yukaina_gorilla’s diary

ごりらぼくし(大麻ルーテル教会/北見聖ペテロ・ルーテル教会)です。聖書や教会のこと、社会のこと、ペットのことなど書いていきますね。

2017年4月30日 礼拝メッセージ

復活節第3主日 2017年4月30日


「信じる者に」
ヨハネによる福音書20章24~29節)

 

わたしたちの父である神と、主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなたがたにあるように。アーメン

 

私たちは復活節、イエスさまのご復活をお祝いする時を過ごしておりますが、毎年、この季節、日曜日ごと与えられる福音書を通して、「これでもか、これでもか」というぐらい、イエスさまのご復活を信じることができなかった弟子たちの情けないほどの弱さと不信仰さを感じます。私たちは、彼らのその後の、殉教すら惜しまずイエスさまへの信仰を貫き、宣教に命を懸けたその勇敢な姿を知っているので、そうした彼らが、イエスさまの十字架を前にしてみんな逃げ去り、さらに、それだけでなく、イエスさまがご復活なさった後も依然として弱さや不信仰さの中にあったということに大きな驚きを覚えるのです。

 

今日の福音書に登場するトマスもまた、イエスさまのご復活を信じることができなかった、イエスさまの弟子の一人です。彼は、弟子たちが、復活なさったイエスさまと出会った、その出来事の際に、そこにおりませんでした。まず、彼がなぜそこにいなかったのかと疑問に思うわけですが、ある人は、このことについて、彼はイエスさまが亡くなってしまい、自分も一緒にその歩みに従うことができなかった、そのショックや悲しみで、しばらく弟子たちの交わりを離れていたのではないかと説明をしています。トマスは、今日の個所の前に二度ほど、このヨハネによる福音書の中に登場しているのですが、その一つのところでは、イエスさまに従って、「わたしたちも行って、一緒に死のうではないか」などと勇ましいことを言っています。でも、彼は、イエスさまと「一緒に死のう」という、その志を果たすことができず、イエスさまが亡くなられる時、他の仲間たちとともに、無残にもイエスさまのもとを逃げ去ってしまったのです。そんな自分の情けなさに深く傷つき、彼は、しばらくの間、弟子たちの交わりを離れていたのではないかと考えられるのです。

 

しかし、そんなトマスでしたが、その交わりに戻ってきました。そして、そこで他の弟子たちが、「わたしたちは主を見た」と語り合っているのを聞きます。最初、マグダラのマリア「わたしは主を見ました」と言って、弟子たちにイエスさまのご復活を伝えたけれど、信じることができなかった彼らでしたが、彼らのもとにご復活なさったイエスさまが実際に現れて、今度は彼らが「わたしたちは主を見た」と語り合うようになったのです。イエスさまのご復活の信仰が、「わたし」から「わたしたち」へ広がっていったことを、私たちは、ここから受け止めることができるわけですが、しかし、そんな彼らの証言に対して、トマスは言うのです。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない」。たいへん強く、彼は、仲間たちの証言を否定するのでした。きっと彼らは、イエスさまが、彼らに「手とわき腹をお見せになった」その事実を伝えたのでしょう。それに対して、トマスは、この言葉を語るのです。これは、ただ彼らのその報告を否定しただけというよりも、トマスの心の叫びが現れている言葉ではなかろうかと思います。「バカ言ってんじゃねぇよ。先生は死んじまったんだよ。もう会えねぇんだよ。何が『わたしたちは主を見た』だよ。そんなことあるわけねぇじゃねぇか!『手とわき腹をお見せになった』だと?ふざんけんなよ。『あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない』ぞ!」と、そんなトマスの心の叫びをここから受け止めるのです。イエスさまを大事に思い、「一緒に死のうではないか」それほど真剣に一途にイエスさまに従ってきた、でも、イエスさまを見捨てて逃げてしまった、一緒に死ぬことができなかった、そうした彼の心の傷の大きさが、彼の強い言葉に、とてもよく表れています。

 

