yukaina_gorilla’s diary

ごりらぼくし(大麻ルーテル教会/北見聖ペテロ・ルーテル教会)です。聖書や教会のこと、社会のこと、ペットのことなど書いていきますね。

2017年8月20日 礼拝メッセージ

聖霊降臨後第11主日 2017年8月20日

「ほんとうに必要なもの」

(マタイによる福音書13章44~52節)

 

わたしたちの父である神と、主イエス・キリストからの恵みと平和があなたがたにあるように。アーメン

 

今日の準備の中で、今からおよそ20年前、札幌中央教会で宣教研修をしていた際のある集会について思い出しました。それは、「ゴールドメンバーの集い」という名前の集会でした。どういう集いかと申しますと、教会にいらしているお年を召した、高齢な方々の集いです。よくお年を召した方々のことを世間では「シルバー」と呼びます。高齢者を対象にした割引に、シルバー割引とか呼びますよね。でも「シルバー」というのは、「どうもちょっとね」ということで、シルバーから一つ格を挙げて「ゴールド」と呼ぶようにしたとのことでした。

 

その集会は、テーマソングのように毎回、同じ賛美歌を歌って始めていました。それは、「キリストには代えられません」という賛美歌です。今ここで歌ってみなさんに紹介すればよいのでしょうが、音痴の白井が歌うならば、せっかくの素晴らしい賛美歌が実に悲惨なものになりかねませんので、今日はその歌詞だけを紹介させていただきます。

キリストには 代えられません 世の宝も また富も このお方が 私に 代わって死んだゆえです 世の楽しみよ、去れ 世の誉れよ、行け キリストには 代えられません 世の何物も

キリストには 代えられません 有名な人に なることも 人のほめる 言葉も この心を 引きません 世の楽しみよ、去れ 世の誉れよ、行け キリストには 代えられません 世の何物も

キリストには 代えられません いかに美しい物も このお方で 心の 満たされている 今は 世の楽しみよ、去れ 世の誉れよ、行け キリストには 代えられません 世の何物も

このような歌詞の賛美歌なのですが、人生経験を積んで、世の中がどんなものであるかの善い面も悪い面も十分に経験してきた方々、そしてその中で積み上げてきたものがいろいろある中で、「キリストには代えられません 世の何物も」と、みなさんが歌うその姿は、私にとって、とても印象深く、感動的なものでした。

 

今日は福音書のみことばの前半部分からメッセージを受け止めてまいりたいのですが、イエスさまは次のようにお話しにされています。「天の国は次のようにたとえられる。畑に宝が隠されている。見つけた人は、そのまま隠しておき、喜びながら帰り、持ち物をすっかり売り払って、その畑を買う。また、天の国は次のようにたとえられる。商人が良い真珠を探している。高価な真珠を一つ見つけると、出かけて行って持ち物をすっかり売り払い、それを買う。」

 

ここには天の国がどれほど私たちにとって素晴らしいものであり、価値あるものであるのか告げられています。それは、畑の中にその宝を見つけるならば自分の持っている持ち物すべてを売り払ってもぜひ手に入れたいものであり、真珠の価値がわかっている商人がそれを見つけるなら自分のすべての持ち物と引き換えにしてもぜひ手に入れたいものである、それほど素晴らしい価値あるものだと、イエスさまはおっしゃるのです。このイエスさまの言葉を思い巡らしていたら、ゴールドの集いで「キリストには代えられません」を歌う方々の姿を思い出したのでした。まさに人生のいろんなことを経験されて、今までいろんなものを手に入れてきた高齢な方々であるけど、そうした中で、イエスさまという、そしてイエスさまが与えてくださる天の国という素晴らしい宝、高価な真珠のために、「キリストには代えられません 世の何物も」とみなさんが力強く歌う姿、私もまたそのような信仰の歩みができればなという願いにさせられました。

 

