yukaina_gorilla’s diary

ごりらぼくし(大麻ルーテル教会/北見聖ペテロ・ルーテル教会)です。聖書や教会のこと、社会のこと、ペットのことなど書いていきますね。

2017年9月10日 礼拝メッセージ

聖霊降臨後第14主日 2017年9月10日

 

「絶えず祈り続けよ」

(マタイによる福音書15章21~28)

 

わたしたちの父である神と、主イエス・キリストからの恵みと平和があなたがたにあるように。アーメン

 

私たちにとって祈りは、とても大切なことですが、祈りについて学ぶ機会は多くないもしれません。私たちが祈りについて考えて学ぶためによい手引きとして、フォーサイスというイギリスの牧師が書いた「祈りの精神」という本があります。これは今よりおよそ100年も前のものですが、今を生きる私たちが読んでも、とても大切なことが書かれていますので、少し内容から、本文をそのまま引用するのではなく、分かりやすい言葉に言い換えて紹介させていただきますね。

 

フォーサイスは、祈らないことこそが最悪の罪、また最大の罪だと語ります。もちろん世の中にはいろんな罪や犯罪など思わしくないものがあるわけですが、それらすべては信仰者が祈らないことの結果として起こることだというのです。私たちは祈ることでこそ、神さまとの交わりが与えられ、そしてそのことから他の人への関心も与えられ、共に生きる歩みになるのであって、もし私たちが祈らなければ、私たちは孤独になってしまい多くの罪が生まれてくる。ですから、祈らないことこそ、最悪で最大の罪なのです。また、祈らないと、祈ろうとする心も失われ、結果祈れなくなってしまい、霊的に飢えて、信仰者として生きていけなくなってしまいます。

 

さらに彼は、粘り強く祈るということについて語ります。粘り強く祈る中で、神の意向を私たちは変えることができると信じあることが大切なのです。時に神の意志に逆らうように見える祈りであっても、その祈りをすることが逆に神さまの意志に適うことがあるのです。イエスさまが、主の祈りで教えられた「御心がなりますように」という祈りは最も尊い祈りですが、それは私たちが諦めて祈る消極的な祈りなのではなく、本当に真剣に粘り強く祈る中で祈られていく願いなのです。

 

また、不断に絶えざる祈りが大切だと彼は言います。いつも食事をしないと生きていけないように、私たちはいつも祈らなければ信仰者として生きていくことはできない。いつもキリストにあって神と共に生きるため、絶えず祈ることが私たちに必要なのです。祈る気持ちになれないと思うときでも、その時こそ、祈る気持ちにまで祈り続ける。疲れて眠れない時、無理にも横になって静かにしていると、ようやく眠れるようになるのと同じようにです。祈るのが嫌な時には、なお一層祈るのです。神さまは絶えず私たちに関わろうとされているのですから、私たちも絶えず祈るのです。

 

彼は、また祈りの失敗ということについても述べています。なぜ祈りが失敗するのか。それは、私たちが祈りを中止するからです。祈りをやめない限り、その祈りは神さまから決して拒絶されることはありません。祈りが聞かれなかったと言うとき、それは、祈りがもはや過去のもの、終わったものになってしまっているのです。

 

なぜ今日はこうしたお話をしているかと申しますと、今日の福音に登場するこの女性は、まさに彼が語っていることをそのまま生きていると思ったからです。彼女は、イエスさまのもとに赴き、イエスさまに「主よ、ダビデの子よ、わたしを憐れんでください。娘が悪霊にひどく苦しめられています」と願い出ました。

 

その場所はティルスとシドンの地方で、その女性はカナン人だったことを福音は伝えています。つまり、外国の地の外国人女性、異邦の地の異邦人女性でした。異邦人が、イスラエル人であるイエスさまに助けを求め、さらに異邦人の女性がイスラエルの男性であるイエスさまに話しかけることは、いずれもタブーなことでした。しかし、彼女はそんなことはお構いなしに、ただ一心に娘のことを思って、必死にイエスさまのもとへ赴き、願いを訴え出るのです。

 