そうした彼トマスの姿から、あたかも彼の代名詞、あるいは、彼のもう一つの名前のように、よく「疑い深いトマス」などと呼ばれてきました。そして、イエスさまがこの後に彼に向かっておっしゃった「信じない者ではなく、信じる者になりなさい」という言葉を用いて、「このトマスのようにならないように、私たちはちゃんとイエスさまのご復活を信じましょうね」、そんな風に言われることも少なくありませんでした。でも、今日の福音書を見るならば、ここでイエスさまのご復活を信じていなかった、「疑い深い」のは、何も彼トマスだけではありませんでした。ここで、トマスに向かって、「わたしたちは主を見た」と語っていた他の弟子たちもまた、本当のところでは、イエスさまのご復活を信じることができていなかったと考えられるのです。

 

エスさまがご復活なさり、彼らに出会われたその日から「八日の後」、すなわち、一週間後の出来事を、今日の福音書は伝えているのですが、その際、「弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。戸にはみな鍵がかけてあった」と伝えられているのです。一週間前、復活なさったイエスさまと出会う前と、相変わらず、しっかりと戸に鍵をかけて、しかも「戸にはみな」とありますので、あらゆる戸という戸すべてにがっちりと鍵をかけて、閉じこもり引きこもっていた彼らの姿が、ここに再び伝えられているのです。イエスさまのご復活の知らせを聞いていながらも、そして実際にご復活なさったイエスさまに出会っていながらも、にもかかわらず、なおも恐れと不安の中で、がっちりと家の戸に、また心の扉に鍵をかけて、外に出られずに閉じこもり引きこもっている彼らだったのです。このように、そこにいるみんながみんな同じように信じていなかった、疑い深かったのであって、トマスだけが信じていなかったというわけでもなく、彼だけが疑い深ったというわけでもありませんでした。私は、今日、このことに注目したいのです。イエスさまの弟子たちは、みんな弱さと不信仰の中にあった。トマスは、そうした交わりに帰ってきて、また、その交わりの中で、「わたしたちは主を見たんだよね」、「いや、そんなことあるわけねぇじゃないか。俺は決して信じないぞ」、そんな風に語り合っていたというこの姿、私はここに注目したいのです。なぜなら、そこに「教会」の姿を見るからです。

私たちは、礼拝の中で、教会について、「聖なる公同の教会を信じます」そのように告白をしています。しかし、その聖なる教会に集っている私たちは、どんな者たちかと言うなら、本当に、弱く、不信仰で、罪深い一人ひとりなのです。でもそんな私たちが、神さまによって招かれて、イエスさまの十字架とご復活による赦し、救いをいただいて、神さまのもの、つまり聖なる者とされて、この交わりに加えられています。ですから、教会が「聖なる教会」であると言うとき、それは教会に所属している私たちが清く正しく美しい者たちであるということではありません。ダメダメで弱く不信仰で罪深い私たちだけれども、神さまの救いによって、「神さまのもの」とされたという意味で、「聖なる」ということなのです。ルター的な言い方をするならば、私たちは、「罪赦された罪人」として、教会の交わりに加えられているのです。もちろんイエスさまによって罪赦された私たちです。でも、依然として罪人のままのわたしたちなのです。そのように弱く不信仰で罪人である私たちです。ですから、「イエスさまはご復活なさった」、「イエスさまは既に勝利なさった」、そのことを毎週聞いても、やはり恐れるし、不安になるし、あるいは、「そんなこと信じられないよ」「私は絶対信じないよ」そんな思いになります。そうした教会の交わりにおいて、そんな正直な思いを語り合うことができる。それはとても大切な姿であると、今日の福音書を通して考えさせられます。教会とは、信仰の優等生が集う場所ではありません。繰り返しになりますが、清く正しく美しい人たちの集団では決してないのです。「信じられないよ」、「分からないよ」、そうした素直で正直な思いをぶつけたり、それを聞いたり、依然として弱さを抱えていたり、そうした交わり、それが教会です。

 

