yukaina_gorilla’s diary

ごりらぼくし(大麻ルーテル教会/北見聖ペテロ・ルーテル教会)です。聖書や教会のこと、社会のこと、ペットのことなど書いていきますね。

2017年6月11日 礼拝メッセージ  (三位一体の祝日)

三位一体祝日 2017年6月11日


「永遠に続く神の愛」
(2コリント13:11~13・マタイ28:16~2)

わたしたちの父である神と、主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなたがたにあるように。アーメン

今日は、教会の暦で三位一体の祝日です。私たちは、今まで、イエスさまの十字架と、復活、また昇天と、聖霊降臨の出来事を、受け止めてきました。私たちは今日、それら一つ一つの出来事が、父と子と聖霊である三位一体の神さまによる私たちのための一連の救いの働きであったことを、改めて心に刻みます。このため、聖霊降臨祭の直後の日曜日、聖霊降臨後第一主日が、教会の暦の上での、三位一体主日、三位一体祝日と位置づけがなされるわけです。

今、私は、「父と子と聖霊である三位一体の神」という表現をしました。神さまが父と子と聖霊の三位一体であるとは、一体どういうことなのでしょうか。その信仰を表したのが、今日みなさんにお配りしたプリントに印刷されている、アタナシウス信条というものです。長々と細かく三位一体についての信仰が告白されています。具体的には、3番から26番までが三位一体の信仰の告白です。今日メッセージの後の信仰告白としてで私たちも告白するのですが、これを観て、もう自分は三位一体の信仰は良く分かったという方がいましたら、たいへん優れたセンスの持ち主ですので、ぜひ東京の神学校に行かれるか、どこかの大学の神学部に行かれて、専門的な学びをなさることをお勧めします。

実は、私、このアタナシウス信条で告白されていること、正直、何度読んでも、よくわかるようで、わからない、そんな何だかとてももやっとした思いをいつもします。色々書いてあるけれど、結局は同じことを何度も言っているだけではないか、そんな思いもいたします。これはもちろん私のセンスのなさ、理解力の不足によることも大きいわけですが、同時に、どれだけいわゆる頭がよい方でも、三位一体の信仰が一体どういうものなのか、はっきりと理解できる、すとんとくるという方は、きっとごく少数であり、たいへん稀であろうと思います。

ですから、神さまが父と子と聖霊であるという、この三位一体の信仰を少しでも分かりやすく伝えようと、様々な説明が試みられてきました。たとえば、水と氷と水蒸気です。どれも元素記号にするなら、同じH2Oですが、氷として個体であったり、水として液体であったり、水蒸気として気体であったり、それぞれ違った在り方をします。神さまも、それと同じように、同じ唯一の神でありながら、父なる神であり、御子キリストであり、聖霊なる神であるという違った人格、神さまですから神格とか位格と言うのですが、そのように存在される、そんな説明がなされます。あるいは、結婚をして子どものいる一人の男性は、同じ一人の人でありながら、配偶者から見れば一人の夫であり、子どもから見れば一人の父親であり、その男性自分も自分の親から見るならば一人の息子であって、このように同じ一人の人に夫・父親・息子という役割がある、ひとりの神さまにも父と子と聖霊というそれぞれの役割があるのだという説明もなされます。他には、卵です。卵には殻があり白身があり黄身がある。それと同じように神さまもおひとりだけど、父であり子であり聖霊なのだという説明がなされるのです。

このように様々なものを題材にしての説明がなされ、そのどれも「ああなるほどね」と思うわけですが、でも、よくよく考えてみると、これらは分かりやすそうで、実際のところは、それらのたとえから、神さまが父と子と聖霊の三位一体であるという信仰を私たちが理解しようとするには、ちょっと無理があるなと思います。

