yukaina_gorilla’s diary

ごりらぼくし(大麻ルーテル教会/北見聖ペテロ・ルーテル教会)です。聖書や教会のこと、社会のこと、ペットのことなど書いていきますね。

2018年1月7日 礼拝メッセージ(主の洗礼)

主の洗礼 2018年1月7日

 

「一つに結ばれる」

(マルコによる福音書1章4~11)

 

わたしたちの父である神と、主イエス・キリストからの恵みと平和があなたがたにあるように。アーメン

 

今日は一年はじめの礼拝です。神さまに導かれてこの一年も私たちの教会の礼拝が導かれ、また、一緒に礼拝する仲間が私たちの教会に加えられるよう、心からお祈りいたします。

 

さて、私は昨年まで、深川や旭川の教会で責任を持っていたときには、毎年1月1日には、必ず新年礼拝を実施をしていました。今年は、大麻教会でも北見教会でも一日の礼拝が行われなかったため、旭川聖公会の教会の礼拝に参加したのですが、1月1日は、ルーテル教会でも、聖公会でも、教会の暦では毎年「主イエスの命名日」となります。これは、聖書の中で、イエスさまが生まれてから「八日たって割礼の日を迎えたとき、幼子はイエスと名付けられた。これは、胎内に宿る前に天使から示された名である」と告げられているように、イエスさまがお生まれになったことを祝うクリスマス12月25日を含め、その日から8日目が、1月1日、イエスさまに名前が付けられた日にあたるためです。礼拝に参加して、この一年も、イエスさまのお名前をいつも思い起こし、そのお名前によって慰められ、励まされ、強められ、生かされて歩む喜びを、新たにしました。

 

また、昨日の1月6日は、教会の暦で、「主の顕現」の祝日で、東方の占星術の学者たち、東の国の博士たちが、幼子イエスさまとお会いし、イエスさまを礼拝した出来事を覚える日でした。クリスマスの礼拝でお話ししましたように、彼らは東の国の者として、外国人、異邦人として、神さまの救いにふさわしくないとみなされていました。また、占星術、占いに従事している者としてもまた、彼らは神さまの救いにふさわしくないとされていたのです。このように二重の意味でアウトだった彼らが、救い主イエスさまと出会い、礼拝した出来事を通して、救い主イエスさまにより、全世界のすべての人々に神さまの救いが行き渡るようになったこと、罪深く、どれだけ神さまの救いにふさわしくない、そこからほど遠いと思われる私たちでも、イエスさまによって神さまは必ず救ってくださることを受け止める、それが昨日の主の顕現日でした。

 

そして、今日は、教会の暦で、「主の洗礼」の祝日、イエスさまが洗礼を受けられた出来事を覚えます。実は、今まで用いていた教会暦は、日本のルーテル教会の独自の教会暦として、毎年、必ず顕現主日があり、その次の日曜日が主の洗礼日となっていたわけですが、私たちは昨年12月の待降節より、新しい聖書日課を使っている関係で、それに基づくなら、1月7日または8日が日曜日の場合は、その日曜日には、顕現主日と主の洗礼日の、いずれかを覚えることになります。カトリック教会などでは、1月7日または8日が日曜日の場合には、その日曜日には顕現主日をお祝いして、その翌日の月曜日に主の洗礼日を覚えるというきまりになっているのですが、私たちの教会では、平日に礼拝をするという習慣がありませんので、日曜日には、主の顕現か、主の洗礼か、そのいずれかの祝日を選ぶことになります。

 

ですので、主の顕現、博士たちとイエスさまとの出会いについては、クリスマスの礼拝でお話しし、今日は主の洗礼日といたしました。この主の洗礼、イエスさまが洗礼を受けられた出来事は、聖書の中でも、教会の歴史の中でも、とても大事にされてきた出来事です。まず、聖書では、イエスさまが洗礼を受けられた出来事は、マタイ・マルコ・ルカ・ヨハネ、すべての福音書が報告しています。それほど重要な出来事だということです。また、教会の歴史でも、クリスマスよりも早い時期から、この主の洗礼はお祝いされており、特にギリシア正教ロシア正教などの東方正教会ではクリスマスよりもむしろ大きなお祝いとされてきた日でした。

 

