yukaina_gorilla’s diary

ごりらぼくし(大麻ルーテル教会/北見聖ペテロ・ルーテル教会)です。聖書や教会のこと、社会のこと、ペットのことなど書いていきますね。

教会暦「王であるキリスト」「キリストの支配」をめぐって

「王であるキリスト」「キリストの支配」と呼ばれる主日がある。聖霊降臨後最終主日、教会の暦における一年の最後の日曜日だ。
 日本のルーテル教会で式文の改定がなされ、教会暦も見直される際に、この先、この主日名を、私たちが用いるかどうかの検討が、式文委員会でずっと続いている(「決定は、また次回にしましょう」「次回こそ、決定しましょう」ということで、なかなか結論が出ないまま、数年間w ま、そういうのも嫌いではないwww)。
 この主日が、もともと10月最後の日曜日に定められ、たぶんに宗教改革の伝統にある教会に対抗する形で導入されたという背景を考えるなら、私たちルーテル教会で、その主日名を用いるかどうかということが微妙であるというのは、ま、わからなくもない。
 しかし、現在、私たちの委員会で議論となっているのは、それとは別の理由による。それは、「王」とか、「支配」とかいう言葉は、こんにち私たちにはあまり関係のない、身近ではなく、一般的ではない用語であって、あまりしっくりこないというものだ。
 たしかに、「王」も「支配」も、私たちがそう日常的に頻繁に使う、一般的な言葉ではないだろう。だから、そうしたものを、今わざわざ取り入れるということに疑問が呈されることは理解をする。特に、教会でそうした言葉を用いているのを、非キリスト者が聞くならば、奇異に思うかもしれない。
 けれども、私は、こんにちの日本や世界の動きを観るときに、今こそ、「この世の力が私たちを支配しているのではなく、私たちを治められるのはただキリストのみ」「だれか偉そうな世の為政者が、私たちの上に立つ王ではなく、キリストこそ王」「キリストは、みんな仕えて愛することで、真の平和を私たちにもたらす支配者であり、王である」というメッセージは、とても大きな意味を持っているのではないかと考えている。
 この主日が定められた背景に、宗教改革の伝統にある教会に対抗する意味合いもあったと述べたが、もう一つ、これが定められた時代は、ヒトラームッソリーニスターリンの台頭した時代であった。そのような中で、そうしたこの世の暴力的で傲慢な権力者ではなく、愛と平和の君なるキリストこそ真の王・支配者であるとの告白を込めて定められた主日でもあるのだ。これは、私たちにとっても、とても大切な告白ではなかろうか。
真の王であるキリスト、来たりたまえ。アーメン
 

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