yukaina_gorilla’s diary

ごりらぼくし(大麻ルーテル教会/北見聖ペテロ・ルーテル教会)です。聖書や教会のこと、社会のこと、ペットのことなど書いていきますね。

2017年6月25日 礼拝メッセージ

聖霊降臨後第3主日 2017年6月25日

 

「主の教えを心に刻む」

申命記11章18~28、マタイによる福音書7章15~29)

 

わたしたちの父である神と、主イエス・キリストからの恵みと平和があなたがたにあるように。アーメン

 

これまで何度も繰り返しお伝えしておりますが、今年はルターの宗教改革から500年にあたります。この500年を覚えて、様々な取り組みがなされており、その中の一つに出版事業があげられます。ルターや宗教改革に関する様々な本が出版されています。その一つに、ルターの「小教理問答書」の新しい翻訳が挙げられます。ルーテル学院大学のルター研究所が翻訳して出版したものですけれど、それには「エンキリディオン 小教理問答」というタイトルがつけられています。

 

この「エンキリディオン」は、「必携」という意味です。「必ず」という字と、携帯電話の「携」「携える」という字で、「必携」ですね。いつも必ず携えるべきもの。いつも持ち歩くべきもの。という意味です。小教理問答書は、ルターが十戒・使徒信条・主の祈り・洗礼・ざんげ・聖餐について、一つ一つの項目について、「これは何ですか」という問いに対して、「これはこうこうこういうものだよ」という風に回答がなされており、それを通して、聖書の福音に基づいた信仰の在り方のエッセンスをわかりやすく学ぶことができるようになっています。その問答の後には、私たちが信仰をもって日々の生活を送る上で、必要な聖書のことばや祈りのことばなども掲載されています。このように信仰と生活の基本が書かれた小教理問答書に、ルターは、「エンキリディオン・必携」、必ずどこにも携え持ち歩くべきものというタイトルをつけたのです。この小教理問答書は、その後500年間、ルーテル教会の洗礼や堅信教育、信徒教育のために用いられ、ルーテル教会のみんなが共有すべき信仰の手引とされてきました。ですので、エンキリディオン・必携というタイトルは実にふさわしいと言えるでしょう。

 

さて、今日の第一朗読申命記11章のみことばにも、必ず携え、持ち歩くべきものが、神さまから当時のイスラエルの人たちに告げられています。「あなたたちはこれらのわたしの言葉を心に留め、魂に刻み、これをしるしとして手に結び、覚えとして額に付け、子供たちにもそれを教え、家に座っているときも道を歩くときも、寝ているときも起きているときも、語り聞かせ、あなたの家の戸口の柱にも門にも書き記しなさい。」

 

申命記は、イスラエルの民がエジプトでの奴隷の苦しみから神さまによって救い出され、40年の長き間、荒野を旅して、ようやく神さまが与えてくださる約束の地に入るというその直前に、神さまがもう一度イスラエルの人たちに、彼らが守るべき掟を語り告げたたものです。そのように神さまが彼らに語られる言葉をしっかりと肌身離さず、心に刻み込み、いつどこでも携え持ち歩きなさい、身に付けていなさい、自分の子どもたちにもちゃんと伝えて、起きてるときも寝てるときもどんなときも語りかけなさい、家の出入り口にも掲示して、あなたが出かける時も帰って来る時も、誰かがあなたの家に来る時も観ることができようにしなさいと、神さまはここで告げられるのです。

 

このみことばに基づいて、実際にイスラエルの人の家の門にはお札のようなものが付けられました。また、人々の額にはみことばを書いた紙を入れたヘッドライトみたいなものがつけられました。まさに聖書に書かれている文字通りに、それがなされたのです。でも、大切なことは、そのように実際にお札を貼ったり、額に付けたりするというよりも、朝も夜もいつどんなときも神さまのことばを味わい、みことばを大切に、みことばに従って毎日の生活をする、子どもたちにもみことばを伝える、そのことだと思います。お札を貼ったり、額に付けたりというのは、あくまでそのための一つの手段なわけです。

 

