yukaina_gorilla’s diary

ごりらぼくし(大麻ルーテル教会/北見聖ペテロ・ルーテル教会)です。聖書や教会のこと、社会のこと、ペットのことなど書いていきますね。

2017年9月3日 礼拝メッセージ

聖霊降臨後第13主日 2017年9月2日

 

「荒波を超えて」

(マタイによる福音書14章22~33)

 

わたしたちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和があなたがたにあるように。アーメン

 

今日のみことばも、先週に引き続き、イエスさまのなさった奇跡を伝えています。先週もお話ししましたが、私たちが聖書の中のそうした不思議な奇跡の出来事を聞くとき、それが本当なのか、そうではないのかということに拘るのではなく、イエスさまは、今日、この出来事を通して、一体、私たちにどんなことを語りかけてくださっているのか、そして、私たちはそれを聞いて、どのようにイエスさまに従っていくのかということを大切に受け止めたいと思います。

 

今日のみことばは、「それからすぐ、イエスは弟子たちを強いて船に乗せ、向こう岸へ先へ行かせ」と伝えることから始まっています。イエスさまは、5千人以上の人たちをたった5つのパンとわずか二匹の魚で養われた出来事のすぐ後、弟子たちと離れられて、再び一人の時間を過ごされます。それは、お祈りをなさるためでした。「夕方になっても、ただひとりそこにおられた」とある通り、それなりの長い時間だったと考えられます。イエスさまは、先週もお話ししましたが、きっと洗礼者ヨハネの死を悼み、また、イエスさまの周りに集まってきた一人ひとりの痛みを覚えながら、そして、彼らだけで船旅に出かけた、弟子たちの歩みとその働きのために、心を込めて祈られたことでしょう。

 

今日はまず、このことから、私たちの歩みと働きは、イエスさまの祈りの中にあるということを受け止めたいのです。イエスさまは、私たちのために祈ってくださっています。私たちは、決して、自分自身の力で歩んだり、働いたりしているのではありません。私たちは、イエスさまの祈りに包まれて、力を与えられ、支えられて、歩み働いているのです。イエスさまは、弟子たちをただ彼らだけで無理やり向こう岸へ行かせて、後はもう「我関せず」というのではなく、ここで彼らのために祈っておられたことでしょう。そして、私たちのためにも、イエスさまは祈ってくださり、しっかりと私たちを見守っていてくださることを、きょう初めに受け止めたいと思います。

 

さて、今日のみことばは、弟子たちの船旅を伝えています。初めにお話ししましたように、イエスさまは「弟子たちを強いて舟に乗せ、向こう岸へ先に行かせ」られました。「向こう岸へ」という言葉は、とても印象深い言葉です。弟子たちの信仰の歩みが、今、「向こう岸へ」と、つまり、新たな場所、新たな次のステップへと向かっていく、イエスさまがそこへ向けて、彼らのことを送り出されるのです。船は、昔からキリストの教会のシンボルとされてきました。船の形で建てられている教会堂も少なくありません。また現在も、世界教会協議会という世界的なキリスト教の教派を超えた交わりの組織のシンボルとして船が用いられています。このように、イエスさまを信じ、イエスさまに従う者たちの交わりであるキリストの教会は、この世界を旅する舟にたとえられてきたのです。そして、また私たち一人ひとりの人生の歩み、また信仰の歩みも、船旅にたとえることができます。私たちは地上に産声を上げてから、この世の生涯を終え、神のみもとに召されるその日まで、人生の船旅、信仰の船旅をしていると言えましょう。そして、イエスさまは、そのように船旅をする、弟子たちを、教会を、そして私たちを、向こう岸へ、新たな場所、新たな次のステップへ送り出されるのです。

 

しかし、その船旅に、嵐が起こります。思いもかけない嵐が、突然、私たちを、そしてキリストの教会を襲うことがあります。思ってもみなかった出来事が、ある日突然降りかかるのです。それが出発して間もなくであれば、船が出かけた場所に戻ることもできたでしょう。しかし、「船は既に陸から何スタディオンか離れて」いました。ですから、もはや後には戻れません。かと言って、前にも進むこともできない状態です。弟子たちはそこで立往生してしまうのです。教会の船旅、私たちの船旅も、襲い来る嵐の逆風と荒波によって、もはや戻ることもできずに、かと言って、前に進むこともできない、そうした困難や危機的な状況に立ち往生してしまうことがあります。

 

