yukaina_gorilla’s diary

ごりらぼくし(大麻ルーテル教会/北見聖ペテロ・ルーテル教会)です。聖書や教会のこと、社会のこと、ペットのことなど書いていきますね。

2017年7月23日 礼拝メッセージ

聖霊降臨後第7主日 2017年7月23日

 

「一杯の水の重さ」

(マタイによる福音書 10章34~42節)

 

わたしたちの父である神と、主イエス・キリストからの恵みと平和があなたがたにあるように。アーメン

 

もう何度もお聞きでしょうが、今年はマルティン・ルター宗教改革から500年です。私たちがこの500年を覚えることは、ただ宗教改革500年おめでとうと打ち上げ花火的なお祭り騒ぎをして祝うことではなく、また500年前の過去の出来事を記念するということでもありません。500年前から今もずっと続いている宗教改革の中に私たちもそこに連なっているということを心に刻みたいと思います。そうした思いの中で、私たちがこの宗教改革500年を覚えることには、大切にすべき3つの大きなことがあるのではないかと、私は考えています。

 

まず一つ目は、この宗教改革500年を、私たち自身の改革の機会とするということです。私たちの教団の宗教改革500年のテーマは、このことを明確に伝えています。それは、「ルターの宗教改革から500年 そして私たちの改革」というテーマです。私たちが、今から500年前にルターによって再発見された宗教改革の福音の信仰に立ち返り、そのことを通して、私たち自身の信仰、また私たちの教会の歩みを改めて見つめ直して、より福音の信仰にふさわしく歩むことができるように、新しく改革されることを祈り目指していくのです。宗教改革を過去の出来事にするのではなく、日々改革されていく私たちの信仰、絶えず改革され続けていく私たちの教会、そのことを大切にしたいですし、宗教改革500年が、改めてそのことを心に刻む機会としたいと思います。

 

宗教改革500年を覚える際に大切にしたい二つ目は、私たちが教会の一致を願い目指すということです。ルターは、今から500年前、当時の教会にとって、ふさわしくないところを修正し、改善しようと呼びかけました。また、彼が再発見した福音に基づいて、礼拝での説教をし、教会の形成をし、多くの著作もいたしました。それはとても大切な尊い働きでしたが、同時に、その宗教改革の出来事をきっかけとして、当時の教会が大きく分裂してしまったという事実があります。ローマ・カトリック教会と、プロテスタントの教会の分裂、さらにはプロテスタント内でも実に多くの教派に分かたれていきました。その分裂は、その後500年、こんにちに至るまで解消されていません。しかし、イエスさまは、十字架にかかる前の夜、イエスさまを信じる者たちが一つとなるように切に祈られました。そして、そのことを通してこの世の人たちが、イエスさまがこの世に遣わされたことを知るとおっしゃいました。ですから、私たちはこのイエスさまの祈りに応えるためにも、宗教改革500年をきっかけとして、教会が一つとなるように祈り願い、そのことを目指すのです。小さな取り組みですが、私たち道内のルーテル教会がこの秋に計画している宗教改革500年合同修養会では、私たち日本ルーテル教団と、また聖壇と講壇の交わりの関係にある日本福音ルーテル教会の共同の取り組みとして行われます。また、記念講演会では、カトリック教会の信徒である阿部先生に講演をしていただき、500年合同礼拝では日本聖公会の司祭である広谷先生に説教をしていただきます。このように私たちの足元から、教会一致のための歩みに仕えていきたいと思います。

 

そして、宗教改革500年を覚える際に大切にしたい第三のことは、宣教です。私たちが神さまから与えられた救い、その救いの福音を、私たちの周りの人に、また次の世代を担う人たちに分かち合い伝えていきたいのです。自分が福音に生かされたことを感謝し喜ぶことは、とても大切なことですが、私たちがただそこに留まるのではなく、そこから一歩踏み出し、その感謝と喜びを伝える歩みをしていく。個人としても教会としてもそのことを目指し、実践していくことが、私たちが宗教改革500年を覚える際にとても大切なことです。ルターも自分で福音の喜びを見出して、ただそこに留まらず、それを一人でも多くの人に知ってもらいたい、そして一緒に喜びあいたいと願って、いろんな人と語り合ったり、いろんな文章を著したり、そして礼拝でお話ししたりしたのです。それが、宗教改革という大きな運動として展開されていきました。私たちも、ルターの姿勢に倣い、福音の喜びを伝える教会でありたいですし、一人ひとりでありたいと願います。

