yukaina_gorilla’s diary

ごりらぼくし(大麻ルーテル教会/北見聖ペテロ・ルーテル教会)です。聖書や教会のこと、社会のこと、ペットのことなど書いていきますね。

2017年12月31日 礼拝メッセージ

降誕後第一主日 2017年12月31日

 

「まことの終活」

ルカによる福音書2章22~40)

 

わたしたちの父である神と、主イエス・キリストからの恵みと平和があなたがたにあるように。アーメン

 

今年も年末を迎えています。そして、今年一年最後の礼拝の日を迎えました。この一年間も神さまの導きと、みなさんのご奉仕とご参加により、このように毎週滞りなく礼拝をすることができたことを、まず心より感謝いたします。

 

今年は53週間日曜日があったわけですが、毎週毎週礼拝が行われたということは、決して当たり前のことではありません。導かれ、備えられ、整えられて、そして、神さまの招きに応えてみなさんが集められて、はじめて毎週毎週礼拝を行うことができるのです。また、今年は私たちの教会にとって、そして私自身にとって、新しい歩みをはじめた年でもありましたが、神さまとみなさまに支えられて歩むことができました。感謝します。

 

さて、私たちは先日、主のご降誕を喜び感謝しお祝いして、クリスマスの礼拝をしました。この日本では、街中では、かなり早く11月の初めからクリスマスの飾りつけがなされ、そして、12月25日、クリスマス当日が終わったら、そそくさとクリスマスの飾りつけを片付けて、お正月飾りに変わるわけですが、本来はクリスマスは12月25日で終わりではありません。25日または24日の日没の時から始まるのであって、そのお祝いは1月6日、教会の暦で東方の学者、東の国の博士たちがイエスさまとお会いしたことを祝う、主の顕現の日まで続きます。

 

ですから、本来、クリスマスの飾りつけも、日本の街中のように25日の夜に片付けてしまうべきものではなく、1月6日まで飾り続けられるものです。私は、以前、お正月に韓国に行ったとき、街中の飾りつけは、クリスマス一色でした。一瞬戸惑いましたが、でも、「あ、そうか、クリスマスはまだ続いているんだ」と、新鮮に思いました。このように、私たちは年末年始を、クリスマスの祝いの中で過ごします。つまり、救い主イエスさまが私たちのためにお生まれになった、インマヌエル、神さまがいつどんな時もどこにいても私たちと共にいてくださる、この喜びの中で過ごすのです。

 

この一年もいろいろあったことでしょう。でも、その歩みの中で、人となられた神であられる、救い主イエスさまが、私たちと共にいてくださった一年でした。「いや、私には、散々な一年だった」と、そんな風に思われている方もおられるかもしれません。イエスさまが、神さまが一緒にいてくださるなら、なぜこんなに苦しい思いをしないとならないんだと。しかし、もしイエスさまが一緒にいてくださらないなら、そうした中で、もはや潰れてしまって、自分がダメになってしまったかもしれません。そうした苦しみの中でも、イエスさまが私たちとともにいてくださった。そして、その中でイエスさまが私たちと共に苦しみ、共に闘い、また助け、慰め、励ましてくださっていた。だからこそ、その出来事と対峙しながらも、私たちは今日を迎えることができたのです。

 

新しい年も私たちそれぞれにいろんなことがあるでしょう。でも新しい年の歩みにも、私たちのためにお生まれになり、私たちのために人となられた神、イエスさまが私たちと共にいてくださいます。そのことの信頼の中で、この2017年の歩みを終え、新しい年2018年も迎えたいと願います。

 

今日も、福音書からみことばを聞いてまいりましょう。今日も福音書は、お生まれになった、神の御子、救い主、赤ちゃんイエスさまが、当時のユダヤ教のきまりに従って、神殿に連れてこられたときの出来事です。日本の習慣で言うなら、赤ちゃんイエスさまのお宮参りの際の出来事と受け止めるとわかりやすいかもしれません。今日の福音書には、赤ちゃんイエスさまと、その両親であるヨセフとマリア、そして二人の年老いた人々が登場いたします。一人はシメオンと言う男性、もう一人はアンナと言う女性です。このシメオンとアンナが赤ちゃんイエスさまに出会った出来事について、今日の福音書は私たちに伝えています。

 

