yukaina_gorilla’s diary

ごりらぼくし(大麻ルーテル教会/北見聖ペテロ・ルーテル教会)です。聖書や教会のこと、社会のこと、ペットのことなど書いていきますね。

lesser evil

lesser evil レッサーイーブル

これは、かつて若かりし頃、神学校で習ったことばである。

ある事柄について、AとBとCがあったら、私たちはどうした基準でそれを選択すべきか。

私は、そのうちの明らかに良く、より正しいものものを選ぶべきと考えた。しかし、そのことばを教えてくださった教師の考えは違った。

われわれ人間はみな、神の前に罪を犯し、その罪の限界の中にある。だから基本的に、人間のすることはみな、その限界の中で行われているのであって、選び決断する私も、また、選択肢であるAもBもCもいずれも、その例外ではない。だから、私も、AもBもCも欠けがあり、絶対的な善でも正義でもない。

そうした中で、私たちは、lesser evilの視点で物事を決断するのだ。lesser evilとは、直訳するなら「より小さな悪」となるだろうか。「まだまし」とか訳されているものもあるが(^_^;)

罪の限界と欠けの中にあるあらゆる事柄の中で、それでもlesser evilを選択し、決断していく、またその際に、他ならぬ、それを選択し決断する自分自身もまた、罪の限界の中で欠けある不十分な存在であることを忘れずに。

lesser evil。様々なことを考え決断する際に、このことばを思い起こす。そして、選挙を控えた今、特にこのことばを思う。

どの候補者、どの政党も、またそれを選ぶ私もみな、完璧ではなく、弱さがあり、欠けがある不十分な存在だ。絶対的な善でもなければ、絶対的な正義でもない。時には、失敗もするだろうし、罪も犯すかもしれないし、誤った判断をしてしまうことだってある。私自身、自分勝手な期待を寄せることもあるだろう。

すべて自分の希望にあった、完璧な人物や政党を、となると、誰も投票できず、棄権するしかない。そうであるなら、結局は無責任に多数派のアシストをしてしまうことになる。(多数派を支持することが悪いと言いたいのではなく、無責任に白紙委任することの問題だ。)

そうした中で、神のみ心を尋ね求めつつ、lesser evilの観点から、選択し、決断することができるならばと願うものだ。