yukaina_gorilla’s diary

ごりらぼくし(大麻ルーテル教会/北見聖ペテロ・ルーテル教会)です。聖書や教会のこと、社会のこと、ペットのことなど書いていきますね。

2017年5月14日 礼拝メッセージ

復活節第5主日 2017年5月14日

 

「開かれた永遠の道」

ヨハネによる福音書14章1~14節)

 

わたしたちの父である神と主イエス・キリストから恵みと平和があなたがたにあるように。アーメン

 

先月、私は、引越しをしました。その際に、子どもが小さかったときのものなど、いろいろと発掘されて、なかなか捨てられない思いになりました。しかし、それらすべてを新しい住まいに持っていくわけにもいきませんでしたので、泣く泣く、多くのものを処分しました。そうすると、そのように処分するものが、ゴミ袋にして何十袋にもなり、さらに実家に持っていってもらい捨ててもらったり、あるいはゴミ処分場に運んだりして、本当にものすごい量になりました。私はゴミの中をゴミとともに暮らしていたのかという思いになったのですが、そのように多くのものを所有して生活している私たちです。巷では、「断捨離」という言葉が流行っていますが、私たちがもし自分の所有しているものをすべていつまでも大切にとっておくなら、どんどんとものが増えていくばかりで、時には、思い切って、ものを処分するということは大切だし、必要なことだと、今回感じました。

 

また、「終の棲家」という言葉があります。人生の晩年を迎え、最期のとき、死の時まで暮らす場所のことです。現代、高齢社会また核家族化の中で、なかなか自宅で最期を迎えるということは難しく、施設や病院でそのときを迎える人が多いのが実情かもしれません。もちろん在宅で、つまり自分の家や、家族の家で、その時を迎える人もいます。あるいは、人によっては旅先でそのときを迎えるということもあるでしょう。ちなみに、今年は宗教改革500年ですが、マルティン・ルターは、旅先で最期の時を迎えました。このように、私たちには、自宅か、病院や施設か、あるいは旅先か、その他の場合もあるでしょうが、それぞれ人により死ぬ場所の違いはありますが、いずれも共通していることは、「終の棲家」は、やがてはそこを死により離れなければならない限りある場所で、私たちにとって永遠の棲家ではなく、仮の棲家だということです。そして、先ほどの話とあわせて考えるなら、私たちがどれだけたくさんのものを持っていても、それを死んだ後にまで、俗な言い方をするなら冥途の土産として持っていくことはできません。旧約聖書ヨブ記に、「わたしは裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう」という言葉がありますが、まさに、限りある命を生かされている私たちが、この世の仮の棲家を離れるとき、今、所有しているそのすべてを手放さなければならないのです。

 

さて、今日、イエスさまは、私たちが住む所についてお話されます。「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。 わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。 行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。わたしがどこへ行くのか、その道をあなたがたは知っている。」 このように、イエスさまは今日、父の家、すなわち、天の神さまのみもとで私たちのために住むところを用意してくださるとおっしゃいます。今日のメッセージを準備していて、今まであまり気づかず、今回、新たに興味深く思ったのは、用意される家は「父の家」、つまり神さまが住んでおられるその家、ただ一軒だけだということです。その一軒の神さまの家に、私たちの住む所がたくさんあるというのが、今日イエスさまがおっしゃっていることでしょう。つまり、ひとつの家での共同生活です。

 

私の息子は現在、アメリカに留学しています。現地では、何人かの留学生と、ひとつの家の中で暮らしています。そういう家を、シェアハウスというのでしょうか。私たちの神さまのみもとでの天の住まいも、神さまがオーナーである一軒の家に一緒に暮らすシェアハウスということになるでしょうか。最初、私はそんなことをイメージしたのですが、考える中で「あ、違う、そうじゃないな」と気づきました。と申しますのは、私たちは「神のひとつの家族」だということに気づかされたのです。ですから、私たちは、神さまのひとつの家に暮らす兄弟姉妹なのです。この世の中の現実を見るなら、兄弟姉妹といっても、いろんな葛藤があります。あまり関係がうまくいかないという場合もあるでしょう。世界を見渡すならば、多くの争いがあり、私たちの身近でも同様かもしれません。でも、イエスさまは、そんな私たちが、天の神さまのみもとで、一つ屋根の下で、同じ釜の飯を食う、ひとつの家族として暮らすことができるように用意してくださるとおっしゃいます。この世の中ではなかなか一つになれなくても、イエスさまが和解させて、その仲を修復してくださり、神のひとつの家族として改めて固い絆、深い愛で結び合わせてくださるのです。

