yukaina_gorilla’s diary

ごりらぼくし(大麻ルーテル教会/北見聖ペテロ・ルーテル教会)です。聖書や教会のこと、社会のこと、ペットのことなど書いていきますね。

2017年10月22日 礼拝メッセージ

霊霊降臨後第20主日 2017年10月22日

 

「捨てた石が要の石に」

イザヤ書5章1~7・マタイによる福音書21章33~44)

 

わたしたちの父である神と、主イエス・キリストからの恵みと平和があなたがたにあるように。アーメン

 

神さまは、天地創造の際に、「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ、海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ」とおっしゃって、この世界とそこにある命を、神さまが「極めてよかった」とおっしゃった状態にふさわしく管理するように、私たちに託されました。今日の福音でも、ぶどう園の主人である神さまが、農夫たち、つまり私たちに、ぶどう園、この世界を託して出かけられます。今日、私たちの国では選挙の日です。神さまの信頼と委託に応え、祈りのうちにその務めを果たすべく、その責任を果たしたいと思います。

 

さて、幼稚園で大切なことは、子どもたちの自発的な遊びであり学びです。それでは子どもを勝手に放牧して遊ばせておけばよいのかというと、もちろんそれでも子どもはそれなりに育つわけですが、より質の高い遊びや学びを子どもたちに提供するためには、子どもの自発的な活動の背後で、先生方が、子どもたちが喜んで遊び、学び、それを通して成長する姿を期待しながら、いろんな環境設定をしたり、可能な限りの危険を取り除いたり、時には遊びや学びのヒントを与えたりと言った努力をすることが必要です。そうした先生方の熱心な愛情深い働きに包まれて、子どもたちは存分に良い遊びと学びをすることができて、豊かに育つのでしょう。

 

今日もみことばを聞いてまいりますが、まず、第一朗読のイザヤ書5章より聞きたいと思います。預言者イザヤが、美しい歌で、神さまのイスラエルの人々に対する深い愛の関わりを伝えています。

 

「わたしは歌おう、わたしの愛する者のために/そのぶどう畑の愛の歌を。わたしの愛する者は、肥沃な丘に/ぶどう畑を持っていた。よく耕して石を除き、良いぶどうを植えた。その真ん中に見張りの塔を立て、酒ぶねを掘り/良いぶどうが実るのを待った。」

 

「わたし(イザヤ)の愛する者」、つまり神さまが、ぶどう畑をしっかりと整え、ぶどうを植えられた様子が歌われます。神さまご自身が、ぶどう畑を耕し、ぶどうが育つのに妨げとなる石を取り除き、良いぶどうの木を植えられ、さらには、そのぶどう園を荒らしに来る者がないように、見張りの塔を建てて、収穫したぶどうからワインを作るための場所も用意して、実りを待ったと伝えられているのです。そのぶどう畑と、植えられたぶどうとは、もちろん比喩的な表現で、その内容は5節で語られています。イスラエルの家は万軍の主のぶどう畑/主が楽しんで植えられたのはユダの人々」。神さまは、ユダの人々、つまりイスラエルの民が暮らす場所をきちんと整え、エジプトの国で奴隷とされていたご自分の民を解放なさり、導き、そこに住まわせられました。そして、彼らが豊かな実りを得ることを、神さまは期待しつつ楽しみに待っておられたというのです。

 

私たちは、旧約聖書のみことばを、ただの昔のイスラエルの民のことだけが語られているお話としてではなく、今日の私たちに向けても神さまから語られているメッセージとして受け止めます。ですから、今日のみことばも、神さまは、私たちのためにも、この世界をきちんと整えて、そこに私たちを生かしてくださり、そして、私たちに豊かな実りを期待して楽しみに待っておられるということを、ここから聞き取ります。

 

幼稚園で子どもたちが質の高い遊びや学びを経験し、それを思い切り楽しめるのは、背後で先生方が子どもたちの喜ぶ姿を期待して、しっかりと用意をしてくださっているからだというお話しをいたしましたが、私たちがこの世界でのびのびと喜びと感謝をもって生きていくことができるのも、神さまが私たちの実りを楽しみにして、この世界を整えてくださっているからであるということを、きょうのみことばから知らされます。私たちが育つために、神さまが妨げとなるものを取り除き、必要なものを与え、私たちの実りを活かすことができる場も備えていてくださっている、そして私たちを信頼して私たちに期待してくださっている。第一朗読のこの個所は、直接的には預言者イザヤが歌った歌ですが、同時に、神さまの私たちに対する愛の歌ラブソングであると言ってもよいでしょう。神さまのラブソングが、私たちの人生の背後で美しく響いているのです。

