yukaina_gorilla’s diary

ごりらぼくし(大麻ルーテル教会/北見聖ペテロ・ルーテル教会)です。聖書や教会のこと、社会のこと、ペットのことなど書いていきますね。

2017年5月21日 礼拝メッセージ

復活節第6主日 2017年5月21日

 

「もう独りじゃない」

ヨハネによる福音書14章15~21)

 

わたしたちの父である神と、主イエス・キリストからの恵みと平和があなたがたにあるように。アーメン

 

みなさんもご存じと思いますが、宮﨑駿というアニメーション作家で映画監督、また漫画家がいます。彼が引退を撤回して、新しい映画を作る、そのためのスタッフを募集するという報道がなされていました。彼は、今までも、引退すると言っては、引退してしばらくしていると、創作意欲が沸いてくるのでしょうね。引退を撤回して、新しい作品を作るということを繰り返してきました。ですから前回の引退の際にも、またいつ活動を再開するかと多くの人たちが話し、ふざけて「オレオレ詐欺」ならぬ「やめるやめる詐欺」なんて言われていました。でもそのように引退の撤回を繰り返すからと言って、世間から非難の声があがることはなく、引退撤回をみんなで喜び、次はどんな作品になるかと楽しみにするという、愛されるキャラクターです。彼の作品で有名なものがたくさんありますが、今日はその中の一つ、となりのトトロのお話をしたいと思います。

 

http://quiizu.com/wp-content/uploads/2016/04/213833181.jpg

 

主人公は、サツキとメイという二人の女の子です。彼女たちは姉妹ですが、お母さんが病気で、空気と環境のよい田舎に入院するのに伴い、お父さんとその田舎に引っ越してくるのです。彼女たちは、お母さんが家にいないことへの寂しさと、お母さんの病気が悪く、もしかしたら死んでしまうかもしれないという不安や恐れの中で新しい生活をはじめます。二人のうち、妹であるメイは、天真爛漫で、言いたいことをすぐに言葉にしたり、やりたいことをすぐに行動にしたりするタイプでした。それに対して、姉であるサツキは、どこかで自分はお姉ちゃんだからしっかりしないといけないという思いがあるのでしょう。言いたいことや、やりたいことを我慢して過ごすタイプでした。そんな二人は、一緒に助け合いながら過ごしていても、やはりそれぞれ悲しみや寂しさを募らせていきます。そして、もう限界、もう無理と言ったときに、二人のもとに現れたのは、あるお化けのような、妖精のような存在でした。それは北欧の言葉で、トロールという名前のものでした。メイがそれを聞き間違えて、トロールではなく、トトロと呼ぶようになりました。本来トロールは恐ろしいものですが、サツキとメイのもとに現れたトロール、トトロは、見た目はたしかに怪しげな感じだけれども、実はとても優しく、サツキとメイに勇気を与え、彼女たちの隣にいて助けてくれる存在でした。二人は、そんなトトロによって癒され、励まされていきます。泣き虫メイも心強くされていきますし、お姉ちゃんであらねばといろいろ我慢していたサツキもトトロの前では素直な一人の子どもとして生きていくことができるようにされるのです。そして、最後は、お母さんのお見舞いに行ったけれど、お母さんに会わず彼女たちは病院を後にします。これは、トトロの助けによって、サツキとメイの心が元気になって、「お母さんは必ず病気が治って退院する、だから自分たちは助け合って生きていけば大丈夫」という気持ちになった、そのような彼女たちが少し大人になって自立した姿を伝えていると考えられます。

 