それでは、なぜ、それほどまでみことばを大切に、みことばに従って生きるのか、子どもたちにもみことばを伝えるのか、それについても、神さまは告げておられます。「見よ、わたしは今日、あなたたちの前に祝福と呪いを置く。あなたたちは、今日、わたしが命じるあなたたちの神、主の戒めに聞き従うならば祝福を、もし、あなたたちの神、主の戒めに聞き従わず、今日、わたしが命じる道をそれて、あなたたちとは無縁であった他の神々に従うならば、呪いを受ける。」このように、神さまのみことばに従って生きるなら祝福を受け、そうでないならば呪いを受けると、神さまは彼らに告げられます。みことばに従うか、従わないか、それにより祝福か、呪いか決まるというのです。事実、旧約聖書にあるイスラエルの歩みを見るとき、この神さまのことばの通りだったことを私たちは知ります。

 

イスラエルの民が神さまに従って生きるとき、彼らは祝福された歩みをすることができました。でも、みことばから外れたり、みことばを信頼しないで生きたりするとき、彼らにいろんな不幸が臨み、破滅の道を歩むこととなるのでした。このように言うと、なにか神さまが彼らに因果応報の報いをなさったのかのように聞こえるかもしれません。良いことをしたら、よい結果を神さまが彼らに与え、悪いことをしたら悪い報いを彼らに与えたという具合にです。

 

でも、そうではありません。よく聖書を読むと、悪いことをした彼らに対して、神さまが悪い報いを与えてというよりも、むしろ、神さまのみことばから彼らが外れて生きることで、彼らが自ら滅びの道を進んでいって、結局、自滅してしまったということを、私たちは知ります。「神さまがあなたがたを支配するから大丈夫」と預言者が言っていても、「いや自分たちにも他の周りの国のように王がほしい。それでないと不安だ」と言って、王を立てて、結局、後々、民は、王の支配に苦しめられてしまいます。「神さまがイスラエルを守るから心配ない」と言っても、周りの国々の脅威を畏れ、他の巨大国と同盟を結んで、それゆえに結局戦争に巻き込まれて国を失ってしまう。神さまが「殺してはならない」と言っているのに、自分の都合で人を殺めて、結局、その後、自分は復讐に脅えながら過ごさなねばならなくなったり、自分自身もやがては殺されてしまったりする。そのように、神さまのみことばを大切にせず、それに反する生き方や決断をする中で、自らを滅ぼしてきた人々の歴史を、旧約聖書は伝えています。

 

神さまは、そのことを知っていました。ですから、人々に、しっかりとみことばを心に刻んで、肌身離さず、いつもあなたの心に携えていなさいと告げられるのです。そして、次の世代を生きる子どもたちにも、最も大切なこととしてみことばを伝えなさいとおっしゃるのです。そうした生活を毎日毎日大事にしなさい、それこそあなたの祝福の道だと、それを忘れて、そこから外れると失敗して自滅してしまうから、そうならないようにしなさいと、神さまはここでイスラエルの民に告げられるのでした。

 

これは何もイスラエルの民にだけ告げられ当てはまることではありません。時代を超え、場所を超え、世界中の人たち、ですから、私たちにも神さまから告げられていることです。私たちも、神の教え、神のみことばをしっかりと心に刻み、肌身離さず、大切に生きる。従って生きる。そのことこそ祝福の道であると、神さまは告げられます。また、もし私たちがみことばから外れて生きるなら、自分自身を滅ぼすことになると、忠告をなさるのです。

 

そして、本当にその通りだと思います。私たちもみことばに従って生きるとき、神さまの祝福の中を喜びをもって生きることができます。苦しみの時や悲しみの時もあるわけですが、でもその中でも、なおも神さまに信頼して、あるいは、いろいろぶつぶついいながらも神さまにしがみつきながら、何とか生きることができるのです。でも、私たちが、神さまのみことばから外れて生きるなら、その時はいろいろと楽しいかもしれないけれど、どこかで満たされないで空しさを感じたり、後悔をしたり、失敗したりして、より大きな苦しみを招いたり、取り返しのつかないような状況に陥ったりする。そのことを私たちは経験上知っています。

 

ですから、今日の福音書で、イエスさまも、みことばを大切に生きることを告げておられます。神さまの教え、みことばを大切に、それに従って生きる人は、しっかりとした岩の上に家を建てた人のようだと。それに対して、神さまのみことばを聞くは聞くけど、それを大切にせず従わない人は、砂の上に家を建てた人のようだと。岩の上に家を建てた人は、嵐が来ても、家はどんとしっかりと立ったままでびくともしなかった。けれども、砂の上に家を建てた人は、ちょっとした嵐で、家は倒れて流されて酷いことになってしまったと。みことばを聴いて大切に従って生きるなら、人生の嵐が襲ってきても、しっかりと立ち続けることができるけど、みことばを聞き流すような生き方をしていれば、自分のほうが人生の嵐に流されてダメになってしまうと。イエスさまはそうおっしゃるのです。なんとなく三匹のこぶたのお話しに似ていますね。