そこで一つ発想を変えてみたいのです。それは、私たちが、神さまが父と子と聖霊の三位一体であるということを、頭で理解しようとしたり、口で説明しようとしたりすることは、そもそも無理なことだと、受け止めることです。私は、これがいちばん納得できる説明ではないかと思うのです。神さまは私たちの思いを超えたお方です。メッセージの後に、「あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスにあって守るように」と牧師が祝福するときがありますが、まさに神さまは、私たちの思い、私たちの考え、私たちの知識、そうしたあらゆる人知を超えたお方です。ですから、神さまが父と子と聖霊の三位一体であるということも、私たちの理解を超えたものであって、私たちの常識から決して計り知れないものなのです。神さまは私たちの頭の中でとらえられるような小さな方ではなく、私たちのあらゆる人知を超えた、私たちには決してとらえきれない偉大なお方であるということを、今日、私たちは受け止めたいのです。

こんなお話を聞いたことがあります。ある教会で、洗礼準備クラスの仕上げとして、洗礼を志す人にある一つの質問がなされるそうです。それは、「あなたは三位一体の信仰をどう理解していますか」という質問です。その質問にちゃんと答えることができたら、洗礼を受けることができるという重大な問いなのですが、みなさんはその模範解答は、何であるかおわかりでしょうか。今のお話しを聴いていれば、きっとみなさん正解するはずです。それは、「わかりません」という答えです。神さまが父と子と聖霊の三位一体のお方であるということは、究極的には私たちにわからないことであると謙虚に受け止めることこそが正解であり、それに答えられたら洗礼を受けることができるというわけです。何か笑い話のようですが、でもこの姿勢はとても大切だと思います。神さまが父と子と聖霊の三位一体であるというこの信仰は、私たちの理解を超えた、私たちにはわからない、神秘の領域であるとも言えましょう。

このように、三位一体について、究極的には、私たちの理解を超えていて神秘の領域であって、「わかりません」と言うしかない私たちですが、けれども、ただそれだけでは、やはりこの三位一体の信仰が、キリスト教会およそ2千年の間ずっと続いてくるということはなかったでしょう。教会の歴史の中で、この三位一体を巡って、実に多くの激しい論争がなされてきました。今日はじめにご紹介したアタナシウス信条もそうした論争の中で、まとめられた教会の信仰の告白です。教会は、そのようにして、ずっと大切に、この三位一体の信仰を受け継ぎ、死守してきたのです。なぜか。それは、神さまが、父と子と聖霊の三位一体のお方であるということが、私たちにとって、とても大切であり、なくてならないことだからです。私たちは、今日、そのことを、神さまの、父と子と聖霊のそれぞれのお働きの観点から考え、受け止めてみたいと思います。

父なる神、それは創造主である神さまとも表現できるでしょう。神さまは天地のあらゆるものをお創りになり、そしてそれとともに、私たちのこともお創りになられ、養ってくださるお方です。子なる神、それは救い主イエスさまです。神さまに創られ、養われ、神を愛し、人を愛して生きるべく私たちが、その生き方から外れて、神さまから離れて、罪人となってしまいました。でも、御子なる神であるイエス・キリストによって、その十字架と復活によって、私たちを赦し、救い、命を与えてくださったのです。そして聖霊なる神さまです。私たちがそのように神により創られ養われていること、御子キリストにより救われ生かされていること。そのことを私たちが自分で知ろうとしても知ることはできず、また自分の罪に気付くことも、救い主のもとへ行くこともできません。しかし、聖霊なる神が、私たちに働きかけ、私たちをキリストのもとへ、救いの信仰へと招き、今も私たちを導いてくださっているのです。

このように、父と子と聖霊なる三位一体の神さまは、私たちをお創りになり、お救いになり、そしてお導きになる働きをします。そのどれが欠けても、私たちの信仰も救いも命も成り立ちません。父と子と聖霊なる神が一体となって、私たちにかかわり働きかけてくださることがどうしても必要なのです。そして、実際、神さまはそのように父と子と聖霊の三位一体のお方として、私たちに働きかけかかわり、私たちを創り、救い、導いてくださるのです。

何週間か前の礼拝で、私たちが聞いたみことばで、イエスさまが、「わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない」とおっしゃいました。そして、今日の福音でも、「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」と、イエスさまはおっしゃっています。このように、イエスさまは、私たちを一人ぼっちにはせず、必ずともにいてくださると、繰り返し約束なさいます。イエスさまが、私たちの世界にお生まれになった、あのご降誕クリスマスの出来事においても、「インマヌエル」「神は我々と共におられる」との約束が告げられました。実に、このインマヌエル、神さまが必ず私たちと共におられることを、今日、三位一体の信仰から、私たちは受け止めたいのです。

