yukaina_gorilla’s diary

ごりらぼくし(大麻ルーテル教会/北見聖ペテロ・ルーテル教会)です。聖書や教会のこと、社会のこと、ペットのことなど書いていきますね。

2017年8月13日 礼拝メッセージ (平和主日)

聖霊降臨後第10主日平和主日

「成長を信じて」

(マタイによる福音書13章24~35節)

                                                               

わたしたちの父である神と、主イエス・キリストからの恵みと平和があなたがたにあるように。アーメン

 

先週もお話しいたしましたが、8月を迎え、私たちは、いま、一年の中で特に平和を覚えて祈るべく季節を過ごしております。教会の暦でも、日本のルーテル教会では、8月に平和を特別に覚える礼拝をしてもよいと定められておりますので、今日は、みことばを通して、ご一緒に平和について考えたいと思います。

 

今日、「平和主日」の礼拝の色として、赤を用いておりますが、3つの理由があります。まず一つ目は、今までの戦争で多くの人の血が流されたその事実を心に刻むためです。二つ目は、そうした戦争で苦しみ痛みを覚える人たちと、十字架にかかられたイエスさまが一緒に苦しんでおられることと、イエスさまの十字架によって平和が与えられることを受け止めます。そして三つめは、世界の平和は、神さまの聖霊の導きによって私たちに届けられるものです。聖霊が人々の心に愛の炎を燃やし一つに結び合わせてくださることによってこそ、私たちに平和が与えられることを受け止めます。

 

私たちが、宗教や政治的な立場も超えて、ともに平和を祈るこの季節ですが、しかし、いま、世間で伝えられていることは、残念ながら平和を脅かし、私たちを不安に陥れる出来事です。ミサイルを他の国に向けて飛ばすかもしれないということを言及しているある国の指導者がいれば、それに対して、それ以上の攻撃をしてその国を破滅させるということを言及している別の国の指導者がいる。そうした中で、私たちの国とこの世界は一体どうなってしまうのだろうかと、私たちはたいへん不安になり恐れを抱くわけですが、イエスさまがおっしゃった「剣を取る者は剣で滅びる」ということの真実を心に刻み、私たちは、今こそ神さまに平和を祈り求めたいと思います。

 

ところで、なぜ、このように、礼拝の中で平和についてのお話をするのかと申しますと、これは天の国、神の国の福音に生かされる私たちの大切な課題であるからです。天の国、神の国というと、つい自分が死んだ後に行くあの世のことや、世の終わりに神さまが実現される場所のことを考えがちです。もちろんそれも大切な事実であり、大きな希望です。今日、午後からは簾舞の墓地において墓前礼拝が行われます。天の国を見つめて、私たちはその天の国に召されるその日までこの世の生涯を精一杯生きていく、また、この地上の生涯を終えた人たちが、今や、天の国で永遠の安息が与えられているという事実を私たちが信じる、それはとても大事な信仰です。その信仰があるからこそ、私たちは神さまを信じ、キリストの救いを受け入れています。でも同時に、イエスさまが約束される天の国、神の国は、ただそうした死後の世界や世の終わりに実現する場所のことだけを表しているのではありません。

 

「天の国」とは、聖書のもともとの言葉であるギリシア語では、「天の支配」という意味を持つ言葉です。そしてそれはマタイによる福音書で使われる言葉であり、他の福音書では、「神の国」という言葉が使われています。それは、「天の国」が「天の支配」を意味する言葉であったのと同じく、「神の国」は「神の支配」という意味を持つ言葉です。そして、その天の支配、神の支配は、ただ私たちが死んだ後に行く場所、世の終わりに実現する場所というだけでなく、今ここに生きる、分かりやすく言うならば「この世」に生きる私たちもまた、今もう既に天の支配、神さまのご支配の中に生かされているのです。ルカ福音書の中で、イエスさまはおっしゃっています。神の国は、見える形では来ない。『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ。」そのように、まさに私たちの間、私たちのただ中に、神の国はある。神さまのご支配が今既になされている。ですから、その神さまのご支配の中で起こる、この世の一つ一つの出来事は、私たちにとって大切な神の国、天の国の課題であって、私たちの祈りと奉仕の課題でもあるのです。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された」ヨハネによる福音書で告げられているように、私たちが生かされているこの世界は、神さまの深い愛の中にあります。その神さまの愛にふさわしい世界であるように、私たちはこの世の課題を覚えて祈り、もしそれにふさわしくない現実があるならば、少しでも神さまの愛にふさわしい在り方になるようにと、そのために仕え働いていくのです。

