yukaina_gorilla’s diary

ごりらぼくし(大麻ルーテル教会/北見聖ペテロ・ルーテル教会)です。聖書や教会のこと、社会のこと、ペットのことなど書いていきますね。

2017年11月26日 礼拝メッセージ

聖霊降臨後最終主日・永遠の王キリスト 2017年11月26日

 

「目の前にいる神さま」

(マタイによる福音書25章31~46)

 

わたしたちの父である神と、主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなたがたにあるように。アーメン

 

教会の暦では、今日、聖霊降臨後最終主日を迎えています。この日は、「王であるキリストの日」とか「終末主日」とか「永遠の日曜日」とか、そうした特別な名称で呼ばれ、それぞれに大切な意味があります。

 

まず、「王であるキリスト」と呼ばれるこの日は、神の御子、私たちの主イエス・キリストが再び、私たちの世界においでになり、王としてこの世界を統治なさることを覚えます。キリストこそが王、すべての王の中の真の王、あらゆる主の中の真の主、「王の王」、「主の主」King of kings, Lord of lordsであることを、この日私たちは心に刻むのです。たとえ世の権力者がどれだけ横行していようとも、キリストこそ真の王です。また、この世で悪の力がどれだけ蔓延っていようとも、キリストこそ真の王です。私たちは、この真の王であるイエス・キリストの支配のもとにあります。キリストの支配と言っても、暴君のように私たちを上から押さえつけて苦しめる、そうした支配とは異なり、「支配」という字がそうであるように、私たちを支え、心を配り、配慮してくださる、そうした支配です。キリストが真の王として、この世界とすべての人をそのように真に支配なさるその時、私たちは、私たちを縛り付け、私たちを苦しめ、押さえつけているこの世のあらゆる力から解き放たれます。イエスさまは、「あなたがたは世で苦難がある。しかし勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」とおっしゃっいました。この言葉の通り、イエス・キリストが王として、私たちに世のすべての力からの解放と勝利とをもたらしてくださるのです。

 

次に、今日この聖霊降臨後最終主日は、「終末主日」とも呼ばれます。今日は、教会暦の一年でいちばん最後、最終の主の日、日曜日ですが、終末、世の終わりの日について、私たちはこの日に心に刻むのです。先週のおさらいになりますが、聖書の歴史観・世界観は、この世界には、神さまが天地をお創りになられたはじめがあり、そして神さまが私たちの救いを完成なさる終わりがある、このようにはじめがあり、終わりがあるというものです。その終わりの日を見据え、またその終わりの日に備えて、私たちは今日を生きる。そのことを、特に心に刻む日が、今日、終末主日です。かと言って、世の終わりが来るからと言って、何か大それた特別なことを私たちがするのではなく、先週もお話ししましたが、(ルターが言ったとされますが、実際は違うようで、しかし)たいへんルター的な言葉である「たとえ明日が終わりの日であっても、私は今日リンゴの木を植える」との言葉にあるように、私たちが神さまに与えられた一日一日を精一杯、小さいことに忠実に、神さまに与えられた務めに誠実生きることを大切にしたいと思います。

 

また、私たちはこの終末主日に、そうした世の終わりとともに、自分自身、個人としての終末についても心に刻み、それに備えたいと思います。つまり、私たちがこの地上の生涯を終える、その「死の時」を見据えて、死に備えて生きることを、今日、心に刻みたいのです。世の終わりの日がいつ来るのかわからないのと同じように、私たち自身の個人の終末、死の時も、一体いつその日が来るかわかりません。この前の火曜日の朝に、深川教会の信徒が急逝なさり、私は、水曜日と木曜日に葬儀のお手伝いに深川まで行ってまいりました。その方のお連れ合いが、いま重い病で入院しており、可能な限り、その方は、お連れ合いの看病に通っておりました。お連れ合いを看取り、天の御国に見送るのが、ご自分の使命であると、その方は受け止めておられましたし、私たちも皆そのように思っていました。しかし、その火曜日の朝、その方が、食事の時間になっても起きてこないということで、その方が暮らす高齢者ホームの職員の方がその方の様子を見に行ったら、もう意識がなく天に召されたということでした。あまりにも突然のことで、みんなたいへん驚きました。私も一瞬動けなくなりました。このように、人がいつその終わり、死の時を迎えるかは誰にもわかりません。その日その時はただ神のみが知るのです。だからこそ、私たちは日々、天の故郷を見つめ、天の国の民として、毎日を生きることを、ぜひ今日、この終末主日に改めて心に刻みたいと願います。

