yukaina_gorilla’s diary

ごりらぼくし(大麻ルーテル教会/北見聖ペテロ・ルーテル教会)です。聖書や教会のこと、社会のこと、ペットのことなど書いていきますね。

黙想 マタイ25:1~13(~30)

マタイによる福音書25章1~13(~30)

1「そこで、天の国は次のようにたとえられる。十人のおとめがそれぞれともし火を持って、花婿を迎えに出て行く。2そのうちの五人は愚かで、五人は賢かった。3愚かなおとめたちは、ともし火は持っていたが、油の用意をしていなかった。4賢いおとめたちは、それぞれのともし火と一緒に、壺に油を入れて持っていた。5ところが、花婿の来るのが遅れたので、皆眠気がさして眠り込んでしまった。6真夜中に『花婿だ。迎えに出なさい』と叫ぶ声がした。7そこで、おとめたちは皆起きて、それぞれのともし火を整えた。8愚かなおとめたちは、賢いおとめたちに言った。『油を分けてください。わたしたちのともし火は消えそうです。』9賢いおとめたちは答えた。『分けてあげるほどはありません。それより、店に行って、自分の分を買って来なさい。』10愚かなおとめたちが買いに行っている間に、花婿が到着して、用意のできている五人は、花婿と一緒に婚宴の席に入り、戸が閉められた。11その後で、ほかのおとめたちも来て、『御主人様、御主人様、開けてください』と言った。12しかし主人は、『はっきり言っておく。わたしはお前たちを知らない』と答えた。13だから、目を覚ましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないのだから。」

14「天の国はまた次のようにたとえられる。ある人が旅行に出かけるとき、僕たちを呼んで、自分の財産を預けた。15それぞれの力に応じて、一人には五タラントン、一人には二タラントン、もう一人には一タラントンを預けて旅に出かけた。早速、16五タラントン預かった者は出て行き、それで商売をして、ほかに五タラントンをもうけた。17同じように、二タラントン預かった者も、ほかに二タラントンをもうけた。18しかし、一タラントン預かった者は、出て行って穴を掘り、主人の金を隠しておいた。19さて、かなり日がたってから、僕たちの主人が帰って来て、彼らと清算を始めた。20まず、五タラントン預かった者が進み出て、ほかの五タラントンを差し出して言った。『御主人様、五タラントンお預けになりましたが、御覧ください。ほかに五タラントンもうけました。』21主人は言った。『忠実な良い僕だ。よくやった。お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ。』22次に、二タラントン預かった者も進み出て言った。『御主人様、二タラントンお預けになりましたが、御覧ください。ほかに二タラントンもうけました。』23主人は言った。『忠実な良い僕だ。よくやった。お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ。』24ところで、一タラントン預かった者も進み出て言った。『御主人様、あなたは蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集められる厳しい方だと知っていましたので、25恐ろしくなり、出かけて行って、あなたのタラントンを地の中に隠して/おきました。御覧ください。これがあなたのお金です。』26主人は答えた。『怠け者の悪い僕だ。わたしが蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集めることを知っていたのか。27それなら、わたしの金を銀行に入れておくべきであった。そうしておけば、帰って来たとき、利息付きで返してもらえたのに。28さあ、そのタラントンをこの男から取り上げて、十タラントン持っている者に与えよ。29だれでも持っている人は更に与えられて豊かになるが、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。30この役に立たない僕を外の暗闇に追い出せ。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。』」)

 

 黙 想

 

教会暦の一年の終わりが近づいて、礼拝の主題も「終末」に焦点があてられる。聖書の歴史観は、神が天地を創造された「はじめ」があり、神が新しい世界に人々を招かれる「終わり」があるというもの。終末とは、神の救いの完成の日。花婿キリストがおいでになって、神の支配がついに完璧に実現。その時、この世の悪の力は敗北。悲しみ、苦しみ、罪に終止符が打たれるとき。今の辛さは永遠には続かない。キリストがおいでになって、必ずそれらにピリオドを打ってくださる。「もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである」(黙示録21:4)。

 

「目を覚ましていなさい。あなたがたはその日、その時は知らないのだから」終末がいつかは私たちにはわからない。「いつが終末だ」などというのは嘘。「あなたがたはその日、その時は知らないのだから」。たとえ天変地異や、騒動があっても、それが即、終末が来る予表とはならない。そんなものは古今東西いつの時代も起こっていることであり、だから、たとえ何が起ころうとも、あるいは、何も起こらなくても、いつも終末に備えていることが大切。「目を覚ましていなさい」=終末に備えて生きる私たち。