 

その際に、私たちが心しておくべきことがあります。それは今日のイエスさまがたとえ話の中でお話しなさっている毒麦についてです。せっかく良い種を蒔いた畑に、ある日、悪さをする敵がやってきて、毒麦の種を蒔いて行きました。そうすると、畑の中には、麦と一緒に毒麦も生えてきたのです。それを見て、畑で働くしもべたちが主人に、その毒麦を抜くことを提案します。しかし、主人は、毒麦と一緒に良い麦をも間違えて抜いてしまうかもしれないから、狩り入れの時までは毒麦もそのままにしておこうと答えるのです。私たちは、イエスさまのこのたとえ話から、自分の、私自身の心の中にも、こうした毒麦があることを受け止めておきたいと思います。

 

私たちは、この世の思わしくない現実を目の当たりにするとき、あいつらは悪魔に取りつかれているのではないかと、そんな風に思います。今、私たちの世界で起こっていることで言うなら、初めにお話しいたしました、ミサイルを飛ばすと言っている国の指導者も、それに対して、それ以上の攻撃をすると言っている国の指導者も、いずれも悪魔に取りつかれているのではないだろうか、そんな風な思いになります。でも、私たちはそこで忘れてはならないことがあります。それは、私たち自身の中にも、彼らと同じ悪魔的な心があるということです。私たちがただ彼らと違うところに立って、「あいつらはひどいよね、人間じゃないよね、悪魔だよね」と、そんな立ち方をしている限り、本当の問題の解決、平和の実現はいつまでも遠のいてしまうでしょう。そうではなく、私たちも根っこのところでは彼らと同じなのだということを受け止めることが大切です。もちろん私たちには彼らのような地位も権力もありませんから、彼らと同じことはいたしません。でも、私たちも根本的には彼らと同じような残酷な心を持ち、自分勝手な心を持っているということを忘れないでいたいのです。悪魔的な心、あるいは、今日のイエスさまのみことばで言うならば、毒麦が、私たちの心の中にはあるのだということを、肝に銘じておきたいと思います。

 

そのことを忘れてしまうなら、どこかで自分が絶対となってしまい、またどこかで自分こそが正義を行う神さまとなってしまいます。極端な例を挙げるならば、かつて私たちの国で起こった学生運動で、本来は平和を守るはずの運動をしていた人たちが、自分たちの中で裏切り者とされる人たちに対して暴行をして、命を奪ったということが起こりました。あるいは、アメリカでの中絶反対運動で、命を守るはずの運動を行う人たちが、中絶を行う病院を爆破したり、中絶を行う医師を殺害したりということが起こります。普通に考えるならば、これらのことがどれほどおかしいことなのか、平和や命を守るという彼らの主張とどれほど大きく矛盾していることなのか、すぐにわかるわけですが、しかしその渦中にいると、自分が絶対となり、自分が神さまとなってしまっていて、そのおかしさに気づけないのです。もし自分の中の毒麦を忘れてしまうならば、私たちもまた、そうした本末転倒な矛盾していることをしてしまいかねません。私たちがこの世に生きる限りは、私たち自身の中に毒麦の現実を抱えているということを忘れないでいたいと思います。そうした自分自身を見つめ、また悔い改めて、平和を脅かしているのはこの私自身でもあり、私もまた神さまの赦しが必要な者であるということを受け止めつつ、平和のために祈り、奉仕することの大切さを思います。

 

さて、私たちが平和を祈り、そのために奉仕をしていくときに、この世界が抱える問題の大きさの前に、自分の無力さを感じます。私が祈り、こんな奉仕をしても、果たして、一体、何の役に立つのだろうか、何の意味もないのではなかろうか、それは実に焼け石に水でしかないのではなかろうか、そんな思いになるのです。しかし、きょうイエスさまが続けてお話しなさっているたとえ話から、私たちはたいへん大きな希望をいただくことができます。それは、からし種とパン種のたとえです。

 

