yukaina_gorilla’s diary

ごりらぼくし(大麻ルーテル教会/北見聖ペテロ・ルーテル教会)です。聖書や教会のこと、社会のこと、ペットのことなど書いていきますね。

2017年12月17日 礼拝メッセージ

待降節第3主日・喜びの主日

 

「小さな私の働き」

ヨハネによる福音書1章6~8&19~28)

 

わたしたちの父である神と、主イエス・キリストからの恵みと平和があなたがたにあるように。アーメン

 

今日は待降節アドベント第3主日で、この日は「喜びの主日」あるいは「薔薇の主日」とも呼ばれます。私たちが待ち望んでいる救い主がすぐ近くまで来ている。また、救い主の誕生のお祝いであるクリスマスが間近に近づいている。私たちは、このことを心から喜びながら、今日の礼拝をいたします。

 

この日の礼拝の色、典礼色として、バラ色を用いてもよいとされています。ですので、私も今日、ローズピンクのストールを着用していますし、今日のアドベントの蝋燭の色もピンクです。このストールや蝋燭の色のように、明るい気持ちで救い主を迎える喜びをもって今日の礼拝をしようとの願いを込めてです。今日の賛美唱は、いつものように詩編ではなく、ルカによる福音書にあるマリアの賛歌でした。「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます」。救い主を自分の身に宿し、その誕生を喜び待ち望むマリアと共に、私たちも、救い主イエスさまが間もなく私たちのもとにおいでになる、その喜びをもって、今日の礼拝をいたしましょう。

 

さて、今日の福音は、先週と同様に、洗礼者ヨハネの働きについてのみことばです。救い主が間もなく私たちのもとにおいでになる、その喜びを伝える働きをしたヨハネについて、今日私たちは聞くわけですが、「神から遣わされた一人の人がいた。その名はヨハネである」という言葉から、みことばは始まっています。「神から遣わされた一人の人」「ヨハネ、これは何気ない一言ですが、実は、とても大切な一言です。彼ヨハネは、「神から遣わされた一人の人」として、その働きを担いました。これは、旧約聖書のあらゆる預言者たちも、新約聖書のイエスさまの弟子たちもみな同じでした。そこで大切なことは、その人たちがみな、それぞれ「神から遣わされた一人の人」であったということです。もちろん彼らはみな素晴らしい、力強い働きをしました。でも、だからと言って、その彼らの働きの素晴らしさや力強さ、あるいは、彼ら自身の資質に、彼らの働きの根拠があったわけではありません。彼らの働きの根拠、それは、ただただ彼らそれぞれが「神から遣わされた一人の人」であったということです。

 

これは、聖書の中の人物だけでなく、代々の教会の働き人も、今日の私たちもまた例外ではありません。私たちが神さまのため、また福音のために働きを担う際に大切なことは、私たちがどんなに優れた人物であるかではありません。「私にはあれができる」、「あの人にはこれができる」ということによるのでもなく、逆に言えば、「私にはこれができない」、「あの人にはあれができない」とか、「私にこんな問題がある」、「あの人にはあんな問題がある」とか、そういうことによるのでもなく、私たちが「神から遣わされた一人の人」だということ、ただそのことにのみ、私たちが神さまの、福音の働き人である根拠があるのです。ですから、自分自身を見るなら、人に何かを話すのも得意ではないし、聖書のこともそんなに詳しいわけでもないし、いろいろ問題のある自分だしと、だから福音を伝えるのにふさわしい者には思えないかもしれないけれど、しかし、「だから私はダメなんだ」というのではなく、そうした私も、「神から遣わされた一人の人」であるなら、私自身のふさわしさとか、逆に、ふさわしくなさとか、そんなことは超えて、ただ神さまによって、その働きに召されているのです。

 

ヨハネは、そのように「神から遣わされた一人の人」として一体どんな働きをしたのでしょうか。また、私たちもそれぞれ「神から遣わされた一人の人」として、一体どんな働きをするのでしょうか。そのことについて、「彼は証しをするために来た。光について証しをするため、また、すべての人が彼によって信じるようになるためである」と、今日の福音は伝えています。「証しをするために」洗礼者ヨハネは遣わされ、また、あらゆる預言者も、イエスさまの弟子たちも遣わされました。そして、私たちもまた、同様に、「証しをするために」召され、遣わされています。

