yukaina_gorilla’s diary

ごりらぼくし(大麻ルーテル教会/北見聖ペテロ・ルーテル教会)です。聖書や教会のこと、社会のこと、ペットのことなど書いていきますね。

道内合同教職者会 閉会の祈りメッセージ

日本福音ルーテル教会日本ルーテル教団道内合同教職者会

 2017年8月18日 閉会の祈り

 

宗教改革500年

 私たちの改革、教会の一致、そして宣教」

 

聖書 ある夜のこと、主は幻の中でパウロにこう言われた。「恐れるな。語り続けよ。黙っているな。わたしがあなたと共にいる。だから、あなたを襲って危害を加える者はない。この町には、わたしの民が大勢いるからだ。」パウロは一年六か月の間ここにとどまって、人々に神の言葉を教えた。(使徒言行録18章9~11)

 

今年もこのように道内のルーテル教会で共に働く先生方と、JELC/NRKそれぞれの所属の違いを超えて、共に学び、共に祈り、共に交わる時として、合同教職者会を行うことができましたことを心より感謝いたします。

 

この閉会の祈りですが、実は、最初、K先生にお願いしようと思っておりましたら、先生は今回お休みということで、私が担当することになりました。「白井サボるな」という神さまとK先生からのお達しとして受け止めて務めさせていただきます。

 

宗教改革500年のこの年に行われる合同教職者会として、そのことに関連して、お話させていただきたいのですが、以前、これと似たことを教会でもお話しし、ネットにもあげております。もしかしたら読まれた方もいらっしゃるかもしれません。宗教改革500年を祝う私たちが、それをただの打ち上げ花火的なお祭りで終わらせてしまわず、より有意義な機会とするために、大切にしたいと私が思っております3つのことを、お話させていただきます。

 

まず一つ目は、ルターの宗教改革を今から500年前の過去の出来事にしてしまわないということです。「宗教改革500年記念」とフェイスブックで書くと、T先生が「500年記念というのはふさわしくない」とコメントをくださいます。それは、宗教改革は500年前に過去の起きた出来事なのではなく、500年前に始まった宗教改革が今なお続いており、私たちも宗教改革の中にいるという理由からです。

 

ですから、今年の宗教改革500年を、私たちもただの過去の出来事として記念し祝うというのではなく、私たちがルターの信仰や神学、宗教改革の精神を新たに学び受け止めて、それを受け継ぐ機会としたいと思います。そして、そのことを通して、私たち自身の信仰や教会を、改革することを志す、そんな機会にしたいのです。私たち日本ルーテル教団宗教改革500年のテーマは、「ルターの宗教改革から500年、そして私たちの改革」です。なかなかよい言葉だと思っています。私たちは、その心をぜひ大切にしたいと思っています。宗教改革カルヴァン「絶えず改革され続ける教会だけが真の教会である」と言ったといいます。私たちもぜひそうありたいものです。

 

私がこの三月まで仕えて働いていた旭川の教会では、ルターの生涯と信仰、そしてルターの著した小教理問答や大教理問答書、シュマルカルデン条項を学んできましたが、それを通して感じることは、ルターが500年前に語ったことは、決して古臭くなく、今の私たちの信仰の歩みに、そして私たちの教会に対して、とても新鮮に力あるメッセージであるということです。私たちは今一度ルターを学び、ルターを通して示された福音や教会の理解を、教会のみんなに伝える中で、私たちの信仰の在り方、教会の在り方を見つめ直し、改善すべきことは改善し、より力を入れるべきところには力を入れて、私たちの改革を目指し、絶えず改革され続ける教会でありたいと思います。

 

宗教改革500年を祝う私たちが大切にしたい二つ目のことは、教会の一致を願い、そのために取り組むということです。ルターが改めて見出して伝えた福音理解は、私たちにとってとても大切な、拠って立つべきところです。恵みのみ、信仰のみ、聖書のみ、さらには全信徒祭司性など、これらルーテル教会の旗印は、私たちが決して忘れても、また、ぶれてもならないものです。しかし、同時に、宗教改革は、結果として、教会の分裂を招いてしまったという残念な事実をも、私たちは真摯に受け止めたいと思うのです。ルターが当時の教会から破門され、ルターもかなり激しい性格で言動したということもあり、ローマ・カトリック教会ルーテル教会が分かたれました。さらには、宗教改革は、これまたたいへん残念で、かつ皮肉なことに、プロテスタントの諸教派に分かたれるきっかけともなりました。