また、今日の準備をしていて、もう一つ思い出したものがあります。それはディートリッヒ・ボンヘッファーという人が書いた「キリストに従う」という本の冒頭の部分です。今週、私はもう一度それを書棚から取り出し、手にとって読んでみました。ボンヘッファーは、ドイツのルーテル教会の牧師であり、神学者であった人です。彼は、第二次大戦中、ヒトラーが率いるナチスドイツに抵抗をし、最終的には、極限の中でナチスによるユダヤ人虐殺などの残虐な行為を一日も早くやめさせるために、もはやその元凶のヒトラーを暗殺するしかないと判断して、その計画に連なるのですが、そのことゆえに当局に捕えられ処刑されてしまいました。また、当時の多くの教会は、ルターの言葉を誤解して、「教会は、霊的なことのみを宣べ伝えるべきで、この世のことにかかわるべきではない」という立場で、ナチスがしていることを黙認していたのですが、このことに対しても、ボンヘッファーは、「それはキリストに従う教会の在り方としておかしい」と、激しく抵抗しました。そうした背景の中で書かれたのが、この「キリストに従う」という作品です。その冒頭には、「安価な恵み」「高価な恵み」ということについて書かれています。今から70年以上も前の作品ですが、決して古臭いものではなく、私たちにとってチクリと胸が痛む結構厳しい内容ですが、しっかりと受け止めたい、とても大切な内容ですので、紹介をいたします。

 

そこでボンヘッファーは、私たちは、キリストの与えてくださる恵みを、安価な恵み、つまり安っぽいものにしてしまっているのではないかと指摘します。キリストが与えてくださる恵みは、本来、イエスさまが十字架にかかりその命と引き換えに、私たちに与えてくださった、何にも代えがたい、高価な恵み、つまり価高い、実に尊いものであり、私たちはその恵みを受け取るために、自分の持っているものすべてを売り払ってでも手に入れるほどのものであるのに、実際には、そうなっていない現実があるのではないだろうかと、彼は言うのです。キリストの高価な恵み、価高い、尊い恵みである、赦しや慰めや聖礼典が、見切り品として投げ売りされた、実に安価な恵み、安っぽい恵みになってしまっていると。悔い改めなしで罪の赦しが与えられたり、罪を真剣に見つめ告白することなしに聖餐が行われたりしている現実を、彼は嘆きます。キリストは十字架にかかり苦しみ死なれたことによって、罪びとを赦して、神さまの前に義である正しいものと認め、慰めを与えてくださるのだけれども、どこかそれが勘違いされて、罪がそのままでいいよと簡単に赦されてしまっている現実があるのではないだろうか、罪びとの義認ではなく、罪の義認が説かれているのではないかと問うのです。

 

私たちがイエスさまが与えてくださる恵みを、高価な恵み、価高い、尊い恵みとして受け取るために大切なことは、神さまの恵みの中でイエスさまに従うことであると、ボンヘッファーは言います。それが、今日のみことばで言うならば、すべての持ち物を売り払って畑を買い取ってその中にある宝を手に入れる者であり、また、自分の持っているものすべてを売り払って高価な真珠を手に入れる商人の姿でありましょう。「わたしに従いなさい」「わたしについてきなさい」と弟子たちを招かれたイエスさまの言葉に彼らが従う中でこそ、彼らはイエスさまの差し出す恵みを受け取ることができたのに、それが、今の教会では、どこかでこの「キリストに従う」ということが抜け落ちてまって、それでもよいとされてしまっているのではないかと、ボンヘッファーは問いかけるのです。

 

私たちはどうでしょうか。私たちもまた、ボンヘッファーが指摘するところの「安価な恵み」、安っぽい恵みに安住してしまっているのではないだろうかと、深く反省いたします。なかなか「キリストには代えられません」というところに立てず、どこかでがっしりと手に握って手放せないものがあるのではないでしょうか。罪を真剣に悔い改めるより、そんな自分をどこかで誤魔化して、まあいいやと、罪そのものをよしとしてしまっている。また、キリストに従うことをどこかで忘れて蔑ろにしてしまっている、そうした私であることをも思います。そんな私たちが、キリストが与えてくださった恵みを価値ある尊い高価な恵みとして受け取り、その恵みに生かされるために、今一度私たちは、イエスさまの与えてくださった恵みがどれほど尊いものであり、どれほど価値あるものであるのか、見つめ直し、心に刻み直したいと願います。

 

私たちもよく知っているみことばですが、フィリピの信徒への手紙の2章6節からのみことばを思い起こしたいと思います。「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。」ここで語られていることは、イエスさまは、神と等しいもの、つまり神さまそのものであられたのだけれども、私たちの救いのために、その身分も栄光も何もかもすべて捨てられて、私たちと同じ人間になられた。いえ、その中でも、最も低いしもべとなられた。さらには、イエスさまご自身十字架を引き受けられ、死なれ、ご自分の命すら惜しまずにささげられた。そうした歩みを、イエスさまは私たちのために引き受けてくださったということです。

