yukaina_gorilla’s diary

ごりらぼくし(大麻ルーテル教会/北見聖ペテロ・ルーテル教会)です。聖書や教会のこと、社会のこと、ペットのことなど書いていきますね。

2017年11月19日 礼拝メッセージ

聖霊降臨後第24主日 2017年11月19日

 

「賢い睡眠方法」

(マタイによる福音書25章1~13)

 

わたしたちの父である神と、主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなたがたにあるように。アーメン

 

私たちルーテル教会は、教会の暦、カレンダー、教会暦を重んじる教会です。また、その暦に合わせてふさわしい聖書の箇所、聖書日課が定められています。今、教会暦では、ちょうど一年の終わりを迎えようとしています。来週が聖霊降臨後最終主日で、教会暦の一年の最後の日曜日で、次の週からは待降節アドベントを迎え、教会暦の新しい年を迎えます。この教会暦の終わりの時期に定められている聖書日課と礼拝の主題は、特に「終末」・「終わりの日」ということに焦点が当てられています。

 

聖書は、神さまが天地を創られた「はじめ」があり、そして、やがて神さまがこの世界に「終わり」をもたらされ、新しい天と地が実現するという、この世界にははじめがあり、終わりがある、そうした歴史観、世界観を伝えています。この世界の終わりのことを、私たちは、「終末」や「終わりの日」と呼んでいます。「終末」という言葉を聞くと、何か恐ろしいことを考えてしまいがちですが、終末は本来、神さまの救いの完成の日であり、ですから大いなる喜びの日です。今日のイエスさまの福音によるなら、その終わりの日には、イエス・キリスト「花婿」として、つまり、大きな喜びを携えて、この世界においでになり、神さまの支配がついに完成するのです。

 

聖書の約束によるなら、その終わりの日にこそ、世の悪の力は敗れ去り、私たちが抱えている悲しみや苦しみ、そして罪、それらのものに終止符が打たれます。ですから、終末とは恐ろしい時ではありません。私たちが抱えている今の辛さは永遠には続かない、キリストがおいでになって、必ずそれにピリオドを打ってくださる、そのことが実現する喜びの日が、終末、終わりの日なのです。まさに、ヨハネの黙示録「もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである」との力強い言葉が告げられているとおりです。

 

その終わりの日について、イエスさまはおっしゃいます。「目を覚ましていなさい。あなたがたはその日、その時は知らないのだから」。終わりの日がいつ来るのかは、私たちにはわかりません。たまに「何年何月何日が、終わりの日だ」などと主張する人が現れますが、そのように「いついつが終末だ」などというのは、まったくもって嘘っぱちです。イエスさまがおっしゃっているとおり、「あなたがたはその日、その時は知らないのだから」、私たちには、いつ終わりの日が来るかなどということはわからない。また、天変地異だとか、世の騒動や混乱だとかがあるなら、「ついに世の終わりが来た」などと、よく言われますが、しかし、そうした事態も、即、終末を私たちに告げる出来事ということにはなりません。なぜなら、それがたとえどんな不思議な出来事であっても、歴史を振り返るならば、案外、古今東西いつどこででも起こっていることであり、だから、たとえ私たちの周りで何が起ころうとも、あるいは、何も起こらなくても、私たちはそれで「終末だ」、「いや、まだだ」などと騒ぐことなく、落ち着いて冷静に、いつも終末に備えて暮らすことこそが大切なのです。「目を覚ましていなさい」、イエスさまがおっしゃるように、いつも終末に備えて生きる私たちでありたいと願います。

 

今、いつも終末に備えて生きる私たちでありたいと申しましたが、だからと言って、それは私たちが何か特別なことをするということではありません。今日のみことばに続く14節以下のイエスさまのお話にあるように、私たちの主人、つまり主なる神さまからお預かりした命を、地道に精一杯燃やして生きることこそ、私たちが終末に備えて生きるということです。マルティン・ルターが言ったとされて、実際のところはどうも違うようですが、しかし非常にルター的な言葉である、「たとえ明日、世界の終わりが来るとしても、私は今日りんごの木を植える」、そうした生き方こそ、私たちが終末に備えて生きるのにふさわしい姿です。世の終わりが来るからといって、何か特別なことをするというのではなく、神さまから託された今日の働きを、地道に精一杯行うこと。諦めず、放棄せず、自棄にならず、興奮せず、淡々と今日を生き、明日を迎えること。これが、私たちが終末に備えて生きることです。