 

けれども、みことばは、その後、とても残念な展開をいたします。神さまが、悲しみつつ、悲しみのあまり憤りを込めて、イスラエルの民、そして今日の私たちに言うのです。「さあ、エルサレムに住む人、ユダの人よ/わたしとわたしのぶどう畑の間を裁いてみよ。わたしがぶどう畑のためになすべきことで/何か、しなかったことがまだあるというのか。わたしは良いぶどうが実るのを待ったのに/なぜ、酸っぱいぶどうが実ったのか。」神さまが彼らのため、私たちのため、この世界をちゃんと整えて、よい実りを期待して待っておられたのに、実際には、実ったのは酸っぱいぶどう、つまり実に期待外れの実りであったと。親子の関係などを考えればわかりますが、手をかければかけるほど、期待を込めれば込めるほど、それとは異なる育ち方をしたときの失望感、その悲しみと憤りは大きいものです。神さまのイスラエルの人たちから受けた思いはまさにそうでした。こんなにも深い愛情を注ぎ、いっぱい心をかけて、あなたがたのために接したのに、あなたがたはわたしを喜ばすどころか、まさに酸っぱいぶどうのように私を悲しませたと。

 

イスラエルの人たちは、神さまの度重なる呼びかけにも応えることなく、自分たちの欲望を満たしてくれる他の神々のもとに赴き、彼らを愛してやまない主なる神のもとを遠く離れてしまっていたのです。神と人を愛して生きるどころか、自分勝手な生き方をして、神と人を傷つけることを数えきれないぐらい重ねてきました。そして、それはイスラエルの人たちだけでなく、私たちも同じです。私たちも、私たちを愛してくださる神さまよりも、自分の欲望を満たしてくれるものに心奪われ、神さまから遠く離れて、どこか違う方向へ突っ走ってしまっている。神と人を愛することをせず、神さまを悲しませ、怒らせ、人を悲しませ、傷つけている。そんな私たちは、神さまから見るなら、酸っぱいぶどう、期待外れな存在なのです。

 

最後の7節の後半に、「主は裁き(ミシュパト)を待っておられたのに/見よ、流血(ミスパハ)。正義(ツェダカ)を待っておられたのに/見よ、叫喚(ツェアカ)」という言葉があります。今日の個所は、先ほどよりお話ししておりますように、歌ですから、ミシュパトミスパハツェダカツェアカと、韻を踏んで語呂合わせをしているわけですが、神さまはイスラエルの人々、また私たちに、「裁き」「正義」を待っておられました。裁きと言っても、「お前は裁かれるぞ」という意味ではなく、平等、公平、平和に人々が幸せに社会で生きられるという意味です。社会の中で正しい裁きがなされるなら、そうした幸せな世の中が成り立つと考えられたのです。

 

これは、遠山の金さんを考えると、わかるでしょうか。悪人たちが蔓延っていれば弱い立場に置かれている人は幸せに生きられないわけです。そこで奉行所で、遠山の金さんが、「この桜吹雪に見覚えがねぇとは言わせねえぜ!」と言って、正しく悪人が裁かれるなら、幸せな社会となる。みんな安心して平和に生きていける。そうした意味での裁きです。ですから、ここで神さまが待ち望んでおられる裁きと正義は、ほぼ似た言葉と言ってもよいでしょう。

 

神さまはそうした世界を望んでおられた。でも、イスラエルの人たちも私たちも、実際は「流血」、つまり多くの争いをして、傷つけたり傷ついたり、命を奪ったり奪われたり、その結果、「叫喚」、苦しみや悲しみや嘆きの叫びがあちこちであがっている。せっかく神さまが用意なさったぶどう畑であるイスラエルもこの世界もそんな風にしてしまったと。それがすっぱいぶどうである私たちの現実なのです。

 

そうした私たちを神さまはどうなさるのか。みことばは続きます。「さあ、お前たちに告げよう/わたしがこのぶどう畑をどうするか。囲いを取り払い、焼かれるにまかせ/石垣を崩し、踏み荒らされるにまかせ、わたしはこれを見捨てる。枝は刈り込まれず/耕されることもなく/茨やおどろが生い茂るであろう。雨を降らせるな、とわたしは雲に命じる。」

 

イスラエルも、私たちの世界も、もう神さまは見捨てられ、荒れ果て、混乱したままとされるという、たいへん厳しい宣告です。もう実ることも育つこともできない、そんな風になってしまうと。私たちは、それほど神さまに悲しみをもたらし、怒りを与えているということを、しっかり受け止めたいと思います。神さまは私たちを本当に喜んでおられ、その実りを楽しみに待っておられた。でもその期待を、私たちは裏切りに裏切ってしまったのです。神さまがどれだけ呼びかけても、私たちは神さまに背を向けて歩み続けた。神さまの顔に泥を塗り続けて、神さまの深い愛を台無しにしてしまった、私たちはそんな歩みをしてきたのです。