まず、シメオンです。彼については、こんな風な説明がなされています。エルサレムにシメオンという人がいた。この人は正しい人で信仰があつく、イスラエルの慰められるのを待ち望み、聖霊が彼にとどまっていた。そして、主が遣わすメシアに会うまでは決して死なない、とのお告げを聖霊から受けていた」。その神さまからの救い主を待っていた年老いたシメオンが、ついにその救い主と出会った出来事が、今日の福音書に告げられています。ちょうど赤ちゃんイエスさまがお宮参りのため両親によって神殿に連れて来られているときに、シメオンも神さまに導かれて、神殿を訪れるのです。そして、赤ちゃんイエスさまを見るや否や、彼はイエスさまを自分の腕に抱いて、神さまを賛美するのでした。彼のとても喜んでいる様子が私たちにも伝わってきます。

 

彼が神をたたえて、賛美して言った言葉は次のような言葉でした。「主よ、今こそあなたは、お言葉どおり、この僕を安らかに去らせてくださいます。わたしはこの目であなたの救いを見たからです。これは万民のために整えてくださった救いで、異邦人を照らす啓示の光、あなたの民イスラエルの誉れです」。これを、わかりやすく言うなら、「この自分の目であなたの救いを見た今、神さまはもう安らかに私のことをこの世から去らせてくださる、私はもう安心して死ぬことができる」ということです。

 

今日のメッセージは、週報に書かれてありますように、「まことの終活」というタイトルを付けました。「終活」という言葉は、近年、よく使われる言葉でありますが、これは、同じ音の就活、就職活動のことではなく、終活、終わりの活動という漢字に現わされておりますように、自分自身の終わるとき、つまり、自分の死の時に向けての様々な準備の活動のことを表します。それは死ぬための準備であるとともに、そのように自分の死を見つめ、自分の死に備えることによって、自分らしくよりよく人生の最期まで生きようという意味もあります。

 

その「終活」と言う言葉と共に、その終活の取り組みの一つである「エンディングノート」と言う言葉も近年よく言われるようになりました。このエンディングノートとは何かと申しますと、エンディング、つまり自分の終わりのことについて書いたものという意味で、自分自身の死に備えて、その死が近づいたとき、あるいは死んだ後に、自分の家族が様々なことについてどういう判断をしたらよいのか、そのための必要な情報を書き残したもののことを言います。具体的な内容としては、自分の財産をどうするのかとか、自分の葬儀をどうするのかとか、お墓をどうするのか、そうした様々な自分の希望を書き残しておくのです。

 

インターネットで「エンディングノート」と検索すると、その言葉の意味や実際の書き方、あるいはそのための書式のひな型などたくさんの情報がヒットし、そのほとんどがとても良いもの、大切なものと紹介されていて、本当に今このことが盛んにおこなわれているのだな、流行っているのだなと思います。私は、このエンディングノートについて、自分自身の死への心構えができるし、自分の死んだ後、遺された家族のために助けになるので、たしかにとても優れたものなのだろうと思うとともに、同時に、自分が死んだ後のことまで自分がタッチするのはどうなのかな、それはもしかしたら自分自身の領域と言うかその範囲を超えたことへ手を出しているのではないかなという思いもしないでもありません。そのいずれにも考えられるのかなと思います。

 

むしろ私たち信仰者にとって、そうしたエンディングノートを書くことよりも、もっと大切な終活、自分の死への準備は何か、そしてその終活を通して自分らしくよりよく生きるとはどういうことなのかということを今日、ご一緒に受け止めたいのですが、そのことについて、今日のこのシメオンが私たちに教えてくれていると思うのです。それは、救い主イエスさまを、私たちの胸に抱くということです。その時、私たちは、彼と同様に、「主よ、今こそあなたは、…この僕を安らかに去らせてくださいます。わたしはこの目であなたの救いを見たからです」と言って、神さまへの賛美のうちに、自分の死に備え、また自分らしくよりよく生きることができるのではないかと思うのです。

 

もちろん信仰をもったからと言って、そう簡単に「安らかに去らせてくださいます」などとは思えず、死への不安や恐れは依然としてあるでしょう。でも、だからこそ、私たちは救い主イエスさまを自分の腕の中抱くこと、つまり、イエスさまを私の救い主として自分の心の中に受け入れることが、私たちにとって、何よりもの死への準備であり、何よりものまことの終活であろうと言えるのではないでしょうか。

 