「主よ、ダビデの子よ」、彼女はそうイエスさまに向かって叫びます。イエスさまを主と呼び、また、ダビデの子、つまり約束された救い主として受け止めていたのでしょうか。そうだとすれば、彼女は異邦人でありながら、非常に優れた信仰を持っていたことになります。「わたしを憐れんでください」これは、物乞いをしている人が通りがかった人に叫ぶ言葉です。あるいは、奴隷が自分の主人にお願いをする時に言う言葉です。「ご主人様、私にどうか憐れみを!」。ですから本当に自分を低く小さくして叫んでいる彼女の姿を、ここから受け止めることができます。奴隷は主人から憐れみをもらわなければ生きていくことができません。物乞いも通りがかりの人からお金や品物を憐れんでもらわねば生きていけないのです。また、そうした奴隷や物乞いをしていた人は身分的にも最下層な人たちでした。彼女は、そのように自分を最も低い立場において、あなたが憐れんでくださらなければ、私はもうだめなのです、そんなすべての希望をイエスさまに託して謙虚に大胆に「わたしを憐れんでください」と叫ぶのでした。

 

「主よ、憐れんでください」、これは私たちの礼拝の中でも、毎週唱えているキリエの言葉です。私たちは、彼女のように、神さまの前に自分を本当に低く小さくして、あなたの憐れみなしには私は生きていくことができない、そんな思いで「主よ、憐れんでください」と唱えているでしょうか。ただ式文に印刷されている毎週唱える言葉として、あまり深く考えずに唱えているだけということはないでしょうか。「主よ、憐れんでください」というキリエのことばは、実は本当に重みのある切実な言葉なのです。キリエは、罪の告白と赦しの際に用いられます。ですから、神さまの憐れみ深い赦しをいただくことなしに、私はあなたの前に立つことができません。私は生きていくことすらできません。ですから、主よ私を憐れんでください、そんな真剣な祈りであるということを、ぜひ心に刻みたいと思います。

 

彼女の願いは、娘のことでした。娘が「悪霊にひどく苦しめられて」いたのです。これは、きっと誰にも手の施しようもないほど、重い病気であったことを表していると考えられます。悪霊というのですから、原因がわからない、人にはどうもできず、悪霊の仕業にするしかないほど重いものであったのでしょう。きっと、これまでにいろんな医者や癒しの奇跡を行う人に見てもらったけれど、誰一人、どうすることもできなかった。でも、イエスさまなら必ず何とかして助けてくださるはずだと信頼して、彼女はイエスさまに全力で願い出るのです。

 

しかし、イエスさまは彼女に何もお応えにならず、ただ黙っておられました。彼女がどれほど必死に祈り願っても、イエスさまは沈黙なさっていたのです。その理由は後でお話ししますが、彼女はそれでもなおも諦めずイエスさまの後を追い、イエスさまに向かって叫び続けました。それを見かねたイエスさまの弟子たちが、イエスさまに向かって言います。「この女を追い払ってください。叫びながらついて来ますので。」彼らのこの言葉から、二つの可能性が考えられます。まず一つは、ただ単純に、彼らが彼女の叫びをうるさく迷惑で、うざく感じて、「どうにかしてください。うるさくてたまりません。黙らせてください。追い払ってください」と言ったという可能性です。もしそうだとしたら、これは何とも残念なことです。目の前に苦しみの叫びをあげている人を見ながら、それを煩わしく思い、黙らせて、なかったことにしようとしているわけですから。

 

でも、私たちはそんな弟子たちを他人事として責めることはできないなと思います。私たちが自分の目の前にいる隣人が傷つき痛みを負って、苦しみの叫びをあげているときに、それにどのように対応しているでしょうか。その叫びを無視したり、無関心であったり、その人を自分たちの交わり、あるいは心の中から追い出そうとしたり、うるさいと言って黙らせようとしたり、そんな姿があるのではないか、そのことを今日の弟子たちの姿から思います。

 

弟子たちのことばから考えられる尚一つの可能性は、ここで弟子たちが「イエスさまなぜ黙っておられるのですか、彼女が叫びながらついてきているではないですか、いつものように彼女を助けて、彼女をここから去らせ解放してください」と願い出たのではないかというものです。伝統的には、そうした解釈もなされてきました。私たちはそんな弟子たちの気持ちもよくわかります。私たちも苦しんでいる人を前にして、「イエスさまどうかこの人を助けてあげてください」という思いになります。その苦しみがあまりに大きかったり、長く続いたりするなら、「なぜイエスさま助けてくださらないのか」そんな思いにもなるのです。

 

