yukaina_gorilla’s diary

ごりらぼくし(大麻ルーテル教会/北見聖ペテロ・ルーテル教会)です。聖書や教会のこと、社会のこと、ペットのことなど書いていきますね。

ルーテル教会の礼拝 ローマカトリック教会との比較から(メモ的なまとめ)

先輩牧師より、「礼拝における、ルーテル教会ローマ・カトリック教会との違いは何?」という問い合わせのメールをいただいたので、メモ風に箇条書きにまとめてみました。

しかし、いまちょっと他にも色々やることもあって、急いで執筆したため、何一つ文献には当たっていません。純粋に(不純に?笑)自分の頭の中にある「記憶的な知識」wだけでのまとめですので、結構、雑な内容かもしれません。

(あと、個人的には、このように違いをまとめるよりも、「他の教派とどこが共通しているか」、「他の教派のどこから学べるか」ということをまとめるほうが好きです。)

 

礼拝における、ルーテル教会ローマ・カトリック教会の違いについて 

 

○ルターは、基本的にローマ・カトリック教会のミサを踏襲しているが、その中で、宗教改革的な福音理解にふさわしくないものを取り除いたり変更したりした。

○それゆえ、多くのルーテル教会では、カトリック教会のミサ式文のような礼拝式文を用いた礼拝を行い、また司式者はカトリック教会の司祭が着用するような式服を着用する。大きな教会や神学校、あるいは特別な礼拝では、十字架や聖書、蝋燭を持っての入場なども行われる場合もある。

ローマ・カトリック教会では、教皇庁や司教協議会が正式な承認したミサ式文を用いるのに対して、ルーテル教会では、それぞれの教会で異なる式文を用いることができる。これはアウグスブルク信仰告白の第7条に《また、われらの諸教会は、かく教える。唯一の聖なる教会は、時のつづく限り、つづくべきものであると。さらに、教会は、聖徒の会衆(congregatio)であって、そこで、福音が純粋に教えられ聖礼典が福音に従って正しく執行せられるのである。そして教会の真の一致のためには、福音の教理と聖礼典の執行に関する一致があれば足りる。また、人間的伝承、人間によって設定せられた儀式、或は式典がどこにおいても、同じでなければならぬことはない。「信仰は一つ、バプテスマは一つ、すべての者の父なる神は一つなり」(エペソ4:5~6)とパウロもいっている通りである。》(下線は筆者)と定められているとおりである。

○ルターがローマ・カトリック教会のミサ式文を変更する際の基準は、礼拝が「Gottesdienst」(神の奉仕)にふさわしいものであるか否かと言うことができよう。当時の礼拝は、「人が神に奉仕する」そうした場であると考えられていた。それに対して、ルターは、礼拝は「Gottesdienst」=神の奉仕であると出張した。すなわち、神が人に奉仕してくださる、それが礼拝であると、ルターは受け止めたのだ。具体的には、神が、みことばとサクラメント(洗礼と聖餐)によって私たちに仕えてくださるのが礼拝であるということを意味する。

○また、「恵みのみ」、「信仰のみ」、「聖書のみ」、「全信徒祭司性」(いわゆる「万人祭司性」)など、宗教改革の旗印となった主張もまた、ルターおよびルーテル教会の礼拝理解に反映される。

○当時のラテン語による礼拝を、時間をかけて、ドイツ語による礼拝に変更した。ただし、急進改革派の立場の指導者が、いきなりラテン語の礼拝を廃止してドイツ語による礼拝を行い始め、会衆が大きな混乱に陥ったことに対しては、ルターはそれを認めず、一時、ラテン語による礼拝に戻した。会衆が混乱せず、理解した上で、ともに喜んで行うことができる礼拝改革をこそ、ルターは望んだのであろう。