 

さて、この家は、この世の限りある仮の棲家とは異なる、決して失われることのない永遠の家です。私たちルーテル教会では、この世の生涯を終えて、天に召された方々を記念する召天者記念の祈りの習慣があり、それをいつ何度行ってもよいとされています。ですから、亡くなって数日後に行う場合、あるいは50日や一年、三年の節目に行う場合、さまざまですが、これは日本の仏教の法事と似たようなものと理解してよいでしょう。その召天者記念の祈りの際に、司式をする牧師と、集まった会衆のみなさんで交互に唱える祈りをするのですが、その祈りの中で会衆のみなさんが「私たちは、今住んでいる地上の幕屋が壊れても、神が備えてくださる家があることを知っています。」「それは、人の手によらない永遠の家です。」と唱えます。幕屋とは、テントのことです。私たちが地上で暮らすところ、また私たち自身のこの体も、それは必ずいつか壊れて、そこを去らねばならないけれども、でも私たちのいのち、私たちの人生はそれで終わるわけではない。神さまが備えてくださる家があることを、私たちは知っている。しかもその家は、この地上での仮住まい、幕屋、テントとは違って、何があっても決して失われることのない永遠の家であると、私たちは天に召された兄弟姉妹を記念する際に心に刻むのです。私たちが決して尽きず、朽ちず、失われたり壊れたりすることもない、永遠の家、それは人の手によらず、神さまの側で、今日のみことばで言うならば、イエスさまが用意してくださる家なのです。

 

この地上でイエスさまの父親となったヨセフは、大工でした。そして当時の生活を考えるなら、息子であるイエスさまも、ある程度の年齢になった際、父の家業である大工を手伝っておられたであろうと考えられます。そうであるなら、イエスさまが天の御国で神さまの家をリフォームして、私たちが永遠にそこで生活できる家となるように用意してくださるというのは、イメージすると、なんだかほんわかした感じがしていいなぁと思うのですが、しかし実際には、ただそうしたほんわかしただけの出来事ではありませんでした。イエスさまは、今日「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」とおっしゃっています。先週も少しお話しいたしましたが、イエスさまがヨハネによる福音書の中で「わたしは~である」と自分のことをおっしゃるとき、それは、「ほかの誰でもなく、わたしこそ~なのだ」という、とても強い意味が込められています。つまり、イエスさまは今日、「ほかの誰でもなく、わたしこそ道であり、真理であり、命なのだ」といった感じで、この言葉をおっしゃっているのです。そして、イエスさまは、決して根拠なしに、ここで「わたしこそが道であり、真理であり、命なのだ」と、力をこめておっしゃっているわけではありません。ちゃんとした根拠があります。今日のヨハネ福音書14章のみことばは、13章ないし14章から始まり、16章ないし17章まで続く、たいへん長い、イエスさまの告別説教と呼ばれるお話の一部です。イエスさまは、弟子たちに、この長い説教をなさった後、捕らえられ、翌日には十字架にかけられて処刑されてしまいます。ですから、ご自分の十字架と死を見据えて、その決意のうちに、イエスさまは、この告別説教を語り、今日のみことばもそうした中で語られたものです。そのイエスさまが、「ほかの何者でもなく、わたしこそが道であり、真理であり、命なのだ」とおっしゃっているのです。

 