 

このように、きょうの旧約聖書でも福音書でも、神さまの教え、神さまのみことばを大切に、従って生きることが告げられているわけですけれども、それでは、果たして私自身はどうなのだろうかということを胸に手を当てて省みてみるとき、イエスさまがおっしゃっているように、口では「主よ、主よ」と言いながら、みことばに従って生きることが少なく、みことばから外れて生きることが多い、そうした自分の姿を思います。そして、先ほど申しましたが、その結果、空しさを感じたり、いろんな後悔をしたり、失敗をしたり、取り返しのつかない状況に陥ってしまったり、そうしたことが多いと思うのです。さらには、そこでもう、信仰ごと流され倒れてしまうような、そうした歩みをしていることを思います。

 

そのような私は、一体どうしたらよいのでしょうか。やはり基本に、初心に立ち返るしかないことを思います。今日の申命記にあったように、みことばを朝に夕に聴いて、しっかりと神さまの教えを心に刻み、肌身離さず生きる、それほどみことばにしがみついていくしかないでしょう。そして、その時、私たちの信仰の歩みの土台とすべきは、頼りない私たち自身の歩みや私たち自身の信仰ではないことに気付かされます。自分自身を土台にしようとする限り、いつまでも砂の上に建てられた家であり続けるのです。

 

それでは、何を土台にするのでしょうか。それは、そうしたみことばを外れて生きて、自ら滅びの道を突き進んでいる、そんな私を救うために、自分の命すら惜しまなかった御子イエス・キリストにほかなりません。頼りない自分自身を土台に生きるのではなく、岩なるキリストを、私たちの土台として生きて行くのです。私自身は砂の上に建てられた家のように、ちょっとしたことで流されて、すぐにダメになってしまいます。でも、そこで私たちは自分自身はそう流されてダメになりそうになりながらも、そこで、しがみついて、そして救われる、しっかりとした土台が与えられているのです。それが、私たちのために命ささげられたイエス・キリストです。

 

ダメダメな私、でも、イエスさまにしがみつき、またやり直すことができる。しばらくして、また流されてダメになってしまいそうになるかもしれないけれど、そこでまたイエスさまにしがみつき、再びやり直すことができる。そうした歩みを繰り返して、私たちの信仰の歩みを続けていくのです。その中で、少しずつ少しずつですが、私たち自身の土台も作られていくのだと思います。自分では自分の土台は作ることはできないですし、自分の土台に頼ることもできません。でも、イエスさまにしがみついて生きる、流されてもまたイエスさまにしがみついて生き直す。そうした中で段々と足元が固められていくのです。

 

エスさまは、今日、「良い木」と「悪い木」のお話もなさっています。「すべて良い木は良い実を結び、悪い木は悪い実を結ぶ。良い木が悪い実を結ぶことはなく、また、悪い木が良い実を結ぶこともできない。」私たち自身を見るなら、決して良い木とは言えません。悪い実しか結べません。でも、私たちは、ヨハネ福音書のよいぶどうの木のたとえにあるように、イエスさまという良い木に結び合わされて、いわば接ぎ木されて、そこから良い実が与えられていくのです。イエスさまからみことばの栄養をたくさんいただき、はじめて私たちもイエスさまのみことばの実を結ぶことができるのです。

 

その意味では、今日のみことばと矛盾するように感じるかもしれませんが、大切なのは、やはりみことばをしっかりと聞くことです。みことばを聴いても、それを行えず、従うことができない歩みが続きます。それでもなお、みことばに聴き続ける中で、土台が固められ、良い実が生まれる素地ができることを信じます。

 

主よ、私たちを導いてください。

 

あなたの教えから外れて生きて、その結果、自ら滅びの道を突き進んでいる私です。でも、御子イエスさまが命懸けでそんな私を招き、お救いくださいました。心より感謝します。自分自身を省みるなら、未だに吹けば飛んでしまうような、ちょっとしたことで流されダメになってしまうような、そんな信仰の歩みをしておりますが、御子イエス・キリストを私の人生の土台として、御子に結び合わされ繋がって、みことばを聞き続ける信仰の歩みを続けていくことができますように。そうすることであなたから良き実りをいただくことができますように。救い主イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン

 

あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るように。アーメン

 

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