しかし、どんなに大変な中にあっても、必ず夜明けが訪れます。「夜が明けるころ、イエスは湖の上を歩いて弟子たちのところに行かれた」。そうです。弟子たちのもとに、私たちのもとに、イエスさまがおいでになることによって夜明けがもたらされるのです。イエスさまが恐れと不安の暗闇を打ち破って、新たな夜明けの、朝の光を、私たちに届けてくださいます。

 

その際に、イエスさまは、「湖の上を歩いて弟子たちのところに行かれた」と、みことばは伝えています。イエスさまは、神さまだから、その神さまパワーを存分に発揮して、あたかもスーパーマンウルトラマンのように、空をビュンと飛んで来られたらよいのに、そうされませんでした。あるいは、ドラえもんのように、どこでもドアを使って、シュッと瞬間移動なさったわけでもありません。イエスさまは、湖を歩いて彼らのもとへと来られます。このことは、イエスさまにとっても、決して楽ではなかったことでしょう。強い風がそこに吹いているのですから。大きな波も起きていたことでしょう。イエスさまは、その中を歩いて彼らのもとへおいでになります。そうです。イエスさまもまた、襲い来る嵐に苦しまれながら、弟子たちのもとへおいでになるのです。イエスさまは逆風に立ち向かい、荒波を乗り越えて、大変な思いをして弟子たちのもとにおいでになります。このことは、イエスさまにも、とても困難なことだったでしょう。

 

エスさまは、そのように、たとえご自分が困難や苦しみを引き受けられることになったとしても、ご自分を信じ、ご自分に従う弟子たち、私たちのことを助けられます。決して苦しみの中に信じる者を放っておかれないのです。ここに、私たちは、苦難のしもべ、十字架の救い主の姿を受け止めます。たとえ、自分が苦しんでも、自分の命が脅かされても、いや、実際にご自分の命を失うことになっても、苦しみの中にある私たちを必ず助けにいらしてくださる救い主です。時として、私たちは、イエスさまのことが見えなくなってしまいます。イエスさまが苦しみの中で何もしてくださらないとそんな思いになることもあります。でも、イエスさまはご自分に従う者たちを決して見捨てることはありません。ご自分が苦しみ、命を失っても、私たちを見守り、助けてくださるお方であることを、私たちは今日知ることができます。

 

しかし、イエスさまがそのようにすぐそこにおいでになったのに、残念ながら、弟子たちはそれに気づくことができません。イエスさまが今彼らのために働こうと、すぐ近くにいらしてくださっているのに、それに気づくことができず、彼らは、むしろ恐れてしまうのです。この彼らの姿は、まさしく私たちの姿です。イエスさまが私たちを助けるため、すぐそばまでいらしてくださっているのに、私たちはそれに気づけず、恐れ、慌てふためき、叫んでしまう。弟子たちは、すぐそこにいてくださるイエスさまに「幽霊だ」と叫びましたが、私たちも、イエスさまがすぐそこにいて、働きかけてくださっているのに、それを受け止めることができず、起こりもしないことに、不安になり、恐れてしまうのです。

 

でも、イエスさまは、そんな彼らに、また、私たちに「すぐ」話しかけられます。もしかしたら、私たちから見るなら、イエスさまは長い時間沈黙しているようにしか思えないかもしれません。イエスさまの御声が長い間聞こえてこないかもしれません。でも、イエスさまの時と、私たちの時は違うということを、今日私たちは受け止めたいと思います。イエスさまは、私たちにとって本当に必要な、ギリギリのその最善の時に、「すぐ」私たちに、みことばを話しかけてくださるのです。

 

「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」、イエスさまはそう、はっきりと力強くおっしゃいました。たとえ私たちの周りでどんなことが起こっていても、イエスさまが私たちのもとにいらしてくださるその時、真の安心、平安がもたらされます。イエスさまは、「わたしだ」とおっしゃいました。これは、とても強い意味を持つ言葉です。旧約聖書出エジプト記で、モーセが、神さまに名前を尋ねたとき、神さまは「わたしはある。わたしはあるという者だ」と答えられました。これは、「有って有る者」と日本語にされることもあります。イエスさまの「わたしだ」というのは、この「わたしはある」と同じ言葉です。つまり、イエスさまは、ここで神としての権威によって、お話しされるのです。また、「わたしはある」これは、必ずたしかにおられる、存在なさるという意味です。つまり、私たちの周りから何が失われても、どんなことが起ころうとも、「わたしはたしかにある」「わたしこそが必ずいる」イエスさまは、神として、そう告げられるのです。このように、神であるイエスさまが、今、私たちのために、苦しみと困難を引き受けて、私のもとにたしかにいらしてくださり、私を助けてくださる。だからもう「恐れることはない」と、イエスさまはおっしゃいます。恐れは、このお方によって、私たちから取り除かれるのです。恐れはこのお方の前に今や敗北するしかありません。

