yukaina_gorilla’s diary

ごりらぼくし(大麻ルーテル教会/北見聖ペテロ・ルーテル教会)です。聖書や教会のこと、社会のこと、ペットのことなど書いていきますね。

性差を問わない牧師按手について(2)

性差を問わない牧師按手についてのテーゼ

(聖書からの考察[1]

 

1.神は、ご自分にかたどり、ご自分に似せて、人を男と女に創られた(創世記1:26,27)。男も女も双方とも、神の似姿によって創造された尊い存在であって、創造の秩序において、一切の序列や上下関係は存在しない。男女ともに、神の目から見て、「極めてよい」ものとして創造されたのである(創世記1:31)。

 

2.神は、人にこの地上を支配・管理する務めを与えられた(創世記1:26~28)が、これも男にも女にも、その双方に対してで与えられた使命であり、いずれか一方の性にのみ与えられたものではない。

 

3.神は、最初に男性を創り、「人が独りでいるのはよくない。彼に合う助ける者を創ろう」とおっしゃって(創世記2:7,18.21,22)、もう一つの性である女性を創造された。ここでの「助ける者」とは、男性より劣る、男性の補完的・助手的な立場ではなく、男性と対等の、その助けがなければ男性の存在そのものが危ぶまれるほど重要な存在である(「助け」=詩編121)。また、「彼に合う」という用語は、「相対する」「向き合う」「ぴったり合致する」という意味で、そこにも上下関係はない。割れた茶碗の欠片同士がぴったりと合わさって、はじめて一つの形となるように、その相手がいなければ、成り立たないそうした不可欠な存在である。

 

4.最初の男アダムは、最初の女エバを見たとき、「ついに、これこそ、わたしの骨の骨、わたしの肉の肉。これをこそ、女と呼ぼう、まさに男から取られた者だから」と感嘆の声をあげる(創世記2:23)が、これまた男女の優劣や上下関係について述べているものではない。相対して向き合って助け合って生きるべき、男性と女性の双方が、神によって創造されたことへの喜びの叫びである。

 

5.神は、アダムに対して「善悪の知識の木」の実を採って食べることを禁じ、もし食べるならば死に至ることを告げられた(創世記2:17)。エバは、それをアダムから聞いていたであろうが(創世記3章2,3節)、しかし蛇に騙されて食べてしまう(創世記3:1~6)。そして、エバから実を受け取ったアダムもそれを食べた(創世記3:6)。ここには、アダムとエバ、ふたりの罪が語られているのであって、そのいずれかの罪の大小について語られているものではない。

 

6.この出来事に対して、神はアダムとエバの双方を裁かれた(3:16~18)。エバには、生みの苦しみが与えられることと、「お前は男を求め、彼はお前を支配する」との裁きが告げられる(創世記3:16)。しかし、これは男が女の上に立って支配することが神によって容認されたわけではない。これは、アダムとエバ(男と女)が、神の戒めに反して罪を犯した裁きとして告げられていることであって、神が定めた恒久的な規定として定められたものではない。人の堕罪のゆえに生じた不均衡である。それゆえ、私たちが罪の悔い改めに生きるなら、この罪の裁きの状態を乗り越え、本来あるべき創造の秩序を目指さねばならない。つまり、男と女の双方が、お互い向き合いながら、互いに無くてはならない存在として助け合って、喜び合って生きる在り方を求め、その実現のために努めなければならないのだ。

 

7.後述もするが、1テモテ2章において、男が先に創られ、女が後に創られたこと、また、女が騙されてアダムは騙されなかったことが、女性は静かに学ぶべきで、教会で教えたり、男の上に立ったりすることを禁止する根拠とされている(1テモテ2:11~14)が、これはテモテ書の著者自身による解釈であり、全時代にあてはまる恒久的・恒常的な規定ではない。少なくても創世記そのものの記述からは、テモテ書のような解釈は導き出すことはできない。もしこれが恒久的・恒常的な規定であるならば、それに続く15節を、私たちはどう受け止めればよいのか。出産をしない/できない女性は、「救われない」ままとなってしまうではないか。

 

