yukaina_gorilla’s diary

ごりらぼくし(大麻ルーテル教会/北見聖ペテロ・ルーテル教会)です。聖書や教会のこと、社会のこと、ペットのことなど書いていきますね。

2017年11月12日 礼拝メッセージ

聖霊降臨後第23主日 2017年11月12日

 

「聖書の神髄、それは愛」

(マタイによる福音書22章34~40)

 

わたしたちの父である神と、主イエス・キリストからの恵みと平和があなたがたにあるように。アーメン

 

私たちは、毎週礼拝で、聖書のみことばと、そのメッセージを聞きます。また、それぞれみなさんの家庭でも、聖書を読まれるでしょうし、時には、周りの人に聖書についてお話しされることもあるかもしれません。その際、私たちがどんな視点を大切にして、聖書のみことばを聞き、そして、お話しすべきなのか、今日、イエスさまは私たちに教えてくださいます。

 

今日の福音は、マタイによる福音書22章34節以下のところですが、その前を見ていきますと、イエスさまに敵対していた、当時の宗教的なグループの人々がこぞって、イエスさまを陥れて罪に定めようとしていた姿が伝えられています。15節以下、先週のみことばでは、ファリサイ派の人たちが、普段は仲の悪いヘロデ派の人たちをも巻き込んで、彼らと一緒に、イエスさまを罠にかけようと企てていました。また、それに続く23節以下では、今度は、サドカイ派の人たちが、イエスさまを陥れようと意地悪な質問をしています。しかし、いずれも、イエスさまのほうが彼らよりも何枚も上手で、イエスさまが驚くべき答えをなさって、結局、彼らは言葉を失うばかりでした。

 

今日の個所でも、「今度こそ」という感じで、ファリサイ派の人たちが再びイエスさまのもとに来て、彼らファリサイ派の中でも、さらに選りすぐりのエリートで、聖書に詳しい律法の専門家(律法学者)が、イエスさまに質問します。「先生、律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか」と。実は、この質問自体、たいへん大きな問題を孕むものでした。なぜなら、律法は、神さまが定め、私たちに与えてくださった大事なきまりだと信じられていましたから、その中のどれもが重要だったはずです。本来、「これが大事な律法で、あれはそうでもない律法だ」なんてことは決してありませんでした。イエスさまが別の個所で、「律法の文字から一点一画も消え去ることはない」とおっしゃった通りです。ですから、「どの掟が最も重要でしょうか」などという問い自体、おかしなものなのです。でも、彼らは、そうした問題ある質問を、ここでするのです。

 

私たちは、ここから二つのことを受け止めることができます。まず一つ目は、このように、彼らが「これは大事で、あれはそうでもない」と、自分の都合により、大事な律法と、それほどでもない律法と分けて受け止めていた事実があったということです。神さまの律法を誰よりも大事にしていたはずの彼らであるのに、とても残念なことです。そして、もう一つのことは、彼らが、この質問をイエスさまにすることで、今度は、イエスさまを、そのように「律法のうちであれは大切で、他はそうでもない」と線引きしていると、罪に定めようとしたということです。自分たちは常日頃同じことをしておきながら、イエスさまに対しては、それをもとに罪に定めようとする、そうした彼らの二重の規範、ダブルスタンダードが、ここで見られます。

 

しかし、ここでもやはり、イエスさまのほうが、彼らよりも上手でした。イエスさまは彼らに答えられます。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の掟である。」このように、まず何よりも、「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして」、つまり、全身全霊を込めて神さまを愛すること、「これが最も重要な第一の掟である」と、イエスさまはお答えになります。

 

実は、これは、イスラエルの人たちがとても大切にしてきたみことばでした。彼らが神さまの救いにより、エジプトを脱出して、約束の地に入る前に、神さまから大事な務めが彼らに授けられました。それは、彼らが神さまのみ前に何を大切に、どう生るべきかを定めた掟である律法を大切に暮らし、それを自分の子どもや孫たちに伝えるということでした。申命記6章4節以下に、次のように告げられています。

 

「聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。今日わたしが命じるこれらの言葉を心に留め、子供たちに繰り返し教え、家に座っているときも道を歩くときも、寝ているときも起きているときも、これを語り聞かせなさい。更に、これをしるしとして自分の手に結び、覚えとして額に付け、あなたの家の戸口の柱にも門にも書き記しなさい。」

 

彼らは、ここに語られている通り、いつも子どもたちにこのみことばを語り伝え、さらには、家中にお札のようにこのみことばを掲示し、このみことばを書いた小さな紙を入れた小さな箱をお守りのように自分の身に着けて生活していました。そのように、自分の全身全霊をもって神さまを愛することをいつも大切にして生きようと心掛けていたのです。

 

ところで、この「愛する」という言葉は、抽象的で、分かりやすそうで、実際のところ、なかなかわかりにくい言葉です。「愛する」とは一体どういうことでしょうか。キリシタン時代の宣教師たちは、聖書が語る「愛」という言葉を表すのに、ぴったりとくる日本語が見つからず、悩みに悩んだそうです。そして、その結果、彼らはこれを「ご大切」と訳しました。神さまを、私たちが「ご大切」に、つまり心から敬って大切にすること、これが「神を愛する」ということとなるでしょう。また、「I love you.」つまり「私はあなたを愛しています」という英語を、日本のある作家は、「君のために死ねる」と、そんな風に訳しました。つまり、自分の命を懸けられること、それが愛ということです。私は神さまのために命を懸けることができる、その決意をもって生きる、これが私たちが神を愛するということなのです。「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして」、全身全霊で、神さまを心から敬って大切にし、また、神さまのために自分の命を懸ける、これが、律法の中の第一の掟であると、イエスさまはおっしゃっているということになります。余談ですが、夏目漱石は、「I love you.」を「月がきれいですね」と訳したと言います。きれいだね、うれしいね、そんな自分の気持ちを一緒に共感できること、それが愛ということでしょうか。神さまとそのように通じ合い、共感できることも、素晴らしいことですね。

 

「全身全霊で神を愛せよ」、イエスさまの答えがもしこれだけで終わったなら、先ほどお話ししたように、イエスさまは律法の中のただ一つだけを重要視して、他の律法を軽く見たという風に、イエスさまを罪に定めることができたことでしょう。でもイエスさまの答えはそれで終わりません。間髪入れず、イエスさまは続けておっしゃいます。「第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている」。先ほどは第一の掟として、全身全霊を込めて神を愛することだとお答えになられたイエスさまが、第二の掟は、「隣人を自分のように愛しなさい」ということだとおっしゃいます。そして、この「第二も、これ(つまり第一の掟)と同じように重要である」、また「律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている」とおっしゃいました。

 

つまり、イエスさまは、私たちが全身全霊で神さまを愛することと、隣人を自分のように愛すること、この二つは、どちらも同じだけ大切であり、切っても切り離すことができない、二つで一つ、ワンセットな掟であって、「律法全体と預言書」、つまり聖書のみことばはすべて、この二つで一つの教えが基本となり、土台となっていると、お答えになられたのです。さすがイエスさまです。完璧、パーフェクトな、誰にもできない答えをなさいました。

 

私たちが聖書のみことばを聞くときにも、またほかの人にそれをお話しするときにも、何よりも大切なことは、この、私たちが全身全霊で神を愛し、隣人を自分のように愛する、この視点です。よく、聖書にこう書いてあるから、これはよくて、あれはダメだとか、この人は聖書のみことばに従ってからいいけど、あの人は従っていないからダメな人だとか、そんな言われ方がしますが、でも、大切なことは、私たちが聖書をそのように何かのルールブックのように見ることではありません。私たちが心から神さまを愛して、周りの人を自分自身のように愛する、この視点から聖書を見て受け止めること、そして伝えることです。

 

さて、私たちが心から神さまを愛することと、隣人を自分のように愛することは、切っても切り離すことができない一つのことであると、イエスさまはおっしゃったのですから、私たちが神さまを愛する者であろうとするなら、ただそこにとどまらず、隣人をも愛することになります。また隣人を愛する時に、それはただ私たちの人間的な思いからするのではなく、神さまを愛する愛の中でなされるべきこととなります。

