yukaina_gorilla’s diary

ごりらぼくし(大麻ルーテル教会/北見聖ペテロ・ルーテル教会)です。聖書や教会のこと、社会のこと、ペットのことなど書いていきますね。

2017年12月10日 礼拝メッセージ

待降節アドベント第二主日 2017年12月10日

 

「福音がはじまる」

イザヤ書40章1~11、マルコ1章1~8)

 

わたしたちの父である神と、主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなたがたにあるように。アーメン

 

昨年と今年、旭川教会で、2年間続けて、ヘンデルメサイアのコンサートが行われました。これは、旭川市内のキリスト教会の教派を超えた取り組みとして行われているものです。その企画で興味深いのは、メサイアを、もともとの英語でではなく、日本語に訳されたもので歌っているということです。歌詞を味わいながらメサイア、救い主イエス・キリストを自分たちがさんびし、旭川の街に暮らすみんなに伝え、ついにはそのみんなが一緒にイエスさまをほめたたえるようになることを願って、日本語で歌っているわけです。

 

ところで、メサイアでは、前奏の後、今日の第一朗読であるイザヤ書40章のことばが歌われて始まります。このイザヤ書40章は、イザヤ書全体の中で、ここから第二部に入る、重要な位置づけをされるところです。イスラエルの人たちが、自分たちの犯した罪が原因で、バビロンに国を奪われ、人々はバビロンに捕虜として強制連行されて、そこでの生活を余儀なくされてしまうのですが、ようやく解放されて自分の国に帰ることができるという、その時代のことが語られているのが、40章以下です。同時に、代々のキリスト教会は、この40章のみことばを、救い主イエスさまのおいでになる、その預言として受け止めてきました。メサイアでもまた、そうした教会の信仰に基づき、この40章のことばから始めるのです。

 

メサイアの曲では、クリスマスのさんびか「もろびとこぞりて」で用いられる曲をバックに、テノールのソロで、神さまがご自分の民を慰めてくださると、本当に美しく、また、慰め深く歌われます。《「慰めよ、わたしの民を慰めよ」とあなたたちの神は言われる》。ここでは、ほかの誰でもなく、神さまご自身が、人々に慰めを告げられます。それは、イスラエルの人たちが、自分の罪が招いたバビロンでの苦しみを、神さまがしっかりとご覧になり、「もう十分お前たちは苦しんだ。もう十分にあなたがたの罪を償った。主は十分にあなたの罪に対して罰した。だから今や慰めの言葉を聞け」と、神さまは人々に語りかけられるのです。

 

メサイアでは、続いて、いきなりガラッと曲調が変わって、3節の言葉が歌われるのですが、日本語版では《荒れ野に呼ばわる声がする。「道を整えて 迎えまつらん救い主を」》という歌詞で歌われます。これは、原曲では、聖書の8節のとおり「道を整え、荒れ地に広い道を通せ」なのですが、中田羽後という牧師であり音楽家は、これを日本語に訳すにあたり、自分の信仰に基づいて、「道を整えて、迎えまつらん、救い主を」と意訳したのです。大胆だなと思いました。でも新鮮に思いました。そうです。ここで預言されていることは、「道を整えて、救い主を迎えよう」という、神さまからの呼びかけです。今や救い主が来られるから、その準備をしようと、神さまが人々に呼びかけておられるのです。この神さまがお遣わしくださる救い主こそ、罪を犯して神さまから懲らしめられ、苦しんでいた人たちにとっての、まことの慰めであり、この慰めは、当時のイスラエルの人たちに向けてだけではなく、こんにちの私たちにも与えられます。

 

私たちも、神さまの前に多くの罪を犯しましたし、今も犯していますし、これからも犯してしまうでしょう。いろんなことをしてしまって、あるいは、すべきことをしないでいて、どうしようもない私たちです。でも、神さまは、そんな私たちに救い主を送り、真の慰めを与えてくださる。だから、あなたがたはその備えをしなさい、救い主を迎えるための道を整えなさいと、神さまは、私たちに呼びかけられるのです。この救い主を迎える道を整えるという、このことこそ、私たちの待降節アドベントの過ごし方です。自分自身を見つめて省み悔い改め、新しい自分となって、救い主をお迎えする、その準備をする、これがアドベントの過ごし方なのです。

 