まず、からし種のたとえですが、小さな小さなからし種、あの粒々マスタードの中にある小さな粒を思い浮かべていただきたいのですが、それほど小さな種が、畑に植えられるとき、とても大きく育ち、立派に枝もつけて、そこに鳥が巣を作るようにすらなるであろうというお話です。次に、パン種のたとえですが、これまた本当に細かい粉、ベーキングパウダーを思っていただければよいですが、それを三サトンの小麦粉、これは約40リットルの小麦粉ですが、そこに、その細かなパン種を少し入れたら、とても大きく膨れて、実にたくさんの人、およそ150人が食べられるほどのパンを作ることができるであろうというお話です。からし種も、パン種も、目で見る限りは、いずれも何の役にも立たないような実にちっぽけなものです。でも、それが誰も思いもしないほどにたいへん大きく育ち、大きな働きをして、多くの命を養うようになると、イエスさまはおっしゃいます。

 

天の国、神さまのご支配に仕える、私たちの平和への祈り、平和への奉仕も同じです。それ自体は、本当にちっぽけなもので、何の役にも立たないのではないかという思いになるものです。この世界の現実の中で、その大きな課題と闇の中で、本当に無力なものとしか思えません。私たち自身は、そうした役に立たないような小さな種を蒔くしかできない。あるいは、私たち自身、吹けば飛ぶようなちっぽけな種でしかありません。でも、それを神さまが育ててくださり、天の国、神さまのご支配のために、思いもかけないほどの大きな働きとしてくださり、多くの命が育まれるようにしてくださると、イエスさまは今日約束してくださいます。先週のメッセージで、「木を植えた男」の絵本のお話をいたしました。荒れ果てた不毛な地に、やがて大きな命に溢れる森ができることを信じて、毎日毎日こつこつとどんぐりを植え続けた、あの彼のように、この大きな課題を抱える世界の中で、私たちも平和を求めて、神さまの働きを信じて、小さな祈り、小さな奉仕を続けていきたいと願います。

 

そして、今日のみことばからご一緒に受け止めたい、もう一つのことがあります。ここで語られているのは、からし種であり、また、パン種です。からし種は土に植えられて、パン種は小麦粉の中に混ぜられて、はじめてその役割を果たします。からし種やパン種自体がいつまでも外に現れているのではありません。外にある限り、それは種のままであって、必要な働きをいたしません。土に植えられえ、粉に混ぜられて、その存在が隠されて失われる中で、その時、それらは働き、大きく育つのです。私たちの平和の祈り、そして平和への奉仕も、これと同じです。私たちの平和の祈りやそのための奉仕が、周りの人たちから評価されることはないかもしれません。理解されないかもしれません。でもそれでよいのです。私たち自身は、種なのですから。たとえ誰も理解してくれなくても、誰も評価してくれなくても、それでいい。私たちは目立たないところで隠れて祈り、奉仕をしていくときに、神さまが豊かに育ててくださり、多くの実りを与えてくださる。私たちは、このことを信じてこの世界の片隅でひっそりと祈り、小さな奉仕を重ねていくのです。

 

エスさまがおっしゃった一粒の麦のみことばを思い起こします。「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。」これはイエスさまご自身の生涯について語られたみことばです。神さまからこの世界に遣わされた御子イエスさまが、十字架にかかり死んで命をささげることによって、多くの人が生かされ、神さまの救いに与ることが言われています。私たちもこのイエスさまに倣って、イエスさまに従って生きることを志す者です。ですから、私たちも、その心を大切にしたいと願います。たとえ自分が認められず、評価されなくても、それだからこそ、多くの実りが与えられると信じて、平和を求めて祈り仕えて働いていきたいのです。天の国に生かされる者として、自分の中にある毒麦を見つめ絶えず悔い改めながら、神さまが豊かに育ててくださることを信じて、土の中に、また、小麦粉の中に隠されたちっぽけな種としての歩みをしていきたいと、そう願います。

 

主よ、私たちを導いてください。

 

この世界に平和をお与えください。私の心の中にある、またこの世界にある、毒麦の現実を悔い改めます。あなたの赦しの中で平和を祈り、そのために仕えて働くことのできるように、私を用いてください。この世界の大きな闇の前に無力な私ですが、しかし、主が働いてくださって、大きく豊かに用いてくださることを信じて、小さな祈りと小さな奉仕を続けていくことができますように。私をも天の国に招いてくださる、平和の主イエスさまのお名前によって祈ります。アーメン

 

あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るように。アーメン

 

*動画(実は礼拝時、撮影ミスをして、壁を映していたのでw 礼拝後にもう一度ひとりで話して撮影し直したものです。ちゃんと式服ももう一度着用し直しました笑) 2017-08-13.mp4 - Google ドライブ

https://pastorross1.files.wordpress.com/2011/02/wheat-and-tares1.jpg