yukaina_gorilla’s diary

ごりらぼくし(大麻ルーテル教会/北見聖ペテロ・ルーテル教会)です。聖書や教会のこと、社会のこと、ペットのことなど書いていきますね。

使徒ペトロの日・使徒パウロの日

きょうは、ルーテル教会の暦では使徒ペトロの日です。

ペトロは、漁師をしていたその働きの中で、イエスさまに招かれ、弟子となりました。そして、彼は、弟子の代表格で、初代教会の指導者となりました。

彼は、イエスさまに「あなたはメシア、生ける神の子です。」と信仰の告白をして、イエスさまから「あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる。」とのことばをかけられました。「ペトロ」とは「岩」という意味で、彼に新しくつけられた呼び名であって、日本的に言うなら、「岩男」とか「岩雄」とかになるでしょうか。

この出来事を理由に、彼を教会のはじめの最高リーダー的に受け止めることもありますが、しかし、イエスさまも「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。」とおっしゃっているように、彼の信仰告白は、自分の考えや彼の信仰深さからではなく、神さまの導きの中でなされたものです。ちなみに、この「シモン」というのが彼の元々の名前です。「バルヨナ」はそういった地名、もしくは「ヨハネの子」のような意味があると考えられます。

ペトロ自身は、なんともおっちょこちょいで、弱さや欠けをかかえた人物でした。その出来事のすぐ後で、死と復活を予告するイエスさまをとがめて、逆に「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている。」とがっつりと叱られてしまったり、イエスさまが捕えられた時に三回もイエスさまのことを知らないと言って後悔の念から大泣きしたり、復活なさったイエスさまと出会いながらもなおも引きこもっていたり、そんな人物だったのです。

ですから、きょうペトロの日を、ペトロ自身のすばらしさを称える日としてではなく、また彼自身を教会の最初の最高指導者のように祭り上げるのでもなく、そんな弱く欠けのある彼を導き用いてくださったキリストを賛美する日として過ごしたいですね。

 

ところで、日本のルーテル教会では異なりますが、他の教会では、きょうは使徒パウロの日でもあります。(日本のルーテル教会では、パウロがイエスと出会い、宣教者となった日である1月25日を「パウロの日」としています。)

パウロは、最初、イエスさまの弟子たちを迫害する先頭に立っていたのですが、不思議な仕方で復活なさり天に帰られたイエスさまと出会い、「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか」と声を掛けられ、それをきっかけとして、イエスさまのことを伝える弟子となった人物です。「サウル」パウロユダヤ「サウロ」を呼びかけるときに用いた名前と考えられます。

彼は、当時、神さまの救いから遠いあるいは除外されると思われていた外国の人たち、異邦人たちに、イエスさまの救いを伝えました。旧約聖書に記されているいろんなきまりを守ることによって神さまの救いをいただくことができるというのではなく、イエスさまの十字架と復活の出来事を信じる信仰、あるいはそのイエスさまの信実によってのみ救われると宣教をしたのです。ルターの恵みのみ、信仰のみ、聖書のみの福音理解に大きな影響を与えたのが、パウロの信仰でした。

また新約聖書では、彼が、生まれたばかりの若い教会に、書簡を送り、時には優しく、時には厳しく、時には涙を流しながら、励まし指導したことも知ることができます。

彼は、イエスさまの弟子たちの中で、また教会の中で、使徒と呼ばれ、自分もそう受け止めていましたが、しかし、生粋のイエスさまの直弟子たちからは、ちょっと距離を置かれていたような感じもしないではありません。でも、彼は、それだからと言って、卑屈になることなく、信仰に基づき、毅然としていました。

ある日、ペトロがイエスさまの弟子としてふさわしくない行動をしたときに、パウロがペトロをきっちり非難した様子も聖書の中に伝えられています。

 

興味深いのは、そんなパウロとペトロが同じ日に記念されるようになったことです。

いろんな弱さがあり、欠けがある。あるいは、それぞれの得意分野がある。過去にしたことの違いもある。でも、福音の宣教は、そうした弱さと欠けある者たち、いろんな過去の者たちが召されて、それぞれの違いを超えて、あるいは違いの中で、なされていくもの。時には、ぶつかったり対立したりすることもあるけれど、でも、キリストにあって一つであることを受け止めながら、ともに教会と福音のために、つまりキリストのために仕えて働いていく同労者たち。

きっとそのことを、きょうのペトロの日とパウロの日は、私たちに教えてくれるのだろうなと思います。

折しも、私たちルーテル教会宗教改革500年を迎えています。この年を、ただのルーテル教会のお祭りとして終えるのではなく、私たちは教会の一致を願い、いろんな伝統にある教会の兄弟姉妹とともに、福音の宣教のため、この世界への奉仕のため、手を携えて新たに歩み出す機会としたいと願います。

 

ところで、余談ではありますが、ペトロとパウロが絵で描かれるとき、ペトロはふさふさの髪で描かれ、パウロはハゲに描かれます。その意味では、私としては、パウロに親近感を覚える今日この頃でありますが、しかし、そんな私も昔はペトロのようだったのですよ。ああ、わがかみよ・・・わたしを去らないでください・・・

 

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