 

それぞれの教派の教会が主張して大事にする伝統がありますので、すべての教会がひっくるめてまるまる一つの教派になるということは、この地上にある限りは、現実的には難しいことでしょう。でも、エスさまは、信じる者たちが一つであることを願い、そのことによって、神さまが御子を世に遣わしたことを知るようになると、ヨハネ福音書の中でおっしゃっています。このことを言いかえるならば、教会が一致できていないバラバラな状態は、イエスさまの願いに反することであり、それは宣教にとってもマイナスであるということです。ですから、この宗教改革500年が、私たちが教会の分裂の罪を悔い改め、イエスさまの祈りに応えて、教会の一致のための努力をするきっかけとしたいと願います。

 

いろんな伝統にある諸教会並びにそれぞれの教会に連なる同労者や兄弟姉妹と、一緒に交わりを持ち、一緒に祈り、一緒に話し合い、一緒に働く、そうした機会を大切にしたいと思います。もちろんルーテル教会の教えは素晴らしいものです。これからも私たちはそれを自信を持って伝えてまいります。同時に、神さまは他の教派の教会でも働いておられますので、私たちは他の教会の実践や霊性から神さまの御心を学び、ともに祈ることを通して、教会の働きや私たちの信仰の歩みをより豊かにすることができるでしょう。

 

また、私たち誰もが知っている御言葉ですが、ヨハネ福音書の中で、「神はそのひとり子を賜ったほどに世を愛された」と告げられています。神さまの深い愛にこの世界は包まれています。ですから、この世界がその神さまの愛にふさわしい在り方をするように、また、もし神さまの愛から外れている現実がこの世界にあるならば少しでも改善されるように、私たちは教派を超えて、主にある兄弟姉妹として、ともに祈りを合わせて働くことを、宗教改革500年をきっかけに、心新たに祈り、歩み出したいと思います。

 

そのためにも、(今年5月の連休に行われた、私たちNRKの宗教改革500年礼拝に来賓として参加されたJELCのT議長が礼拝後のあいさつの際におっしゃっていましたが、)そのいちばんの足元として、私たちJELCとNRKがより密接に協力していくことができればと願います。T先生も北海道での取り組みをとても評価してくださっており、るうてるにもそのことを書いておられましたね。これからもJELCの先生方、どうぞよろしくお願いいたします。

 

私たちが宗教改革500年を祝う中で大切にしたい3つ目のことは、宣教です。ルターが再発見し、「我ここに立つ」と言って、命がけでそこに立ち伝え続けた福音を、私たちもまた、たゆまず宣べ伝え続けたいと願います。もし、ルター再発見し、当時のみんなに伝えた宗教改革的な福音を、私たちがただルター派の神学的な命題として学ぶだけであったり、また、教会の中で自分たちの信仰のためのものだけにしてしまったりするならば、それは、宗教改革の精神にふさわしいことではありません。ルターを通して神さまが示された、神さまの恵み、神さまの救いを、多くの人に伝え、ともに分かち合い喜び合うことこそ、宗教改革500年を祝う私たちにふさわしいことであり、なすべきことです。そうです。宣教こそが、私たちが宗教改革に生きるということであると思います。

 

私たちが宣教について考える際に、「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。」とのイエスさまのいわゆる大宣教命令や、またテモテ書の「御言葉を宣べ伝えなさい。折が良くても悪くても励みなさい。」などの様々なみことばを想い起こします。そのように宣教について語っているみことばの中でも、今年、宗教改革500年を機に、改めて宣教を志す私たちが、ぜひ想い起こし、心に刻んでおきたいのが、先ほどご一緒に聴いた主がパウロに向かって語られた言葉です。

 

「恐れるな。語り続けよ。黙っているな。わたしがあなたと共にいる。だから、あなたを襲って危害を加える者はない。この町には、わたしの民が大勢いるからだ」。ここには、神さまが主体の、神さまがイニシアティブを取られる宣教が告げられています。これは、宗教改革的にとても大切なメッセージです。

 