○ドイツ語による会衆の賛美を取り入れ、また、聖書もドイツ語に翻訳をした。

○「今ここで語られる生ける神の声」としての、礼拝での説教を重視した。今もみことばの説教は、ルーテル教会の礼拝で必須なものである。

○ミサ式文の中の、司祭がパンとぶどう酒をキリストの体と血として父なる神にささげるという犠牲の概念を撤廃した。これは、今も同様である。

○司祭がキリストを代理する者となるのではない。司式者である牧師は、会衆の中から正規に召された、みことばとサクラメントに仕える機能が与えられている。それゆえ、司式者がキリストを代理して聖餐を司るのではなく、教会から委ねられた務めとして、制定のことばを礼拝で告げるのである。同時に正規の召しなしには、誰も、説教することやサクラメントを執行することはゆるされない。

○ルターは、キリストが「これはキリストのからだである」「これはキリストの血である」とおっしゃっているのだから、私たちはそれをそのまま信じることが大切なのであり、「パンとぶどう酒がキリストのご聖体となり、御血となる」という実体変化の理解を斥け、そうした「聖変化」のための文言も式文から取り除いた。ルーテル教会では、キリストの言葉どおり、「真のキリストの体であり、真のキリストの血である」と信じて、パンとぶどう酒をいただくのだ。

ローマ・カトリック教会ではミサが終わった後も、パンとぶどう酒はもはやキリストの体と血になったままであり、それゆえパン=ホスチア(聖体)は教会の聖櫃に保管されて、ミサの際に繰り返し用いられる。聖櫃に聖体が納められているときは、ランプがついて、それを表すことになっている。ぶどう酒はミサの間に司祭が飲み干す。それに対して、ルーテル教会では、聖餐式の間は信仰のうちにそれをキリストの体と血と信じていただくが、聖餐が終わるなら、それはただのパンでありぶどう酒である。しかし丁寧に扱うことは心がけたい。

ルーテル教会では、聖餐で用いられるパンやぶどう酒について、ローマ・カトリックのような規定はない。必ずしもホスチアでなくても市販されている食パンでもよい。神学校では一つの大きなパンを裂いて分かち合って聖餐を実施している。ぶどう酒についても、カトリック教会のような特別なミサワインではなく、酸化防止剤が入った市販のぶどう酒を用いてもよい(もちろんないもののほうが好ましいが)。ルーテル教会では、小児陪餐や病者、運転者などへの配慮のため、聖餐の際に、ぶどうジュースを用いる教会も多くある。大事なのは、どんなものが使われるかではなく、そこでキリストの聖餐のことばが語られ、聞かれ、信じられるということである。

○キリストの制定のことばに基づき、ルターは、パンとぶどう酒による二種陪餐を復活し、今のルーテル教会でも二種陪餐が行われる。カトリック教会では、最近は二種陪餐を行う教会も増えてきたが、今でも信徒はパン(聖体)一種のみを受餐する教会も少なくない。その際のカトリック教会の理解は、体には全実在が(それゆえ血も)含まれるという理解である。

聖母マリアや聖人に対する、神へのとりつぎの祈願も、ルーテル教会の礼拝ではなされない。

○教会の会衆と共に行うのがルーテル教会の礼拝であるから、ローマ・カトリックの司祭独りで行うミサのような礼拝は原則的にはルーテル教会では行われない。

○ここでは、あえてローマ・カトリック教会のミサとルーテル教会の礼拝の違う面を挙げてきたが、しかし、ローマ・カトリック教会は私たちにとって兄のような存在であり、そのミサと礼拝の内容は、非常に似ているものであることを受け止めたい。聖餐式も、聖餐が行われている最中は、それが真のキリストの体であり、真のキリストの血であると信じて、パンと杯をいただくことでは共通している。ルターも自分が改革派の象徴説に立つと思われるぐらいなら、カトリック教会の実体変化説に立つと言われた方が断然よいというようなことも発言している。

○両教会がともに礼拝を行うために、ネックとなるのとは、ミサ/聖餐の司式者の理解である。カトリック教会は、使徒継承を受けた司祭が、ミサを司式することができるのに対して、多くのルーテル教会では使徒的な信仰を継承するために制度としての使徒継承は斥けているからである。既述したが、ルーテル教会における司式者・牧師は、みことばとサクラメントの司式のための機能を与えられた者であるという理解であり、信徒と身分的な違いは生じないのである。