 

私たちの救いといのちは、こうしたイエスさまの歩みによって与えられたものです。イエスさまが自分の栄光も身分も、そしてご自身の命すらも何もかも手放して捨てて、それでも私たちを救いたいと願い、実際そうされることで、私たちを自分のものとして引き受けてくださった。それほど深い愛と尊い恵みにより、私たちはイエスさまによって救われ、イエスさまのものとされました。私たちは、イエスさまがご自分のすべてを手放してまでも手に入れたいとされた大事な宝、高価な真珠なのです。私たちはこのイエスさまに従って生きるのです。私たちが何かを手放すとか、私たちが何かを捨てるとか、それ以前に、すでにイエスさまがすべてを手放し、すべてを捨てて、ご自分の命すら惜しまずにささげられ、私たちをイエスさまの尊い宝、高価な真珠として引き受けられた、私たちは、このことを心にしっかりと刻み、イエスさまに従っていきたいと願います。それが、イエスさまの恵みを、私たちが高価な尊い価値ある恵みとして受け取ることです。ルターは、「恵みのみ、信仰のみ、聖書のみ」の救いを伝えました。この「恵みのみ」の恵みがどれほど高価な恵みであるのか、私たちは今日改めて受け止めたい。その時、「信仰のみ」ということも、今までと違った重さを受け止めることに導かれるでしょう。「聖書のみ」という言葉も、ただ聖書を読んでいればよいというのではなく、わたしはあなたを愛する、わたしにとってあなたは何にも代えがたい宝だというイエスさまの御声を聴くそうした読み方に代わってくるでしょう。

 

ボンヘッファーは、「安価な恵み」と「高価な恵み」について説明するのに、マルティン・ルター修道院から出て、この世の中でキリストに従い、宗教改革を進めたことについて述べています。つまり、ルターははじめ修道院の中で、この世から退いて、キリストに従うことを志しました。もちろんルターはそのために一所懸命努力するのですが、しかし、修道院の中では、自分が一所懸命キリストに従っている、自分が頑張って敬虔な生活をしているという、「自分」というものを捨てきれないものであったのです。ルターは、このことに気づき、修道院から飛び出してこの世のただ中に戻り、そこでキリストに従い、宗教改革を進めていきます。自分が頑張ってイエスさまに従うのではなく、神さまの恵みの中でキリストに従うことが大切であると気づいたからです。また、この世から逃れて、そことは違うところでイエスさまに従うのではなく、この世のただ中でキリストに従うことこそ大切であると気づいたからでした。私たちもこの世から逃避して自分のわざとしてキリストに従うのではなく、この世のただ中で、神さまの恵みの中でキリストに従うことが、キリストが与えてくださる恵みを高価な恵みとすることだと、ボンヘッファーは言うのです。

 

どこかこの世から逃れた場所でなく、この世のただ中で、イエスさまに従うということは、今日のイエスさまのみことばにも語られています。ある人は畑の中で素晴らしい宝を見つけます。それはきっとその人が畑で働く農民であり、農作業をしていた際にその宝を見つけたということでしょう。商人もまた、自分が商売をするためのものを探す中で、高価な真珠を見つけるのです。いずれも彼らにとっての日常生活のど真ん中で、宝物なり、高価な真珠なりを見つけるのでした。私たちも、この世のただ中で、日常生活を送るそのど真ん中で、高価な恵みであるキリストの救いをほんとうに必要なものとして見出します。そして、その恵みを自分に与えられた恵みとして受け取る歩みとして、これまた、この世のただ中、日常生活のど真ん中で、私たちはイエスさまに従って歩んでまいりたいと願います。

 

主よ、私たちを導いてください。

 

エスさまが、私たちを救い、ご自分のものとして引き受けるために、ご自分のなにもかもすべてを手放し、命すらも惜しまずに捨てられたことを覚え、その重みを受け止め、深い畏れと感謝に導かれます。私たちもその高価な尊い恵みをほんとうに必要なものとしていただく者として、私たちのすべてを捨てて、キリストには代えられませんとの思いで、イエスさまに従うことができますようにお導きください。また、その歩みを、この世の日常の生活のただ中でしていくことができますように。御子、救い主イエスさまによって祈ります。アーメン

 

あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るように。アーメン

 

動画:2017-08-20.mp4 - Google ドライブ

 

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