yukaina_gorilla’s diary

ごりらぼくし(大麻ルーテル教会/北見聖ペテロ・ルーテル教会)です。聖書や教会のこと、社会のこと、ペットのことなど書いていきますね。

2017年5月28日 礼拝メッセージ (主の昇天)

昇天主日 2017年5月28日

 

「永遠の祝福」

(使徒言行録1:1~11・ルカ福音書24:44~53)

 

わたしたちの父である神と、主イエス・キリストから恵みと平和があなたがたにありますように。アーメン

 

今日は主の昇天、イエスさまが天に昇られたことをお祝いする礼拝です。私たちはこのように日曜日に、イエスさまの昇天をお祝いする礼拝をしておりますが、実際には主の昇天日その当日は、今日ではなく、この前の木曜日でした。この主の昇天日当日が木曜日であるということには、実は、ちゃんとした聖書的な根拠があります。

 

今日の第一朗読使徒言行録1章の3節に、「イエスは苦難を受けた後、御自分が生きていることを、数多くの証拠をもって使徒たちに示し、四十日にわたって彼らに現れ、神の国について話された」とあります。そして、その後に、イエスさまが天に昇られた出来事が伝えられているわけですが、この「四十日にわたって」というのが、主の昇天日が木曜日であることの根拠となるキーワードなのです。では、何から数えて「四十日にわたって」なのでしょうか。そうです。それは、イエスさまが復活なさったあの日曜日の早朝から数えて「四十日」なのです。一週間は七日間ですから、40を七で割ると、5あまり5となります。ですので、復活祭の5回後の日曜日から数えて5日目、日月火水木ということで、イエスさまは復活なさって40日目の木曜日に天に昇られ、よって主の昇天日は毎年木曜日ということになります。海外、特に欧米では、この主の昇天は大きなお祝いがなされるそうです。しかし、日本では、キリスト者は少数で、イエスさまの昇天を国を挙げてお祝いするということにはなりませんし、イエスさまを信じている信仰者たちもまた、その木曜日平日に教会に集まって、イエスさまの昇天をお祝いするということが難しい現実があります。ですので、そのお祝いを、もちろん木曜日当日におこなってもよいけれども、その直後の日曜日に振り替えて、昇天主日として礼拝をしてもよいとされているのです。

 

ところで、今、私は、イエスさまの昇天を「お祝いする」という表現をしてきました。そして、今日の福音書にも、「彼らはイエスを伏し拝んだ後、大喜びでエルサレムに帰り、絶えず神殿の境内にいて、神をほめたたえていた」ということばで結ばれており、弟子たちが、イエスさまの昇天の現場に立ち会うことができて大喜びして神さまを賛美した姿が伝えられています。インターネットのYouTubeで観た、イエスさまの昇天を題材としたある動画では、弟子たちが、昇天なさるイエスさまを見送って、みんなハグし合って、心の底から喜び合っていたシーンとして演じられていました。しかし、よく考えてみるなら、人間的な思い、普通の感覚からするならば、イエスさまの昇天を祝うとか喜ぶとかということは、実は、とても驚くべきことではなかろうかと思うのです。イエスさまが天に昇られる出来事、それは、弟子たちにとっては、彼らのもとからイエスさまが離れてしまい、もう彼らの目では見えなくなってしまう出来事でありました。この地上からイエスさまがいなくなってしまう、、もはや顔と顔を合わせて語り合うことができなくなる、そうした出来事であったのです。

 

弟子たちは、イエスさまが十字架の上で苦しみの末にお亡くなりになって、さぞかし悲しかったことでしょう。しかも、最期までイエスさまに従うことができず、イエスさまを裏切ったり見捨てたりしてしまった彼らでしたから、ただ普通の別れよりも何倍をも辛かったことと思います。そうした悲しみの中にあった彼らにとって、イエスさまがご復活なさった、そして生きておられ、またお会いできたとという事実は、大きな喜びの出来事でした。きっと再びずっとイエスさまと一緒に過ごせると思い、また、ぜひそうしたいと願ったことでしょう。でも、そんな彼らの期待、そして願いは、かなえられませんでした。イエスさまは、彼らと40日の間一緒に過ごされ、天に帰られるのでした。なおこの地上を歩む彼らのもとを、イエスさまは離れて行かれるのでした。ですから、これは彼らにとって、喜びの出来事というよりも、悲しく寂しい出来事ではなかったのかと思うのです。もしかしたら少しはそんな思いを持ったかもしれません。使徒言行録の1章9節と10節にこんな風に伝えられています。「こう話し終わると、イエスは彼らが見ているうちに天に上げられたが、雲に覆われて彼らの目から見えなくなった。イエスが離れ去って行かれるとき、彼らは天を見つめていた。」呆然と何となく寂しげに、彼らのもとを去りゆくイエスさまの姿を見つめて、そのまま天を見上げている弟子たちの姿がイメージされます。しかし、そんな彼らが、間もなく大喜びをして、神を賛美するようになったのです。それはなぜでしょうか。