8.ヘブライ語聖書の中で、神の救いの歴史のために用いられた、多くの女性たちの存在が伝えられている。モーセの姉ミリアム(出エジプト記15:20ほか)、神のことばを伝えた預言者デボラ(士師4:4ほか)、王妃エステル(エステル記)など、男性たちと協働をして、民の指導的な立場にあった女性についても、聖書は言及している。神は、男性であっても、女性であっても、その性差を問わず、ご自分の選びによって、神の計画を進め、神のことばを伝える、民の指導的な立場として用いられるのだ。

 

9.ヘブライ語聖書には、祭司職には女性が登用されたことは記述されていない。また、女性には月経があるがゆえに、その期間は「汚れている」とされる(レビ記17:19など)ことが、神殿の奉仕にふさわしくないものとされた一つの理由として考えられる。しかし、男性もまた、射精がなされるならば、その者は汚れているとされたのであり(レビ記17章16)、女性の汚れだけを採り上げて論ずることはふさわしくない。また、ヘブライ語聖書には、様々な食物規定や安息日規定も定められており、現代の私たちは福音の信仰のゆえに、これらを遵守はしていないし、その必要性をも受け止めておらず、それらの規定からは自由である。それなのに、女性の月経による「汚れ」だけを理由に、女性按手を拒むことは、二重規範ダブルスタンダード)である。そもそも、現代の私たちも女性の月経や男性の射精を、宗教的な「汚れ」とみなすのか。

 

10.旧約聖書の中で祭司は、犠牲の動物をささげる働きを担い、それは男性の務めであった。しかし、現在の礼拝において、犠牲の動物がささげられることはなく、それゆえ、今日の教会において礼拝を司式する者が女性であってはならない根拠とはなり得ない。

 

11.エスは、従う者たちに、従い、仕えることを命じられた(マルコ8:34,10:43~45など)。福音書には、女性たちもイエスに従い、仕える歩みをしていたことが伝えられる(ルカ8:2~3ほか)。また、「もてなした」と訳される言葉も、直訳するなら「仕えた」という意味になる(マルコ1:31,4:39,10:40など)。さらには、イエスが十字架にかかり苦しみ死なれた時、その最期まで従ったのは、逃げ去った男性の弟子たちではなく、女性たちであった(マルコ15:41ほか)。イエスの復活を最初に知ったのも、イエスに従い仕えていた女性たちである(マルコ16ほか)。

 

12.たしかにイエスの12弟子たちは男性であったが、福音書において、イエスが「弟子が男性でなければならない」と言及し規定しているところは皆無である。イエスの弟子たちが男性であったからといって、現在の牧師が男性でなければならないという結論を導き出すことは不可能だ。牧師職は、イエスの弟子たちの働きを受け継ぐものではあるが、彼らの性別や彼らの存在そのものを受け継ぐものではない。むしろ、イエスが命じた、イエスに従い、仕える歩みを、イエスの死に至るまで貫徹し、復活を最初に知り伝えた女性たちの優れた弟子性をこそ、私たちは受け止めるべきであろう。

 

13.マルタの信仰告白ヨハネ11:27)、最初に復活の証人となったマグダラのマリアヨハネ20ほか)など、福音書は、女性たちの優れた信仰や活躍を伝えている。また、イエスの言葉には、そのどこにも女性が弟子であることを斥ける言及はない。

 

14.エスは、天の国の鍵の務めを、ペトロに授けられたが(マタイ16:19)、私たちは、福音の信仰のゆえに、それをペトロ個人にその務めが与えられたものとは受け止めない。イエスに従い、信仰を告白する弟子たち全体に、それが与えられたものとして受け止める。そして、それは、その後、使徒的な信仰を継承する教会に継承されていると考える。そこでも男性に特化して、これを受け止める必要も根拠もない。使徒的な信仰の継承は、特定の個人ではなく、教会に受け継がれているというのが、私たちの福音の信仰である。

 

