yukaina_gorilla’s diary

ごりらぼくし(大麻ルーテル教会/北見聖ペテロ・ルーテル教会)です。聖書や教会のこと、社会のこと、ペットのことなど書いていきますね。

ルーテル教会の礼拝と祈りについて

 

教会のいのち

ルーテル教会の礼拝について

 

*ハードディスクの中から発見されたので、アップします。

 

1.礼拝共同体としての教会

私たちルーテル教会とその信徒にとって、礼拝こそいのちです。ルーテル教会の大切な信仰告白の一つアウグスブルク信仰告白には、次のように語られています。

「唯一の聖なるキリストの教会は、常に存在し、存続すべきである。それ(教会)は、全信徒の集まりであって、その中で福音が純粋に説教され、聖礼典が福音にしたがって与えられる。そして、キリストの教会の真の一致のためには、福音がそこで純粋な理解にしたがって一致して説教され、聖礼典が神の御言葉にしたがって与えられるということで十分である。」(アウグスブルク信仰告白第7条)

 このように信仰者の集まりにおいて、説教が純粋に語られ、聖礼典が福音・神のみことばにしたがって行われること、すなわち公同の礼拝において正しい礼拝が行われること、これこそキリストの教会の姿です。

 ですから、もし、たくさんの教会員がいて、立派な会堂が建てられていて、あんな活動をしている、こんな活動をしている、たとえそのように活発に見える集いであっても、もし、そこで礼拝が大切にされていなかったり、正しく行われていなかったりするならば、それはキリストの教会としての大切な姿を忘れてしまっているということになります。

 あるいは逆に、教会員が少なく経済的にも貧しい教会で、建物も古くなって、信徒の高齢化や牧師不在などの理由で、あの活動をやめてしまった、この活動も続けられないという教会であっても、そこで一人一人の信徒が心をこめて、そしてみんな一致して真剣に礼拝が行われているのであるならば、それは立派なキリストの教会であり続けるのです。

 教会のことをギリシア語で「エクレシア」という言葉を用います。それは、「呼び集められた」者という意味です。何に呼び集められるのか?礼拝に呼び集められるのです。ですから、教会とは礼拝に呼び集められる者の群れなのです。また、呼び集められた者は、そこから散らされ遣わされていきます。それは、この世界、社会に向かってです。私たちは、礼拝に呼び集められ、礼拝から遣わされていく者たちなのです。そして、それこそ教会の姿であり、いのちであります。

キリストの教会は、その誕生から2000年の間、自分たちの信仰の要として、たゆまず礼拝を大切にして行い続けてきました。迫害にあっても、なお礼拝をやめることはありませんでした。そのように教会が、礼拝を大事にする歩みの中で、聖書が生み出され、教会が整えられて、神学が形成され、愛の奉仕へと力を入れるようになり、また、新たな人々がその大切な礼拝に加わるための宣教がなされてきたのです。

そして、今日の私たちの教会も、そのように2000年の間礼拝を大切にし続けてきた信仰者の群れの一員であり、さらには私たちも次の世代に大切な礼拝を受け継いでいくことになります。

  

2.神が人に奉仕する

さて、それでは、礼拝とは一体何なのでしょうか。ルーテル教会の礼拝理解を一言で要約するならば、「神が人に奉仕してくださる場」であるということができます。これは、たいへん特徴的で、かつ重要な理解です。普通宗教的な祭儀や行為というものは、「人が神に対して奉仕をする場」と理解するかもしれません。でも、ルーテル教会では、まるっきりその逆なのです。礼拝をドイツ語でGottesdienstと言います。これは神Gottという言葉と、奉仕するdienenという言葉があわさって出来た言葉です。それまでは、礼拝は人から神への奉仕と考えられてきました。でも、ルターは、それを否定し、礼拝は神の奉仕、神から人への奉仕と主張したのです。つまり、私たち人間の(神さまに対する)行為が礼拝の本質や中心なのではなく、神の私たち人間のへの救いの行為こそ、私たちルーテル教会の礼拝の本質であり、中心であります。礼拝の主導者は、人ではなく、神さまなのです。この意味で、「礼拝をささげる」というよりも、「礼拝にあずかる」という表現が、私たちルーテル教会の礼拝にふさわしいかもしれません。