ではその準備とは、具体的にはどういうことでしょう。それについて、みことばは「谷はすべて身を起こし、山と丘は身を低くせよ。険しい道は平らに、狭い道は広い道となれ」と語っています。「谷はすべて身を起こし」、私たちが谷のように落ち込んでいたり、卑屈になっていたりしているなら救い主を迎えることはできないから、そうではなく、心を高く上げて生きていこう。「山と丘は身を低くせよ」、私たちが山や丘のように高ぶって思いあがっていたり、上から目線でいたりするなら、救い主を迎えるのにふさわしくないから、そうではなく、謙虚に低い仕える心で生きていこう。「険しい道は平らに」、もし救い主を迎えるために私たちにいろんな邪魔するものがあってでこぼこの険しい道になっているのなら、救い主を迎えることができないから、そうしたものは思い切って私たちのもとから取り除き、物や心の断捨離をして平らな道にしよう。「狭い道は広くなれ」、もし私たちの心が狭いなら、広く大きく深い救い主を受け入れることができないから、オープンで大きく柔軟性のある愛に満ちた心を持とうと、そんな風に呼びかけられているのです。

 

このように聴くと、それは私たちにとってこれはなかなか大変なことだなとも思うわけですが、メサイアでは、本当に楽しくスキップするような曲調で、ここの部分は歌われます。それを聞きながら、私たちは、救い主を迎えるその喜びをもって、救い主をお迎えする道を整え、その備えをしていくことが大切であると考えさせられます。

 

そして、メサイアでは、ここで、次の5節のことばを、みんなで明るく力強く喜びに満ちた曲で合唱します。これがメサイアの中で初めての合唱ということになります。「主の栄光がこうして現れるのを肉なる者は共に見る。主の口がこう宣言される」。神さまからの救い主を私たちが迎えることができる、これはもちろん私たちにとって喜びの出来事ですが、同時にそれは、神さまご自身の栄光でもあるのです。まさに「いと高きところは栄光…地には平和」です。天と地が一本に結び合わされる。

 

他の誰でもなく、主なる神さまご自身がこれを約束され、宣言されます。世間では、だれが何を言った、いや言ってない、そんなことが問題になります。相撲のことも、国会での議論もそうです。人の言葉というものは、時にいい加減なものとなったり、あやふやなものとなったり、真実と異なるものであったりします。でも、神さまが私たちに救い主を送ってくださる、この約束は、そうしたいいかげんなものでも、あやふやなものでもありません。信実そのものです。なぜならそれは、頼りない人の言葉ではなく「主の口がこう宣言される」と告げられるように、神さまの宣言だからです。神さまのことばはたしかなものです。預言者も語ります。「草は枯れ、花はしぼむが、わたしたちの神の言葉はとこしえに立つ。」周りのあらゆるののが滅んでも、唯一とこしえに立つ神の言葉が、私たちに救い主を送ると力強く宣言したもうのです。

 

みことばは、告げています。「高い山に登れ、良い知らせをシオンに伝える者よ。力を奮って声をあげよ。良い知らせをエルサレムに伝える者よ。声をあげよ。恐れるな。ユダの町々に告げよ。」つまり、一人でも多くの人にこの喜ばしい良い知らせを告げるように、ということです。先ほどアドベントの過ごし方は、私たちが主を迎えるためのその道を整えることだとお話ししましたが、それに加え、私たちにとって大切なもう一つのアドベントの過ごし方が語られます。それは、一人でも多くの人に、自分の力の限りを尽くして、救い主の到来を告げることです。「高い山に登れ」「力を奮って声をあげよ」「声をあげよ」「恐れるな」「告げよ」畳みかけるように、何とかして多くの人にこの良い知らせを伝えるようにと促しています。私たちも、救い主がおいでになる、そのことを、私たちの周りの人に、何としても伝えていく。例えば、クリスマスのチラシを独りでも多くの人に渡したり、「クリスマスの礼拝があるから、一緒に行こうね」とお話しをしたり、辛い日々を過ごしている人に「お祈りしているからね、あなたのために救い主がお生まれくださったんだよ」と声をかけたり、何か困っている人いたら「大丈夫?」とイエスさまの愛を届けたり、私たちもそうしたアドベントの日々を過ごすことができればと願います。

 

預言者は続けて、その救い主がどんなお方であるかを語ります。まず9節の終わりと10節を見てみましょう。「見よ。主なる神。彼は力を帯びて来られ、御腕をもって統治される。見よ、主のかち得られたものは御もとに従い、主の働きの実りは御前に進む」。ここには力強い勝利のお方として語られます。この世の力が私たちを縛り付けるのではなく、主こそが私たちを支配してくださる。私たちをこの世から主が勝ちとってくださるという約束です。

 

