yukaina_gorilla’s diary

ごりらぼくし(大麻ルーテル教会/北見聖ペテロ・ルーテル教会)です。聖書や教会のこと、社会のこと、ペットのことなど書いていきますね。

2017年7月16日 礼拝メッセージ

聖霊降臨後第6主日 2017年7月16日

 

「心配と恐れを超えて」

(マタイによる福音書10章16~33節)

 

わたしたちの父である神と、主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなたがたにあるように。アーメン

 

先週は、私たちが、イエスさまによって、この痛みある世界に遣わされているというお話をしました。今日のみことばは、その続きになります。

 

エスさまはおっしゃいます。「わたしはあなたがたを遣わす。それは、狼の群れに羊を送り込むようなものだ。だから、蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさい。」エスさまにより遣わされている私たちですが、それは決して平坦な歩みではないと、イエスさまはまず告げられます。「それは、狼の群れに羊を送り込むようなものだ」と。聖書の元々の言葉では、「見よ、私があなたがたを、狼たちのど真ん中の一匹の羊のように遣わす」という表現です。たいへん危険で、その羊がどうなってしまうか、想像するだけでも恐ろしい。決して太刀打ちできず、一瞬にしてやられてしまいます。

 

だから、そこで必要なのは、「蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさい」ということです。狼たちのど真ん中に羊が送りこまれるとき、ただ真正面からぶつかっていっても決して好ましい結果は望めません。だから、「蛇のように賢く」ふるまいなさいと、イエスさまはおっしゃいます。私たちがイエスさまによってこの世に遣わされるということは、この世の強い力、私たちには太刀打ちできない大きな力のそのど真ん中に、私たちがぽつんと送りこまれることです。そこでいろんな危険に晒されながら、その働きを担っていかねばなりません。もちろん世の力に怯まず恐れず、真正面からぶつかっていくということも大切かもしれませんが、その結果、ただ世の力に押しつぶされて、砕け散って終わってしまうなら、実に悲しいことになってしまうでしょう。だから私たちは、「蛇のように賢く」ふるまうことが大切なのです。

 

この「賢く」という言葉は、「慎重に」とか「思慮深く」という意味を持つ言葉です。あの創世記3章で、エバを騙した蛇のように、狡猾、ずる賢いのとは違います。私たちが世の力にただぶつかって玉砕するというのではなく、慎重に、思慮深く、賢く、イエスさまから託された働きを担っていくのです。これは具体的にはどういうことを表すのでしょうか。私たちが良く考えて、良くシミュレーションをしてということでしょうか。もちろんそうしたことも大切でしょうが、ここで言われている賢さとは、そのような私たちがどうするかということとは少し異なります。では、どういうことか。それは、私たちの思いで突っ走るのでなく、神さまへの祈りの中で、答えを求め、それに従って判断し、実行することです。ただ自分自身の判断によるのではなく、神さまが与えてくださる道を歩み、神さまが示してくださる方法を実践していく、そのことを「蛇のように賢く」という言葉で、イエスさまは告げておられるのだと思います。

 

だからそれに続けて、「鳩のように素直になりなさい」とも、イエスさまはおっしゃるのです。「素直になりなさい」と言っても、何も周りのみんなの言うことをただ「はい、はい」と素直に聴いて働きなさいと、おっしゃっているのではありません。これもまた、神さまの前での素直さです。神さまが示されたことを素直に受け入れ信頼して従うのです。ここでも私たちの自分の判断によるのではなく、神さまが与えてくださる道を歩み、神さまが示してくださる方法を実践していく、このことをイエスさまは「鳩のように素直になりなさい」という言葉で伝えようとされているのだと思います。

 

このようにただ私たち自身の判断に従ってではなく、神さまへの祈りの中で、何をどうしようか考え実践するとなると、時に、自分の思いと違うことが起こって来ることもあるでしょう。「私はこうしたいのに」とか、「私はこうしたほうが良いと思うのに」ということと、祈りの中で神さまが与え示される道や方法が異なるという場合です。このことを考えるとき、私は、世界中で愛されて大切にされている、ある一つの祈りを思い出しました。こんな祈りです。「神さま、私たちに、変えることのできないものは、それを受け入れることのできる心の静けさを与え、また、変えることのできるものは、それを変える勇気を与えてください。そして変えることができるものとできないものを見分けることができる分別を私たちに与えてください。」とても印象深い祈りだと思いますが、この祈りで言われていることは、私たちが自分の思いによって、それに従って、どうこうしようとするのではなく、神さまの導きの中で、変えられないものを静かに受け入れ、変えるべきものは大胆に変えて、そして一つの物事について、それが変えることができるものなのか、それとも変えられないものなのかを見極めることのできる知恵をいただいて歩む姿勢です。