ですから、礼拝の具体的内容に関しても、この神が人に奉仕する、神が人を救ってくださる、このことが明らかとなっていなければなりません。ルターの宗教改革は、まさにそのことのための努力であったということができるでしょう。礼拝の中で、人間的な行為が中心となっていないか、ルターはそのことを問い直し、神の行為、神の奉仕が中心となるように尽力したのです。また、その本質と中心から外れないものであるならば、ルターはそれを許容して、当時の習慣を踏襲いたしました。私たちの礼拝も、それが神中心となっているのか、絶えず問いかけながら吟味・精査することが大切です。

 礼拝は、神の行為、神の奉仕が中心なのですから、人間の思いや行いが中心とされてはなりません。人がたくさん祈ったら神がどうにかしてくれるとか、献金をたくさんしたら恵みがいっぱいあるとか、厳しい修行に励んだら救いが与えられるとか、そうした考えは、神が人に奉仕する、神の行為中心の礼拝理解に反するもので、ルーテル教会の礼拝としてふさわしいものではありません。また、もしそうしたことを中心とするならば、もしかしたら一時的な満足や快感は与えられるかもしれませんが、それはやがて時が過ぎたり、自分の状況が変わったりするならば、失われていってしまいます。それに対して、神が私たちに仕えてくださる礼拝は、いつどんな状況にあっても、神が人に出会ってくださり、語りかけ、慰め、救いを与え、強め、導いてくださる、永続的な出来事です。

それでは、神さまは礼拝において具体的にどのように私たちに仕えてくださるのでしょうか。それは、みことばと聖礼典(サクラメント)においてです。ですから、ルーテル教会の礼拝の中心もまた、みことばとサクラメントになります。礼拝において、神は聖書のみことばとそのメッセージ(説教)を通して、私たちに出会い、交わり、慰めと救い、そして私たちが歩むべき指針を与えてくださいます。時には、自分自身の弱さや問題、罪をも、神さまの語りかけを通して知らされます。また、神さまは、目に見える形で洗礼と聖餐を通して、救いを具体的に私たちに届けてくださいます。私たちもそれを信じ、感謝と賛美、祈り、そしてささげものをもって応答していくのです。さらには、その喜びの中で、私たちは毎日の生活の中で、神を証しし、また、隣人に神さまの愛を分かち合う具体的な働きをしていくのです。

もう一つ、私たちの礼拝にとって大切なことは、先に掲げたアウグスブルク信仰告白の第7条が教会を「全信徒の集まり」と告白しているように、一人で礼拝をするのではなく、具体的に主にある兄弟姉妹と共に礼拝をしているということです。神と人との交わりとともに、人と人との交わりの場でもあるのです。それは、具体的には同じ私たちの教会の兄弟姉妹との交わりであり、また、世界中の信仰の兄弟姉妹との交わりでもあり、さらには、既に召された人とこれから兄弟姉妹になる人との交わりでもあります。このように礼拝が人との交わりのときであるならば、ともに礼拝しているという意識も大切になってきますので、自分に酔ったような賛美歌の歌い方や、あまりに他者批判の強いような祈りがなされることは控えるべきでしょう。

 

3.礼拝の中心であるみことば/説教

さて、礼拝の中心が、みことばと聖礼典(サクラメント)であると述べました。まず、みことばについてですが、具体的には聖書朗読とそのメッセージ(説教)です。神さまは聖書を通して私たちに語りかけてくださいます。そして、その聖書のみことばが今ここで私たちのためのメッセージとして語られるのが、説教です。説教は、聖書の解説だとか、昔のことの思い出話だとか、説教者の意見や感想の表明ではありません。説教は、今語りかける神の声なのです。その神の声を通して、私たちは信仰を興され、また救いの宣言を聴き、信仰生活の指針を受け止めます。 

それゆえ、説教者は、自分を通して神が語ってくださるように、聖霊の導きを祈りつつ準備し、また語らなければなりません。自分の考えや能力によっては説教することはできません。聖霊の導きが必要なのです。同時に、会衆もまた、神が自分に語りかけてくださるように、聖霊の導きを祈りつつ説教を聴く姿勢がなければなりません。自分の思いだけで説教を聴いても、それを神の言葉として聴くことはできないからです。

そして、もう一つ重要なことは、会衆が説教者のために祈ることです。さらに、説教者がもし説教の場で神の言葉にふさわしくないことを語っているならば、会衆にはそれを指摘して、神の言葉が正しく語られるように整えることも大切なことです。