 

ヨハネの第一の手紙に、こんな言葉があります。《「神を愛している」と言いながら兄弟を憎む者がいれば、それは偽り者です。目に見える兄弟を愛さない者は、目に見えない神を愛することができません。神を愛する人は、兄弟をも愛すべきです。これが、神から受けた掟です。》

 

このように神さまを愛することと、私たちの自分のすぐそばにいる隣人、兄弟姉妹を愛することは、別々のことではなく、一つのことなのです。また、その愛は、ただの人間的な愛とは異なります。人間的な動機に基づくヒューマニズムの愛と、神さまの愛に導かれた、まことの隣人愛は大きく異なるのです。その人が愛されるのにふさわしいから、私がその人を愛するのではありません。普通に考えるなら、その人が愛されるのにふさわしくない、そんな人でも、私はその人を愛するのです。その人が自分に良くしてくれるからとか、愛することが自分にとって得だからとか、そんなことを超えて、神さまがその人を愛しなさいとおっしゃっているから、私はその人を愛するのです。イエスさまは「あなたの敵を愛しなさい」、そのようにもおっしゃいました。それが聖書が教える、神さまの愛に導かれた隣人愛なのです。私たちはそうした愛の歩みへと招かれているのですが、実際には、これはなかなか難しい、厳しいなと思います。

 

ところで、「隣人を自分のように愛しなさい」、このイエスさまのことばを大事にするときに、そこで大切なことがあります。それは、「隣人を自分のように愛しなさい」と、「自分のように」と言われているのですから、私たちが自分自身を愛するということを知っており、そのことを実際に大事にしていることが、隣人を愛することの前提であるということです。私たちは、自分自身のことを愛しているでしょうか。ぜひ考えてみてください。

 

実は、私たちにとって、これはなかなか難しいことです。自分をなかなか好きになれない。自分を赦せなかったり、受け入れられなかったりする私たちです。また、いろんな認めたくない自分の過去もあるでしょう。でも、そのように自分自身のことを愛せない限り、神を愛し、隣人を本当の意味で愛することは、私たちにはできないのです。では、そのために必要なことは何でしょうか。それは、私たち自身が、愛されている者であることを知り、そのことを受け入れることです。私たちが自分自身を見るなら、なかなか自分を赦せなかったり、受け入れられなかったり、認めたくない過去があったりします。自分が好きになれない。でも、それらをすべてひっくるめて、「たとえどんな歩みをしてきたあなたであっても、また、今、どんなあなたであっても、でも、わたしはあなたを愛している。あなたのことが大切だ。あなたのためにならわたしは死ねる」とおっしゃってくださる方がいることを、私たちが信じることなのです。

 

先ほどのヨハネの第一の手紙には、こんなことも語られています。

「神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。愛する者たち、神がこのようにわたしたちを愛されたのですから、わたしたちも互いに愛し合うべきです。」

 

神さまが私を愛してくださった。私は神さまに愛されている者だ。神さまは私を大切にしてくださり、御子イエスさまは私のために死なれ、命がけで愛してくださった。私たちは、その神さまの愛、イエスさまの愛の中でこそ、その愛に導かれ、促されて、神さまを愛し、隣人を自分のように愛する者とされるのです。空のコップに水が注がれるとき、だんだんとコップに水が満ちていき、やがてそこから水があふれ出るように、私たちの心が神さまの愛で満たされて、私たちの内からその愛があふれ出ていくのです。

 

主よ、私たちを導いてください。

 

神さま、あなたが私を愛して大切にしてくださっていることを感謝いたします。そして、御子をお遣わしくださり、御子は私のために命がけの愛を示してくださいました。感謝いたします。このあなたの愛の中で、私も自分自身を愛することができるようにされて、あなたを愛し、自分自身のように私の隣人、周りの人を愛する歩みができますように導いてください。御子、愛の主イエス・キリストのお名前によって。アーメン

 

あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るように。アーメン

 

動画:2017-11-12unedited.mp4 - Google ドライブ

 

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