 

また、今日この聖霊降臨後最終主日は、「永遠の日曜日」とも呼ばれます。今、いつか必ず終末、終わりの日が来るということを、私たちは受け止めました。つまり、この世界の終わり、そして、個人の終わり、その日が、必ず来ると。でも、その終わりは、「終わり」と言いましても、それですべてが終了してしまうという意味での終わりではありません。「これで最後です。しかし私にとっては命の始まりです」。これは、ヒトラーに対する抵抗運動により、ナチスに捕らえられたディートリッヒ・ボンヘッファーが、ついに処刑されるため、処刑場に連行される際に言ったとされる言葉です。彼の言葉にあるように、終末、終わりの日は、私たちにとって、それですべてが終了してしまう日ではなく、たとえこの世的にはそれで最後でも、主にあって、神さまが与えてくださる新しい命の初めの日、永遠の初めの日なのです。ですから、永遠の日曜日であるこの日、ドイツでは召天者記念の祈りがなされるということです。「球根の中には」という美しく、多くの方々に愛されているさんびかがあります。その最後の節はこんな歌詞です。《いのちの終わりは いのちの始め。おそれは信仰に、死は復活に、ついに変えられる 永遠の朝。その日、その時をただ神が知る。》そうです。世の終わり、そして個人の終わりの日、それは、私たちにとって最後ではなく、新しい命、永遠の世界の初めの日なのです。今日、永遠の日曜日、ぜひこのことを心に刻みましょう。

 

さて、その中でも、今日の福音は、「人の子が栄光に輝いて天使たちを皆従えて来るとき」という言葉で始められ、「王」としてこの世界においでになるイエスさまの姿が伝えられております。ですから、特に、王であるキリストということを、みことばから今日私たちは受け止めます。キリストが王であるということを思いながら、私は、以前にも紹介しました、マルティン・ルターが「キリスト者の自由」の冒頭で述べている言葉を思い起こしました。「私たち(信仰者)は、すべての上に立つ主人であり、何にも支配されない。(また同時に、)私たちはすべての者に仕えるしもべであって、すべてに対して奴隷である」つまり、ルターはまず、私たちはすべての者の主人であり誰にも支配されないと言います。これは、私たちが王であるキリストの支配、ただそこに生きるがゆえに、他の何にも支配されないで、強く雄々しく悠々と生きることができるということだと受け止めることができるでしょう。しかし、私たちがすべての上に立つ主人だからと言っても、これは何も私たち自身が偉そうに生きるということではありません。そうではなく、真の王であるキリストを私の支配者としているがゆえに、私たちは他のだれにも、何にも支配されず、だれに対しても卑屈にならず、神さまに与えられた尊厳を保って生きていくことができるということです。人に従うよりは神に従うべき。ただ神に従って、生きていくということです。

 

しかし、ルターはそれだけでなく同時に、私たちはすべての者に仕える僕であり、すべてに対して奴隷だとも語るのです。つまり、みんなに仕える、みんなの僕として生きるというのですから、私たちが高ぶらず、自分の視線を低くして、愛をもって生きるということです。これも、私たちが真の王であるキリストに従う生き方に他なりません。キリストは、すべての人に仕えられました。重い病や障がいを抱えている、そのあらゆる人々をキリストは癒され、みんなから「あいつは悪霊に憑かれている」とか、「あいつは穢れている」とか、そんな風に見捨てられた人たちのことをもキリストは受け入れ、共に生きられました。重い罪を犯した人、あるいは罪人としてみんなから排除された人をもキリストは救い、招かれました。私たちも、この王キリストに倣い、キリストに従って、そうした生き方をしていくのです。イエスさまが生きられたように、私たちも生きていきたいのです。

 