 

4.礼拝の中心である聖礼典/洗礼

続いて、みことばとともに礼拝のもう一つの中心である、聖礼典(サクラメント)について考えます。人は、なかなか耳で聞くだけでは神の御心と恵みを受け止めきることはできませんし、また、忘れてしまうことも多いものです。それゆえ、神さまはそのみことばを具体的に目に見え、触れ、味うことのできる形で、私たちに届けてくださいます。それがサクラメントです。サクラメントの定義は、①それが神/キリストご自身が定められたものであり、そのみことばがそこで語られること、②地上にある具体的な目に見えるものを用いて、私たちがからだで受け止めることができる形で与えられもの、③それを通して神の救いの恵みをいただくことができるものであり、これに従い、私たちルーテル教会にとってのサクラメントは、洗礼と聖餐の二つです。

洗礼は、「あなたがたは行ってすべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け・・・」(マタイ29:19)、「信じて洗礼を受ける者は救われる」(マルコ16:16)とのキリストのみことばによって定められたものであり、また、水を用いて行われ、それを通して救いが与えられるとの約束がイエスさまによって語られています。 

洗礼において大切なことは、洗礼の水にみことばが結びついていることであり、もし、みことばなしに洗礼が行われても、そこで用いられる水は、「風呂屋のあるじが注いでくれる水」に過ぎないと、ルターが大教理問答で述べているように、それは何の意味もなさない行為となってしまいます。その水に神のみことばが結びつくとき、それは「神の水」として、私たちに命と救いを与える恵みとなるのです。

『これもまた、「信じて洗礼を受ける者は救われる」とのキリストのみ言葉からがいちばん良く理解される。だから、ごく端的に、救うということ、これが洗礼の力であり、わざであり、効用であり、結果また目的であるというふうに理解するが良い…ところで、救われるということは、罪と死と悪魔から解き放たれて、キリストのみ国に入り、キリストとともに永遠に生きるということに他ならない…それを成就するのはみことばである。すなわち…神の御名がその中に存在するという事実である。神の御名が存在するところ、そこには必ず命と救いが存在する』(大教理)。 

それでは、実際に洗礼を授けるのは誰でしょうか。牧師と思われるかもしれませんが、そうではありません。私たちに洗礼を授けるのは、神さまご自身です。牧師は、その神ご自身が授ける洗礼に仕える働きをするに過ぎません。いわば、キリストが語る洗礼のみことばを、洗礼を受けるものに告げるスピーカーであり、神が授けてくださる洗礼の水を届けるホースの役割をしていると言ってもよいかもしれません。それゆえ、緊急の場合など、牧師が洗礼を授けるのに間に合わない場合、ルーテル教会では信徒であるならば誰だって洗礼を授けることができると定められています。なぜなら、牧師という職務にある人ではなく、神が人を用いて洗礼を授けてくださるからです。

ちなみに、洗礼βαπτισμόςとは、ギリシア語で沈む βαπτίζωいう言葉が語源となっています。つまり、私たちは洗礼によって古い自分を沈めて、そこで死に、新しい人間に生き返るのです。しかし、生き返ってそれで終わりというのではなく、このことは洗礼後のキリスト者の生涯の中で、生涯を通して行なわれ続けるべき事柄です。「したがって、キリスト者の生涯とは、ひとたび開始されるや、絶えず続けられていくべき日ごとの洗礼に他ならない。」(95箇条の提題)。古い人に属することがいつも私から取り除かれ、新しい人に属するものが私の身に現れてくるように、絶えず努力していくのです。そのためにも、いつも洗礼を思い起こし、洗礼に立ち返ることができるために、礼拝の際に洗礼盤をいつも見えるところに設置しておくということが、有益であると考えられます。

 

5.礼拝の中心である聖礼典/聖餐

次に、もう一つのサクラメントである聖餐についてでありますが、聖餐は、《わたしたちの主イエス・キリストは引き渡される夜、パンを取り、感謝の祈りをささげてそれをさき、弟子たちに与えて言われた。「取って食べなさい。これはあなた方のために与えるわたしの体である。わたしの記念として、これを行いなさい。」また食事の後、杯も同じようにして言われた。「みなこの杯から飲みなさい。これは罪の赦しを得させるために、多くの人々のために流すわたしの血による新しい契約である。飲むたびに、わたしの記念としてこれを行いなさい。》(1コリント11:23~25、マタイ26:26~28、マルコ14:22~25、ルカ22:16~20)とのキリストのみことばによって定められてものであり、パンとぶどう酒を用いて行われ、それを通して罪のゆるしを私たちは与えられます。キリストが「これを行え」と言われたのだから、私たちは聖餐式を行うのです。

