yukaina_gorilla’s diary

ごりらぼくし(大麻ルーテル教会/北見聖ペテロ・ルーテル教会)です。聖書や教会のこと、社会のこと、ペットのことなど書いていきますね。

2017年5月7日 礼拝メッセージ

復活節第4主日 よい羊飼いの主日 2017年5月7日

 

「命がけの愛」

ヨハネによる福音書10章1~16節)

 

わたしたちの父である神と、主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなたがたにあるように。アーメン

 

今日、私たちが歌います教会讃美歌328番は、私が最も好きな愛称賛美歌です。礼拝でこの賛美歌が歌われるときには、いつもお話していることですが、もし、私に何かあった時、つまり、私のこの世の生涯が終わる時には、ぜひこの賛美歌を私の葬儀で歌っていただきたいと思います。

 

もちろん曲も素敵なのですが、歌詞が好きです。特に三節です。「わが主はすべてを赦したまい、涙をぬぐいて迎えたもう。まきばの羊はみうでに抱かれ、あふるる主の愛、我に尽きず」。イエスさまがいろんな問題を抱える私のすべてを赦してくださる。いろんな悲しみや痛みの中で私が流す涙をイエスさまご自身がぬぐってくださる。そして、私のことを迎えて入れ、しっかりと抱きしめてくださる。そのイエスさまのあふれる愛は決して尽きることがない。このことに深く感動をいたします。そうした主の羊の群れの中に、二節にあるように、「まずしきこの身」も加えられていることに、心から感謝をします。

 

さて、今日、私たちは復活節第4主日の礼拝をしています。この日は、伝統的に「よい羊飼いの主日と呼ばれてきました。そして、この日の礼拝では、復活なさったイエスさまが、私たちにとってのよい羊飼いであり、また、私たちはそのイエスさまに導かれる羊であることを受け止める日とされてきたのです。

 

私たちも今日、それらのことについてみことばを通して受け止めたいのですが、そのためにまず羊とはどういう動物であるのかということについてお話しさせていただきたいと思います。礼拝のメッセージ・説教を準備する際に、いつもは聖書について書かれている注解書を参考にするのですが、今日はインターネットで羊の生態について調べてみました。今は何でもこのようにネットで簡単に調べられるので、とても便利ですが、そこには、羊は群れで生活をし、群れを離れるとストレスを感じるということと、羊はたいへん臆病な動物であり、危険があるとすぐにパニックになってしまい、群れの中で一匹がそのようにパニックになると、群れ全体がパニックになってしまうということと、羊は目が左右に離れていて広い視野を持つが、しかしその左右の視野の重なる部分以外は奥行きの認知がうまくできない、また、近眼である、そしてもちろん後ろは見ることができないなどということが書かれていました。そのような生態を持つ羊でありますが、羊たちが安全に、また安心して暮らせるために、その羊の群れを導く羊飼いが大事な役割を果たすわけです。

 

群れから羊が離れないように羊飼いは見守り、群れから離れた羊のことを連れ戻す。パニックにならないように、羊を外敵から守り、外敵が現れた場合には、羊たちを守るためにその外敵を追い払う、時には戦う。遠くや後を見ることができない羊たちの目の代わりとなる。羊飼いは、そうした働きを、するのです。

 

このように、羊の生態を通して羊飼いの役割を考えてみると、イエスさまが、私たちにとってのよい羊飼いであるということ、また私たちがよい羊飼いであるイエスさまに導かれるということが、どういうことかわかってくると思います。まず、私たちが羊であるということを考えてみたいのですが、私たちは羊のように群れで生活するというと、あまりしっくり来ないかもしれませんが、神さまははじめの人アダムを創られた際に、「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう」とおっしゃり、そのパートナーとしてもう一人の人エバを創られました。このように、人は、その初めより、自分だけで孤独に生きるのではなく、独りでは生きていけない存在であり、人とかかわり、助け合って、ともに生きる存在として生かされているというのが、聖書の大切な考え方です。また、神さまを信じる信仰という点からも、自分独りで修行しながら、あるいは一人で一所懸命勉強しながら信仰生活を送るというようなことよりも、旧約聖書では神さまに選ばれたイスラエルの民として、また、新約聖書ではイエスさまを信じて従い、恵みを分かち合って生きる教会の中で、そうした共同体の出来事として位置付けられています。ですから、群れとして、その群れの一員として生かされるというのが、聖書の中の信仰の在り方と言えるでしょう。そうした私たちですが、元来、羊のようにとても臆病な存在なのです。自分の身に何かが起こると、ちょっとのことで、信仰のパニックになってしまいます。そして、それが独りだけでなく、信仰共同体の群れ全体にも大きな影響を与えて、みんなにパニックが広がってしまう。そうした存在なのです。教会の中で、ある独りのメンバーに何か問題が起こった際に、その人だけでなく、みんなが動揺し、教会が揺れ動いてしまうということは、少なくありません。そして、よく周りが見えていると思っていながら、実は近くしか見えていない、あるいは自分に見えていないところがあるというのも、私たちが羊と同じ姿です。でも私たちは、自分こそ何もかもわかっているというような勘違いをしてしまって、自分には見えていない、見落としていることがあるということをどこかで忘れてしまっているのです。そうした私たちであるからこそ、私たちを導いてくださる、よい羊飼いが必要なのです。よい羊飼いに導かれることがなければ、私たちは安全に、安心して生きていくことはできません。

