yukaina_gorilla’s diary

ごりらぼくし(大麻ルーテル教会/北見聖ペテロ・ルーテル教会)です。聖書や教会のこと、社会のこと、ペットのことなど書いていきますね。

2017年8月27日 礼拝メッセージ

聖霊降臨後第12主日 2017年8月27日

 

「しか」を差し出すとき

(マタイによる福音書14章13~21節)

 

わたしたちの父である神と、主イエス・キリストからの恵みと平和があなたがたにあるように。アーメン

 

教会の働きを思うとき、みなさんの働きが実に豊かな力となっていることを思います。お掃除をしてくださったり、礼拝の準備をしてくださったり、聖書を読んでくださったり、奏楽をしてくださったり、幼稚園で仕えて働いてくださったり、今日の準備をしながら、そうしたみなさんの働きに改めて感謝な思いに導かれました。ありがとうございます。

 

さて、今日も福音のみことばに聴いてまいりましょう。そこには、イエスさまのなさった奇跡が伝えられています。「5千人の給食」として知られているものです。実は、この出来事は、それぞれ細かい描写は違いますが、4つの福音書すべてに共通して伝えられているもので、これは実に珍しいことです。初代の教会にとって、この出来事がとても大きな意味を持っていたということを、私たちはそのことからも知ることができます。

 

この出来事は、次のことばから始まっています。「イエスはこれを聞くと、舟に乗ってそこを去り、ひとり人里離れた所に退かれた」。このようになんだかとても寂しい感じで始まっているわけですが、「これを聞くと」という、その内容は一体どんなものだったのでしょうか。イエスさまはここで何を聞かれたのかということについては、今日のみことばの直前で伝えられています。そこで伝えられていることは、洗礼者ヨハネが時の権力者であるヘロデ王によって斬首されたという出来事です。しかも、ヘロデ王の誕生日祝いの席での余興として義理の娘が躍ったことへのご褒美として、ヨハネは首を撥ねられて殺されてしまったのです。何とも残酷な知らせがイエスさまのもとに届けられました。

 

エスさまと洗礼者ヨハネは親戚筋にあたります。それだけでなく、イエスさまはヨハネから洗礼を受けられ、働きを始められました。新約聖書学では、イエスさまがかつて洗礼者ヨハネが指導していたグループに属していたのではないか、そして、ヨハネの弟子だったのではないかという説もあります。このように、イエスさまは、ヨハネのことを親族として、また、神の救いを伝える宣教者として、たいへん良く知っていたし、お互いに尊敬し合っていた、そうした関係でした。

 

そして、ヨハネは、神の救いを求めて暮らしていた、民衆にとっても、たいへん大きな希望でした。彼は、神さまがこの世界に約束のメシアをお遣わしになられたことを人々に告げ、そのお方を迎えるために、自分の罪を悔い改めて洗礼を受けるように宣べ伝えました。大勢の人々が彼のもとに集まり、彼が語るメッセージを聴き、それに応え、メシアを待ち望みながら、洗礼を受けたのです。そうした中で、ヨハネその本人を、その約束のメシアであると受け止める人たちもいましたが、ヨハネはそれに対して一貫して「違う」「わたしはその方の履き物をお脱がせする値打ちもない」と言って、自分はメシアではなく、小さなものであり、みんなの思いを自分にではなく、イエスさまに向けるように呼びかけました。

 

その彼が、愚かな時の権力者の横暴により、たいへん残酷な仕方で殺され、亡き者とされてしまった。イエスさまにとって、それはたいへん大きな痛みであり、悲しみの出来事でした。親しいヨハネを失い、同時に、当時の人々の希望が消されてしまった、その二つの意味においてでした。

 

エスさまはその悲しみの中で、「ひとり人里離れた所に退かれた」のです。この「人里離れた所」という言葉ですが、新約聖書の中でたいへんよく使われる言葉がここで用いられています。それは直訳するならば「荒れ果てた場所」という意味で、「砂漠」とか「荒れ野」とか訳すことができる言葉です。イエスさまはヨハネが斬首された知らせを聴き、ひとりで荒れ野へと退かれるのです。かつてヨハネから洗礼を受けられた後に荒れ野に行かれたのと同じようにです。

 

エスさまがそのようにひとりで出かけられるときなさることは、祈ることでした。ここでは、ヨハネの死を悼みながら、イエスさまは神さまに祈られたことでしょう。しかし、イエスさまの祈りは、ただの祈りだけでは終わりません。祈られて、そこから新しい歩みを始められるのです。イエスさまに洗礼を授け、聖書のみことばについて一緒に語り合い、イエスさまも大きな影響を受けておられたであろうそのヨハネを失い、民にとっての大きな希望も取り除かれた今、イエスさまは神さまに祈り、神さまからの慰めと励ましをいただき、そこからまた新しい歩みを始められます。