聖餐の場合も、洗礼と同様、そこで聖餐を司るのは、牧師ではなく、イエス・キリストご自身です。牧師は、キリストご自身が語られる聖餐のことばをみんなに告げ、キリストご自身が差し出してくださるパンとぶどう酒を人々に届ける働きをするに過ぎません。

ところで、聖餐のパンとぶどう酒について、私たちルーテル教会においては、それをキリストの「真の体」と「真の血」として信じていただくことが大切です。この聖餐のパンとぶどう酒について、大きく3つの理解がなされてきました。①まずは、パンとぶどう酒が、実際にキリストの体と血に変わるという理解です。②また、それへの反発として、聖餐で用いるパンとぶどう酒は、キリストの体と血の象徴であるという理解もあります。しかし、ルーテル教会は、そのいずれの理解もとらず、③パンとぶどう酒は、キリストの真の体であり、真の血であると信仰をもって聖餐を受けるという理解に拘ってきました。なぜならば、キリストが「これはわたしの体である」と言われ、また、「わたしの血である」と言われたからです。これを単純に信じていただくことがルーテル教会の重要な聖餐理解なのです。

ルターは言います。「キリスト者は、神をほめたたえ、神は言われることをなしたもうことを信じなければなりません。いかにしてパンが体であり、ぶどう酒が血であり得るかを知ろうとして骨折っている極端な人々のようであってはなりません。彼らは神を理解しようと求めます。しかしなぜ人はあらゆることを理性と合致させるために、死ぬほど悩まなければならないのでしょうか。もしそれが神のことばであるならば、神は全能であり、真実であります。そこで、我々は信仰において、単純に子どものように受け入れるべきです。…これは、キリストの真の肉であり、血であります。人のことばではなく、神のことばがそういうからです。」(ルターの1534年の説教より)

「どのようにしてキリストのからだ全体が、そんな薄っぺらなパン切れやひとすすりのぶどう酒の中に現在することができるのかというようなことに、困惑している人々があります。あなたは、そのようなことに、かかわる必要はありません。これは神のしるしであり、キリストの肉と血が本当にここにあると知っていればそれで十分です。それがどのようにして、まことに現在するのかということは、キリストにまかせておけばよろしいのです」(1529年の説教より)

 聖餐の意味は、キリストのみことばも、ルターもともに強調しているように、「罪の赦し」です。私たちは聖餐にあずかることを通して、罪の赦しをいただくのです。ただ一度限りの洗礼によって罪が赦され、キリスト者としての歩みを始めた私たちは、その後も繰り返し罪を犯す弱いものです。ですから、私たちは繰り返し聖餐を受け、繰り返し罪の赦しをいただくのです。

なぜ聖餐によって罪の赦しが与えられるのでしょうか。この答は単純明快です。キリストご自身が「あなたがたの罪が赦されるために」と聖餐のみことばの中で語っておられるからです。また、聖餐のパンとぶどう酒、つまり、キリストの真の体と血は、十字架によって与えられたイエスのいのちそのものです。そのキリストのいのちは、私たちの罪を赦すためにささげられたいのちにほかなりません。ですから、私たちはその十字架のいのちにあずかるとき、すなわち、キリストの体と血にあずかることを通して、罪の赦しを得るのです。それを私たちは「あなたのために与えられたキリストのからだ」「あなたのために流されたキリストの血」とのみことばを通し、まぎれもなくこの私のために与えられたということを受け止め、「アーメン」「まことにそのとおりです」と答えながら受けるのです。

 

6.民のわざとしての公同の礼拝のための礼拝式文

さて、礼拝の中心としてのみことばと聖礼典について述べてきましたが、キリストの教会は、「全信徒の集まりで…福音が純粋に説教され、聖礼典が福音に従って与えられる」(CA7条)ために、よりよい整った形を求めてきました。礼拝は、ギリシア語で λειτουργίαといいます。これは「民」を意味するλαόςという言葉と「わざ」を意味するἔργονという言葉が合わさって出来た言葉で、「民のわざ」という意味を持っています。