 

きょうの福音で、イエスさまもぶどう園のたとえを話しておられますが、そこで、ぶどう園の主人が、ぶどう園に遣わしたしもべを、農夫たちが次から次へと、何度も何度も傷つけて、追い出し、また殺してしまった様子が語られています。これこそ、まさに私たちの姿です。神さまがどれだけみことばを語ってくださっても、それを受け入れることなく、知らんぷりをしたり、心の中から追い出したり、なかったことにしたり、神の言葉を抹殺して、好き勝手に生きてきた私たちです。そんな風に神さまを裏切り続けた私たち。そうした私たちのことなんか、もう知らんと、神さまから言われてしまっても当然なのです。

 

これが今日の第一朗読のお話です。とても残念な結末です。しかし、きょうイエスさまが語られる福音は、この物語の更なる続きを伝えます。ぶどう園の主人が送ったしもべを、農夫たちが次々と乱暴し傷つけ追い出し殺したことは、お話ししました。そこで、ぶどう園の主人は、自分の愛する一人息子を彼らのもとに送ります。息子なら敬ってくれるだろうと。でも、そんな主人の願いは彼らに伝わらず、農夫たちは、その息子をも殺してしまいます。神さまが、愛する御子イエスさまを私たちのもとへ送られたこと、しかし、私たちがそのイエスさまをも受け入れず、十字架に追いやり殺してしまったことが、ここで語られます。この物語の結末はいかに?主人は怒って、ぶどう園を彼らから取り上げ、彼らを追い出し、殺してしまう。また、神さまは、私たちを裁かれ、決して赦されない。普通なら、今度こそ、それで物語は終わりとなります。

 

でも、終わりません。ここで思ってもみなかった驚くべきことが起こるのです。「家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった」。イエスさまは聖書のみことばを引用してそう告げられます。私たちが十字架へ追いやり、殺してしまった御子イエスさまが、私たちの気づかないうちに、私たちを生かし、私たちの親石、私たちを支える土台の要の石となったというのです。イエスさまの十字架こそが、私たちの命の要の石となった。こんなことは、だれにも予想すらできないことでした。「これは、主がなさったことで、わたしたちの目には不思議に見える」と言われている通りです。神が御子を犠牲にし、御子がご自分の命を犠牲にして、捨てられても裁かれても滅ばされても仕方がない私たちをなおも生かし、神のぶどう畑、天の国の民としてくださった。決して当たり前ではない、前代未聞の特別な神の不思議な物語が展開していきます。

 

エスさまは続けて語られます。「この石の上に落ちる者は打ち砕かれ、この石がだれかの上に落ちれば、その人は押しつぶされてしまう。」私たちは、この今のままでは、この驚くべき不思議な、神の一方的な恵みの救いを受け入れることができません。だから、十字架という要の石により、徹底的に打ち砕かれ、押しつぶされなければならないのです。御子の十字架により、罪ある自分が打ち砕かれ、高慢な私が押しつぶされて、粉々にされて、ペシャンコにされる中で、私は本当にどうしようもない罪人であり、その最たる者であると、そのことを思い知らされる。でも、そんな私でも、神さまはなおも愛し続け、御子の十字架によって救ってくださる恵みを信じ受け入れる。ただそのことによってのみ、神の国にふさわしくないこの私が、再び神の国の民として回復されるのです。

 

このように、神さまのラブソングは、私たちの不誠実、私たちの罪を超え、なおも美しく高らかに、救いの要の石、イエスさまの十字架のもとから、神のぶどう畑であるこの世界と天の国に響き渡ります。私たちもその歌に導かれ、十字架のもとへと一歩を踏み出しましょう。

 

主よ、私たちを導いてください。

 

あなたの前に期待外れなこの私を、あなたは尚も愛し、私たちが十字架に追いやった御子によって救い、あなたのぶどう畑、天の国の民として回復してくださいました。ただただあなたのその恵みに心より感謝いたします。十字架のもとで自分が砕かれ押しつぶされ、私自身のどうしようもなさを受け止め、それを超えてなおも私を救ってくださるあなたの愛の大きさを信じて歩ませてください。御子、救いの岩であるイエス・キリストによって祈ります。アーメン

 

あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るように。アーメン

 

動画:2017-10-22unedited.mp4 - Google ドライブ

 

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