今日の福音で、イエスさま、キリストまた神さまは、一体どこにおられるか語られます。もちろん神さまは天地万物の創り主であり、全知全能のいと高き、天地において最も偉大なお方です。それは確かにその通りですが、同時に、今日の福音では、イエスさま、王であるキリストは、この世界で「最も小さい者の一人」「兄弟」と呼ばれ、その一人とともにおられるとおっしゃっています。つまり、いと高き最も偉大な力強い神は、この世界で最も小さな立場に置かれ、無力にされているその一人と共におられるとおっしゃるのです。私たちのすぐ近く、私たちのすぐ隣、私たちのすぐ目の前にも、様々な困難を抱えている人がいます。社会の中で小さな立場に置かれている人がいます。そうした一人と共に、キリストはおられる。まさに神であるキリストは、その人と共に生き、共に笑い、共に泣き、共に苦しみ、共に死なれるのです。このように、神さまは、私たちから遠くにおられるお方なのではなく、私のすぐ目の前におられます。

 

私たちが目の前にいる困難を抱えている人、この社会で顧みられず小さな立場に置かれている人と一緒に生きる。そのことが、すぐ目の前におられる私たちの神さまと共に生きることであって、その歩みを、キリストは受け止めてくださいます。しかし、私たちには大きなことはできません。その人に、小さなかかわりしかできません。でも、それでも良いのです。できる小さなことをしていくこと。イエスさまが別の箇所でおっしゃる通り、コップ一杯の水を差し出す、そうした関わりをしていく。イエスさまは「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたことは、わたしにしてくれたことなのである」とおっしゃって、「一人にしたこと」の大切さを告げられます。私たちがする奉仕や愛の関わりを、沢山の人たちにできなくてもいい。この世界を変えるような大きな働きはできなくてもいい。私の目の前にいる一人に小さなかかわりをしていく、そのことを王であるキリストは受け止められるのです。

 

ここで、人々は、王に向かって、「主よ、いつわたしたちは、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、のどが渇いておられるのを見て飲み物を差し上げたでしょうか。いつ、旅をしておられるのを見てお宿を貸し、裸でおられるのを見てお着せしたでしょうか。いつ、病気をなさったり、牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか」と答えていますが、私たちがいつそれをしたか自分でも忘れてしまうような、そんな小さなかかわりでよいのです。

 

また、ここで人々がイエスさまに尋ねている、「いつわたしたちは…したでしょうか」という、この彼らの問いは、彼ら自身が、「私は何もできていないな」という、そんな思いを持って過ごしていることの現れであると言えます。「自分には、あれもできていない、こんなこともできていない」、そうした思いをもって日々悔い改めながら、彼らは過ごしていたのです。そのような「自分にはできていない」との思いは大切です。逆に左側にいた人たちは「いつわたしたちは…しませんでしたか」と言っていますが、これは「私はちゃんとしているじゃないか」という思いの表れです。「私はあれもこれもやっているし、これもやっている。だから他の人から何も言われる筋合いはない」と。それこそ問題です。自分はあれもやっている、これもできているというのではなく、「自分にはできていない」と悔い改めながら、自分の目の前にいる一人に対して小さなかかわりを続けていくこと。この世界の大きな課題や、困難を抱える多くの人々を前にして、自分は何もできない。そうした自分の足りなさを受け止めながら、目の前の一人に精一杯仕えていく。それが、その人とともにおられる神さまに、私たちが仕えることであり、終末に備えて、永遠を見据え、私たちが生きることです。それが王であるキリストに従う歩みなのです。

 

来週から待降節アドベントを迎えます。アドベントは、クリスマス、イエス・キリストの誕生を待ち望む季節です。いと高き最も偉大な神さまが、最も小さな無力な一人の赤ちゃんとして、貧しい馬小屋に生まれ、この世界においでになられます。そのクリスマスの出来事から、私たちの本当の価値をどこに置くのかと思い巡らしつつ、私たちの目の前にいる小さな一人、私たちの目の前にいる神さまに仕える歩みを続けてまいりたいと願います。

 

主よ、私たちを導いてください。

 

神さま、私たちの周りにいる困難を抱え、また小さな立場に置かれている一人と共におられるあなたに、私たちが仕え、小さな関わりを続ける中で、御子キリストがおいでになる終わりの日を待ち望むことができますように。救い主イエス・キリストによって。アーメン

 

あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るように。アーメン

 

動画 2017-11-26unedited.mp4 - Google ドライブ

 

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