礼拝は、「民のわざ」であって、「私個人のわざ」ではありませんから、司式者のその日の気分によるものだったり、誰か特定の人のためのものであったり、自己流の礼拝になったりしてはなりません。ルターは、自己流に礼拝することこそ偶像礼拝にほかならないと指摘しています。ですから、個人としての私的な思いではなく、教会共同体としてのふさわしい、秩序ある礼拝を行う必要があります。そのために式文が整えられてきたのです。

また、先に述べてきたように、①礼拝は神の奉仕、神の行為が中心であること、また、②それが具体的には、みことばと聖礼典(サクラメント=洗礼と聖餐)によるものであることが、十分に明らかにされるために、式文が作成されています。式文は、それぞれの時代で形成された要素の中でよきものを継承し、ふさわしくないものが取り除かれ、また、大切な新たな要素が付け加えられてきました。

今、私たちが用いている式文は、大きく5つの部分から構成されています。①開会の部、②みことばの部、③奉献の部、④聖餐の部、⑤派遣の部です。これは、みことばと聖餐という礼拝の中心が、はっきりと示される構成となっています。

 まず、私たちがみことばと聖餐に与るための備えとして、①開会の部があります。まず、礼拝の主人公である三位一体の神の名が宣言され、私たちはその御名のもとに、罪のゆるしをいただき、とりなしを祈り、神の栄光をあがめて、みことばを受け止める備えをいたします。

②みことばの部では、聖書のみことばと今ここで語られる神のみ声である説教を聴き、みことばを聴いた者として信仰告白へと導かれます。

③奉献の部では、語られたみことばへの感謝の応答として、また、主に従う献身の決意をもって、奉献のささげものをいたします。献金は、私たちが神に何かをしてもらうためにするものではなく、神が私たちにしてくださったことへの感謝し、私自身をささげる思いでいたします。また、かつてはここでささげられたパンとぶどう酒で聖餐が行われていたため、奉献の部は、みことばから聖餐への橋渡し的な役割も果たしています。

④聖餐の部で、さきほど語られたみことばが、目に見えて味わうことのできる形で、救いの恵みとして私たちに与えられます。

⑤礼拝の最後の部分を迎えるわけですが、閉会の部ではなく、「派遣の部」です。礼拝は「閉会」されません。私たちは神の救いと祝福をいただいた者として、礼拝からこの世の生活へと遣わされ、礼拝でいただいた神さまからの奉仕に応えて、今度は私たちが神と人に具体的に仕えて生きる歩みへと送りだされるのです。つまり、私たちの一週間の生活の中で、自分自身をささげて精一杯生きる礼拝へと派遣されるのです。

 パウロが語る通りです。「こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。」(ローマ12章1節)

 ところで、式文を用いた礼拝は、それを用いる私たちが気をつけなければ、ただ字面を追って唱えるだけのようなお題目的にあるいは形式主義的になってしまう危険があります。このため、礼拝が豊かに行われるように、時代を経て洗練されてきた式文の中で語られている一言一言を、私たちがいつもしっかりと噛みしめながら礼拝に与ることが大切です。

 

7.礼拝式文の解説

<開会の部> 礼拝へ向けて準備をします。 

前  奏 前奏が始まったら私語はやめ、今日の礼拝のために心の中で祈ります。

はじめの歌(神←民) 

大きな声で元気よくさんびします。「開会」「讃美」「礼拝」「朝」などのカテゴリー、教会暦に添った賛美歌が選ばれます。

み名による祝福(神→民)

三位一体の神の名によって礼拝がはじめられます。新しい式文ではみ名を呼び求めるのではなく、み名によって祝福が宣言されるという理解です。

罪の告白(神←民、民→←民) 

神さまの御前に、また会衆の前で一週間の自分の歩みを振り返り、罪の告白をします。1ヨハネ1:8~9参照。

ゆるし(神→民)

ゆるしを与えられたものとして礼拝に臨みます。

キリエ(神←民)

キリエはキリエ・エレイソンの略で「主よ憐れんでください」との意味です。主に憐れみを祈ります。(ルカ17:13,18:38~39、詩編123:2~3)

