yukaina_gorilla’s diary

ごりらぼくし(大麻ルーテル教会/北見聖ペテロ・ルーテル教会)です。聖書や教会のこと、社会のこと、ペットのことなど書いていきますね。

2017年7月30日 礼拝メッセージ

聖霊降臨後第7主日 2017年7月30日

 

「重荷をおろして」

(マタイによる福音書11章25~30節)

 

わたしたちの父である神と、主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなたがたにあるように。アーメン

 

私たちは、毎日、実に様々なことを考え、色々なことを行いながら暮らしています。外での仕事や家での働き、人とのかかわりや自分自身のこと、あるいは社会や、この国や、世界のことなど、やるべきこと、考えるべきことが本当にたくさんあります。その中で、心身ともに、くたくたになりながら、あるいは、のどが渇くように心がからからに渇きながら、このように今日も礼拝に集められました。礼拝において、みことばと聖餐、また、祈りや賛美を通して、神さまからの癒しと潤いをいただいて、また元気にされて、一週間の生活へと出かけていきたいと、そう心から願って、ここに集っているのです。そうした私たちに、イエスさまは今日も慰めのみことばを語ってくださっています。

 

エスさまはおっしゃいます。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」これは、本当にスッと私たちの心の中に入ってきて、心の隅々にまで沁みとおるみことばです。いろんな疲れを感じながら、また、重荷を負いながら過ごしている私たちにとって、このイエスさまのみことばは、たいへん大きな慰めです。ここで、イエスさまは「だれでも」とおっしゃっています。そこに例外はありません。「だれでも」です。たとえ自分では「私なんか、ふさわしくないよな」とそう思っていても、また「あの人は、ふさわしくないよ」とそう思っても、私も、その人も、イエスさまは「だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」と招いてくださっています。そのイエスさまの招きから漏れる人はだれ一人としておりません。「だれでも」みんなが招かれているのです。

 

ところで、イエスさまは今日のみことばの初めにおっしゃいました。「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。そうです、父よ、これは御心に適うことでした。」これは、イエスさまの祈りの言葉です。ここでは、イエスさまがお語りになったことを「知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました」と、イエスさまはおっしゃっています。この「知恵ある者や賢い者には隠して」という言葉と、初めにお話しした「だれでもわたしのもとに来なさい」とみんなが招かれているということと、一見、矛盾するように思えるかもしれません。「だれでも」とおっしゃいながら、「知恵ある者や賢い者」は除外されるのだろうかと。

 

しかし、もちろんそうではありません。イエスさまは「だれでも」すべての人を招いてくださっています。そこには何の例外もありません。イエスさまから招かれていない人など、誰一人としていないのです。これはどれだけ強調しても強調しすぎることはない、大切で、また確かな事実です。それでは、それに先立って、イエスさまがおっしゃっている「知恵ある者や賢い者には隠して」とは、一体、どういうことなのでしょうか。それは、イエスさまは「だれでも」例外なくすべての人を招いてくださっているのだけれども、その招きを「自分への招き」「私への招き」として受け取ることができない人たちがいるということだと思います。それが「知恵ある者や賢い者」だということです。この「知恵ある者や賢い者」は、「幼子のような者」と対比して語られています。これは、きっとこういうことではないかと思います。「知恵ある者や賢い者」のように、私たちが頭の中であれこれ難しく考えているならば、イエスさまがお話しなさっていることを自分に語りかけられている招きの言葉として受け取ることは難しい。大切なのは、そのように頭の中で難しく考えてみことばを受け取ろうとすることではなく、「幼子のよう」に受け取ることだと。

 

では、「幼子のような者」とは、どういうことでしょうか。「知恵ある者や賢い者」が頭の中で難しく考えて、イエスさまのみことばを受け取ろうとして、結局、受け取ることができない人ならば、「幼子のような者」とは、そのように頭の中で難しく考えてみことばを受け取ろうとするのではない、それとは違った受け取り方をする人のことであると言えるでしょう。それは、「幼子のよう」に、「素直に」「まっすぐに」イエスさまのみことばを受け入れる人ということかもしれません。もちろん、そうした意味合いもあるでしょう。頭の中であれこれ難しく考えるのではなく、素直にまっすぐにみことばを受け入れる姿勢は大切なことですし、そうした人のことを私たちは尊敬をいたします。しかし、同時に、もっと違ったことがここで語られているのではないかとも、私は考えています。

