yukaina_gorilla’s diary

ごりらぼくし(大麻ルーテル教会/北見聖ペテロ・ルーテル教会)です。聖書や教会のこと、社会のこと、ペットのことなど書いていきますね。

2017年10月15日 礼拝メッセージ

聖霊降臨後第19主日 2017年10月15日

 

「今や、恵みの時」

(マタイによる福音書20章1~16)

 

わたしたちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和があなたがたにあるように。アーメン

 

小説を読んだり、映画を見たりする際に、いつの間にか、その登場人物に感情移入しているときがあります。そして、そのようにするとき、より興味深く、没頭して、その作品を楽しむことができます。聖書も、これと同じです。聖書の物語やイエスさまのたとえ話を私たちが聞く際に、それを自分とは遠い世界のただの昔の話として受け止めるのではなく、その物語やたとえ話の中に出てくる登場人物の立場に立って、ある意味、感情移入するような思いで、それを受け止め、味わうときに、聖書のみことばが断然興味深く、私たちの心に入ってきます。今日の福音も、そのように味わいたいお話の一つです。

 

今日、イエスさまがお話しなさったのは、ぶどう園のたとえ話です。聖書の中には、ぶどう園を舞台にしたお話がたくさん出てきますし、イエスさまもぶどう園やぶどうを少なからずたとえに用いています。これは、聖書の舞台となったパレスチナの地は、ぶどうの産地であり、人々にとって身近であったからです。また、きっとぶどう園で働くということがどういうことか、その苦労も、当時の人たちがよく知るところであったのでしょう。ですから、ぶどう園やぶどうについて話を、みんなわかりやすく聞くことができたのだろうと考えられます。

 

私が三月まで暮らしていた深川は、米どころでした。りんごの産地でもありました。また、最近では、かつて水田だったところで、そばの栽培もなされています。全国2位の収穫量だそうです。ちなみに一位は幌加内です。ですから、お米やリンゴやそばの話がニュースなどでされるなら、なんとなく身近な感じがして、そうだよねとか、そうなんだ?とか、そんな思いで耳を傾けます。パレスチナの人々にとって、ぶどう園やぶどうのお話も、そうした感じであったことでしょう。

 

今日のたとえ話で、ぶどう園の主人は、ぶどう園で働く労働者を、朝早くに探しに出かけます。きっと広場に、そうした日雇いの仕事を求める人たちが集まっていたのでしょう。日本にも寄せ場と呼ばれる、そのような場所があります。私は一昨日、大阪で式文委員会が行われたのですが、私が宿泊したすぐ近くに、釜ヶ崎と呼ばれる寄せ場がありました。そこには、日雇いの仕事を求めて朝早く人々が集まるのです。そして、声をかけたもらえた人は、その日の仕事を得られる、そうでないとその人は仕事を得られないというシステムです。

 

とお話しするなら、軽く聞き流してしまいそうなお話ですが、現実はそう軽いものではありません。だんだん歳を取ったり、体が弱ってきたりすると、何日も仕事にありつけないことが起こってきます。そうすると、食べる物にも事欠いて健康状態が悪くなります。でもお金がないので病院にも行けません。あるいは、お酒や薬におぼれていくということも多いのです。野外での生活を余儀なくされている人も少なくありません。しかし、行政側は、公園を夜、閉鎖して、そうした人たちが寝泊りできないようにしています。そうすると、硬い路上で夜を過ごさなければならなくなるのです。そうした現実が、日本の各地であります。

 

マザーテレサが、東京の寄せ場である山谷を訪れた時に、そうした現実を見て、日本は経済的には豊かだけれど、そのような人たちに無関心なのは、人々の心は貧しいと言い、また、愛の反対は憎しみではなく無関心だと言ったといいます。たいへん胸の痛む言葉です。

 

聖書の時代のパレスチナで、日雇いの仕事を求めて人々が集まる広場が、そうした日本の寄せ場と同じ状況だったかはわかりませんが、そこに集っていた人たちの切実な思いは同じであったことでしょう。

 

ぶどう園の主人は、朝早く、その広場に、ぶどう園で働く人たちを探しに行きました。そして何人かを雇います。一日一デナリオンの報酬での契約です。一デナリオンは、当時の一日働いて得られる賃金に相当する額ですから、相応な金額です。ぶどう園での作業が意外に多かったのでしょうか。主人は、朝9時にまた広場に出かけました。そして、何人かの労働者を雇います。昼の12時や午後の3時にも同じように出かけて雇いました。