エスさまは答えられました。「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」。これは、イエスさまが遣わされた目的が、イスラエルの人たちに救いを告げられるためだという意味です。もちろん、神さまは世界中のすべての人をお救いになられるために、イエスさまをこの世にお遣わしになりました。でも、イエスさまご自身は、まずイスラエルの人に救いを告げ、そしてやがてイエスさまが十字架にかかり亡くなられて復活し天に帰られた後に、弟子たちに聖霊が降り、彼らの働きにより、その救いがイスラエルから異邦人へ、世界中へと宣べ伝えられる、これが神の救いの計画であったと考えられます。ですから、イエスさまは、まず自分はイスラエルの人に救いを告げるという使命を受け止めておられたのでしょう。でもきっとイエスさまにとって、この彼女の心の叫びは痛いほどによくその苦しみが分かったと思います。ですから、きっとそうした彼女を思う痛みをもって、でも自分はイスラエルの人の救いのために遣わされたのだと、自分に向かって、言い聞かせたのではないでしょうか。

 

しかし、彼女はめげません。なおもイエスさまにひれ伏して自分を小さくして願い出ます。「主よ、どうかお助けください」。彼女は娘のために退くことはできないのです。そして、イエスさまは必ず願いを聞いてくださると信頼していました。でもイエスさまの答えは尚も実に釣れないものでした。「子供たちのパンを取って小犬にやってはいけない」。ここで「子供たち」とは、イスラエルの人たちを表します。そして「小犬」とは、イスラエルの人たちが異邦人のことをたぶんに侮辱して「犬」と呼んでいたのです。ですから、イスラエルの人たちのための救いを彼らから奪って、異邦人にあげるわけにはいかないという意味のことを、イエスさまはここでおっしゃったのです。イエスさま、なんと酷いことをおっしゃるのだろうと思われるかもしれません。でも私はきっと、イエスさまだってきっと何とかしたかった、でも自分が神さまから与えられている務めを考えるなら、今の私にはどうすることもできないんだ、そうした悲しみと苛立ちの中で語られた言葉ではないかと思っています。

 

でも彼女は、ここでなおも一歩も引かず、イエスさまに言うのです。「主よ、ごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです。」たくましい限りです。どんなに辛い状況でも、なおも諦めず、しかもユーモアを捨てずに生きている彼女の姿を思います。「イエスさま、おっしゃる通りです。私たちはあなたの前に小さな、また取るに足りない、汚れた小犬にすぎません、でもそんな私たちにもあなたは恵み深いお方です。あなたの恵みのほんの一かけらでもよいですから、私にください。それで充分です。」そう彼女はここで答えます。自分の小ささ、本来ならふさわしくないものであることを認めた上で、なおも謙虚にかつ大胆にイエスさまに助けを求めて願い出るのでした。イエスさまは答えられます。「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように。」そして、その時、彼女の娘はいやされたのです。ついに彼女の願い通りになるのでした。

 

必死に諦めず、イエスさまの助けを信じて願い続けた彼女の姿を思います。イエスさまは、「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。」とおっしゃいました。これは「求め続けなさい、捜し続けなさい、門を叩き続けなさい」という意味です。祈りをやめてしまわない、中止しない姿勢を、私たちは彼女から知らされます。イエスさまは必ず助けてくださる、必ず恵みを与えてくださる、そのことを信頼して祈り続けた彼女の姿に学びたいと思います。

 

また、イエスさまは、彼女の苦しみの叫びを聴き、当初の計画を変更し、超えられない壁を乗り越えてくださいました。ご自分の計画と凝り固まって動かれるのでなく、私たちの心の叫びをしっかりと聞き、今ここでの私に何が必要なのか考えて実行してくださるお方を信頼し、謙虚にかつ大胆に祈り続ける者でありたいと願います。

 

主よ、わたしたちを導いてください。

 

神さま、御子イエスさまが私たちの心の叫びを聴き、答えてくださることを感謝します。どうか私たちが祈りを途中で中止してやめることなく、信頼して、謙虚に、そして大胆に祈り続けることができますように導いてください。本来なら御前にふさわしくないこの私を招き導き顧みてくださることを心より感謝いたします。イエスさまのお名前によって。アーメン

 

希望の源である神が、信仰によって得られるあらゆる喜びと平和とであなたがたを満たし、聖霊の力によって希望に満ちあふれさせてくださるように。アーメン

 

動画:

2017-09-10.mp4 - Google ドライブ

 いつも録画に使っているiPhoneの調子が悪く、礼拝中の録画はできませんでしたので、改めて執務室で撮り直したものをアップしました。

 

http://cdn.higherthings.org.s3.amazonaws.com/imgs/uploads/myht/lectionary/christ_canaanite_woman.jpg