エスさまを信じて洗礼を受けたときに、あるクリスチャンの作家が次のように言ったと言います。「私がプロテスタントの洗礼を受けて、いちばん良かったのは、これで死ぬ時に、苦しいとか、死にたくないとか、醜く叫びながら死んでいく覚悟ができた」と。なるほどなと思います。これもまたイエスさまを自分の腕に抱いて、死に備える姿です。それは、神さまを信じて、救い主イエスさまを信じて、洗礼を受けることによって、「死にたくない」「苦しい」と、そのように醜く叫ぶ自分のことをも、すべてさらけ出すことができ、それを受け止めてくださるお方が、私にはできたとの信仰に基づくものだからです。ですから、シメオンのように「安らかに去らせてくださいます」と死への備えをするにしろ、「死にたくない、苦しい」と叫びながら死を迎えるにしろ、私たちの腕の中に救い主イエスさまを迎え入れるということこそ、何よりも大切な死への備えなのです。

 

そして、このように考えていく中で思うことは、今日の福音書では、「シメオンは幼子を腕に抱き、神をたたえて言った」と伝えられていますが、実際にはその逆で、シメオンがイエスさまの御腕の中に抱きしめられて、それゆえに彼は自分の死に備えることができたのだと思います。私たちも同じです。私たちも自分自身がイエスさまを心に迎え入れるという風に思いますが、実際にはその逆で、イエスさまが私たちを迎え入れて、その御腕でしっかりと抱きしめてくださる、そのイエスさまの御腕の中で、私たちは生き、また死へ備え、人生の終わりを迎えるのです。

 

次に、今日の福音書に登場するもう一人の人物、アンナです。彼女については次のような説明がされています。「アシェル族のファヌエルの娘で、アンナという女預言者がいた。非常に年をとっていて、若いとき嫁いでから何年間夫と共に暮らしていたが、夫に死に別れ、八十四歳になっていた。彼女は神殿を離れず、断食したり祈ったりして、夜も昼も神に仕えていた」。若い時に夫を亡くし、その後、ただ神殿で神さまだけを見つめて人生を送り、84歳になっていた彼女。たいへんさびしく辛い人生を送っていたことでしょう。しかし、そんな彼女でしたが、赤ちゃんイエスさまを見て、思わず近づいてきて、神さまを賛美して、そのイエスさまのことをみんなに話して伝えるのです。

 

この彼女からも私たちは、まことの終活の在り方を受け止めることができます。それは、自分の人生の終わりの時にも、神を賛美して、そしてイエスさまのことを周りの人たちに話して伝えて生きるということです。もちろん財産をどうするのか、葬儀をどうするのか、お墓をどうするのか、とても大切なことです。でも、私たちにとって真の宝は何でしょうか。次の世代に遺すべき最大の財産は何でしょうか。それは、イエス・キリストです。この私をキリストが救ってくださった。そしてこんな私でもキリストが生かしてくださった。そのことを私たちは喜び感謝して、神さまを賛美しながら、自分の周りの人に伝えるのです。

 

大麻の幼稚園のクリスマスの聖誕劇で、救い主が生まれたとの知らせを聞いた羊飼いたちは「神さまに感謝しましょう。ハレルヤ、ハレルヤ、ハレルヤ。神さまはよいものをくださった。ハレルヤ、ハレルヤ、ハレルヤ」と賛美して歌っていて、とても印象深く思いました。私たちにとって、もっとも「よいもの」、神さまからの最高最大のプレゼントは救い主イエスさまに他なりません。私たちはこのことをハレルヤ、ハレルヤと、神さまを賛美しながら、救い主イエスさまを周りの人たちに伝える。そのことこそ、大切な死への備え、すなわちまことの終活なのです。

 

今日の福音に登場する年老いたシメオンとアンナと、イエスさまとの出会いから、死への準備とよりよく生きるための終活について考えました。救い主イエスさまに出会い、神を賛美して、イエスさまを伝えて生きる、その歩みを私たちも大切にしたいですし、この一年の終わりもそのことを心に刻んで、新しい年を迎えようではありませんか。

 

主よ、私たちを導いてください。

 

神さま、私たちに、何にも代えがたい、もっともよい最高の贈り物である、御子救い主イエスさまをくださってありがとうございます。私たちがイエスさまを心に迎え、また神を賛美し、周りの人にイエスさまのことを伝えながら生き、自分の人生の終わり、死の時に備えることができますように導いてください。この一年も私たちの教会の毎週の礼拝を導いてくださりありがとうございます。新しい年もあなたの招きと導きにより、喜びをもってあなたを礼拝できますように。今年も年末を迎えています。いろんなことがあった一年でしたが、いつもあなたがともにいてくださったことを感謝します。新しい年も、あなたが私たちと共にいてください。救い主イエスさまのお名前によって祈ります。アーメン

 

あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るように。アーメン

 

動画 https://drive.google.com/open?id=1f3SbA6SUePo-OB9VcOWcwXdjQUmCGaLp

 

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