yukaina_gorilla’s diary

ごりらぼくし(大麻ルーテル教会/北見聖ペテロ・ルーテル教会)です。聖書や教会のこと、社会のこと、ペットのことなど書いていきますね。

軛(メッセージを終えて番外編)

「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。 わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」(マタイ福音書11章28~30)

 

今日のみことばの一節である。

 

このみことばの「軛」について、今日のメッセージにおいて次のように語った。

 

軛は、牛などの二頭の家畜の首の上に横棒をつけて、それぞれ別の方向に行ってしまわないようにする道具・・・そうして二頭をつなげて、荷物をひかせる》

 

そしてここで言われている可能性として、二つのことを話した。

 

(1)当時の宗教とのかかわり。律法を守ることを強要され、それが守れない人は罪びとで、神の裁きを受けるとされていた民衆。宗教は、喜びや平安ではなく、重荷であった。しかし、イエスは、神を信じることはそうしたことではなく、神の赦しや救いの中で、喜びをもって平安に生きることだと伝えた。これが、重荷をおろして、イエスの軛を負え、その軛は軽いということの一つの意味。

 

(2)イエスの軛を負え、その軛は軽いということのもう一つの意味は、エスが私と共に重荷を負ってくださるということ。あの牛の絵のように、私の隣で、私の軛の片棒を担いで、イエスが重荷を負ってくださる。だからもう独りで苦しまなくてよい。イエスが一緒だ。私の重荷の負担は、イエスが一緒に負ってくださるのだから、単純にも、今までの独りで負うよりも半分の重さ、いや、もっと軽減されるだろう。

 

そして、話し終わって、今一度この絵を見る時、あまりに牛がかわいそうになってきた。牛にとって、これは本当につらいことだろう。毎日毎日これをしなければならない。このように動物を道具として使う、これは先人の知恵ではあろうが、同時に、自然や神の被造物に対する、私たち人間の、ある意味、残酷さをも思う。

 

さらに思った。イエスが私の軛を私と共に負ってくださるということ、それはこんなにもつらく苦しいことをイエスが引き受けてくださったのだということ。イエスが、私と一緒に苦しんで、一緒に歩んでくださっているとは、このようなことなのだと。

 

深い畏れと感謝に導かれた。

 

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/0/0e/Bullock_yokes.jpg