 

そのように宗教改革500年を機に、改めて宣教の歩みを目指す私たちにとって、ここ数週間の礼拝ごとに与えられているマタイによる福音書の9章の終わりから10章のみことばは、とてもふさわしいメッセージが伝えられています。私たちがイエスさまから宣教の働きにこの世界へと遣わされていること、そして、私たちが世に遣わされている者としてどのような心構えで歩んでいけばよいのか、また、イエスさまが私たちにどのようなかかわりをしてくださるのか、そうしたことが語られてきましたし、今日のみことばもまた、私たちがイエスさまによって宣教の働きに遣わされて歩む、その歩みの中で一体どんなことが起こるのか、そこでどう歩めばよいのかが語られています。

 

しかし、今日のみことばで語られていることは、たいへん残念な内容です。イエスさまを信じ宣べ伝える際に、それを聞いたみんなが喜び受け入れてくれるのかと言うと、そうではなく、むしろ理解してくれず、特に、家族など身近な人たちと対立するようなことになってしまう。そして、そこでなかなか生きるのが苦しくなってくるし、また生きていく存在すら認められないようなことだって起こってくる。イエスさまはそのように告げられるのです。

 

私たちは、イエスさまを「平和の主」と信じています。けれども、今日のみことばでは、イエスさまは「わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ。わたしは敵対させるために来たからである」と、何ともびっくりすようなことをおっしゃっています。けれども、私たちが実際にイエスさまを信じて生きる、また、イエスさまを宣べ伝える歩みをしていくときに、このイエスさまのことばが、分かるような思いがいたします。

 

私たちはもちろん誰しもが平和を願っています。みんな仲良く助け合って笑顔で過ごしたいとそのことを切に求めています。でも、イエスさまを信じ、イエスさまを伝える歩みをする中で、先ほど申しましたように、特に身近な人になかなかそのことが受け止めてもらえない、時にはそのことが原因で口論になってしまうようなことや仲違いしてしまうこともある、さらにはそこで自分の存在すら認めてもらえなくなってきたり、一緒にいることが難しくなってきたりすることも多いのです。平和を願いながらも、そうした剣の現実を、私たちはイエスさまを信じる信仰やイエスさまを宣べ伝える働きのゆえに引き受け、その中を生きていかねばなりません。イエスさまは、そのことを今日告げておられるのではないでしょうか。

 

身近な人とのかかわりにおいても、私たちにもし信仰がなければ、結構いろんなことをスルーしてただ笑っていればよいかもしれないようなことも、私たちがイエスさまを信じる信仰に立つがゆえにスルーすることができずに、「いや、それはおかしいと思う」とか、「ごめんなさい、それは私にはできないわ」とか言わければならないことがあります。そうすると家族の中に波風が立ってしまったり、関係に亀裂が入ったりしてしまうわけです。信仰があるがゆえに、愛する者との関係において、余計に苦しみ悩まねばならないことも少なくありません。

 

そうした中で私たちは心をすり減らしながら生きていかねばならない。ただ心の内面的なことにとどまらず、身体すらおかしくなってきてしまう。まさに魂を、命をすり減らしながら、私たちは剣の現実を生きていくのです。イエスさまは、そうした私たちの一つ一つの歩みが、私たちにとっての十字架であると、今日、おっしゃいます。そのように愛する者とのかかわりの中で、剣の現実の中を命をすり減らしながら生きるわたしたちの歩みですが、しかし、イエスさまはそれを私たちにとっての大切な十字架として受け止めてくださっていて、そのように十字架を負って従うときに、豊かな命を約束してくださるのです。私たちには、そうした苦しい現実を誤魔化しながら生きていくという術もあるかもしれません。しかし、そうした生き方は命を失う生き方だと、イエスさまはおっしゃいます。十字架を負いながら苦しみ悩み傷つきながら生きる生き方、確かにつらい歩みですが、そこにこそ実は豊かな命があると、イエスさまはおっしゃるのです。

 