 

ただし、そこで大切なことは、「光について証しをする」ということです。礼拝の中で、信徒の方々の証がなされることがあります。また、牧師の説教でも、いつも同じことを気を付けなければならないことですが、その証や説教において、つい「自分はあんなことをした」とか「こんなことをした」とか、何か「自分自身のことについて」の証のようになってしまうことがあります。しかし、それは、証しとしてふさわしいものではありません。私たちが証しをするのは、そのように自分自身についてではなく、「光について」の証です。その「光」とは、永遠に輝く神さまのみことばであり、また、その永遠の神のみことばが人となった主イエス・キリストのことです。私たちは、自分自身についてではなく、神さまのみことばと、主キリストについて証しするのです。よく証しと説教とは違うと言われることがありますが、本質的には証しも説教も同じです。それらはともに、神さまのみことばとキリストを証しするものだからです。

 

「彼は光ではなく、光について証しをするために来た」と福音が伝えているように、私たち自身は光ではありません。私たちは、真の光である神さまのみことばとキリストによって照らされて、その光を証しをするために、そして、その証によって、その光をみんなに届けて、分かち合い、伝えるため、遣わされています。「すべての人が彼によって信じるようになるためである」とある通りです。私たちの働きにより、私たちが自分自身のことを伝えて、私たちのことをみんなが信じるようになるため働くのではなく、真の光であるみことばとキリストをみんなが信じるようになることを、ひたすら願って、そのために働くことこそが、洗礼者ヨハネも、あらゆる預言者や、イエスさまの弟子たちも、そして私たちも等しくみんなに与えられている使命なのです。

 

以前にもお話ししたことがあります。夜空に明るく輝く月ですが、あれは月自身が光を発して、あのように明るく輝いているわけではありません。太陽の光が月にあたって、その太陽の光を反射させて、月は美しく輝いて見えるのです。地球が宇宙で明るく輝いて見えるのも、地球自身が光を発しているからではなく、月と同じように太陽の光を浴びて、太陽の光によってあのように美しく輝いて見えるからです。私たちも、私たちが明るく輝いて毎日を過ごしているとしても、それは私たちが自分自身で光を発しているからではなく、神さまの光である、みことばと、救い主キリストの光を与えられて、その光によって、私たちも輝くことができます。このように、私たち自身が光ではないのですから、私たちは、私たち自身について証しをするのではなく、私たちをそのように輝かしてくれる光である神さまのみことばと、救い主イエス・キリストについて証しをして、みんながみことばを受け入れて、キリストを信じるようにと願って働くのです。

 

洗礼者ヨハネは、ただひたすらとそのことに徹しました。今日の福音の後半部分、19節以下のところに、彼が証しをしたその実際の様子が伝えられています。洗礼者ヨハネ自身が人々から、きっと「彼こそが、神さまが遣わされる救い主メシア、キリストなのかもしれない」と期待されたのでしょう。当時の宗教的な指導者たちは、人を遣わしてヨハネ「あなたはどなたですか」と尋ねさせました。しかし、それに対して、ヨハネはきっぱりと答えました。「わたしはメシアではない」と。そこで次に彼らは「では何ですか。あなたはエリヤですか」と尋ねました。旧約聖書の中で、世の終わりに、神さまがエリヤをこの世界に遣わすと語られた預言が告げられています。ですから、人々は、ヨハネにそのエリヤの再来を見て取ったのでしょう。でもヨハネは、それに対しても「違う」と答えました。続けて、「あなたは、あの預言者なのですか」という問いかけもなされました。「あの預言者」というのは、モーセのことであろうと考えられます。それは、申命記の中で、モーセ「あなたの神、主はあなたの中から、あなたの同胞の中から、わたしのような預言者を立てられる。あなたたちは彼に聴き従わねばならない」と約束されており、イスラエルの人たちは世の終わりの約束の日には神さまがもう一度モーセのような預言者を私たちのもとに遣わしてくださると信じていたのです。でもヨハネは、この問いかけに対しても、きっぱり答えるのです。「そうではない」と。

 