ダビデの子、イエスよ、わたしを憐れんでください」とイエスに訴えた者に対して、イエスは「何をしてほしいのか」と尋ねられた問いが私たちにも向けられます。私たちが与えてほしいのはゆるしであり、神との平和、民との平和にほかなりません。

グロリア(神←民、神→民)

私たちを憐れみ、罪をゆるしてくださる神さまに栄光を帰し、また私たちの間の平和を祈ります。これはルカ2章14でクリスマスの宵に天使がさんびした歌声です。

そしてそのゆるしと平和はイエスさまによって与えられたことを覚えさんびします。

待降節四旬節にはグロリアは用いません。

<みことばの部> 礼拝の一つめの山です。

祝福の挨拶(民→←民)

今みことばの部に入るにあたり、ともに主の祝福を祈り合います。

司式者が「主がともにおられるように」と言いながら会釈をしますので、みなさんも「またあなたとともに」と会釈をもってこたえてください。お互いに「あなたとともに主がおられるように」と心から祈りあうひとときでありたいですね。

特別の祈り(神←民)

かつてはここで会衆によるそれぞれ一言の願いが祈られました。そしてそんなみんなの祈りを総括して最後に司祭が祈りました。それゆえ、この「特別の祈り」を、教派によっては「集会祈願」、「集祷」と呼びます。

今日ではその日の福音のみことばに添った祈りがなされます。

聖書日課の朗読(神→民)

第一日課 主に旧約聖書です。ただし復活節には使徒言行録が選ばれます。

詩編 第一日課への応答です。その日の礼拝のテーマを表す詩編が用いられます。歌ったり交唱なれたりします。

第二日課 使徒たちとその後の時代の書物です(使徒言行録、書簡、黙示録)。待降節四旬節、祝日以外は一つの書を数週間にわたり連続して読みますので、必ずしも内容的に第一日課、福音とリンクしていません。

ハレルヤ唱(神←民)

福音の朗読に備えて主をさんびします。ただし四旬節はハレルヤの代わりに詠唱フィリピ2:8の「キリスト賛歌」が歌われます。ここで詩編唱が朗読(交唱)されても構いません。

福音の朗読(神→民)

その日の福音書の日課のみ言葉を聞きます。教会暦に従い、通常、その日の福音書が説教のテキストとなります。

みことばの歌(神←民)

その日のみことばに添った賛美歌が選ばれます。または「神の言葉」「聖書」などのカテゴリーから選ばれてもよいでしょう。

説 教(神→民、民→←民)

書かれた神の言葉である聖書が説教において今ここに生ける神の声となります。神の言葉を聞く姿勢で耳を傾けます。また説教者の説教が毎週あまりにも神の言葉から外れていると思うときは、会衆(教会役員会)は説教者に忠告する責任があります。しかしそれが自分の好き嫌いからというレベルで行われないように注意しましょう。会衆は説教者を日々祈りをもって支える務めを大切にしましょう。

感謝の歌(神←民)

みことばへの感謝をもってさんびします。説教の主題にあった賛美歌が選ばれます。 

信仰の告白(神←民、民→←民、神→民)

みことばへの応答として、私たちの信仰の告白を世界の教会の仲間と共に、そしてすでに天に召された信仰の先輩と共に告白します。今も迫害の中にあって立派に信仰の告白をしている友を思い浮かべながら告白することも大切です。三位一体の神への信仰告白です。使徒信条もしくはニケア信条(場合によってはアタナシウス信条)を告白します。

<奉献の部> 自分自身をささげます。

祝福の挨拶(民→←民)

今、奉献の部に入るにあたり、ともに司式者と会衆で主の祝福を祈り合います。互いに会釈を交わしてください。

奉 献(神←民)

献金は神さまに自分自身をささげる献身と感謝のしるしです。まごころをもってささげましょう。また献金は神さまへのささげものであり、ささげたものはもはやそれは「私がささげたもの」ではなく、神さまのものです。献金するお金自体、神さまからいただいたものです。

 奉献唱(神←民)

詩編51編を歌い、献身の決意を表します。

奉献の祈り(神←民)

神さまからいただいたものを神さまにお返しすること、自分自身が神に用いられることも祈ります。

<聖餐の部> 礼拝のもう一つの大きな山です。

聖餐の歌(神←民)