 

「幼子」とは、親などのおとなの助けなしには生きていけない存在です。おとなにご飯を与えてもらって、おとなに守られて、また、おとなからいろんなことを教えてもらって、その中で養われて、はじめて生きていくことができる存在です。この「幼子のような者」という言葉で、イエスさまの前で、私たちがそうした者として生きていくということを、イエスさまはおっしゃっているのではないでしょうか。つまり、イエスさまの助けなしには生きていけない者、イエスさまから必要なものを与えていただいて、イエスさまから何が大切なのか教えていただき、イエスさまに守られて生きる、そうした者として、私たちがイエスさまに養われ生かされる、頭の中であれこれと難しく考えて、結局、みことばを受け取ることができずに生きるのでなく、「このイエスさまのみことばなしには私は生きていけないんだ」と、「このみことばが私のことを生かしてくれるんだ」と、切にみことばを求めて生きていく、そうした生き方を、イエスさまはここでおっしゃっていると思うのです。

 

ですから、「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」このイエスさまのみことばもまた、「このみことばがなければ、私は生きていけない」、「このみことばが私を生かしてくれるんだ」と、そんな思いで切実に、喜び感謝して、私に語られた招きの言葉として受け入れたいと思います。

 

ところで、イエスさまは今日のみことばで「休ませてあげよう」とおっしゃっています。「もうこの先あなたは疲れなくなる」とはおっしゃいませんし、「もうあなたの重荷はすべてなくなった」とも、おっしゃっていません。私たちは、イエスさまのもとで休んで、また、立ち上がって再び歩み出すのです。その中で、また疲れを覚えるし、さらにいろんな重荷を負いながら歩んでいかねばなりません。イエスさまのもとに行ったら、もう疲れないとか、もう重荷がなくなるというのではなく、イエスさまのもとに行っても、疲れるし、重荷を担いながら歩んでいく私たちです。ですから、たとえ、もし私たちがいろんなことで悩み苦しんでも、「こんな風に悩むなんて、私の信仰はダメなのだろうか」とか、「苦しみを感じるなんて、自分はクリスチャン失格なのではないだろうか」と、そんな風に悩まないでください。イエスさまを信じていたって、私たちは、くたくたに疲れてしまいますし、いろんな重荷を負って苦しみながら生きていかねばならないのです。そうした中で、イエスさまのもとに赴くならば休んで、力を得て、また、再びそこから新たに出発することができると、イエスさまはおっしゃいます。

 

エスさまは続けておっしゃっています。「わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」エスさまは、ここで「軛」ということをおっしゃいますが、これは、現代の私たちにはあまりなじみのない言葉かもしれません。私も調べなければわかりません。軛は、牛などの二頭の家畜の首の上に横棒をつけて、それぞれ別の方向に行ってしまわないようにする道具です。そうして二頭をつなげて、荷物をひかせるのです。

 

ここでイエスさまがおっしゃっていることには、二つの意味があると考えられます。まず一つは、当時の宗教とのかかわりです。当時は、神さまを信じるとは、いろんなきまりを守って生きることで、そのきまりを守らなければ、その人は罪人であって、神さまから裁かれてしまうと、人々はそのように教えられていました。ですから、神さまを信じることは、当時の人たちにとって、必ずしも喜びではなく、きつく苦しいことでした。それに対して、イエスさまは、神さまを信じるとは、そのようにいろんなきまりにがんじがらめになって苦しんで生きることではなく、神さまの赦しや救いをいただいて、平安のうちに喜びと感謝をもって生きることだと教えられました。そして、その神さまの救いを私たちに与えてくださるために、イエスさまご自身が十字架を引き受けられるのです。そのことを信じて平安に生きていきなさいということが、ここでイエスさまが「わたしの軛を負い、わたしに学びなさい」ということであり、「わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽い」とおっしゃっていることの一つの意味であると考えられます。