 

ペトロは、イエスさまの助けをいただき、荒波の中、逆風に逆らって、新たな一歩を歩み出そうとします。そして、イエスさまの言葉に従って、彼が一歩を歩み出した時に、それが可能となりました。一歩、二歩と、彼は湖の上を歩みを進めます。けれども、そのように歩む中で、彼は自分に向かって吹いている強い風に心を奪われました。そのとき、再び彼の心は恐れに支配され、もう前に進むことができなくなり、溺れかけてしまいます。イエスさまの言葉に従って、ただ一心にイエスさまを見つめているときは前に進むことができましたが、その中で、イエスさまの言葉や助けを忘れ、逆風や荒波を見て、自分自身の力に頼ろうとするとき、もはや前には進めなくなり、溺れかけてしまう。弱さや傲慢さを抱えている私たちの姿を、このペトロの姿から思います。

 

そんなペトロ、そして私たちに、イエスさまは手を伸ばされます。そして、その手をしっかりと捕まえてくださるのです。私たちを捕えたもう力強く、また優しい主の御手。このイエスさまの御手に捕らえられてこそ、私たちは歩むことができます。イエスさまは、しっかり私たちの手を握っていてくださいます。イエスさまを信じ、イエスさまに従う歩みの中で、私たちは、何度も失敗を繰り返し、それゆえに、たまに、いや、いつも、イエスさまに叱られてしまうかもしれません。でも、それでもなお、イエスさまは何度でも何度でも、そのたびに私に向かって、手を伸ばし、しっかりと私を捕えてくださるのです。

 

小さな子どもの手を離すなら、その子は、すぐにどこかに行ってしまいます。そして、転んだり、水たまりの中に入ってしまったり、けがをしてしまったりするのです。そのたびに、その子どもの親や先生方は、「大丈夫?」と優しく声をかけたり、「手を離したら、こうなっちゃうんだから、ちゃんと手つないでいてね」と言い聞かせたり、さらには「だから離しちゃダメって言ったでしょ!」と、ついにはブチ切れて怒ったりします。そのように子どもを慰めたり、励ましたり、叱ったりしながら、でも、そのたびにまた子どもの手を取り、しっかりと握って歩む、その中で子どもの中に、「私は大丈夫」、「私は生きていていいんだ」という自信や基本的な信頼感が生まれてきます。私たちとイエスさまの関係も、これと同じです。

 

エスさまはペトロの手を取りながら、船に乗られます。その時、嵐は収まりました。弱さを抱え、失敗を繰り返してしまう私たち。でも、イエスさまがそんな私たちの手を取って、人生の舟、教会の舟に乗ってくださる。その時、私たちに起こっている嵐も静まります。

 

弟子たちは、そのイエスさまに驚いて、さんびして、「本当に、あなたは神の子です」と言って、イエスさまを礼拝しました。私たちのために祈ってくださるイエスさま、私たちのためにご自分の身に困難や苦しみを引き受け、命すら惜しまず、私たちを助けにいらしてくださるイエスさま。私たちにみことばを力強く語って励ましてくださるイエスさま。弱い私たちのために手を伸ばし、しっかりと捕まえていてくださるイエスさま。私たちの、また、教会の船旅に乗り込んで嵐を静めてくださるイエスさま。このお方が、本当の神の子として、私たちとともにおられ、私たちとともに旅をしてくださっています。だから、私たちは安心して向こう岸へ、新たなステップへ向けて渡ることができるのです。

 

「安心しなさい、わたしだ、恐れることはない」!ハレルヤ!アーメン!

 

主よ、私たちを導いてください。

 

いろんな嵐が私たちと教会の歩みの中で起こり、その中で慌てふためていしまう私です。御子イエスさまが私を助けにいらしてくださっても、そのことに気づけず、なおも大騒ぎしてしまっています。でもその私たちに、「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」とおっしゃって、手を差し伸べ助けてくださる御子の深い愛を感謝します。どうか、みことばを信じ、みことばに従って、向こう岸に向かって一歩一歩旅することができますように私たちを導いてください。私たちのために祈ってくださり、また私たちのために苦しむを引き受け、命すら惜しまれなかった、救い主イエスさまによって祈ります。アーメン

 

あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るように。アーメン

 

動画:2017-09-03.mp4 - Google ドライブ

 

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