 

ところで、イエスさまは今日、「わたしはよい羊飼いである」とおっしゃっていますが、そのことをおっしゃる前に、羊の門についてお話しされ、そして、「わたしは羊の門である」ともおっしゃっています。羊たちは、羊飼いに導かれて、ちゃんと決められた門を通って出入りをして、羊飼いに見守れながら、安心して野原で牧草を食んで過ごすのです。しかし、ちゃんとした門を通らず、違うところを出入りするならば、羊たちは、迷ってしまうでしょうし、羊泥棒にどこかに連れて行かれたり、野獣に襲われたりして、命が危うくなるでしょう。私たちも同じなのです。イエスさまという門を出入りするならば、私たちは安心して平和に過ごすことができます。でも、そのイエスさまから離れて違うところに出入りしようとするなら、どこか別のふさわしくないことに心奪われて、迷ってしまい、そして、結局は自分の身を滅ぼしてしまうのです。このことに、「いや、自分は大丈夫だ、ちゃんとイエスさまのもとを歩んでいる」と言い切ることができる人は、きっと少ないでしょう。私も、「大丈夫だ」とは決して言えない一人です。イエスさまと離れてしまって、イエスさまとは違ったところを出入りしている、歩んでいることが多いなと思わされます。そして、いろんなことに心奪われて、本来歩むべき道からそれて迷い、身を滅ぼしてしまう、そうした私たちなのです。

 

旧約聖書イザヤ書53章6節に「わたしたちは羊の群れ。道を誤り、それぞれの方角に向かって行った」という言葉があります。ヘンデルの作品である「メサイア」の中でも、このみことばをもとにしたコーラスが含まれているのですが、このところの曲が全然深刻な感じではなく、むしろ、とても明るく楽しそうな曲であることを、印象深く思います。人は、本来あるべき道、今日のみことばで言うなら、イエスさまという門を出入りするのではなく、道を誤って、そのイエスさまのもとを離れて、それぞれ別の方角に向かって行くときに、最初は全然深刻な様子ではなく、むしろそれを楽しみながら、喜びながらしてしまうものだということを、その曲を聴きながら考えさせられるのです。そして、そうしているうちに迷ってしまい、もはや戻れなくなってしまって、結局は身を滅ぼしてしまう者なのです。

 

そのような迷える羊である私たちにイエスさまはおっしゃいます。「わたしはよい羊飼いである。よい羊飼いは羊のために命を捨てる」と。イエスさまは、羊のために、つまり私たちのために、命を捨てる、よい羊飼いであると、おっしゃいます。そして、事実、イエスさまは、自ら十字架を引き受けられて、苦しみ、死なれて、自分の命を捨てられたのです。それはなぜでしょうか。「わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである」と、イエスさまは今日おっしゃっています。私たちが命を受け、生き生きと豊かに生かされるために、イエスさまは、ご自分の命を捨てられるとおっしゃったし、事実、その通りになさったのでした。

 