 

しかし、だからと言って、それは何も特別なことをすることではない。14節以下のタラントンのたとえにあるように、与えられた役割を、神さまにお預かりした命を地道に精一杯燃やして生きること。「たとえ明日、世の終わりが来るとしても、私は今日りんごの木を植える」的な生き方。諦めず、放棄せず、自棄にならず、興奮せず、淡々と今日を生き、明日を迎える。

 

10人のおとめ。そのうちの5人は「愚か」で、5人は「賢かった」と言われるのだが、実際にはここで10人が10人とも、みんながみんな眠ってしまった。「目を覚ましていなさい」と、そう命じられて、そのことを大切にしようとしても、結局は誰しもが眠ってしまう。「心は燃えていても、肉体は弱い」のだ。まずそのような自分の弱さを受け止めたい。信仰が眠ってしまう。希望が眠ってしまう。愛が眠ってしまう。そんな私たちであるということ。「自分は大丈夫」「いつも目覚めている」なんてことは、誰一人絶対に言えない。たとえ、どれだけ賢くても、どれだけ敬虔でも、やはり眠ってしまうのだ。

 

そのように時として眠ってしまう私たちだからこそ、普段からの備えが大切。信仰に燃えて生きる私たち。でも、いつか眠ってしまい、その炎が消えてしまう。そこで「賢い」と「愚か」の分岐点は、壺に油を入れて持っているかどうか。油とは、キリスト?聖霊?みことば?信仰?希望?様々なことが考えられ、どれも正しいのだろうが、ここで言われている大事なことは、たとえ眠ってしまう弱さがあっても、なおもキリストを待ち望み、迎え入れる心を大切にし続けること、そして、そのことを待ち望みつつ日々を過ごすこと。

 

このみことばの背景。キリストの再臨の遅れ、終末の遅延という事態。そうした中で、信徒たちは、大きな迫害に遭う。希望を失い、棄教をする多くの人たちも。そうした現実の中で、いつかはわからないが、主は必ず来られる。ある日突然。真夜中に。この世の闇、信仰の闇の中で、主は来られる。その闇の中で、「花婿だ。迎えに出なさい」との声が喜びの声が響く。真っ暗闇の中で「光あれ」との神の声が響き光がさして新しく世界が創造されたあの時のように。

 

今も、闇の世の中。救い主を待ち望みつつ、もう救い主は来ないのか、いないのかとの思いになる。でもその闇の中でこそ、「救い主がおいでになられた、さあ迎えよ」との声がある日突然響くのだ。それはいつかはわたしたちにはわからないが、私たちは信じてその日を待ちたい。それまでの間にたまに眠ってしまうこともあれば、信じられなくなってしまうことや、忘れてしまうこともあるかもしれないが、しかし、予備の油、すなわち、みことば、祈り、希望、信仰、憧れ、キリスト、聖霊を私たちの心に保ち続け、待ち望みたい。

 

おとめたちは、花婿のことを迎えに行く花嫁の道を照らす、その灯りをともす役割をする女性たちのことであると考えられる。彼女たちは結婚式の直接的な主役でなく、あるいは晴れ晴れしい役割でもない。しかし、たとえそうでも、その時に備えて彼女たちは待つ。そしてその働きをする。私たちの歩みも、決して晴れ晴れしいものではないだろう。目立つ働きでもない。でも、その小さな目立たない働きに忠実に。1タラントンを大切に用いながら精一杯歩んでいく。その日を待ち望みながら。

 

ところで、油を持っていたおとめたちは、持っていなかったおとめたちに、自分の油を分けることはできなかったのか?あまりにも冷たいではないか。しかし、自分自身で選び取り、自分自身で従っていかねばならないことがある。自分にだけしかできないこと。信仰と服従、これは他の人が代わることはできない。宗教改革時代の償いの業。修道士たちが、祈ったり、敬虔な生活を、一般の信徒に代わっておこなっていた。しかし、ルターはこれを非難。そうやって償いは人が変わることはできない。神を信じ、従うということも同様だ。

 

同時に、この「賢い」とされるおとめたちもまた、その最終的な段階では油を分けることはできなくても、眠る前に、みんなに「ちゃんと油を用意しておきましょうね」と呼びかけることはできたはずだ。終末を待ち望む教会が、主の福音を宣べ伝える、宣教を行う務めの大切さをここから受け止めたい。