神さまは、何とかして、必ず私たちとともにいてくださろう、その約束を守ろうとなさいます。はじめ、父なる神が、私たちをお創りになられた。そして、もうそれでおしまいというのではなく、罪に陥り、神から離れてしまった私たちを、御子なるキリストがご自分を犠牲にしてお救いくださった。そしてそれでおしまいというのでもなく、聖霊なる神が私たちを信仰に導き、信仰を保ってくださる。このようにして、ずっとずっと途切れることなく、永遠に私たちが、神とともに歩み、神さまの愛の中を生きることができるように、神さまは、父と子と聖霊の三位一体のお方として、私たちに働き関わってくださいます。

人知を超えた三位一体を、私たちが頭で理解することはなかなかできません。しかし、このように、私たちを創り、救い、導かれる、父と子と聖霊の、神さまの永遠の愛の中で私たちは生かされている。神さまは永遠に私たちに働きかけ関わり続けてくださっている。その喜びと感謝の思いから、今日、三位一体の信仰を受け止めたいですし、その信仰を新たにしたいと願います。

ご存知の方も多いでしょう。「君は愛されるため生まれた」という賛美の曲があります。韓国で生まれた曲で、日本語にも訳され多くの人に愛されています。こんな歌詞の賛美です。「君は愛されるため生まれた。君の生涯は愛で満ちている。永遠の神の愛は、われらの出会いの中で実を結ぶ。君の存在が私にはどれほど大きな喜びでしょう。君は愛されるため生まれた。今もその愛受けている。」まさに、私たちは永遠の神さまの愛の中で生まれ、生かされ、今もその愛を受けているのです。神さまが父と子と聖霊の三位一体のお方であるということは、そのことなのです。

エスさまが今日、弟子たちを派遣されるにあたり、おっしゃいます。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」

大宣教命令と呼ばれる、力強いイエスさまのメッセージです。でもこのみことばを聞いた弟子たちは、どんな者たちであったかというと、結構情けなく弱い者たちでした。今日の御言葉に、「十一人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスが指示しておかれた山に登った。そして、イエスに会い、ひれ伏した。しかし、疑う者もいた」と伝えられています。彼らの中に「疑う者もいた」のです。もっと言うなら、聖書の元々のことばギリシア語の原文を見てみると、ここで弟子たちはイエスさまに言われていた通り山に登り、イエスさまにお逢いして、イエスさまを礼拝したけれど、でも、彼らみんながみんな疑っていた、そんな風にも訳すことができる表現がなされています。

信じて礼拝しつつも、どこかで疑ってしまう。そんな情けない彼らでした。でもそんな彼らにもかかわらず、イエスさまからの大きな働きを委ねられるのです。なぜなら、永遠の神さまの愛の中に、彼らが置かれ、「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」という、尽きず、途切れず、裏切らないその愛の中を、彼らが歩み出すからです。

エスさまの大宣教命令は、今日、私たちにも告げられます。私たちも、このように礼拝しながら、どこかで信じきれず疑いの心がすぐに沸いてくる弱く情けない者です。でも、父と子と聖霊なる三位一体の永遠の神さまの愛の中で生かされており、そして、イエスさまが「世の終わりまでいつもあなたがたと共にいる」とおっしゃっている約束を心に刻み歩み出しましょう。

弟子たちは、イエスさまの大宣教命令を受け、ガリラヤへ向けて山を降りて行きます。彼らの生活のど真ん中のガリラヤから、彼らの新しい歩みは始まります。私たちもこの礼拝堂から、それぞれの生活の場に出かけていこうではありませんか。

主よ、わたしたちを導いてください。

唯一にして、父と子と聖霊である三位一体の神さま、永遠のあなたの愛に包まれて生かされる私です。ありがとうございます。どうか、その愛を出会う人たちに分かち合って歩むことができますように。弱く不信仰な私ですが、にもかかわらず、そうした私を遣わしてくださることを、心より感謝いたします。イエスさまのお名前によって。アーメン

あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン

https://thechoirloft.files.wordpress.com/2013/05/holy_trinity.jpg