yukaina_gorilla’s diary

ごりらぼくし(大麻ルーテル教会/北見聖ペテロ・ルーテル教会)です。聖書や教会のこと、社会のこと、ペットのことなど書いていきますね。

2017年10月29日 礼拝メッセージ 宗教改革500年・大麻ルーテル教会50年

聖霊降臨後第21主日

宗教改革500年 大麻ルーテル教会50年感謝礼拝 2017年10月29日

 

「走り続けよう」

(マタイによる福音書22章1~14、フィリピの信徒への手紙3章12~16)

 

わたしたちの父である神と、主イエス・キリストからの恵みと平和があなたがたにあるように。アーメン

 

今日、私たちは3つの意味を込めて礼拝します。一つは、宗教改革500年礼拝です。1517年10月31日にマルティン・ルターが一つの文書を発表しました。それから今年は500年目、10月31日の直前の日曜日である今日の礼拝を「宗教改革500年礼拝」として行います。ルターが書いたその文書は、「贖宥の効力に関する討論」というのが正式なタイトルですが、「95箇条の提題」として知られています。

 

その冒頭には、こう書かれています。「わたしたちの主であり師であるイエス・キリストが『悔い改めよ』と言われた時、彼キリストは信じる者の全生涯が悔い改めであることを、望まれたのである」。当時の教会は、キリストに関わる様々なモノだとか、教会の歴史上の偉人である聖人の骨だとか服の切れ端とか、そんなもの(聖遺物)を見たり、拝んだりしたら、私たちの罪の償いが軽くなると信じられていました。さらには、教会で売られていた贖宥状と呼ばれる、いわゆる免罪符のお札を、買うなら、すべての罪の償いが免除されて、天国へ行くことができると教えられていたのです。それに対してルターは疑問を呈します。人の罪が赦されるのは、そんななことによってではない。私たちの罪はそんなことで赦されるほど軽いものではなく、私たちは、どんなことをしても自分で自分の罪の赦しを得ることなど出来ない、ただただキリストの招きに応えて一生涯かけて悔い改め続けること。そのためにいつもキリストの十字架に立ち返ること、ただそのことによると述べたのです。

 

今日、宗教改革500年の礼拝をしている私たちに大切なことは、そのルターの宗教改革を過去の500年前の出来事して記念してお祝いするということではありません。今の私たちが、まさに、そのルターが述べたのと同じ信仰に生きることこそが大切です。つまり、何かこの世のモノだとか、自分自身の行いだとか、そんなことで、私たちは神さまの赦しを得られるのではない。どれだけ努力をしても、この世のどんなものを手に入れても、私たちの抱える罪は、そんなことで赦されるほど簡単な軽いものではなく、自分ではどうしようもできないもの。だから、ただただキリストの呼びかけに応えて、一生涯悔い改めを続ける。キリストの十字架に立ち返って生きる。その信仰を私たちも大切にして、日々そこに立ち返る、それが今日、私たちが宗教改革500年の礼拝を行うことの意義なのです。

 

今日の礼拝の二つ目の意味、それは私たちのこの大麻ルーテル教会の50年感謝礼拝です。この札幌のベッドタウン、江別の大麻の地で宣教が開始されたのは、1966年、今から51年前のことでした。そして、それから一年が経過して1967年には、この地に会堂が建てられて、一つの地域教会として認められました。また、この年に、大麻ひかり幼稚園も仮開園しています。今日は、この1966年の宣教開始と、翌67年の地域教会としての創立、その二つを覚えて、大麻ルーテル教会50年感謝礼拝として行っています。この地域に、キリストの福音を伝えるために、今から51年前に宣教が始められて、そして、50年前に信仰者たちがともに集い、神さまを礼拝し、また宣教に出かけるための家として、この教会が建てられた。私たちは今日、このことを覚えて礼拝をしているのです。

 

今年の春に行われた私の牧師就任式の際に、粂井先生が説教の中でお話しくださいましたが、私はこの教会の7代目の牧師です。つまり、今まで6人の先生方がこの教会に仕えて、大麻の地の宣教のために働いてくださいました。また、それぞれの時代に、信徒の方々もともに、宣教の働きを担ってこられました。幼稚園でも、今まで多くの先生方が子どもたちにキリストの愛を伝えてくださいました。そして何よりも、神さまがこの50年の間、私たちの教会の歩みを導いてくださいました。途中、教会の活動自体は休まざるを得なかった時代もありましたが、その際も幼稚園の働きは休むことなく続けられて、この地でキリストの愛が伝えられることが途絶えることはありませんでした。私たちはこのことに、今日改めて心から感謝します。