なぜ、この日がそのように大切にされてきたのかと申しますと、今日の福音に、イエスさまが洗礼を受けられた際に、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が天から聞こえたと伝えられておりますように、イエスさまの洗礼の出来事により、イエスさまが神さまの御子であることが公に明らかにされたためであり、また、その際に、神さまの霊がイエスさまの上に鳩のように降り、また神さまの声が天から聞こえたことによって、神さまが父と子と聖霊の三位一体のお方であるということもまた明らかにされたことを大切に受け止めてきたためです。ですから、この日は「神さまが(人々に)現われた」ということで、「神現祭」とも言われてきました。そして、救い主イエスさまがベツレヘムの馬小屋でお生まれになった降誕祭クリスマス、そのイエスさまが全世界の人々の救い主として示された主の顕現、さらには、このお方が三位一体の神としてみんなに現わされた主の洗礼で、一連のお祝いの結びとなります。

 

ところで、このイエスさまが洗礼を受けられた出来事ですが、よく考えてみると、実は不思議な出来事です。イエスさまに洗礼を授けたのは、洗礼者ヨハネですが、彼の洗礼について、マルコは今日の福音のはじめのところで、「洗礼者ヨハネが荒れ野に現れて、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた」と伝えています。このように、ヨハネが授けていた洗礼は、「罪の赦しを得させるため」「悔い改めの洗礼」でした。その洗礼を、続々とヨハネのもとに集まり、彼から洗礼を受けた人たちに混じって、イエスさまも受けられたのです。これは実におかしなことです。なぜなら、イエスさまは神の御子で聖なるお方であり、何一つ罪を犯されなかったお方です。でも、そのイエスさまが、ヨハネから「罪の赦し」のための「悔い改めの洗礼」を受けられたというのですから。

 

罪なきお方、それゆえ悔い改める必要もないイエスさまが、なぜそのように人々と共に、「罪の赦し」のための「悔い改めの洗礼」を受けられたのでしょうか。本来ならば、その洗礼は、イエスさまにとって、そもそもまったく必要ないものであったはずです。ですから、他の福音書では、ヨハネがイエスさまを思いとどまらせようとした事実を伝えています。それでもあえて、ヨハネの制止を振り切って、イエスさまが洗礼を受けられた様子が伝えられているのです。それはなぜなのか、これが今日、私たちがぜひ受け止めたいことです。

 

まず、イエスさまが洗礼を受けられた一つの理由として、イエスさまが、他の人たちと同じように生き、彼らと共に歩む決断をなさったということを、ここで受け止めたいと思います。イエスさまは「自分は、神であり、神の子なのだから、他の人たちと違う存在だ」と、そんな風に自分自身を特別視することなく、また、上から目線で、他の人たちのことを見るのでもなく、彼らと同じひとりとなり、彼らのただ中で、彼らと共に生きる者として歩まれる決断をして、その働きの初めに、人々とともに、彼らに混じって、本来ならば受ける必要のない洗礼を、あえて受けられたのではないでしょうか。

 

エスさまご自身、本来受ける必要がない痛みや悲しみや苦しみを、みんなと同じように引き受けて生きる、そして、イエスさまが本来受ける必要がない病や死も、みんなと同じように自分の身に引き受けて生きる、その決断をもって、イエスさまは洗礼を受けられたのではないかと考えたいのです。イエスさまは私たちとも共に歩んでくださいます。イエスさまは私たちから遠くに立って、私たちのことをただ上から眺めておられるお方ではなありません。私たちのただ中で、私たちと同じように、苦しみ、悲しみ、傷み、病、死、それらすべてを、ご自分の身に引き受けられるお方です。そのことをイエスさまの洗礼を通して、私たちは知ることができます。ヘブライ人への手紙で、イエスさまについて証ししているみことばを思い起こします。「この大祭司(イエスさま)は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです。 だから、憐れみを受け、恵みにあずかって、時宜にかなった助けをいただくために、大胆に恵みの座に近づこうではありませんか。」

 

もう一つ、罪を犯さず、悔い改める必要もないイエスさまが、あえて洗礼を受けられたことの理由として考えたいことは、イエスさまが私たちの罪をご自分の身に引き受けてくださる決断をなさったということです。罪なきイエスさまが、ご自分の身に私たちの罪を引き受けてくださる、その私たちの罪のためにイエスさまは洗礼を受けられたと考えたいのです。私たちは自分で自分の罪をどうすることもできません。どう頑張っても足掻いても、どうにもできない。でも、イエスさまがその私たちの罪をご自分の身に引き受け、そのことの引き換えに、私たちにイエスさまの命と救いを与えてくださる、その喜ばしい交換が、イエスさまの洗礼の出来事からスタートしたのです。

 

そして、このようにイエスさまが私たちの罪を引き受け、私たちにイエスさまの命と救いを与えてくださる決断をイエスさまがなさって洗礼を受けられたのであるならば、イエスさまはこの時にご自分の人生の行く末をもまたしっかりと見据えたことでしょう。そうです。それはご自身の十字架とその死です。イエスさまが洗礼を受けられたという事実、それは、イエスさまが私たちのために、私たちの罪をご自分の身に引き受けられるために、十字架を引き受け、その命をささげられることを決断なさったことをも意味しているのです。