さて、トトロのお話が長くなりましたが、なぜ今日このお話から始めたかと申しますと、今日、イエスさまがお話しされているある一つの言葉、それがこのトトロととても似ていると感じたからです。イエスさまはおっしゃいました。「わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。」先週もお話しいたしましたが、これはイエスさまが十字架にかかり死なれる前にお話しされた長いメッセージ、いわゆる告別説教と呼ばれるものの中の1節です。ここで、イエスさまは、ご自分に従ってきた弟子たちのために、また、私たちのために、神さまにお願いをして、「弁護者」を遣わしてくださるようにしよう、そして、その弁護者が私たちと永遠に一緒にいてくださるようにしようと、お話しされます。この「弁護者」と訳されている言葉ですが、これはギリシア語「パラクレートス」という言葉で、直訳するならば、「傍ら(すぐ隣)に呼び出された者」「傍ら(すぐ隣)で呼びかける者」という意味で、聖書によっては、「助け主」だとか、「慰め主」だとか、そのような日本語に訳されています。私たちのすぐ隣にいて呼びかけて、助けてくださり、慰めてくださる存在です。サツキとメイが、もう限界、もう無理と思ったとき、彼女たちのすぐ隣にトトロが現れて、彼女たちを励ましたり、慰めたり、助けてくれました。私たちの信仰の歩みにも、そのように私たちのすぐ隣で私たちと一緒にいて、私たちを慰め、助け、私たちが信仰生活を送れるように導いてくださる存在を、神さまが遣わしてくださる、そのために、イエスさまは神さまにお願いしてくださると、今日のみことばでおっしゃっているのです。

 

エスさまは、その際に、ただ「弁護者を遣わす」というのではなく、「別の弁護者を遣わす」ようにしてくださるとおっしゃいました。「別の」というのですから、もともと弟子たちには、彼らにとっての弁護者、彼らのすぐ隣におられる、助け主、慰め主が既に与えられていたということを表しています。それは誰なのかということですが、それは、今日弟子たちにお話しなさっているイエスさまご自身でありました。これまでは、イエスさまご自身が、彼らのすぐ隣にいて、彼らを励まし慰め助けてくださっていたのです。でも、イエスさまは、間もなく捕えられ、翌日には十字架にかけられて殺され、彼らのもとを去らねばなりません。イエスさまはそのことを知っておられました。もちろんその後に、復活というたいへん大きな出来事が起こるのですが、しかし、たとえ復活なさってもイエスさまはずっと彼らのもとにおられるのではなく、やがては天の御国へと帰らねばならない。そのこともイエスさまは受け止めておられえました。ですから、それらのことを見据えつつ、たとえ、この地上で弟子たちが、そして私たちが、もうわたしと離れてしまっても、わたしは、「あなたがたをみなしごにはしておかない」つまりあなたがたをもう独りぼっちにはしておくことはない、あなたがたのために、わたしと同じ働きをする弁護者、助け主、慰め主、あなたのすぐ隣であなたと一緒におられる存在を遣わしてくださるように、神さまにお願いしてくださると、お話しされるのです。

 

エスさまは、「あなたがたのところに戻ってくる」とも今日お話しされています。また、「しばらくすると、世はもうわたしを見なくなるが、あなたがたはわたしを見る。わたしが生きているので、あなたがたも生きることになる。かの日には、わたしが父の内におり、あなたがたがわたしの内におり、わたしもあなたがたの内にいることが、あなたがたに分かる。」ともお話しされています。これは、きっと2つのことを意味しているであろうと考えられます。

 

まずは、イエスさまのご復活の出来事についてお話しされていると考えられます。十字架にかかり亡くなってしまい、彼らのもとを去ってしまわれるイエスさまですが、ご復活によって、また彼らのもとに戻ってこられる、そして、彼らは再びイエスさまを実際に自分の目で見ることができるようになる、そして私たちが永遠に生きることができるために命を与えてくださる、このことが、まずここで告げられていると考えられます。

 

しかし、先ほども申しましたように、復活なさったイエスさまは、そのままのお姿でずっと地上に留まり続けるわけではありません。もし、そうであったならば、私たちはイエスさまに会うために、あのパレスチナの地まで行かなければならなくなるでしょうし、そもそもイエスさまが世界のみんなの救い主とはなり得なかったでしょう。それゆえ、ご復活なさったイエスさまは、ずっと地上に留まり続けるのではなく、天の御国へとやがて帰られて、再び弟子たちのもとからいなくなってしまうのです。彼らはまた独りぼっちになってしまう。でも、イエスさまは、別の弁護者、助け主、慰め主を遣わして、真理の霊として、弟子たちのもとへ、そして、私たちのもとへ戻ってきてくださると、おっしゃるのです。そして、たとえ、もう私たちの肉眼ではイエスさまのことを見ることはできなくても、イエスさまは確かに生きておられ、私たちが永遠に生きるための命を与えてくださること、また、私たちがイエスさまのうちにおり、イエスさまも私たちの内におられるということ、すなわち私たちが決してみなしごとなることはなく、もはや独りぼっちではない、必ず主が私たちとともにおられると信頼して生きることができるようにしてくださると約束なさるのです。