 

神さまが示してくださる応えに従って、私たちは判断をし、なすべきことをするのです。つまり、神さまが私に命じていることは信頼して積極的に大胆に動く、あるいは、神さまの導きの中で、いまの自分には変えることはできない、あるいは変えてはならないということは、静かに潔く手を引く。そのどちらであるのか祈りの中で尋ね求める。そうした歩みが、きょうイエスさまがおっしゃっている「蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさい」ということであり、狼たちのど真ん中の一匹の羊のように弱い私たちが、とてつもなく強く大きな世の力の中で、イエスさまの働きに仕える際に大切なことだと思うのです。

 

それが具体的にどういう歩みか、イエスさまは続けておっしゃいます。つまり、人々になかなか理解されなかったり、攻撃をされたり、捕らわれたりする中で、私たちは恐れ心配するわけですが、私たちはそうした痛みを負うけれど、でも、そこで、何をどう言おうか心配は要らない。神さまがあなたに語る言葉を与えてくださり、神さまの霊があなたのうちにあって、語るべき言葉をちゃんと話させてくださると、イエスさまは、おっしゃいます。神さまが与えてくださる言葉を、あなたがたは語ればよいと、そうおっしゃるのです。

 

このことは、牧師をしていると、とてもよくわかります。私自身は、今のところは、実際に肉体的に捕えられたり鞭打たれたりするそうした厳しい状況に置かれたことはありません。でも、毎週、礼拝で何を語るかとても悩みます。けれども、今までおよそ18年間、説教ができずお休みしたことは一度もありません。しんどいながらも、何とか礼拝の説教の時間には説教を組み立ててくることができました。これは私が何か特別に優れているからとか、頭がいいからとか、話しが得意だからというわけではありません。全然優れていませんし、頭もよくなく、話すのは苦手です。でも、不思議と言葉が心の底から沸き上がって来るのです。頭に思い浮かんでくるのです。そして、それに従って、画面を見ながらパソコンのキーボードを叩いて原稿を作る、このことをおよそ18年間続けてきました。その結果、毎週、休むことなく、みことばを分かち合ってくることができました。これは決して私の力でも才能でもありません。神さまが与えてくださった、聖霊が心のうちから言葉を沸きあがらせてくださった、ただそのことのゆえであると信じて感謝しています。

 

何も牧師だけでありません。みなさんも神さまのことを自分の周りの人に伝えるとき、幼稚園の先生なら子どもたちに神さまのお話しをするとき、あるいは教会の礼拝で証しをしたりメッセージをしたりということもあるでしょう、その際に、自分自身を見るなら、なかなか話せない、思いつかない、できない、無理と思います。でもその思いが大切です。なぜなら、自分自身の力や才能で話すのではないというところに、しっかりと立つためです。そうした難しい、無理と思う中で、神さまに祈りつつ備える中で、神さまの側から言葉が備えられるのです。心の底から言葉が沸き上がるように、神さまの霊が導いてくださるのです。

 

このように豊かな導きをいただくことができるわけですが、でも、イエスさまに遣わされる歩みには、いろんな困難や厳しさが伴います。「兄弟は兄弟を、父は子を死に追いやり、子は親に反抗して殺すだろう」とイエスさまがおっしゃっているように、他の人の理解をなかなか得られず、愛する人と対立したり、さらには存在自体が認められなくなったりということも起こります。そこで私たちは本当にしんどく思い、傷つきながら過ごさねばなりません。そのように過ごす私たちに、イエスさまは「最後まで耐え忍ぶ者は救われる」と約束をしてくださっています。圧倒的な強く大きな世の力の前に、押し潰されそうになる時だってあるでしょう。でも、イエスさまが、そのように私たちが耐え忍びながら歩んでいることをちゃんとわかっていてくださり、そんな私たちのために救いを用意してくださっている、この約束を胸に刻んで歩みたい。「だから、恐れるな」エスさまがおっしゃっているこの言葉を繰り返し噛み締めて歩んでまいりたいと思います。