 

その時、大勢の人々がご自分についてきていることに、イエスさまは気付かれます。たとえ、この世の権力者によってヨハネが亡き者とされても、それによって、人々に向けての神さまの働きは終わりにはなりません。イエスさまに与えられた働きは、今なお、いえ、それまでよりも尚一層大きなものとなるのです。人々は、とても痛み傷ついていました。日々の生活に疲れ、とても苦しんでいました。イエスさまは、その人たちの痛みを、ご自身の痛みとして受け止められます。彼らをご覧になり、自分のはらわたが引きちぎれるような痛みを覚え、また母が自分のお腹を痛めて産んだ子の苦しみを思い悲しむように、一人ひとりの悲しみをご自分の身に受け止められるのです。

 

それはあたかも、イエスさまが今まさにそこにおられる荒れ野のような状況でした。人々は生きる希望も喜びも失われ、心が渇ききって荒れ果てた、そうした荒れ野のような状況だったのです。そんな彼らのことを、イエスさまがそのまま放っておくことはできません。人々の大きな希望だったヨハネが失われた今、尚一層、この世の荒れ野の中で、また、そこに生きる一人ひとりの心の荒れ野にとって、イエスさまの働きが必要なのです。

 

エスさまは、彼らにみことばを語られ、彼らの病いを癒されます。彼らの荒れ果て渇ききった心と体に、神さまからの癒しと潤いがもたらされ、彼らが少しでも慰められ、励まされて、再び希望を抱いて、歩み出すことができるように、時が経つのを忘れるぐらい、イエスさまは、熱心に一人ひとりとかかわられたのです。しばらく経って、その場にいた弟子たちのうちの一人が、イエスさまに申し出ました。「ここは人里離れた所で、もう時間もたちました。群衆を解散させてください。そうすれば、自分で村へ食べ物を買いに行くでしょう。」

 

この弟子の申し出は、何も間違ってはおりません。人里離れたその場所で、人々のお腹を満たす食べ物を得ることはできません。しかも、そこは荒れ野や砂漠のような場所なのですから尚更です。今ならちょっと行けばコンビニがあるかもしれませんが、当時はそう言う訳にもいきません。まして、今日のみことばの終わりに、「女と子供を別にして、男が五千人ほどであった」というのですから、少なくても五千人、いえ、イエスさまの周りに集まってきたのが成人男性だけだったはずはないでしょうから、五千人に加えて、あと他にもなお数千人の人たちがいたでしょう。そうした人々のお腹を満たす食べ物を、たとえ近くにお店があったとしてもそう簡単に調達することはできないでしょう。常識的に考えても、ここで弟子が申し出た通り、ここで人々を解散させなければならないのです。

 

でも、イエスさまは、ご自分の弟子たちに驚くべきことをおっしゃいます。「行かせることはない。あなたがたが彼らに食べる物を与えなさい。」「なんてことだ!」と言いたくなる、今のことばで言うならたいへんな無茶ぶりを、イエスさまはなさるのです。弟子たちは、きっと口々に、「いや無理でしょ」、「先生ったら、もう一体、何をおっしゃるんだ」と、そんな風につぶやいたことでしょう。そして彼らはイエスさまに答えます。「ここにはパン五つと魚二匹しかありません。」

 

そうです。荒れ野のようなこの世の荒れ果てた現実、一人ひとりの荒れ野のような渇ききった心を前にして、私たちは、何の役にも立たないような一人一人です。自分の持っているものや才能を見ても、「これしかありません」と、イエスさまに応えなければならない、そんな実にちっぽけな者なのです。本当にもどかしさと無力さを感じます。でも、イエスさまは、この世の荒れ野で、そして一人ひとりの荒れ野の心に関わるために、「あなたがたがどうにかしなさい」と、私たちにおっしゃいます。それに対して、「イエスさま、無理です。無茶です。できません。」私たちはそう答えるしかありません。

 

そのように、「しかありません」と応えざるを得ない弟子たちと、私たちにイエスさまはおっしゃいます。「それをここに持って来なさい」。弟子たちはイエスさまの言葉に応えて、彼らの持っていた、たった5つのパンとわずか2匹の魚、それだけ、しかし、彼らの持てるすべてを、イエスさまに差し出しました。イエスさまは彼らの手からそれをご自分の御手に受け取られます。そして、それを手にしながら、神さまを賛美しながら祈りをなさるのでした。