 

同時に、宗教改革500年と同じく、私たちがこの50年をただ過去の記念として覚えるだけならば、その意味が半減してしまいます。ただ昔のことを振り返って記念し祝うための、50年礼拝ではありません。その50年間、神さまが導き、それぞれの時代の信徒のみなさんや牧師たち、また幼稚園の先生方が担ってこられた宣教の働きを、私たちも今ここで担い、また次の世代に受け継いでいく、そのことを改めて心に刻み決意するときが、今日の礼拝の意味なのです。50年前の昔のことではなく、50年前に開始された宣教によって、今の私たちにも福音とその信仰が託されている。そしてその福音と信仰を私たちの周りの人に分かち合い、そのバトンを次の世代の人たちに渡していく。オリンピックの聖火が消えることなく、次から次へと受け継がれていくように、50年前にこの大麻ルーテル教会で灯された聖火が私たちにも託されている。私たちもその聖火の炎を消してしまわず、次の人に渡していく。その歩みが大切なのです。

 

そして、今日の礼拝の3つ目の意味、それは今日は聖霊降臨後第21主日、通常の主の日、日曜日の礼拝であるということです。この私たちの教会の50年の礼拝をいつ行うか、私が考えた際に、最初、休日か日曜日の午後に行うことを考えました。けれども役員会で、日曜日の通常の礼拝の中で行うことが決まりました。そのことで、北海道地区内の他の教会の複数の方々より、「日曜日の礼拝の時間に行うなら、私たちは自分の教会の礼拝があって参加できないから、もっと違った時間にしてくれればよいのに」というお話もいただきました。それに対して、私は「みなさんはそれぞれご自分が行かれている教会の礼拝の際に、どうぞ心の中で大麻のことも覚えてお祈りしてくださいね」と答えましたが、もしかしたら、他の教会のみなさんがおっしゃったように、日曜日の主日礼拝とは別の時間にこの50年の礼拝を行った方がよかったのかもしれません。しかし、私は、今、この私たちの教会の50年の礼拝を通常の主の日の礼拝の中で行うということに、とても大きな意味があると、考えています。

 

主の日の、日曜日の礼拝、これは、神の御子、主イエス・キリストが、私たちの救いのために十字架を引き受け、死なれて、そして三日目の日曜日の朝にご復活なさり、私たちに永遠の命を与えてくださる、そのことを覚えて祝うために行われるものです。このことは、宗教改革の500年も、私たち大麻ルーテル教会の50年も、ただこの神の御子イエス・キリストの十字架と復活に収斂されるということを、よりはっきりと明らかに示してくれるのです。

 

私たちが宗教改革500年を覚え、大麻ルーテル教会の50年を感謝することは、キリストが私たちの救いのために、十字架を引き受けて死なれ、永遠の命を私たちに与えてくださるためご復活なさった、ただこのことのゆえです。宗教改革の500年も、私たちの教会の50年も、今からおよそ2千年前の主イエスの十字架と復活の出来事から始まった、一本の線の上に存在するのです。宗教改革、それは他の何事でもなく、キリストの教会が、主の十字架を覚え、ご復活を心から喜ぶ、そこに立ち返った出来事でした。私たちの教会も、主の十字架を覚え、ご復活をお祝いする共同体に他なりません。その歩みを500年、また50年続けてきたのですし、これからも続けていくのです。そのことを、今日、この日曜日、主の日の礼拝の中で心新たに受け止めたいと願います。

 

さて、今日の聖霊降臨後第21主日の福音で、王は、善人も悪人もだれでも婚宴に招くように、家来たちに命じています。その人たちは、本来なら招かれないはずだった人たちです。でも、誰でもよいから招くように、王は命じます。私たちも、そうした一人として、この教会に招かれ、そのことを通して天の国への招きを、神さまからいただきました。本当ならば、そのことに全くふさわしくないこの私です。神さまの前に多くの罪を重ねて、神さまから遠く離れて歩んでいる私。もっと言うなら、今日の福音に登場する最初に招かれていた人たちのように、神さまの招きを無視したり、忘れたりして毎日を過ごしている一人であり、また、いろんな自分の事柄や楽しみを大切にして、神さまの招きをどこかにポイっと捨てていた、そんな私であることを思います。でも、それでも、神さまは、私たちを見捨てず、キリストの体である教会へと招き、天の国の民の一人としてくださいました。これは、私たちの側に何一つの理由もなく、ただただ神さまの恵みによってのみ、私たちに届けられた招きです。私たちはその招きを本当に心から喜び感謝するものです。

