立ち上がるための時間を過ごしたのでした。

 

そして、安息日(土曜日)が終わって、週の初めの日(日曜日)の明け方に」マグダラのマリアともう一人のマリアが、イエスさまの墓を見に行きます。実は、イエスさまの十字架の死を伝える出来事の際にも二人の名前が記されています。マグダラのマリアともう一人のマリアとはそこ(イエスさまの葬られたお墓)に残り、墓の方を向いて座っていた」。お墓を訪れることが禁じられる安息日が始まるその瞬間までイエスさまのお墓にとどまったこの二人が、安息日が明けるや否や、イエスさまのお墓へと急ぐのです。「すると、大きな地震が起こった。主の天使が天から降って近寄り、石をわきへ転がし、その上に座ったのである」と伝えられています。

 

そうです。イエスさまが葬られた時、そのお墓にたいへん重い大きな石で蓋がされたのでした。これは、女性二人でどうこうできるようなものではありません。ですから、他の福音書では、彼女たちがイエスさまのお墓に向かう途中、「あの石をどうしましょう」と心配している様子が伝えられています。しかし、その石が、彼女たちがどうこうしなくても、神さまが遣わした天使によって、脇へ転がされた、取りのけられたというのです。それを見て、そのお墓の中からイエスさまの亡骸が盗まれることのないように見張っていた番兵たちが大変驚いた様子が伝えられています。

 

天使は、彼女たちに言いました。「恐れることはない。十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。さあ、遺体の置いてあった場所を見なさい。それから、急いで行って弟子たちにこう告げなさい。『あの方は死者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる。』確かに、あなたがたに伝えました。」ここでとても印象深く思う言葉があります。それは、今日のメッセージのタイトルにもいたしましたが、「あの方は、ここにはおられない」という言葉です。イエスさまに従ってきた人たちはみんなイエスさまが亡くなり、お墓に葬られ、重い大きな石で蓋をされて、もうそれですべてが終わったと思ったことでしょう。もう愛するイエスさまは亡くなってしまった。二度と会うことはできない。せめてイエスさまのご遺体によい香りのする油を塗って、少しでもイエスさまの体が傷むのを防ぎたい、そう願って彼女たちもお墓を訪れたのです。死、そして墓、これが、私たちがふつう考える人の一生の終わりです。最初にお話ししたゴーギャンの作品「我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか」で言うならば、私たちが行く先は死であり、墓であるとなります。しかし、今日、復活祭、イースター、私たちが向かう先が、死であり、墓である、その答えを打ち消す言葉を聞くのです。「あの方は、ここにはおられない」と。そうです。死と墓が私たちの人生の終着駅ではなくなったのです。なぜなら、「かねて言われていたとおり、復活なさった」からです。

 

エスさまの復活によって、私たちは死を超え、墓を超えた、新たな命の幕開けが与えられたのです。ゴーギャンの絵は、老婆が俯きながら、訪れる死を受け入れている姿で終わっていました。しかし、イエスさまの復活によって、私たちにはさらにその先の命をいただくことができるのです。天使から知らせを聞いた彼女たちは、「恐れながらも大いに喜び、急いで墓を立ち去り」と伝えられています。復活の出来事は、私たちの考えも常識も科学的な事実もすべて超えたものです。ですから、それは、私たちにとって恐るべきことです。でもそれは、同時に、私たちにとって大きな喜びです。死と墓で終わりだと思っていた私たちの人生、それが「ここにはおられない」と、死と墓がもはや私たちにとって終わりではなくなり、その先の命の世界が開かれた、このことは私たちにとって大きな喜びなのです。

 

他の弟子たちに、イエスさまが復活なさった知らせを伝えるために、彼女たちは走って、彼らのもとに向かいます。すると、その途上にイエスさまが彼女たちに出会われるのです。「イエスが行く手に立っていて」とあります。私たちが歩む行く手に、私たちに先立ち、復活なさった、いのちのイエスさまがそこにいてくださいます。そのイエスさまが彼女たちにおっしゃいました。「おはよう」。これはなかなか名訳だと、私は思っています。もともとは、これは「平和があるように」とか「安かれ」とかいう意味です。ヘブライ語で、シャロームという言葉をイエスさまがここで語られました。このシャロームは、朝でも昼でも夜でも、別れる時でも使われる挨拶の言葉です。朝ならおはよう、昼ならこんにちは、夜ならこんばんは、別れる時ならさようなら、そうした挨拶なのです。イエスさまの復活が朝の出来事であったから、「おはよう」と訳してあるわけですが、私はこの「おはよう」に、もっと深い意味を受け止めるのです。彼女たち、また他の弟子たちも、イエスさまが十字架で亡くなられた際に、自分がイエスさまを見捨てたり、裏切ったり、あるいは何もできなかった。このことはとても大きな闇の出来事だったと言えます。そして、とても暗い気持ちで過ごしていたことでしょう。でも、そこに復活なさったイエスさまご自身が現れ、「おはよう」「平和があるように」「安かれ」と告げられる。闇に光が与えられる。心の夜が終わり、光り輝く朝を迎えた、そんな気持ちだったのではないでしょうか。ですから、この「おはよう」というイエスさまの言葉が、私の心に迫ってくるのです。

 

彼女たちは思わず、そうおっしゃるイエスさまのもとに「近寄り、…足を抱き、その前にひれ伏した」のでした。大きな喜びの姿を受け止めます。イエスさまはそんな彼女たちにおっしゃいます。「恐れることはない。行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる。」エスさまは、このように「恐れることはない」と彼女たちに告げられます。そうです。もはや死と墓が終わりではなく、その闇は取り除かれた今、私たちは死を恐れる必要はなくなったのです。また、この世の何物をも恐れる必要はなくなったのです。なぜなら、イエスさまが私たちの向かう先だった死と墓に勝利して、もはや「ここにはおられない」、そして私たちに先立って「おはよう」「恐れることはない」そう告げてくださるからです。

 

復活なさったイエスさまは、ガリラヤへ行き、そこで弟子たちと会われることを告げられます。ガリラヤ、それは弟子たちが生活していたその場所でした。彼らが、そこで生き、そこで笑い、涙した、その場所です。そこに復活なさったイエスさまがおいでになります。そうです。私たちは今、生きているただ中で、復活されたイエスさまと出会い、その命をいただいて生きていきます。復活を信じる、復活の命をいただく、その命に生きるというのは、何か私たちが特別な場所に行ったり、特別なことをしたりするのではありません。今生きているこのただ中で、イエスさまと出会い、復活を信じることなのです。

 

「我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか」。そうです。私たちは神さまのもとから来て、私たちはキリストの命に生かされるものであり、そして、キリストが与えてくださる永遠の命に向かって生きる者なのです。「あの方は、ここにはおられない。…復活なさったのだ。」

 

主よ、私たちを導いてください。

 

御子、主イエス・キリストのご復活を感謝し、あなたのみ名をたたえます。どうか、私たちがいろいろなことに行き詰まったり、落ち込んだり、立ち上がれなくなったりするとき、またおびえたり、希望を失ったりするとき、そして死への恐怖に襲われるとき、「あの方は、ここにはおられない。…復活なさったのだ。」との、あなたの御声を聞き、「おはよう」と告げられる御子の御声に光をいただくことができますように。どうかこの喜びを私たちも急ぎ伝えることができますように、導いてください。十字架で死んで復活なさった、いのちの救い主イエス・キリストによって祈ります。アーメン

 

希望の源である神が、信仰によって得られるあらゆる喜びと平和とであなたがたを満たし、聖霊の力によって希望に満ちあふれさせてくださるように。アーメン