聖餐に備えてさんびします。「聖餐」のカテゴリーから選ばれます。

序 詞(神←民、民→←民) これは3世紀頃にはすでにできていました。

「主がともにおられるように」「またあなたとともに」司式者と会衆で互いに挨拶と会釈を交わします。

「心をこめて主を仰ぎましょう」「主を仰ぎます」聖餐に招いてくださる主を心から讃美し、あがめます。心を込めては、元来は心を高く上げてという意味です。

「主に感謝しましょう」「感謝はふさわしいことです」心からの感謝をもって聖餐に臨みます。

 その日の序詞(神←民、神→民)

その日の教会暦にあったことばが聖餐に向けての祈りの言葉としてここで語られます。

 サンクツゥス(神←民、神→民)

ここで聖なる偉大な主が私たちの食卓にまでやってきてくださることにおそれと感謝をもって迎えます。(イザヤ6:2参照)

ホサナと叫びつつエルサレムにイエスを迎えた人々のように私たちも喜びをもって聖餐の主イエスを迎えます。(マルコ11:9、及び並行記事) 

聖餐の設定(神→民)

キリストが最後の晩餐で語られた言葉がここで語られます。この言葉が語られるとき、私たちはパンとぶどう酒をキリストの体であり、血であることを信仰をもって受け止めることが大切です。ルーテル教会における聖餐理解で大切なのはここでキリストが「わたしのからだであり、血である」と言っておられるのですから、それ以上詮索せずにそれをそのままキリストのみことば通りにキリストの体であり、血であると信じることです。(マルコ14:22~、マタイ26:26~、ルカ22:19~、1コリント11:23~参照)

主の祈り(神←民、神→民)

主の食卓に集う一つの家族として主イエスが教えてくださった祈りを祈ります。「われらの」と祈っている以上、それは私だけがそうなればよいのではなく、もしそうでない人が私たちの周りにいるのならそのために私が働く決意を表す祈りでもあります。「日ごとの糧を与えたまえ」と聖餐の恵みが与えられるようにとも祈ります。(マタイ6:9~、ルカ11:2~) 

平和の挨拶(民→←民)

司式者と会衆が平和の挨拶を互いに交わします。会釈を交わしてください。また日本のルーテル教会ではあまりやりませんが、本来はここで会衆同士も実際に手を取り合ったり、抱き合ったり、お辞儀し合ったりして、主の平和を確認しあいます。マタイ5:23~24、ローマ16:16、ヨハネ20:21参照。 

アグヌス・デイ(神→民)

主にまことの平和を与えてくださるように祈り、また主キリストが世の罪を取り除く方であることを告白します。ヨハネ1:29、14:27参照。 

聖 餐(神→民、民→←民)

キリストがご自身を与えてくださる聖餐に集います。これはキリストともなる食事、そしてまたともに与る会衆同士の食事、さらには全世界のキリスト者との食事、すでに召された信仰の先輩たちとの食事です。迫害でこの食卓に集えない仲間を覚えて祈り、また食事が与えられていない人々を覚えて祈り、さらにはまだ洗礼を受けていないため一緒に聖餐に与れない人のことを覚えて祈り、そしてそれらの人々のために働く歩みへと、この食卓に集うときに私たちは促されます。「キリストの体」「キリストの血」の配餐者の言葉に「アーメン」と答えましょう。 

聖餐の祝福(神→民)

主の祝福をいただいてそれぞれの席へと戻ります。

 聖餐の感謝(神←民)

聖餐の恵みを神に感謝します。

<派遣の部> 今週もそれぞれの生活の場に送り出され散らされます。

祝福の挨拶(民→←民)

今、派遣の部に入るにあたり、ともに主の祝福を祈り合います。司式者と会衆で互いに会釈を交わしてください。

ヌンク・ディミティス(神←民、神→民)

これはルカ2:29~32のシメオンの歌った賛歌です。シメオンは長い間メシアの到来を待ち望んでおり、神殿に連れてこられた幼児イエスをみて、この賛歌を歌いました。私たちも主の救いをこの礼拝で体験したものとして、礼拝堂からこの世へと去っていきます。また主の救いを体験したものとしていつ死を迎えてもよい心の準備をするのです。

教会の祈り(神←民、民→←民)