 

今日のイエスさまの福音は、10人のおとめ、女性たちのお話です。花婿の到着を待っていたその10人の女性たちですが、彼女たちのうちの半数、すなわち5人は「愚か」であり、他の5人は「賢い」と言われています。けれども、実際には、ここで10人が10人とも、みんながみんな眠ってしまった事実が伝えられています。「愚か」と言われている女性たちだけでなく、「賢い」と言われている女性たちもまた眠ってしまいます。「目を覚ましていなさい」と命じられて、そのことを大切にしようとしても、結局は誰しもが眠ってしまうのです。イエスさまが捕らえられる直前、弟子たちに「心は燃えていても、肉体は弱い」とおっしゃいましたが、まさにそうした人の弱い姿が伝えられています。私たちは今日のみことばから、まずそうした自分の弱さを受け止めたいと思います。私たちの信仰が眠ってしまう。そんな私たちであるということを。「自分は大丈夫」「いつも目覚めている」なんてことは、誰一人絶対に言えません。たとえ、その人がどれだけ賢くても、どれだけ敬虔でも、やはり眠ってしまうのです。私もまた、そのように眠ってしまう一人です。

 

そのように時として眠ってしまう私たちだからこそ、どう眠るのか、普段からの備えが大切になってきます。賢い眠り方が必要なのです。私たちはどれだけ信仰に燃えていても、つい睡魔がさして、眠ってしまい、信仰の炎が消えてしまう。10人の女性たちのみんながみんな眠ってしまったように、誰しもが眠ってしまう。でも、そこで「賢い」「愚か」の分岐点は、眠るか眠らないかではなく、壺に油を入れて備えているかどうかということでした。みんな眠ってしまうけれど、ちゃんと油を用意して眠りましょうということです。では、油とは、一体、何のことでしょうか。この油とは、これを意味するという、ただ一つだけに絞り込む、そうした正解はないと思います。いろんなものが考えられます。キリストだとか、聖霊だとか、みことばだとか、祈りだとか、信仰や希望や愛だとか、様々考えられ、そのどれもが正しいと思います。油は何かということよりも、私たちの誰しもが睡魔に襲われて、眠ってしまう弱さがあるけれど、その弱さの中でなおもキリストを待ち望み、キリストを迎え入れる心を持ち続ける、そのことの大切さがここで告げられているのでしょう。

 

初代教会の信仰者たちが今日のみことばがどう聞いたのかについて、お話しいたします。神さまの御子、救い主イエス・キリストが天に昇られた後、やがて再びこの世界においでになり、神さまの救いを完成してくださることが、キリスト者たちにとって、とても大きな希望でした。その希望は、もちろん現代の私たちにも同じ大切な希望です。しかし実際はどうなのかというと、キリストはなかなかおいでにならないわけです。つまり、再臨の遅れ、終末の遅れという事態に、初代教会の信仰者たちは直面するのでした。そして、そのことに困惑する中で、彼らは、イスラエルの人たち、またローマの国により、大きな迫害に遭います。たくさんの信仰者が捕らえられ、拷問に遭い、殉教しました。そうした中で、彼らは希望を失ってしまい、棄教をする人たちも少なくありませんでした。そのような現実に直面しながらも、それがいつであるかは私たちにはわからないが、主は必ず来られる。そのことを、イエスさまの約束として聞き取り、受け止めたのが、今日のみことばです。いつかはわからないけれど、必ずキリストはおいでになる。それも、ある日突然、真夜中に。今、自分たちの置かれている真っ暗闇の状況の中に、必ずキリストはおいでになる。その闇に、「花婿だ。迎えに出なさい」との声が喜びの声が響くことを、彼らはイエスさまの約束として信じたのです。それはあたかもあの天地創造の出来事のようでした。真っ暗闇の混沌としている中で、「光あれ」との神さまの御声が響くとき、その暗闇と混沌を打ち破る光がさして、そこから新しく世界が創造された。そのはじめの日のように、この世の力が横行する今の暗闇に、ある日突然必ず主が来られて、闇を破られ、終わりの日が来る、このことが今日の福音で告げられているのです。

 