実は、日曜日からインフルエンザでダウンしていました。高い熱が出て、結構しんどかったです。でもそんな中で、携帯で、なぜ熱が出るのかとそのしくみを調べてみたら、なんか励まされ、気持ちが元気になりました。そこに書かれていたことは、私たちが熱が出て寒気がする時に、それは実は体の中で、悪いウイルスをやっつけている最中だ、つまり、熱は自分の身体がウイルスと戦っている証拠だということでした。それを読んだ後は、熱が上がってくると、「おっ、また戦いが始まった!」と思えるようになって、「頑張れ、身体」などと、逆に怪しいテンションになってきました。そのうち熱が出るまでの時間の感覚がだんだん長くなり、熱もそんなにまで高く出なくなってくる。「これはだんだんと体の中にあるウイルスが負けたんだんな」と。そう考えると、体の中でゲームをしているみたいで、おもしろく感じてきました。

 

木曜日には、もう完璧に私の体が勝利して、元気になったのですが、預言者は、みことばで、主こそ勝利者であり、私たちをご自分の勝ち得た分、つまり勝利の報酬とされると語ります。いろんなことがある世の中での私たちの歩みです。ヘタレですから、すぐに負けて、ゲームオーバーになってしまいそうな思いになります。でも意外と私たちは健闘している。色々ありながら、落ち込んだり、泣いたり、ずっこけたり、ぶつぶつ文句言ったり、あるいは時には逃げたり、戦線離脱したりしながら、でもなんとかやってるわけですが、そんな私たちに先立ち、私たちと共に主が戦ってくださり、主が既に勝利なさっている、主が私たちをご自分の勝利の報酬として受け取っておられる。「主に勝ち得られたものは御許に従い、主の働きの実りは御前に進む」。しっかりと主の御許、御前に私たちを招いてくださるこの力強い約束を信頼したいと思います。

 

これが11節ではガラッと変わって語られます。「主は羊飼いとして群れを養い、御腕をもって集め、小羊をふところに抱き、その母を導いて行かれる」。今、力強い勝利の神として語られたお方が、ここでは優しい羊飼いとして語られます。羊飼いである主は、私たちを養い、私たちを招いて、ご自分のふところに抱っこしてくださる、そうしたお方だといいます。信仰や人生に迷ってしまうことも多い私たちです。弱くてペシャンコになってしまうことも少なくありません。でも大丈夫!と、ここで語られるのです。力強い、そして優しい愛の御手で、しっかりと抱きしめられている私たちです。

 

最後の「その母を導いて行かれる」とはどういうことかな?と最初思いましたが、原文を見て、それは小羊を育てている母羊のことだとわかりました。子どもを育てることは大変です。「育児は楽しいものです」とだけ言われると、結構私は戸惑います。楽しいだけでは育児はできません。実際には楽しくないと思うようになってしまうことも多い。本当に大変な働きです。でもここでイエスさまはそんなお母さんと一緒にいて、「大変だね。辛いよね」と、誰もわかってくれない辛さも、羊飼いである主が受け止めて一緒に歩んでくださることが約束されています。その力強い神であり、同時に、愛に満ちた優しい羊飼いであるお方が、私たちの救い主としておいでになるのです。

 

以上が今日の第一朗読ですが、今日の福音は、一人の人物について語っています。洗礼者ヨハネです。「らくだの毛衣を着て、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べていた」というのですから、見た目は、ちょっと、というか、かなり、変わり者の30歳のおっちゃんです。でも彼も救い主が来られるという神さまの約束を信じて、その道を整えて、また、人々に一所懸命、救い主が来られることを伝えました。私たちも救い主が来られるその道を整えて、みんなに宣べ伝えるアドベントの歩みをしてまいりましょう。そのことこそ、「神の子イエス・キリストの福音のはじめ」です。今こそ、福音がはじまるのです。

 

主よ、私たちを導いてください。

 

神さま すべてに勝利された力強い神であり、やさしい愛の羊飼いである、救い主イエスさまを、私たちのためにお遣わしくださった恵みを感謝いたします。私たちがその御子を心に迎える道を整えるため、あなたにあって心を高く上げて、また、謙虚に仕える心を大切に生き、心の中から余計なものを取り除き、開かれた大きな広い愛の心で歩む、そんな日々を過ごすことができますように導いてください。また、救い主がおいでになるこの喜びの知らせを、わたしもまた私の周りの人に言葉や行いや祈りによって分かち合うことができますように用いてください。救い主、イエス・キリストによって祈ります。アーメン

 

希望の源である神が、信仰によって得られるあらゆる喜びと平和とであなたがたを満たし、聖霊の力によって希望に満ちあふれさせてくださるように。アーメン

 

動画 2017-12-10unedeted.MP4 - Google ドライブ

 

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