会衆を代表して一人(場合によっては複数)が祈り、それにみんなが心を合わせます。担当者は教会を代表して、教会のこと、隣人のこと、世界のことを祈ります。教会の祈りの担当の方は礼拝全体のバランスがありますのであまり長くならないように気をつけましょう。

 祝 福(神→民)

神さまから祝福をいただいてそれぞれ与えられた持ち場へと喜び勇んで帰っていきます。礼拝で神さまからの奉仕をたくさん受けたものとしてこの一週間隣人への奉仕と証を通して神さまに仕えるのです。祝福の言葉は民数記6章24~26節。

そしてはじめ同様三位一体の神の名をもって礼拝を終えるのです。私たちは喜びと感謝をもって声高らかにアーメン三唱をもって応えます。

 終わりの歌(神←民)

神さまにさんびの歌を歌って栄光を帰して礼拝を終わります。

 後 奏 心静かに沈黙のうちに祈ります。

 ☆朝、教会に来て、席についたらその日の日課を読んでおきましょう。

☆讃美歌は大きな声で(でもほかの人とのバランスも考えて)歌いましょう。上手下手はあまり問題ではありません。

 

8.祈りについて

祈りとは、

神との対話、親しく信頼して祈る。「アッバ父よ」=「父ちゃん」「パパ」

信仰者にとって祈りは呼吸。自然なもの。また、命の営み。

「祈らないことが最大の罪である」(フォーサイス) 世の中にいろんな罪があるが、その罪の原因は私たちが祈らないこと。

 

祈りは、他の人に聞かせるためにあるのではない。

「上手に祈れない」とよく聞くが・・・ えっ?上手って?

「隠れたところにおられる神」 神の前にそのままの自分をさらけ出す

 

いつ祈るのか?今でしょ!

いつだって祈る。「絶えず祈りなさい」

生活の中で。起床時、食前、食後、お出かけ前、終業前、終業後、帰宅後、就寝前・・・いつでも。

罪を犯してしまったとき、悲しみや悩みのとき、喜びのとき、ただのほほんとしているとき

 

祈りの内容

悔い改め=「自分の罪を公に言い表すなら・・・」 

神へのさんび=「主をほめたたえよ」、「主を賛美せよ」、「ハレルヤ」

神への感謝=「どんなことにも感謝しなさい」

個人的な願い=「どんな願いでもかなえてくださる」

とりなし=他者を覚えて祈る・祭司として(万人祭司・全信徒祭司)

 

祈りの「かたち」

呼びかけ 対話の相手に向かって 「主なる神さま」「天のお父様」・・・

さんび・感謝・悔い改め・願い・とりなし

主イエスの名によって祈る 「わたしの名によって願うなら・・・」

「主イエスキリストの御名によって祈ります」「キリストの御名を通して・・・」

 

個人の祈り

どんなことを祈ってもよい(詩編参照)。

個人的な内容もふんだんに。

でも、自分だけのために祈るのではなく、教会のこと、世界のこと、他者のことも祈る

祈りは愛へ、愛は祈りへ。

 

公同の祈り

「わたしの名により二人、三人が・・・」

主がともにおられ、神がかなえてくださることを信じて。

どんなことでも!

ただし個人的な内容よりも、教会や世界に関する内容や、とりなしが重要となってくる。全信徒祭司(万人祭司)。

でも個人的なものがあってもよいのでは?

 

祈りは本当に聞かれるのか?

祈りが聞かれなかった?その祈りはもはや過去のものになっている。祈りの最大の失敗は、祈りを辞めること。粘り強く祈り続ける。

「神の時」と「神の最善」。それは、「私たちの時」と「私たちの最善」とは異なるときも多い。ゲッセマネの園におけるイエスの祈り。

 

公同の祈りは難しい?

式文の祈りを使う。

本に載っている祈りを参考にする。パクリもOK!

事前に祈りの原稿を書いてきて、それを読む。

主の祈りを膨らませて祈る。

 

素直にあまり難しく考えず

形や内容にとらわれず、神の前に素直に祈ることを大事に。

教会での公同の祈りは、家庭での個人の祈りに支えられ、訓練させられる。

祈れないときだって、「主よ祈れません」と祈ることができる。

 

ただし礼拝の中での祈りの留意点

時と場所

あまり長く祈らない(礼拝全体のバランスを考えて)

祈りの中で説教や演説や他者の非難をしない

偽善者・偽悪者に注意