15.エスは、十字架にかけられる前の夜、いわゆる最後の晩餐において、聖餐の制定をした。そして、その後、捕えられ、歴史的にただ一度だけ、決して繰り返されることのない出来事として、十字架にかかられて死なれた。また、三日目に死者の中から復活された。私たちの行う聖餐は、「これを行え」と命じられたイエスの言葉に従い、イエスが語られた聖餐の制定のことばを宣言し、主の晩餐を行い、イエスの十字架の死を記念し、復活をほめたたえて行うものである。聖餐において、司式者が十字架を再現するのではなく、また聖餐の物素を犠牲として神にささげるのでもない。

 

16.その聖餐に仕えて司式をするものの性別について、イエスは何ら規定されない。私たちは、キリストの代理者となるわけではなく、キリストによって教会に託された働きを担うのであって、それは男性でも女性でも、教会の正規の召しによって担うことが可能である。

 

17.エス大宣教命令を、男性弟子たちにだけ与えられたものと、私たちは受け止めない。それは、全教会と全信徒に与えられたものである。それゆえ、それは、イエスによって、男性と女性の双方による共同体である教会に与えられた使命であり、また男性も女性もその双方に向けて託されている働きである。

 

18.福音書において、その他の、イエスが告げられた様々なみことばについても、私たちは、それをただ男性だけに語られたものとして聞きとり、説教することはない。性差を超えて男女双方に語られたメッセージとして、聞き取り、語っている。それゆえ、もし私たちが、牧師職についてのみ、ただ男性に特化したものとして受容するならば、それは二重規範である。

 

19.エス自身は、教会の中の特別な職制を設定されていない。イエスの昇天後、弟子たちの宣教と初代教会の形成の中で、当時の教会が、その必要性を感じ、職制は生み出され、時代や地域によってさまざまな形に変遷してきた。よって、イエス自身の言葉から、私たちが教会の職制の性差に関する規定を導き出すことはできない。

 

20.使徒言行録において、明確に牧師職についての言及はない。使徒たちや長老、預言者や、執事などの役割については語られているが、これはその後の教会の中で制度化された牧師職とは同等のものではない。

 

21.使徒の書簡に記述されている教会での働き人の呼称(たとえば監督や長老や奉仕者、預言者など)もまた、現在の教会での教職制度とは同等のものではない。このように教職制度は、キリスト教会の初めから存在していたものではなく、宣教が展開され、教会が形成される中で整えられてきたものであり、それぞれの地域や時代によって違いがあった。

 

22.エスの母マリア(使徒言行録1:14)、家の教会を主宰していたプリスカ(=プリスキラ。使徒18、ローマ16:3、1コリント16:19、2テモテ4:19など)、奉仕者(=執事)フェベ(ローマ16:1)など、使徒言行録や使徒の書簡に、初代教会にあって指導的な立場で活躍していた女性たちの名前も挙げられている。

 

23.ローマ16:6に名前が挙げられている使徒「ユニアス」は、古い写本で「ユニア」と記述されているものもあり、この「使徒」が女性であったことも考えられ、実際、教父の中にもこの人物を女性として解釈する者もいた。正確には、この人物が男女いずれであったかを明らかにすることは私たちにはできないが、しかし、たとえ、この人物が男性であっとしても、そのように古代教会において、聖書の中に女性の使徒が存在することが言及されていると解釈し、そのように伝えられていた事実があることには、注目すべきである。

 

24.1コリント14:13~14における、この「語ること」は、女性が礼拝で説教をすることを禁じることではなく、教会の中での秩序を乱した発言を禁止する言葉であると受け止める。また、このように女性が発言することが禁じられるということは、それまでは、指導的な立場にある女性たちが、男性たちと同等に、あるいはそれ以上に、コリントの教会の中で積極的に発言して、パウロもその対応に苦慮していた事実が実際にあったということもまた考えられる。

 

25.上記当該聖書箇所については、恒久的・恒常的な規定ではなく、当時のコリントの教会と社会の文化の状況の中での戒めとして受け止めるべきだ。もし、「聖書に書かれている」という理由で、私たちが教会において、女性による説教を認めず、さらには女性の牧師按手も認めないならば、他の様々な新約聖書にしるされている規定についても、私たちは守らなければならない。たとえば、エルサレム使徒会議における決定、「すなわち、偶像に献げられたものと、血と、絞め殺した動物の肉と、みだらな行いとを避けること」(使徒15:29)も守らねばならない。具体的には、卸売市場や収穫祭で神棚に備えられたものや、血が滴るレアステーキや、首を絞め殺された鶏肉などを、現代の信仰者は食べることができなくなる。あるいは、礼拝の際に男性がカツラをつけることは許されず、女性が被り物をつけないことも許されない(1コリント11章)。それらは過去の、もはや私たちが福音によって自由にされている、守る必要のない戒めとしておきながら、「女性は黙っていなさい」という戒めについては現在も守るべきとすることは、明らかな二重規範である。