人々は、しびれを切らしてヨハネに尋ねました。「それではいったい、だれなのです。わたしたちを遣わした人々に返事をしなければなりません。あなたは自分自身を何だと言うのですか」。それに対してヨハネは答えます。「わたしは荒れ野で叫ぶ声である。『主の道をまっすぐにせよ』と」。このように「わたしは荒れ野で叫ぶ声である」と、自分のことを言っています。自分は大きなものではなく、ただの声だと。しかし、荒れ果ててたこの地で、「主の道をまっすぐにせよ」、つまり救い主が来られる道を整えて、救い主がおいでになるための準備をする、そのための「声」だと言うのです。彼は、自分自身を何か高く大きくみてもらうことには何の興味も示さずに、そんなことは毛頭求めず、ただただ神さまの導きにより自分が語る「声」、そのメッセージを聴いて、真の光であるみことばとキリストをみんなが信じるように働く者だと、自分自身を受け止めて位置付けるのです。

 

だから「あなたはメシアでも、エリヤでも、またあの預言者でもないのに、なぜ、洗礼を授けるのですか」という問いかけにも、彼は躊躇せずに答えて言います。「わたしは水で洗礼を授けるが、あなたがたの中には、あなたがたの知らない方がおられる。その人はわたしの後から来られる方で、わたしはその履物のひもを解く資格もない」。つまり、彼は、自分は「神から遣わされた一人の人」として、神さまから自分に託されている洗礼の働きを担っているが、自分自身を見つめるなら、その方の履物の紐を解く資格もないほど、その方の前に本当にちっぽけな者であると、このようにヨハネは徹底的に自分の小ささに立ち、だから、みんなが自分にではなく、みことばとキリストに心を向けるように促すのです。それこそが彼の望みであり、喜びであったからです。

 

やがて時が経ち、人々の人気は、ヨハネに対してではなく、彼の後から来られたイエス・キリストに向かって行きます。洗礼を受ける人たちも、ヨハネのもとよりも、キリストのもとに多く集まるようになります。その時、ヨハネの周りにいた人たちがそのことを心配してヨハネに何かを言っても、彼はきっぱり言うのです。「あの方は栄え、わたしは衰えねばならない」と。このように、彼は自分自身が人々からどう扱われているか、どう見られているかなど、そんなことにはまったく関心を示さず、人々の人気が自分自身から去って、たとえ自分は衰えても、「彼」、つまりイエス・キリストが栄えること、そのことを喜び、ただひたすらキリストの栄光をのみ、彼は願い、そこに最後まで立ち続けました。

 

私たちが、キリストを伝える、神さまのため、福音のために働くということも、まさに、こうしたヨハネの姿勢をもって働くことにほかなりません。私自身は、「メシアでも、エリヤでも、あの預言者でもない」「わたしはその履物のひもも解く資格もない」「あの方は栄え、わたしは衰えねばならない」私は「光ではなく、光について証しをするために」「神によって遣わされた一人の人」であり、「わたしは荒れ野で叫ぶ声である。「『主の道をまっすぐにせよ』と」そのように立ち、ただひたすらキリストの栄光のために働くことが、私たちに大事な姿勢です。自分は小さく、貧しい者だ、でも、そんな私がキリストのため用いられる、その喜びの声を、荒れ野のような乾ききって、ごつごつしたこの今日の社会に響かせる、それが私たちに与えられている使命です。自分自身が周りの人からよく思われるとか、みんなから尊敬されるとか、そんなことはどうでもいい。この荒れ野に救い主の到来を告げる声を響かせること、そして、みんなが救い主を信じ、キリストの栄光が現わされること、ただひたすらそのことを求めて生きるのです。

 

今日、待降節第3主日、「喜びの主日」、この日、私たちが喜ぶのは、私という小さな土の器に、キリストという偉大な尊い宝がおいでくださる。そして、この土の器である私を通して、キリストという宝物が、みんなに伝えられていく。その働きのために神さまは、この小さな私を用いて遣わしてくださる。このことにほかなりません。この喜びをもって、私たちはキリストを待ち望みましょう。

 

主よ、私たちを導いてください。

 

私たちをイエスさまを伝える器としてお遣わしくださることを感謝します。本来ならその働きにふさわしくない貧しく小さな者ですが、ただあなたによって用いられ遣わされることによって、この現代の荒れ野で救い主イエスさまのことを伝える声としての役割を担うことができますように。自分に誉を求めるのではなく、ただただキリストの栄光、その誉を願って働くことができるように導いてください。救い主イエスさまのお名前によってお祈りします。アーメン

 

あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るように。アーメン

 

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