 

そして、今度は、私たちがその喜びと感謝をもって、この地域の人たちを教会に招き、また天の国への招きを届けるべく、神さまからその務めを託されていることを、今日受け止めたいのです。今日の第一朗読にあったように、「立て、我らはシオンへ上ろう。我らの神、主のもとへ上ろう」と、周りの人たちに声高らかに呼びかけたい。その人が善人であろうと悪人であろうと、そんなことは関係なく、この罪人の頭、その最たる者である私ですら招かれたのですから、その相手がたとえどんな人でも、「あの人は神さまの救いにふさわしくない」とか「あの人は神さまの招きを受け入れるはずはない」とか、私も諦めることなく、その人に神さまの招きを伝えたいと願います。

 

ところで、今日の福音で、王の招きに応えて、その宴に集おうとして、一人だけ集えなかった人が登場します。その人は、その席にふさわしい礼服を着ていなかったというのが、その理由でした。なんだかとても気の毒な気がします。ただ王様の恵みによって婚宴に招かれたというならば、別に礼服なんて着ていなくてもよいではないか、そんな風にも思います。でも実際に、その人は礼服を着ていなかったという、ただその一つの理由によって宴から追い出されました。これは、イエスさまが語られた天の国のたとえです。ですから、天の国の喜びの宴に私たちが集うときにも、礼服を着ていなければならないということになります。よく「ありのままの私が招かれている」と語られます。「そのままの私で神さまの招きに応えればよい」と言われます。しかし、今日の福音を見る限り、「ありのまま」、「そのまま」ではなく、きちんと礼服を着ないといけないということになります。神さまの前にそのように着飾らないといけないのか。そうなると、ルターが語った「恵みのみ」は間違えなのか。そんなことを思うかもしれません。

 

けれども、私たちは、ここで、この「礼服」とは一体何であるのかを考えたいのです。私はそのことを考えたとき、パウロが手紙の中で、「主イエス・キリストを身にまといなさい」とか、「あなたがたは皆、キリストを着ているからです」とか述べている言葉を思い起こしました。さらには、黙示録で、長老たちが天の国で、小羊、つまりイエスさまの血によって洗われた白い衣を着て、神さまを礼拝している姿を思い起こしました。そうです。私たちは、主イエス・キリストを身にまとい、キリストを着て、神さまの招きに応えるのです。神の小羊であるキリストが十字架において流された尊い血によって洗われた白い衣を着て、天の祝宴に参加するのです。私たちにとっての天の祝宴のドレスコード、それはイエス・キリストです。ありのままの私が招かれている。そのままの私で神さまの招きに応えればよい。その通りです。しかし、そのありのままの私、そのままの私は、罪と汚れでぼろぼろなのです。そんなぼろぼろな私が、私たちのために十字架にかかられた救い主キリストを着る。キリストの血により洗われた白い衣を着る。その時、神さまは、「おっ、あなたいい服着てるね、さあ、こっちにおいで」と、天の祝宴に招いてくださるのです。

 

神さまの招きに応え、イエス・キリストを着て、天の国の宴に集う。私たちはその喜びの日を待ち望んで、この教会で信仰を養い、出会う人々に福音を分かち合いながら、これからも歩んでまいります。教会の歴史を振り返るなら、昔は人が沢山いて、みんな若くて活気にあふれてよかったと、懐かしく思うでしょう。でも、今日のフィリピ書でパウロ「なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです」と語っています。この言葉を今一度胸に刻んで、さあ前を向いて、ともに走り続けようではありませんか。

 

主よ、私たちを導いてください。

 

天の国にふさわしくない私ですが、あなたの憐れみによって招いてくださったことを心から感謝いたします。御子キリストの贖いを身にまとい、そのあなたの尊い招きに応えることができますように、そしてその喜びと感謝をもって主がみ国へと召してくださるその日まで信仰の道のりを走り続けることができますように、私たちを導いてください。この教会の50年の歩みをあなたが導いてくださったことをありがとうございます。どうか、この50年間、私たちの教会で受け継がれてきた福音のバトンを、私たちも周りの人に、また次の世代の人々に渡していくことができますようにお導きください。ルターが今から500年前に明らかにした恵みのみ、信仰のみ、聖書のみの信仰に、私たちも今一度立ち返ることができますように。主イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン

 

希望の源である神が、信仰によって得られるあらゆる喜びと平和とであなたがたを満たし、聖霊の力によって希望に満ちあふれさせてくださるように。アーメン

 

動画 2017-10-29unedited.mp4 - Google ドライブ

 

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