みなさんもご存知の通り、パウロは、この時、なかなかうまく宣教が思うように進まない状態にありました。彼や仲間たちに対する迫害は段々と激しく強くなってきていましたし、アテネではイエスさまの復活について宣教したとき、それを聞いた人たちからは嘲笑われたり、「ま、その話はまた今度な」と邪険に扱われたりしました。コリントでも人々から反抗されたり罵られたり、そうした中でパウロもまたブチ切れてしまって、服の塵を振り払いながら、「お前たちの血は、お前たちの頭に降りかかれ。わたしには責任がない。今後、わたしは異邦人の方へ行く。」などと啖呵を切って、その場を去るのでした。

 

そうした中で、パウロは、もはや心身ともにへとへとに疲れて、眠っているとき、あるいは、幻でというのですから、眠れているか眠れていないかわからないような中で聴いたのが、このみことばなのです。「恐れるな。語り続けよ。黙っているな。わたしがあなたと共にいる。だから、あなたを襲って危害を加える者はない。この町には、わたしの民が大勢いるからだ」。

 

ここで告げられていることは、人間的にみて宣教が思うようにうまく行かない、みんな聞いてくれない、受け入れてくれない、反発されたり、ののしられたり、あざ笑われたり、バカにされたりすることも多々ある、そして、そうした中で、私たちもぶちきれそうになったり、心身ともにくたくたに疲れて、眠れぬ夜を過ごしたりする、けれど、そうした中でも、私たちの働きに先立って、主が宣教し、私たちの目に見える状況の如何に関わらず、主の民を必ず興してくださっているということです。

 

宗教改革とは、信仰も礼拝も宣教も、そして、教会のあらゆる事柄も、すべて、主が私たちに先立ち働きたもうことを信じることだと言えましょう。私たちは、その私たちに先立つ主の働きを信じ、主の働きに押し出され、主の働きに仕えるのです。

 

こんにち、宣教がとても難しい時代と言われます。事実、私たち、毎日毎日格闘しながら、そのことを実感、いえ、痛感しています。それは何もこんにちだけではなく、日本で宣教するということは、一時のキリスト教ブームの時以外、ずっと同じ厳しさがあるのかもしれません。遠藤周作が「沈黙」の中で、信徒の命を助けるためにやむを得ず踏み絵を踏んでしまった神父に言わせているように、この日本の地は、キリスト教がなかなか根付くことが難しい、すべてを腐らせてしまうような、そうした恐ろしい沼地なのかもしれません。

 

でも、そうした中で、主が私たちに、「恐れるな。語り続けよ。黙っているな。わたしがあなたと共にいる。・・・この町には、わたしの民が大勢いるからだ」、今日改めてそう語りかけてくださっています私たちに先立ち、私たちの住む町、この国、この世界で、主が既に宣教してくださっている。まだ私たちはその実りを見てはいないかもしれないけれど、多くの主の民を、既に確かに主が興してくださっているのです。

 

私たちはこのことを信じて、今年、宗教改革500年を新たな宣教の出発の年としたい、そして、そのために、ここに集っている同労者のみなさんが互いに祈り合い励まし合う仲間であることを改めて心に刻んで、ここから出かけてまいりたいと願います。

 

主よ、私たちを導いてください。

 

神さま、今年も道内のルーテル教会でともに働く仲間が、このようにともに集い、一緒に学び、交わり、語り合い、祈り合うことができましたことを心から感謝し、この機会を与えてくださったあなたの御名をほめたたえます。

宗教改革500年のこの年を、有意義な機会とすることができるようにお導きください。私たちの教会と信仰の歩みを改革し、教会の一致を願ってそのために努め、また宣教に励む機会とすることができますように。宣教の厳しさを感じる中にあっても、私たちとともにいて、私たちに先立って働いておられるあなたの働きを信じ、仕えることができるように、強め、励ましてください。

日本福音ルーテル教会日本ルーテル教団、それぞれが抱える課題をあなたが顧みてください。また、両教会が共に手を携え合い、あなたの栄光のために働くことができますように。10月に行われる合同修養会も豊かに祝福してください。

これからそれぞれの地に帰ります私たちのその道をお守りください。また、私たちを送りだしてくださったそれぞれの教会と信徒、また私たちの家族をも祝福してください。

あなたのお導きを改めて心から感謝して、私たちの、そして教会の主イエス・キリストによって祈ります。アーメン

 

全能の神の祝福があなたがたとともにあるように。父と子と聖霊のみ名によって。アーメン