永遠の住まいに至る道は、イエスさまのほかの誰によっても整えることはできません。私たちがどれだけ頑張って努力しても、自分でそれを得ることは無理なことです。迷い込み、挫折し、重荷に押しつぶされそうになってしまいます。でも、イエスさまが、その道を、ご自身の十字架と苦しみと死によって、切り拓いてくださいました。ですから、私たちにとって、イエスさまこそがただ唯一の道です。そして、そのようにして、自分のためにではなく、ただただ私たちのためにすべてをささげ、命すら惜しまなかったイエスさまこそが、私たちにとって、この世の他のどんなものにも変られない、唯一の真理です。さらには、私たちが永遠の住まいで、豊かに命を受けて生きることができる、まことの命、永遠のいのちは、私たちは、ただイエスさまにだけ見出すことができ、ほかのどこにも見出すことはできません。このように、イエスさまこそ、唯一の道であり、真理であり、命である、それは、私たちが十字架のイエスさまを見上げるとき、「アーメン、確かにそのとおりです」という思いが与えられます。

 

その思いこそ、今日イエスさまがおっしゃる、「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。」というみことばから、私たちが受け止めるべきことであると思います。ただイエスさまの十字架のみに、永遠の住まいに至る道があり、真理があり、命がある、私たちは、そのことを安らかに信じて生きるのです。自分自身を見るとき、私たちは大きな不安に陥ります。この世界を見るとき、私たちの心は大きく動揺いたします。でも、私たちには、ただそのように自分自身や世界を見るだけではない、もうひとつの見るべきたしかなものが与えられている。それが、イエスさまの十字架です。私たちが、イエスさまの十字架を見るとき、たとえどれだけ自分が頼りない存在でも、また、この世界がいかに猛り狂っても、「いや、大丈夫、イエスさまの十字架によって拓かれた道は決して失われない、イエスさまの十字架で示された真理は決して滅びない、イエスさまの十字架によって与えられた命は決して奪われることはない」、私たちはそのことに信頼して立つことができるのです。

 

今日イエスさまは繰り返し「信じなさい」とおっしゃっていますが、これは、「信じなければだめだ」と、私たちを強いたり脅したりする言葉ではありません。「たとえ、あなたやこの世界に何があっても、なおもあなたには神を、そして私を信頼していればいいんだよ」という招きの言葉です。「わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」というみことばも、「イエスさまを通らない人は神のみもとに行くことはできない」という排他的な言葉ではありません。私たちの道となり真理となり命となられたイエスさまによって、誰にでも、つまり、すべての人に永遠の住まいが整えられ、その道が開かれたという約束を告げる言葉です。

 

ルターは、国会という公の面前で、彼に反対する当時の教会の指導者たちから、彼が宣べ伝えていた福音のメッセージを取り消すように命じられ、取り消すならばあなたの安全は守られる、逆に言うなら、取り消さないなら、あなたの命の保障はないと言われたとき、信仰と良心のゆえに、それを拒み、「われここに立つ」と、力強く宣言をいたしました。私たちも、ルターと同じです。「われここに立つ」、私たちが、イエスさまの十字架に立つとき、たとえこの世のもののどんなものを失っても、先ほどヨブの話をしましたが、「わたしは裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう。主は与え、主は奪う。主の御名はほめたたえられよ」と、声高らかに主を賛美して生きることができるのです。ルターも、あのルーテル教会宗教改革のテーマソングとも言える賛美歌、教会賛美歌450番「力なる神は」の最後のところで次のように歌います。「わが命も わが妻子も 取らばとりね、神の国は なお我のものぞ。」

 

たとえこの世のものがすべて失われ、すべてを断捨離しなければならなくなっても、私たちには、決して失われない、イエスさまが私たちのために命がけで用意してくださった、永遠の住まいの居住権が与えられ、その永遠に至る道を歩むことが許されています。そのことに感謝して信頼して、この地上の限りある仮の棲家での生活を続けてまいりましょう。

 

主よ、わたしたちを導いてください。

 

神さま、御子イエスさまが、十字架によって、道となり真理となり命となって、永遠のすまいへとわたしたちを導いてくださったことを感謝します。どうか、自分自身やこの世の騒ぎに不安になったり動揺したりするとき、ただひたすらイエスさまの十字架を見上げ、力と平安をいただくことができるように導いてください。十字架にかかり復活なさった、永遠のいのちの救い主イエス・キリストによって祈ります。アーメン

 

あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るように。アーメン