 

まず先ほどの使徒言行録で続けて語られていることを見てみたいと思います。『すると、白い服を着た二人の人がそばに立って、言った。「ガリラヤの人たち、なぜ天を見上げて立っているのか。あなたがたから離れて天に上げられたイエスは、天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになる。」使徒たちは、「オリーブ畑」と呼ばれる山からエルサレムに戻って来た。』弟子たちは、このように、白い服を着た二人の人、かれらは天使たちであったと考えられますが、その二人が、イエスさまが「天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で戻ってくる」と告げられるのを聞いて、呆然と天を見上げていたその視線を地に戻して、地に足をつけてエルサレムにむけて一歩を踏み出したというのです。

 

ここで重要なことがいくつか語られています。まずは、イエスさまが「またおいでになる」。つまり、再びやがて戻ってこられるという約束です。イエスさまは私たちのこの世界に再びまた戻ってこられるのです。つい数週間前に聴いたイエスさまがなさった約束のみことばを思い起こします。「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。」エスさまは、私たちのために天の住まいを用意してから、この地上にまた戻られて、そして、私たちをその住まいへと迎えにいらしてくださると、約束なさいました。その約束を、イエスさまはまたおいでになって、必ず守ってくださる。そのことを、きっと弟子たちはここでもう一度思い起こし、大きな喜びと神への賛美へと導かれたのでしょう。私たちは、この地上での歩みの中で、いろんなことに遭遇します。それは必ずしも喜ばしいことだけではありません。いろんな辛いことや苦しいことや悲しいこともたくさんあります。でも、やがてイエスさまがまたおいでになって、私たちを迎えにいらしてくださる。ずっとこのまま苦しみが続くのではなく、イエスさまがいつかそれに必ずピリオドを打って、私たちを喜びの御国へ連れて行ってくださる。そのために、やがてイエスさまは戻ってこられる。これは私たちにとっても大きな希望であり喜びです。弟子たちと共に、この喜びと賛美に導かれたいと願います。

 

きっとルターであったと思いますが、イエスさまの昇天の出来事を、「私たちの先駆けとしての出来事である」という風に表現しています。やがて私たちも天の御国へと招かれる。イエスさまによって連れて行っていただけるわけですが、その私たちに先立ってイエスさまが天に昇られたのです。そして、私たちのための住まいを用意してくださって、やがてまたおいでになって、私たちを天の御国へと伴ってくださる。なんと大きな喜びでしょうか。

 

そして、弟子たちが、イエスさまの昇天の際に、喜んだもう一つのこと、それは、「天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で」というお告げを聞いたからだろうと思います。天に行かれるときと「同じ有様で」というのですから、それでは、そもそもイエスさまは天に行かれるとき、どんな有様であったのか、私たちはそのことを受け止めることが必要です。イエスさまが果たしてどんな有様で天に行かれたのか。それは今日の福音書に伝えられています。ルカによる福音書の24章の50節と51節のみことばです。「イエスは、そこから彼らをベタニアの辺りまで連れて行き、手を上げて祝福された。そして、祝福しながら彼らを離れ、天に上げられた。」エスさまは、このように手を上げて、弟子たちを祝福なさり、祝福をしながら天に帰られたのです。これがイエスさまの「天に行かれるのをあなたがた(弟子たち)が見た」その有様でした。それと「同じ有様で」エスさまはやがて戻ってこられると、天使と思われる二人の若者から、弟子たちは告げられたのです。祝福して、祝福しながら天に上げられたイエスさまですが、聖書の原文をみるならば、ここでイエスさまがなさった祝福は、その際にそこで完了したというわけではないことになっています。つまり、祝福がそこで終わらず、その後も、ずっと継続している状態である風に伝えられているのです。イエスさまは祝福なさり、祝福しながら、そしてその祝福はずっとまだ続いている。さらには、「天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で」つまり、祝福をしながら、「またおいでになる」そう二人は弟子たちに告げて、弟子たちはそれを聞いて大喜びし、神を賛美したのでした。

