yukaina_gorilla’s diary

ごりらぼくし(大麻ルーテル教会/北見聖ペテロ・ルーテル教会)です。聖書や教会のこと、社会のこと、ペットのことなど書いていきますね。

選挙を控えて ~「究極的なもの」と「究極以前のもの」~

来週は、衆議院議員選挙の投票日です。私たちに与えられている大切な権利を行使し、大切な責任を果たしたいですね。

 

ドイツのルーテル教会の牧師であり神学者であり、ナチスへの抵抗運動のゆえに捕らえられ、処刑された、ディートリヒ・ボンヘッファーは、神の恵みを私たちが信じて義とされることについて、それは「究極的なもの」であると定義づけました。そのように、神の恵みによって私たちに与えられる義が「究極的なもの」であるとするならば、この世の様々な事柄は「究極以前のもの」であると、彼は位置付けています。

 

私たちにとって、その「究極以前のもの」の受け止めについて、ボンヘッファーは二つの誤った立ち方を指摘しています。

 

一つの誤りは、急進改革的な「断絶」です。すなわち、私たちは「究極的なもの」(天上の事柄)に生かされているのだから、もはや「究極以前のもの」(この世の地上の事柄)は無価値であり、責任を負っていない、だから、私たちはそれに関わるべきではないという立ち方です。

 

もう一つの誤りは、「妥協」です。すなわち、この世において「究極的なもの」は(未だ)力を発揮しえないから、「究極以前のもの」についてはこの世の手段でのみ(この世のやり方に合わせて、流れに任せて)解決していこう、あるいはもはや諦めようという立ち方です。

 

でも、私たちは、受肉し、十字架で死に、復活なさった神キリストを信じているものです。すなわち、私たちは、神の受肉において被造物に対する神の愛を知り、十字架において神の裁きと赦しを知り、復活において一つの新しい世界への神の招きを知るのです。真剣にこの世に、また、人に関わる神と、この世で人となられて生き、死なれ、復活なさった神を、私たちは信じているのです。

 

これら受肉・十字架・復活の三つは、バラバラに理解されるべきではなく、一つの事柄として私たちは受け止めつつ、キリスト者としての生を営みます。そして、そのように神であるキリストが人間となられたがゆえに、私たちも真実の人間として、キリストへの服従の中で生きていきます。

 

そうであるのだから、「究極以前のもの」すなわち、この世の事柄は、私たちにとって、決してないがしろにされてはならない事柄であり、私たちは真剣さをもってそれに関わる姿勢が大切です。同時に、それはあくまで「究極以前のもの」であるから、絶対視しない姿勢もまた大切です。

 

「究極的なもの」を信じて、そこに生かされる私たちだからこそ、「究極以前のもの」にも信実に生きていくのです。私たちは、「究極的なもの」を何よりも大事にするがゆえに、「究極以前のもの」によって、それが妨げられることのないように努めなければなりません。「究極的なもの」のための「道備え」として「究極以前のもの」にかかわるのです。

 

たとえば、ある人の人権が奪われ奴隷化されることによって、その人が神の言葉を聞けなくなっているような状況があるならば、その人は、そのことゆえに、神の恵みを信じて義とされることができなくなってしまいます。すなわちそこでは、「究極的なもの」が「究極以前のもの」によって妨げられているのですから、私たちはその状況を改善する努力をしなければなりません。

 

このように、人間が道具や機械のようにされてしまっているところでは、「究極的なもの」は到来しないのです。ですから、飢えている人にはパンを、家がないには住むところを、囚われている人には自由を、争いには平和を分かち合うことが、それらはいずれも「究極以前のもの」ですが、しかし、そのどれもが必要なことなのです。「究極以前のもの」によって、「究極的なもの」が妨げられているままにしておくことは、キリストに従う者としてふさわしいことではないからです。

 

私たちは、この世においては、「究極以前のもの」を通じてのみ、「究極的なもの」に出会うのですから、その「究極以前のもの」における、私たちの「道備え」の務めは、この世でキリストに従う私たちにとって、とても大切なものです。同時に、最終的な道備えは、私たち人間ではなく、神がなさることであることをも、私たちは忘れてはなりません。

 

ですから、神さまへの祈りをもって、「究極以前のもの」にかかわっていきたい。祈りの中で、来週の選挙に臨み、市民として、人として、キリスト者として責任を果たしたいと願っています。

 

キリストへの信仰を持って生きるということは、「究極のこと」が私のうちで始まるということであり、イエス・キリストが私のうちで生きるということである。しかしそれは、常に、「究極のこと」を待ち望みつつ、「究極以前の事柄」と関わりを持ちながら生きるということでもある。 》ボンヘッファー