 

私たちは、このようにイエスさまのたいへん暖かな配慮の中を生かされています。イエスさまは私たちの目には見えなくても、私たちのためにちゃんとすべてを整えてくださっているのです。私たちは、普段はそんなこと気づかずに過ごしているかもしれません。でも、サツキとメイがもう限界、もう無理といった、そんなギリギリのところで、彼女たちのすぐとなりにトトロがいることに気づき、トトロに助けられていることを知るように、私たちはたとえ普段は気づかなくても、私たちのギリギリのところ、もう限界、もう無理というとき、私たちのすぐ隣で私たちを助けてくださり慰めてくださる、真理の霊として、私たちとともにおられるキリストの存在に気づかされたいと願います。

 

今日もう一つ、イエスさまはとても大切なことをおっしゃっています。「わたしの掟を受け入れ、それを守る人は、わたしを愛する者である。わたしを愛する人は、わたしの父に愛される。わたしもその人を愛して、その人にわたし自身を現す。」ここでイエスさまは「わたしの掟」ということをお話しされます。イエスさまの掟とは何でしょうか。それは、今日のみことばは、ヨハネ福音書の14章ですが、前の章の13章で伝えられています。13勝の34節です。「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」そのようにイエスさまは、従う者たちに、新しい掟を与えられました。そして、それがどんなことを示すために、同じ13章では、イエスさまが弟子たちの足を洗われた出来事が伝えられています。人に仕えて生きる、人の嫌なことを引き受けて生きる姿を、愛する歩みとして示されるのです。また別の個所では、「友のため自分の命を捨てること、これ以上大きな愛はない」とお話しされました。「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。たが、死ねば多くの実を結ぶ」ともお話しされています。私たちが、イエスさまの掟を受け入れ、それを守って生きるとは、イエスさまが教えられたように、人を愛し、人に仕え、人の嫌なことを引き受け、人のために自分の命をささげ、一粒の麦としての生き方をするということでありましょう。

 

このことを口で言うのは簡単ですが、実際には、そうした生き方をすることは、私たちにとってなかなか難しい、できないことだと思わされます。でも、イエスさまは今日、そのように私たちが難しさを感じ、できないながらも、なおもイエスさまの愛を志して生きようとするときに、神さまが弁護者、助け主、慰め主を送ってくださるよう、イエスさまがお膳立てをしてくださると約束なさるのです。私たちには、自分の力では、人を愛し、人に仕え、人の嫌なことを引き受け、人のために自分の命をささげる、そうした一粒の麦としての生き方がなかなかできなくても、でも、私たちと共におられる弁護者が、私たちがそうした歩みができるように助けてくださる、その歩みを励まし慰めてくださるのです。

 

その時、私たちはこの世の中で、小さなキリストとして生きる者とされます。もはやイエスさまは、天に帰られて、この世で私たちの肉眼でイエスさまのことを見ることはできません。でも、私たちが、助け主、慰め主に導かれて、また、励まされ押し出されて、イエスさまの愛の掟に従う歩みをしていこうとする中で、この世の人々は、私たちを通してイエスさまを見ることができるのです。私たちが小さなキリストとされて、この世の中に遣わされるのです。

 

よくキリスト教で葬儀がある時、「何々さんはキリストだったものね」などと話されます。もちろんその人が実際にキリストであるということではなく、キリスト教信仰に生きておられたということを意味する言葉ですが、でも私たちは世間の人たちから「あの人キリストだものね」そんな風に見られていることは印象深いことです。私たちが、神さまが送ってくださる弁護者に助けられ、イエスさまの愛に生きる中で、名実ともに小さなキリストとしてこの世の生涯を送ることができればと願います。

 

主よ、私たちを導いてください。

 

私たちを一人としないために、私たちの助け主・慰め主を送ってくださることを感謝します。どうか私たちの信仰の歩みを助け支えてくださり、私たちがイエスさまの愛の掟を志して、小さなキリストとしてこの世で生きていくことができますように、真理の霊によって私たちを世へと送り出してください。イエスさまのお名前によって祈ります。アーメン

 

希望の源である神が、信仰によって得られるあらゆる喜びと平和とであなたがたを満たし、聖霊の力によって希望に満ちあふれさせてくださるように。アーメン