 

さて、主人は午後5時にも出かけて広場に寄ってみました。だいたい午後6時ぐらいで一日の作業は終了するので、午後5時の段階では、もう労働者を求めてというわけではなく、きっと別の用事のために出かけて、たまたま広場に立ち寄ったのではないでしょうか。しかし、まだそこには人がいました。主人は言います。「なぜ、何もしないで一日中ここに立っているのか」。するとその人たちは答えるのです。「だれも雇ってくれないのです」。

 

そうです、その時間まで雇ってくれる人がいなくて、その日は仕事がないまま一日を終えようとしていたのです。「今日は仕事がなかった。誰も私のことを雇ってくれなかった」と、諦めつつ一日を終えようとしていました。本当に、空しい今日という日を過ごし、希望のない明日を迎えようとしていたのです。また、ただ仕事がなかった、雇われなかったというだけでなく、だれも自分を必要としてくれないという辛さをも感じていたことでしょう。あるいは、もしかしたら、もっと早い時間に、この主人が、労働者を探しに来ていたその時には、彼らはそれに気づかなかったかもしれません。最初から「どうせ自分なんて雇ってもらえないさ」と諦めていたのかもしれませんし、何か違うことをしていたのかもしれません。しかし、一日の終わり、最後の最後の段階になって、彼らも職にありつくことができました。

 

一日の作業が終わり、報酬が支払われる時間が来ました。後に雇われた者たちから順番に支払われました。まず、午後5時にぶどう園に連れてこられた人に、主人は一デナリオンを支払いました。先ほど申しましたように、一デナリオンとは、一日働いたのに相当する報酬額です。そうすると、先から雇われた人たち、特に、朝一番から働いている人たちは、自分たちはそれよりもっと多くもらえるに違いないと期待に胸を膨らませました。しかし、彼らに支払われた報酬も、午後5時にぶどう園に連れてこられた人たちと、まったく同じ一デナリオンでした。彼らは、納得できません。「自分はこんなに頑張ったのに。あいつはあれしか働いていないのに、同じ額なんて!」そんな思いでしょう。

 

主人は、そんな彼らに言います。「わたしはこの最後の者にも、同じようにしてやりたいのだ」。たしかに、朝早くから働いている者は、苦労して大変な思いをして、そのぶどう園で働きました。ですから、彼らの納得できない思いが、私たちにもよくわかります。しかし、彼らには朝早くから働く場所が保障されていたのです。今日は、このぶどう園で、明日は今日の報酬で、生きていくことができるという安心が与えられていました。自分はここにいていいんだという自分の居場所も与えられていました。しかし、朝から働けず、午後5時まで広場に立っているしかなかった者は、今日は働くことができるのか、明日は生きていくことができるのか、一日中、不安な思いで過ごしたのです。暑苦しい中で仕事をするのも大変ですが、その不安の中で過ごすのも大変なことです。自分は必要とされていないという思いや、居場所がないのも、本当に辛いことです。主人は、きっとそんな彼らの不安や辛さを受け止めていたのでしょう。だから、「わたしはこの最後の者にも、同じようにしてやりたいのだ」と言い、実際そうされるのです。

 

これは天の国のたとえです。ですから、神さまの支配、イエスさまの支配なさる世界はこういうものだというお話です。それは、この世の私たちの日常とは大きく異なる視点で語られています。

 

まず、主人が自ら労働者を捜しに行きます。神さま自ら、天の国を飛び出して、私たちを探し求め、天の国へ招いてくださるのです。何度でも何度でも、ぶどう園から広場に出かけて労働者を雇う主人の姿は、何度でも何度でも、ひっきりなしに、私たちを天の国へ招くために、私たちのもとを訪れてくださる神さまの愛を表しています。そして、最後の最後まで、一人を招き、救い、生かされることを決して諦めないのです。

 

神さまは、100匹の羊のうち、1匹が失われても、「あと99匹いるからいいや」ということではなく、その一匹を探すために羊飼いは命を懸け、命を捨てられるのです。それほどまで真剣に私を探してくださいます。何度でも何度でも繰り返し。今日のたとえ話で、午後5時に雇われた人は、病気など何か弱さを抱えていたのかもしれません。あるいは、「あんな奴は」とみんなからレッテルを張られて、社会の隅っこに追いやられていた人かもしれません。もしかしたら、主人が労働者を求めて広場に来た時に、その場にいなくて、何か別のことをしていたのかもしれません。そのように、弱さを抱えていたり、みんなから排除されていたり、あるいは、自分自身好き勝手な生き方をしてきた、そうした私であっても、神さまはその私を諦めることなく、何度でも何度でも探し求めてくださるのです。