 

エスさまの祝福はずっとずっと続いている。もちろん自分たちの目からイエスさまが見えなくなった。イエスさまと実際に顔と顔を合わせて触れ合うことはできない。それはさびしいことであり、どうしようかと不安になることだけれども、でも、それで終わりではない。イエスさまは天に帰られるとき、私たちを祝福しておられたではないか、そして祝福しながら天に帰られたではないか、その祝福は終わることなく、これからもずっと続いている、イエスさまはずっと私たちを祝福し続けてくださっている、さらには、いつか必ず祝福しながら私たちのもとにまたおいでになる、戻ってこられる、そして永遠の祝福の御国へと私たちを連れて行ってくださる、弟子たちはこのことを大喜びして神さまを賛美したのでしょう。私たちもイエスさまの祝福の中を生かされています。私たちもイエスさまがおられることに気づけないことがある。イエスさまがともにおられるなんて、そんなの嘘だと思うときもあるかもしれない。でも私たちが気づかなくても、私たちが疑っても、私たちの目には見えなくても、イエスさまはなおも私たちを祝福してくださっている。いつどんな時もどこにいても、祝福し続けてくださっている。やがてイエスさまは、祝福しながら私たちを迎えにいらしてくださり、そして永遠の祝福の御国へと私たちのことも招いてくださる。私たちはイエスさまの永遠に続く祝福の中を生かされ、その祝福に包まれているのです。今日、イエスさまの昇天を祝うこの礼拝で、私たちはそのことを受け止めたいのです。

 

今、私は、イエスさまがいつどんな時もどこにいても、私たちを祝福し続けておられるとお話しました。この「いつどんな時もどこにいても」ということもイエスさまの昇天にとって、とても大きなメッセージです。イエスさまがもし地上にとどまっているなら、先週も少し話しましたが、私たちがイエスさまに会うためには、あの今から2千年前のパレスチナの地へと行かなければなりません。このようにイエスさまが地上にいる限り、時代的にも場所的にも非常に限定された、ただ一部の人たちだけのための先生にすぎない存在となってしまうのです。でも、イエスさまは今や天に昇られ、今も天の御国におられます。私たちがイエスさまに語りかけ、私たちもイエスさまのみことばを聞くために、そして、イエスさまの導きをいただき、イエスさまと共に生きるため、飛行機もタイムマシーンも必要ないのです。なぜなら、イエスさまは天の御国におられる、世界のみんなのあらゆる時代の人たちのための救い主だからです。いつどこにいてもどんな時も、私たちの救い主であり、神として、イエスさまは生きておられる。そして、私たちに神さまのみ旨を知らせてくださり、私たちの願いを神さまにとりなしていてくださっている、それが、イエスさまが天に帰られたことで実現したのです。

 

エスさまは、天に帰られるに際して、弟子たちに地の果てまで、イエスさまの証し人として生きるようにお遣わしになりました。そしてそのために聖霊を送ると約束します。地の果てまで、つまり、いつどんな時も、どこにいても、わたしは必ずあなたを見守り、あなたと共にいる。そして、聖霊を送り、あなたを励ますという約束です。私たちもこの約束を信じて、ここから歩み出したいと願います。

 

主よ、私たちを導いてください。

 

神さま、御子イエスさまが祝福しながら天に帰られ、今もなお、世の終わりまで、私たちを永遠に祝福し続けてくださっていることを心より感謝いたします。イエスさまの祝福に包まれて生きる幸いを思います。また、イエスさまがやがて私たちを御国に召してくださるために再びおいでくださることを信頼し待ち望みつつ過ごさせてください。天に昇られ、あらゆる時代の、すべての人の救い主となられた、主イエスさまのお名前によって祈ります。アーメン

 

希望の源である神が、信仰によって得られるあらゆる喜びと平和とであなたがたを満たし、. 聖霊の力によって希望に満ちあふれさせてくださるように。アーメン

 

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