yukaina_gorilla’s diary

ごりらぼくし(大麻ルーテル教会/北見聖ペテロ・ルーテル教会)です。聖書や教会のこと、社会のこと、ペットのことなど書いていきますね。

社会派リタジスト?

私は典礼・礼拝についての学門と実践に感心をもっています。教会でさまざまな礼拝式文を作成して、実践するのも喜びです。

そうした私のことを「典礼ヲタク」と呼ぶ人たちもいますが、「言い得て妙」かなと思います。実は、その呼ばれ方・・・あまり嫌いではありません(笑)それを格好良く言うと「リタジスト」ということになるのかもしれません。(リタジストを「典礼専門家」と訳されてしまうなら、私は、まったくもってそれにふさわしくないわけですが・・・)

私は礼拝の式文を作成する時に大切にしたいことがあります。それは、今日の社会の課題です。

教会の礼拝は社会と乖離したものではなく、今日の社会のただ中に教会が建てられており、その社会で生きる人たちがその課題を携えて集い、また課題ある社会へと派遣されていく、これが教会の礼拝だと信じるからです。

ですから、正義や平和、人権、いのち、環境・・・これらは、礼拝の課題でもあると信じてやみません。式文を作成する際、これらの課題をふまえて、その痛みや連帯、また願いや希望を、どのように礼拝を通して表現し、受け止めるかということが、たいへん重要であると考えています。

もしそうしたことを考慮せず、どれだけ「ハレルヤ」とか、「アーメン」とか、「主の平和」とか、そんなことを言っても、それは「彼らは、わが民の破滅を手軽に治療して/平和がないのに、『平和、平和』と言う」(エレミヤ6:14)と、神が預言者を通して忠告していることであり、「あなたが祭壇に供え物を献げようとし、兄弟が自分に反感を持っているのをそこで思い出したなら、その供え物を祭壇の前に置き、まず行って兄弟と仲直りをし、それから帰って来て、供え物を献げなさい」(マタイ5:23)とのイエスの勧めから外れていることではないか、そんな風に考えています。

けれども、だからと言って、そう簡単に、こうしたことをダイレクトに表現した式文を作ったり、礼拝を実践したりすることはできません。教会の中にも、社会的な課題に対して様々な考えを持つ人たちもおりますし、政治的立場もいろいろです。ですから、私の考えるそのままを礼拝に表現するなら、それはそれで望ましい礼拝とはならないでしょう。

しかし、これが聖書のみことばからのメッセージであり、これを祈ることが必要であると信じることは、ぜひ式文に含めたいと思います。同時に、いろんな立場の人もいっしょに「アーメン」と祈りを合わせられるものを・・・というギリギリのところで、どこかで「もやっ」とした思いを残しながら、式文を作成することになります。

でも、もしかしたらその「もやっ」とした思いが、結構大切なのかなという思いもいたします。よく語呂合わせや言葉遊びあるいは半分本気で、「Liturgist and/or Terrorist」なんて言われます。これは、リタジストが、あたかもテロリストのように、自分自身の思いのみを優先して式文を作成し、礼拝を行うことが少なくない事実を、皮肉っぽく表現したものです。

「自分はこう信じる」ということはもちろん大切だけれども、「私の思い・信念をみんなと共有できているだろうか、できていないならどういう表現にすべきだろうか」、「本当はこのように表現したいけど、でも残念だけど今回はこれぐらいにしておいたほうがよいかもしれないな」、「もしかしたら私の思っていることよりも、他の人の言っていることのほうが正しいかもしれない」、「もやっ」とした思いの中で立ち止って、そうした考察をし、祈りをもって礼拝の準備をすることが大切かなと思うのです。礼拝、Liturgyは、もともとギリシア語のレイトゥルギア λειτουργία 「民のわざ」という言葉がその語源です。ですから、リタジスト個人の思いの表現ではなく、いかに「神の民の礼拝」にふさわしい礼拝をするか、その努力が必要なのです。

 

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