 

そうするとどうでしょうか。驚くべきことに、イエスさまがちぎっては弟子たちに渡し、ちぎっては弟子たちに渡すパンは、決して尽きることなく、そこにいた多くの人たちの手に渡りました。魚もイエスさまから弟子たちに手渡され、弟子たちがそこにいたみんなに配ったことでしょう。その結果、そこにいたみんなが満腹することができたのです。わずか5つのパンと2匹の魚が、弟子たちの手からイエスさまの手に差し出されるとき、そして、それをイエスさまが受け取られるとき、彼らが思いもしなかったことが起こったのでした。実にそこにいた何千人もの、みんなが満たされたのです。しかも、なおも、12の籠一杯に余ったと言います。12の籠です。イエスさまの12弟子一人ひとりが携えて、出会う人たちに配ることができるだけの分が余ったのです。

 

私たちはこういう出来事を聖書で読むと、「こんなこと、実際に起こるわけないだろう」と思うかもしれません。なにかお伽話のようなものだと。でも、ここで大事なことは、誤解を恐れずに言うならば、これが本当に起こったかどうかということではありません。私たちがここからどんなメッセージを聞きとり、そしてどのようにイエスさまに従うかということこそ、大切なことだと思います。

 

それは私たちも、私たちの「これしかありません」を、イエスさまに差し出すということです。この世の大きな力により実に荒れ果てた現実の中で、また一人ひとりの心も渇ききっている中で、そうした現代の私たちの世界の荒れ野、一人ひとりの荒れ野の現実で、何の役にも立たないような無力な私の「これしかありません」という、その「しか」を差し出す時に、それをイエスさまが受け取られます。そして、私たちが思いもしないような、信じられないような、常識的に考えたら起こり得ないような、驚くべきほどに豊かな働きをして、この世とそこに住む人たちに癒しと潤いを与えて、彼らを満たすために、イエスさまが働いてくださる。私たちは、今日、このことを、みことばから受け止めたいのです。本当か嘘か、事実かお伽話か、そんなことではなく、イエスさまに、あなたの「これしかありません」のその「しか」を差し出してごらん、「それをここに持って来なさい」と、イエスさまは今日私たちに語りかけられるのです。

 

今日、準備をしていて、一つの言葉をとても新鮮に受け止めました。それは、イエスさまが、弟子たちが差し出した5つのパンと2匹の魚を受け取られ、「天を仰いで賛美の祈りを唱え」られたということです。これは、新約聖書の研究では、礼拝で行う聖餐式と関係あると考えられるわけですが、今日はもっと単純に受け止めたいのです。この世の荒れ野、人々の荒れ野の中で、何の役にも立たないような無力な私たちが、イエスさまに差し出す「これしかありません」と言う、その「しか」をイエスさまは受け取られ、神さまに賛美なさるというのです。イエスさまがそれを喜んで受け取られて、「みんながこれを私に差し出してくれました、神さま本当に感謝します、あなたを賛美します」と、そんな風に心から喜んでくださるというのです。

 

それが大きなものであるのか小さなものであるのか、そんなことは関係ありません。「これしかありません」と私たちが謙虚にイエスさまに差し出す時に、イエスさまはそれを本当に喜び感謝して受け取り用いてくださる。私たちもそのことを喜びながら、イエスさまに私の「しか」を差し出すことができればと願います。

 

はじめに、教会で、みなさんの働きが実に豊かな力となっているとお話しいたしました。イエスさまも喜んでそれを受け取り、さんびしながら豊かに用いてくださいます。こんなことしかできない、あんなものしかささげられない、でも、それをイエスさまにお渡しできればと思います。

 

主よ、私たちを導いてください。

 

この世の荒れ野、人々の心の荒れ野を前にして、何の役にも立たないような無力な私であることを思います。でも、イエスさまにそのちっぽけなわたしを差し出すことができるようにお導きください。イエスさまが喜んでそれを受け取り、豊かに用いてくださることを感謝いたします。教会の中で、あるいはこの世の中で、みなさんがイエスさまを信じるものとして、様々な働きをしてくださっていることを思い、あなたがそれを受け止め、豊かに用いてくださることも感謝します。イエスさまのお名前によって祈ります。アーメン。

 

希望の源である神が、信仰によって得られるあらゆる喜びと平和とであなたがたを満たし、聖霊の力によって希望に満ちあふれさせてくださるように。アーメン

 

動画:2017-08-27.mp4 - Google ドライブ

 

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