 

もう一つは、軛でつながれて一緒に歩む二匹の家畜のように、私たちがイエスさまと一緒に重荷を負って生きるということです。私たちにとって、自分独りで重荷を負わなければならない。そのことが本当につらく大変なことです。だれも私の辛さをわかってくれない。だれも私を助けてくれない。私たちは、そのことに余計に辛く悲しくなってきますし、時には腹立たしくなってすらきます。でも、そんな私たちに、イエスさまが「わたしがあなたと一緒にあなたの重荷を負って歩もう」とおっしゃるのです。イエスさまが、私の隣で、私の重荷の片棒を担ぎながら歩んでくださるというのです。もうひとりぼっちで、私たちが苦しみながら歩んでいるのではありません。自分だけでこの重い負担を負わなければならないのでもありません。イエスさまが私とともに歩んでくださっている。イエスさまが一緒に私の重荷を負ってくださっています。

 

もちろん、だからと言って、先ほどから申している通り、私の重荷はなくなることはありません。イエスさまを信じていても、私たちは重荷を負い続けなければならず、いろんなことに悩み苦しみ疲れながら過ごさねばなりません。でも、もはや独りじゃない。イエスさまが一緒です。重荷も、イエスさまが一緒に担ってくださっているのだから、単純に考えても、それは今までとは、半分の重さになります。実際には、半分どころではなく、イエスさまが一緒なら、私たちにとって、かなりの負担の軽減になります。何よりももう「誰もわかってくれない」とか「私一人で大変な思いをして」という、そんな思いから解放されて過ごすことができます。イエスさまが一緒です。イエスさまがわかってくださっています。ともに私の苦しみを負ってくださっています。

 

さらに、イエスさまは十字架を引き受け、私たちのどんな重荷をも、ご自分の身に引き受けられたお方です。私たちが自分では負いきれないあらゆる重荷を、イエスさまがご自分の身に引き受け、十字架にかかられました。そして、命すら惜しまずにささげられるのです。そのイエスさまが、「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」と、今日私たちにおっしゃって、招いておられます。これは決して気休めの空しい言葉ではありません。命がけの言葉です。この言葉を前にして、私たちはあれやこれや頭の中で難しく考えなくてもよいのです。このイエスさまのことばがなければ、私は生きていけない、このことばがあるから私は生きていくことができる、このことばにこそ私の救いがある、そんな切実な思いで、イエスさまの懐に飛び込んでいけば、それでよいのです。その時、他のものからは決して得ることのできない、真の安息、本当の癒しが、私たちに与えられます。

 

そして、そのイエスさまのもとからまた、私たちの新しい歩みが始まるのです。もはや独りぼっちではなく、イエスさまとともなる歩みが始まります。もちろんその後も、いろんなことが私たちの身に降りかかることでしょう。大きな重荷も担わなければならないこともあるでしょう。自分のこと、家族のこと、友のこと、社会のこと、様々なことで私たちは疲れを覚えます。でも、もう独りじゃありません。隣を見れば、そこにはイエスさまがおられます。イエスさまが十字架を担ぎながら、命がけで私の重荷を共に負いながら歩んでくださっているのです。

 

「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」このイエスさまのことばを胸に刻んで、新しい一週間も、ここから歩み出したい、そのように願うものです。

 

主よ、私たちを導いてください。

 

多くの重荷を担い、いろんな疲れを覚えて生きる私に、イエスさまが「わたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」と語りかけてくださいます。感謝します。どうかイエスさまのもとで休み、癒され、また新しい歩みを始める力が与えられますように。私の隣にイエスさまがおられ、ともに重荷を担っていてくださることを信じて歩ませてください。救い主イエスさまのお名前によって祈ります。アーメン。

 

あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るように。アーメン

 

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