今の世界を見るとき、今も、私たちは救い主を待ち望みつつも、もう救い主は来ないのか、救い主はそもそもはじめからいないのではないか、そんな思いになることも少なくありません。そんな暗闇が私たちを覆っている。でもその闇の中でこそ、「花婿だ。救い主だ。迎えに出なさい」との声が、ある日突然、響くのです。それは、いつになるのかは、私たちにはわかりませんが、私たちもその日を信じて待つことを、今日イエスさまは告げておられます。私たちは弱い者ですので、それまでの間に、眠ってしまうこともあれば、心が折れてしまうようなことだってあるでしょう。でも、私たちも自分のそばに油を用意しておきたいのです。つまり、神さまのみことばや、祈りや、信仰や希望や愛や、キリストや聖霊、そうしたものを私たちの心に保ち続け、やがて必ずキリストがおいでになって救いを完成なさる、喜びの終わりの日を待ち望みたいのです。

 

今日のたとえに登場する女性たちは、花婿を迎えに行く花嫁の歩く道を照らす灯りをともす役割をする女性たちだと考えられます。ですから、彼女たちは結婚式の直接的な主役ではありませんし、晴れ晴れしい役割でもありません。しかし、たとえそうでも、その時に備えて彼女たちは、その時をひたすら待ち、その働きに仕えました。私たちの歩みも、決して晴れ晴れしいものではなく、目立つものでもないかもしれません。でも、その小さな目立たない働きに忠実に仕えたいと思います。今日の福音の後にありますが、たった1タラントンだからと土の中に埋めて過ごすのでなく、その1タラントンを大切に用いながら精一杯歩んでいくのです。喜びの終わりの日を待ち望みながら。

 

ところで、今日のたとえ話で、最初納得できなかったことがあります。それは油を持っていた女性たちは、持っていなかった女性たちに、自分の油を分けることはできなかったのかということです。油がなくなりそうで「油を分けてください。わたしたちのともし火は消えそうです」と困りつつお願いしている人を前に、「分けてあげるほどありません。それより、店に行って自分の油を買ってきなさい」なんて、あまりにも冷たいのではないかと思ったのです。しかし、他の誰にも代わることができない、自分自身で選び取り、自分自身で従っていかねばならないこと、それが信仰の歩みだと、ここでイエスさまはお話なさっているのかなと思いました。信じて従う、これは他の人が代わることはできない、自分自身にしかできないことです。

 

宗教改革の時代、ルターが批判したことの一つにこんなことがありました。人々が犯した罪に対し、当時の教会はいろんな罪の償いを告げたのですが、他方で、修道士たちが、その償いをその人に代わって行うという習慣がありました。運転代行ならぬ、罪の償いの代行です。具体的には、修道士たちが一所懸命、祈ったり、敬虔な生活をしたり、一般の信徒に代わってそれらを行なっていたのです。しかし、ルターは「これは間違えている習慣だ」と批判しました。人が犯す罪は、その人自身が一生涯、神さまの前に深く悔い改めて生きること、それしかない、だから誰かが、修道士がそれを代わって行うことなどできないと、ルターは言ったのです。私たちが神さまを信じ、従い、キリストを待ち望むことも同じです。それを他の人に代わってもらうことなどできません。私自身が神さまの前に立ち、キリストを待ち望みながら、今日の日を精一杯生きる、そのことこそ大切なのです。

 

しかし、同時に、この「賢い」とされる女性たちもまた、最終的な段階ではもはや油を分けることはできなくても、その前に、つまりみんな眠ってしまう前に、「いつ花婿が来てもよいように、ちゃんと今のうちから油を用意しておきましょうね」と呼びかけることはできたはずです。私たちにとって、今はまさにそのときです。つまり、キリストがおいでになる、終わりの日を待ち望む私たちが、私たちの周りの人々に、神さまの福音を宣べ伝え、宣教を行う務めの大切さを、ここから受け止めたいと思います。

 

主よ私たちを導いてください。

 

神さま、私たちが喜びと希望のうちに、救い主イエスさまの到来と、あなたの救いの完成の日としての終わりの日を待ち望むことができますように。また、その日まで、あなたの救いの福音を宣べ伝える歩みができますように。イエスさまのお名前によって。アーメン

 

希望の源である神が、信仰によって得られるあらゆる喜びと平和とであなたがたを満たし、聖霊の力によって希望に満ちあふれさせてくださるように。アーメン

 

動画 2017-11-19unedited.MP4 - Google ドライブ

 

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