私たちは、自分から目先の楽しさに心奪われ、イエスさまのもとを離れて、もはや戻れなくなって、その結果、身を滅ぼしてしまう、そうした歩みをしていました。それは、言うならば、自業自得、身から出た錆にほかなりません。滅びてしまっても仕方がない、それに対して何も言えず、甘んじてそれを受け入れなければならない私たちなのです。でも、イエスさまは、私たちがそのようにイエスさまのもとを離れて、結果として身を滅ぼしてしまうことを、そのまま放っておくことはなさいませんでした。今日のみことばは、ヨハネ福音書10章ですが、そのあとの11章では、あのラザロの復活の出来事が伝えられています。ちょうど一か月前の4月の初めの礼拝で聴いたみことばでありますが、そこではラザロが亡くなったことを聞き、イエスさまご自身涙を流され、また、そのことにみな悲しんでいる姿をご覧になり、そのように人を悲しませる死の力に対して憤られたイエスさまの姿が伝えられています。そして、イエスさまは、ラザロを生き返らせるわけですが、イエスさまは、ご自分の羊である私たちが身を滅ぼしてしまうことにも悲しまれ、そのように私たちを仕向ける力に対して憤られるお方です。そして私たちをそのままに放っておかれることは、よい羊飼いであられるイエスさまはなさいません。「ラザロ、出てきなさい」とおっしゃって、墓の中で朽ち行くラザロを死から呼び出して再び生きる者とされたように、世の楽しみに心奪われ、イエスさまを離れて、身を滅ぼしつつある私たちにも、何度でも「生きよ」「豊かに生きよ」と呼びかけ、十字架の上から、ご自分の命と引き換えに新しい永遠の復活の命を差し出してくださるのです。

 

今日のみことばには、羊たちが羊飼いの声を知っているので、先頭に立っている羊飼いについて行くということが語られています。イエスさまを先頭にして、そのイエスさまについていき、イエスさまの声に聴き従いながら歩む姿です。その群れの中に、私たち一人ひとりも加えられています。イエスさまの声、つまり、イエスさまが語られるみことばに聴き従いながら生かされる私たちです。そのようにイエスさまのみことばに聴き従って歩むとき、私たちはイエスさまの導きのもと、豊かに生きる命の道を歩むことができるのです。しかし、このことは、同時に、私たちが、イエスさまのみことばに聴くことをやめるとき、また再び、世の楽しみに心を奪われ、そして、迷い出て、身を亡ぼす道を歩んでしまうことをも表しています。私たちは、いつもその危険に晒されていますし、弱い私たちはいつもその危険に陥ってしまいます。イエスさまのみことばに聴き従うことが大切、そこから離れると、それは滅びに至る道である、頭ではそのことを十分にわかっていても、しかし、ついみことばから離れて、イエスさまのもとを離れ、違った方向へ向かって行ってしまうのです。先ほどのヘンデルメサイアではありませんが、意気揚々と喜びながらその道を私たちは進んでしまいます。何度でも何度でもそのことを繰り返してしまうのです。そして、気づいたころには、もはや戻ることができず、パニックになってしまう。けれども、イエスさまは、そのたびに私たちに呼びかけてくださいます。私たちを探し出し、「生きよ、立ち返って、豊かに生きよ」そう呼び掛け、連れ戻してくださいます。それが、命がけで私たちを愛してくださるよい羊飼いイエスさまです。

 

さて、今日のみことばの結びで、もう一つとても大切なことを、イエスさまはおっしゃっています。「わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない。その羊もわたしの声を聞き分ける。こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる。」このように、イエスさまは、囲いの外にいる羊、つまり、まだイエスさまのもとに導かれていない羊をも導いてくださるとおっしゃいます。そして、みんなが同じ一人の羊飼いイエスさまに導かれ、一つの群れとなると約束されるのです。これはとても大きな希望に満ちた、みことばです。私たちは、そのことを信じて、よい羊飼いイエスさまの声をみんなに届けて、みんながイエスさまによって導かれる羊の群れとして、ともに歩むことができるようになるために、仕えることができることを心から願います。

 

主よ、私たちを導いてください。

 

羊飼いイエスさま、私を探し求め、そして、赦し、イエスさまの群れの中に連れ戻してくださり感謝いたします。いつも迷ってしまう私ですが、羊飼いイエスさまの御声に聴き従って歩むことができますように導いてください。イエスさまの御声がすべての人に届けられますように。そのために私たちを用いてください。イエスさまのお名前によって。アーメン

 

永遠の契約の血による羊の大牧者、わたしたちの主イエスを、死者の中から引き上げられた平和の神が、御心に適うことをイエス・キリストによってわたしたちにしてくださり、御心を行うために、すべての良いものをあなたがたに備えてくださるように。栄光が世々限りなくキリストにありますように、アーメン。