 

ところで、今日、イエスさまはそのように「最後まで耐え忍ぶ」ことを私たちに勧め、この世の大きな力の中で「だから、恐れるな」と励ましてくださっていますが、同時に、それと矛盾するようなこともおっしゃっています。23節です。「一つの町で迫害されたときは、他の町へ逃げて行きなさい。はっきり言っておく。あなたがたがイスラエルの町を回り終わらないうちに、人の子は来る」「最後まで耐え忍ぶ者は、救われる」とおっしゃって、また「人々を恐れてはならない」ともおっしゃったイエスさまが、「他の町に逃げて行きなさい」とも、おっしゃるのです。これは驚きです。なぜなら私たちの普通の感覚からするなら、「最後まで耐え忍ぶ」ことと「逃げて行きなさい」ということでは、まるで違う正反対の矛盾することと思うからです。最後まで耐え忍ぶなら、逃げてはならないのではないか、これが私たちの普通の感覚です。途中で逃げてしまうようなら、それは最後まで耐え忍ぶことができなかったことではないかと、そのように普通考えます。苦しくても逃げずにそこで留まる、そのことが耐え忍ぶということではないかと思うのです。でもイエスさまは「逃げて行きなさい」とおっしゃいます。

 

実はこれとても大切なことだと思います。もちろん逃げ出さずにそこに留まり続ける勇気も素晴らしいものでしょう。しかし同時に、そこから逃げる決断をする勇気もまた大切なことではないでしょうか。もちろんそう簡単に逃げたり怠けたりすることはよくありません。でも一所懸命努力して頑張って耐え忍んで、その結果、そこから撤退して、新たな歩みへ移るということは、時として必要であるし、それが尊い決断となることもあるのです。そして、その時、新たな歩みに新たな展開が待っていることだってあるでしょう。

 

エスさまの弟子たちは、このイエスさまのことばに従って、自分たちが迫害される苦しみの中で、自分たちを守るため、また家族を守るために、実際に、その町から他の町に逃げて行った様子が聖書の使徒言行録に伝えられています。きっと彼らを迫害していた人たちは、自分たちが勝利して、キリストを信じ宣べ伝える者たちが負けたと考えたことでしょう。ところがどっこい、だれも予想しないことが起こったのです。それは、信仰者たちが逃げて行った新たなその町で福音宣教が盛んになり、その町でもイエスさまを信じる者たちが加えられていったということです。信仰者が逃げれば逃げるほど、次から次へ新たな町でそのことが起こったのでした。

 

逃げるは恥だが役に立つというタイトルのドラマがありました。逃げることは私たちにとって恥のように思えます。でも、時には大胆に逃げる、そのことを神さまが用いて豊かな実りを与えてくださることがあります。魂をすり減らして苦しんで段々と疲弊し、希望を失うというより、祈りのうちに、そこを立ち上がり、そこから新たな歩みへ移ることの大切さをも受け止めたいと思います。そして、イエスさまはそうしているうちに、「人の子は来る」、つまり神の国が到来すると約束されます。私たちが苦しみの中で逃げて新たな歩みを始める中で、神の国は前進するのです。

 

エスさまは、きょう「あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている」ともおっしゃいます。自分の姿を鏡で見るとき、私の髪の毛はイエスさまにとって段々と数えやすくなってきているなと思うのですが、そのように私自身は年を重ね、衰え、シワは増え、髪の毛は減っていきます。でも、そんな弱い私たちのことを、イエスさまがともにいて助けてくださっています。そのことを信頼して祈りのうちに、世の強く大きな力の中でも、心配と恐れを超えて、「蛇のように賢く、鳩のように素直に」遣わされている働きに仕えてまいりたいと願います。

 

主よ、わたしたちを導いてください。

 

世の強い力の中で、弱い私たちです。あなたの御心を尋ね求めつつ、それに従って、あなたが示す道を歩む中で、遣わされた働きを担うことができるように導いてください。どうか私たちに語るべき言葉を与えてください。また、時には、そこから立ち上がって、新たな道へ移る決断をもお与えください。いつどんな時もどこにいても、共にいてくださる救い主イエスさまのお名前によって祈ります。アーメン

 

希望の源である神が、信仰によって得られるあらゆる喜びと平和とであなたがたを満たし、聖霊の力によって希望に満ちあふれさせてくださるように。アーメン

 

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