 

「わたしはこの最後の者にも、同じようにしてやりたいのだ」という主人の言葉はとても印象深いものです。神さまのまなざしはそのようなものです。ただ表面だけを見るのではなく、一人ひとりの心の奥底まで受け止められます。「あの人は働かなくて楽をできていいわよね」ではなく、その人の心の中にある悲しみや苦しみや闇を、神さまはご覧になられ、そこに寄り添おうとなされるのです。パッと見ではわからない私たちの苦悩を、神さまはしっかりと受け止めてくださいます。

 

と言いつつも、私たちの普通の感覚からしたら、この話は納得できないかもしれません。長く働いた人に、やはりたくさんの給料が支払われるべきだという思いになります。あんなに長く働いたのに。一所懸命やったのにと。私たちもそういう時があるでしょう。「自分はこんなに頑張っているのに。自分はこれほど大変な思いをしているのに」と。

 

しかし、これは、天の国のたとえです。このたとえで、私は一体、どこに立つのかということが問われています。

 

私たちが天の国に招かれるのは、当たり前のことではありません。本当は、私は天の国にふさわしくないものです。なぜなら、神さまがどれだけ私のことを招かれても、私は、その声に気づくことができず、また、違うことで心がいっぱいで、どこか別のところに立っていました。あるいは、この世の中では居場所がなく、誰にも必要とされず、「もうだめだ」「誰も私のことなんてわかってくれない」と悲しみの辛い日々を過ごすことだってあるでしょう。

 

そうした中で、もう諦めるしかない人生だったのです。あるいは、神さまの前の私の今までの生き方を省みる時に、天の国なんて、もはや諦めざるを得ない、そんな私でした。

 

 しかし、神さまは、そんな私のことを探し出して、なおも天の国へ招いてくださいます。それは、他の人から見れば、「なんであいつが私と同じ扱いを?」とそんな風に思われてしまうかもしれません。でも神さまはおっしゃるのです。「わたしはこの最後の者にも、同じようにしてやりたいのだ」。ここに、神の一方的な恵みが示されています。神さまの深い愛の中に招かれ、生かされる私なのです。そのことに遅すぎるなどと言うことはない。「今や、恵みの時、今日こそ、救いの日」と、みことばが告げている通りです。

 

これが天の国です。これこそ神さまの支配、イエスさまの支配する世界です。この天の国に招かれ、その恵みに生かされる私もまた、これまでとは違う、新たな物の見方が必要となってきます。ただ目に見える業績だけによって物事を評価しない。頑張った人もいれば、頑張りたくても頑張れなかった人もいる、どれだけ頑張っても報われない人もいます。私たちはそうしたそれぞれの苦しみを受け止めていくのです。できるための苦労と、できない苦労、どっちも苦しいのです。あるいは、みんなから見るならば、「あいつは本当にどうしようもないやつだ」、そんな人もいるでしょう。しかし、そうであっても、私たちは、その人を諦めてしまわない。だって、神さまは、この私を諦めなかったのですから。そうした見方を大切にしたいのです。

 

この世的には、そんなの不公平だとか、納得できないとか思われるでしょう。でも、キリストに生かされた私たちが顧みなければ、その人はいつまでも、今日も明日も、居場所がなく、誰にも必要とされずに、広場に立ち続けているだけになってしまいます。この私だってふさわしくないのに、神さまによって招かれた、失われたひとりです。その人だって、神さまの前に同じひとりなのです。こうした物の見方は、私たちにとってなかなか難しいことかもしれないけれども、主の導きに依り頼み、養われてまいりたいと願います。

 

主よ、わたしたちを導いてください。

 

天の国にふさわしくない私をあなたが御子によって招いてくださった、この大きな恵みを心より感謝いたします。私たちも、そのあなたの憐れみ深さに導かれながら、隣人に接し、共に生きることができますように導いてください。主イエス・キリストによって。アーメン。

 

あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るように。アーメン

 

動画 2017-10-15Unedited.mp4 - Google ドライブ

 

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