 

このように、イエスさまが私たちから遠くに立たれるのではなく、私たちのただ中で、私たちと共に生き、私たちの人生で経験するあらゆることをご自身に引き受ける決断をなさって洗礼を受けられたこと、そしてまた、私たちの罪をイエスさまがご自分の身に引き受け、それと引きかけにイエスさまの命と救いを私たちに与えてくださる歩みとして十字架とその死を受け入れる決断をなさって洗礼を受けられたこと、これらのことに対して、神さまは「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と告げられます。つまり、神さまはそのイエスさまの歩みを「わたしの心に適う」と、「よし」と認めて肯定なさるのです。また、イエスさまに豊かな聖霊を注いで、そのイエスさまの歩みを励まされました。さらに、この時にこそ、私たちが信じる神さまが、父と子と聖霊の三位一体のお方、つまり、私たちをお創りになり、私たちをお救いになり、私たちを励まし導かれるお方であることが示されるのです。

 

エスさまが洗礼を受けられた際に、「天が裂け」た事実を、今日の福音は告げています。それまでは固く閉ざされて、誰にも決して開けることができなかった天が、イエスさまの洗礼の出来事で、私たちのために開かれました。イエスさまが私たちと共に歩んでくださり、私たちのすべてを引き受けて、そして、私たちの罪をも引き受けて、十字架と死を受け入れられた、そのイエスさまの洗礼の出来事が、天を開いたのです。イエスさまが洗礼を受けることで、私たちのために天が開かれたのです。

 

そのイエスさまの洗礼に、私たちの側でも「アーメン。本当にその通りです」とそれを感謝して受け入れて、私たちの側でも連なる出来事が、私たちが受ける洗礼です。イエスさまが洗礼を受けられたその出来事と、私たちが受ける洗礼のその出来事が、堅い一つの絆で結び合わされるのです。イエスさまが私たちのために天を開いてくださった、その天への道に、「私たちもその天の御国に入れてください」、「入れてくださることを感謝します」と私たちも連なる、これが、私たちの洗礼の意味です。

 

洗礼についての話題になると、「自分は洗礼を受けるのにまだまだ足りない」と思われて躊躇する方がいらっしゃいます。「もう少し自分がクリスチャンとして生きるのにふさわしくなってから、洗礼を受けようと思う」という声もよく聞きます。それは、本当にまじめに洗礼について考えて、とても誠実な姿勢であると思います。しかし同時に、私はそういう方に次のようにお話しするようにしています。《自分で、「私はもう大丈夫、洗礼を受けるのに十分で、クリスチャンになるのにふさわしい」と思うときはなかなか来ないと思います。それよりも、イエスさまがあなたを洗礼に招いてくださり、その道をすでに整えてくださっていることを大事にして、思い切って、エイって飛び込んでみたらどうですか》。そうです。イエスさまは私たちのため、ご自身が洗礼を受けられ、天を開き、私たちを招いてくださっています。だから、洗礼を受けるのに早すぎるということはありません。逆に、自分にはもう遅すぎるということもありません。今や、恵みの時、今こそ救いの日です。

 

洗礼の恵みと招きに感謝して、イエスさまと一つに結ばれて、神さまの救いの中をこの一年も歩んでまいりましょう。

 

主よ、私たちを導いてください。

 

私たちの人生の中で経験するあらゆることを、イエスさまが引き受けてくださり、さらには私たちの犯す罪をもイエスさまは引き受けられ、十字架にかかり命をささげられた、この大いなる御業を覚えます。イエスさまが受けられた洗礼を私たちも受けることで、イエスさまと一つに堅い絆で結びあわされますように。この尊い洗礼の恵みに、すべての人が招かれていることを感謝いたします。どうか、そのことへの気づきと喜びと決断へと、あなたが多くの人たちを導いてください。この一年もあなたの導きの中を私たちの教会と、私たち一人ひとりを導いてください。救い主イエスさまのお名前によって祈ります。アーメン

 

希望の源である神が、信仰によって得られるあらゆる喜びと平和とであなたがたを満たし、 聖霊の力によって希望に満ちあふれさせてくださるように。アーメン

 

動画 https://drive.google.com/file/d/1PIhCM99Ksw3gU7WEAOb_8GlqoYchZWaI/view

 

http://sanctoral.com/en/saints/images/the_baptism_of_our_lord.jpg