そのように私たちが歩んでいく際に、その関わる相手をどう見て、どう接するかについても、イエスさまはおっしゃいます。私たちのことをわかってくれない、私たちに攻撃をしてきたり敵対したりする、そうした相手を、私たちもまたその人のことを自分の敵のように思ってしまいがちです。多くの人が自分のことを理解してくれなければ、みんなが自分の敵のようにすら思えてきます。でもイエスさまは本当にその人があなたの敵なのか、今一度、立ち止まって見つめなおしてみるように、今日「一杯の水」について語る中でおっしゃっています。「はっきり言っておく。わたしの弟子だという理由で、この小さな者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける」。

 

私たちがイエスさまを信じ、イエスさまを宣べ伝える歩みの中で、コップ一杯の冷たい水を忘れるなと、イエスさまはおっしゃるのです。いえ、私たちに忘れるなとおっしゃるだけでなく、イエスさまがその人のことを必ず顧みてくださると約束なさるのです。

 

私たちが人とのかかわりであまりうまくいかなくなったとき、相手が自分にいやなことをしたり言ったりしてくるとき、もうその人のすべてが憎くなってくるということも少なくありません。坊主憎けりゃ袈裟まで憎いのような感じに、です。でも、そこで、その人が自分に差し出してくれるコップ一杯の小さな水が、どれだけ自分にとって助けになるか、ありがたい感謝すべきものか、忘れずに受け止めることができる心を大切にするように、イエスさまはおっしゃいます。

 

どれだけ憎い人でも、どれだけ大きく対立している人でも、ただその人を敵として背中を向けて生きるのではなく、そんな人でも実は時には、あるいはいろんなことで自分に助けとなるかかわりをしてくれているということを見過ごさずに、その小さな一杯の水の重さを受け止めて、喜び感謝し平和を求めるそうした心をもって接していくことの大切さを、今日のイエスさまのみことばから思います。

 

私たちがイエスさまからこの世界へ宣教の働きのために遣わされているとお話をしました。そしてその働きは、宗教改革500年を迎える私たちの歩みにとって大切なものであると。確かに尊く大切で偉大な働きです。でもそこで、何か自分自身が偉大な者になったかのように勘違いしないようにしたいのです。私自身は小さなものです。ルカ福音書の中に「自分に命じられたことをみな果たしたら、『わたしどもは取るに足らない僕です。しなければならないことをしただけです』と言いなさい」とイエスさまはおっしゃっていますが、まさに私自身は「取るに足らない僕」であって、ただただ「しなければならないことをしただけ」であることを忘れてはなりません。洗礼者ヨハネが言ったように、大切なのは「あの方(キリスト)は栄え、わたしは衰えねばならない」という姿勢です。偉大なのは私ではなく、神さまでありキリストです。私たちは主の導きの中で、主の栄光のために仕えて働いているにすぎません。「誇る者は主を誇れ」ということを忘れずにいたいのです。

 

ですから、私たちは、謙虚さ・仕える心を絶えず忘れずに、たとえそれがたった一杯の水であっても、相手が差し出してくれる小さな助けを見過ごすことなく、また、忘れることなく、それを何か当然なことともせず、とても価値あるささげもの・奉仕として感謝して受け止めたいのです。そこから宣教が始まっていくのだと思います。パウロ「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです」と語った言葉を思います。感謝を忘れたところに宣教はありません。苦虫を嚙み潰したような顔では、イエスさまの愛は伝わりません。相手への感謝をもって笑顔で接していく中でこそ、宣教が展開されていくのです。

 

先日、友人と話していたとき、「他人と過去は変えられないが、自分と未来は変えることができる」という言葉が話題になりました。昔からよく言われる言葉ではありますが、宣教も、相手を変えることでなく、まずは自分が小さなことに喜びと感謝をもって毎日を過ごすことを大事にする中でこそ、そこから新しい一歩が始まるのではないでしょうか。

 

主よ、わたしたちを導いてください。

 

神さま、あなたを信じ、福音を宣べ伝えて歩む私たちですが、なかなか理解されず、対立したり、生きにくさを感じたりいたします。その中で傷つき辛い思いをしますけれども、しかし、そうした剣の現実を、私の十字架として背負いながら歩んでいくことができますように。その歩みを通して豊かな命を与えてくださるとの、御子の約束を感謝して信じます。また、出会う人たちが私たちにしてくれる小さなかかわりを喜び感謝して歩んでいくことができますように。救い主イエスさまのお名前によって祈ります。アーメン

 

あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るように。アーメン

 

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