 

26.1テモテ2:12~13については、先述の通り、この手紙の著者が述べている聖書理解が、必ずしも唯一の正しい聖書釈義ではない。アダムが先に創られ、エバが後に創られたことは、その優劣や上下関係を意味するものではなく、また、善悪の知識の木の実を食べたことについてもアダムもエバも双方とも罪を犯したのであり、そこに罪の大小はない。どうしても罪の大小をはっきりさせたいのであるならば、エバが蛇に騙されて先にそれを食べてアダムに渡したから、女性が男性よりも罪深いというよりも、神から直接的に禁止の戒めを聞き、エバよりも長い間、神とのかかわりをしていたアダムが、ただエバに勧められるままに食べたことの罪の重さを受け止めることもできよう。また、女性の出産による救いに関する言及にあるように、明らかに全時代のすべての人に適用することはできないし、してはならない記述もある。

 

27.上記当該聖書箇所は、「女は男の上に立つべきではない」ということを、女性が黙っていることの根拠として挙げているが、そもそも牧師職は「人の上に立つ」働きではない。それゆえ、女性が牧師として働き、また教会で語ること(説教をしたり教えたりすること)は「男の上に立つ」ことではない。むしろ、イエスがおっしゃったように、イエスに従い、奉仕者として歩むことこそ、イエスに学び従う弟子として、また牧師として大切な姿勢である。

 

28.1テモテ3:1~7およびテトス1:7~9で言及される「監督」が、直接、私たちの教会の牧師職と同等のものではない。また、たとえこれを今日の教会の牧師職の規定について述べられていると受け止めるとしても、「一人の妻の夫」のみが牧師になることができるということを文字通りに受け取るならば、独身男性は牧師になることはできないということになる。また、ここでは、そのようにその職務が既婚男性であることが前提されるのではなく、「一人の妻の夫」であること、すなわち「一夫多妻ではない者」ということが規定されていると考えられる。

 

29.上記当該聖書箇所では、牧師職に関する性差に定められているのではなく、どのような姿勢で、召されている働きに仕えるかについて語られていると受け止めるべきだ。決して既婚男性であればそれでよいと言われているわけではない。たとえ既婚男性であっても、ここで言及されていることに反する在り方をしている場合も少なくない。しかし、そういう者であっても、神の憐れみの中で、召された働きに仕えて働くことが許されている。よって、牧師職の性差の規定ではなく、様々な自分の姿勢や現実を省みつつ、悔い改めながら、その働きに仕えることの大切さこそ、この個所の主題である。

 

30. ガラテヤ3:26~28にあるように、キリストの救いを信じて洗礼を受けた者は、信仰者の交わり、また教会において、あらゆる差別が克服され、そこから自由とされている。教会の職制についてもまた、この自由の中で考え、決断していくべきである。キリストは、律法による隔ての壁を取り除き、二つのものを一つになさり、真の平和をお与えくださるお方だ(エフェソ2:14〜16)。いつまでも性差によって、牧師按手の制限を続けることは、このキリストに従う教会としてふさわしくない。私たち人間の側の選びではなく、キリストの選びによって、キリストの弟子として働くことが許されるのであるから(ヨハネ15:16)、教会は性差によって、牧師職の道を禁じることはふさわしくない。

 

2017年8月28日

日本ルーテル教団 大麻ルーテル教会/北見聖ペテロ・ルーテル教会 白井真樹 

(c) 2017 SHIRAI,Masaki

 

[1] 筆者自身は、聖書批評学の立場で聖書を理解しているが、本稿ではあえて批評学の立場ではなく、聖書を原典において逐語的に受容する立場での論述を試みる。