そして、そうしたこの教会の交わりで、一体、何が起きるのか。今日の福音は、告げています。『イエスが来て、真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた』。そうです。そこに、イエスさまが何度でも訪れてくださるのです。恐れがあり、不安があり、不信仰がある、そうした者たちの集いである教会の交わりに、十字架にかかり、ご復活なさったイエスさまは何度でも何度でも訪れてくださいます。そして、「あなたがたに平和があるように」と、イエスさまだけが与えることができる、ただイエスさましか与えることのできない真の平和を、イエスさまが私たちに語りかけることによって与えてくださるのです。

 

エスさまは、トマスに向かっておっしゃいました。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい」。これは、よく絵画でも描かれる場面ですが、「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない」と、そんな思いを仲間たちにぶつけたトマスに対して、「さあ、あなたが望むようにしてごらんなさい。『あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい』」そうイエスさまはおっしゃるのでした。このように「信じられないよ」そう叫ぶトマスに、イエスさまは、十字架の傷を示しながら、「信じる者になりなさい」と信仰へ招いてくださるのです。

 

トマスは、思わず叫びます。「わたしの主、わたしの神よ」。イエスさまを「わたしの主」と呼び、また「わたしの神」と呼ぶ、その真の信仰の告白へと彼は導かれるのです。この信仰は、彼が、自分で聖書をいっぱい勉強したり、何か厳しい修行をしたり、そんな結果として与えられたものではありません。ともにイエスさまに従い仕える仲間たちの交わりの中で、「わたしたちは主を見た」という証しを聞き、それに対して、「いや、俺は信じられないんだよな」と正直な思いを打ち明けぶつける中で、そこにイエスさまが訪れてくださり、語りかけてくださる中で与えられた信仰でした。

 

私たちも教会の交わりに加えられていることに感謝します。一人ひとりは弱いものです。疑い深いものです。信じていると思っていても、ちょっとのことで心が揺れ動いたり、心を閉ざしたりしてしまいます。あるいは、「そんなことあるわけないよ、信じられないよ」との思いになります。でも、まさにそうした私たちの交わりに、復活なさって今も生きておられるイエスさまが訪れてくださり、語りかけてくださる。そして、私たちを、イエスさまを「わたしの主」と呼び、「わたしの神」と呼ぶ、信仰へと導いてくださるのです。だから私たちは教会の中で、優等生ぶるのはやめましょう。「信じられないよ!」「わからないよ!」と正直にその思いと向き合い、また教会の仲間に打ち明けることができればと願います。

 

教会で、信仰の仲間たちを「兄弟姉妹」と呼びます。それは、何も、「自分たちは他の人たちと違うんだ」という、特別な集団であるという意味で、そのように呼ぶわけではありません。弱くぼろがある、ダメダメな自分、そんなありのままの私たちの姿を隠さず、さらけ出すことができる、自分の正直な思いをぶつけ合うことができる、そのような家族であるという意味で、私たちは兄弟姉妹なのです。詩編133編に、「見よ、兄弟が共に座っている。なんという恵み、なんという喜び」という言葉があります。この兄弟姉妹がともに座っている交わりに、復活なさったイエスさまが訪れてくださり、語りかけてくださり、私たちを信仰へと招いてくださることを、今日のみことばを通して受け止めたいのです。

 

「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」エスさまは、今日、トマスにそのようにおっしゃいました。私たちは、イエスさまを実際に私たちの目で見ることはできません。でも、教会の交わりの中で、兄弟姉妹とともに座り、ともに礼拝をしたり、礼拝の後にともに語り合ったりする中で、イエスさまと出会い、「見ないのに信じる」その幸いへと導かれることを感謝いたします。

 

主よ、わたしたちを導いてください。

 

わたしたちを教会の交わりに加えてくださり感謝いたします。どうか、この交わりの中で、兄弟姉妹の信仰の証しを聞き、また正直に自分の思いを打ち明ける中で、ご復活なさった主に出会い、イエスさまを「わが主、わが神」と信じる信仰が与えられますように。弱く不信仰な私たちに、何度でも何度でも出会ってくださる、十字架と復活の救い主イエスさまのお名前によって祈ります。アーメン

 

あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るように。アーメン