yukaina_gorilla’s diary

ごりらぼくし(大麻ルーテル教会/北見聖ペテロ・ルーテル教会)です。聖書や教会のこと、社会のこと、ペットのことなど書いていきますね。

2018年1月14日 礼拝メッセージ

顕現後第2主日 2018年1月14日

 

「来て、見なさい」

(サムエル記上3章1~20、詩編139、ヨハネによる福音書1章43~51)

 

わたしたちの父である神と、主イエス・キリストからの恵みと平和とがあなたがたにあるように。アーメン。

 

今までも何度かお話ししてきたことですが、私たちは神さまに招かれて、神さまに呼ばれて、信仰を与えられ、教会に連なる者としていただいています。「私は、自分の意思で教会に来ている。自分の意思で信仰を抱くようになった。」そのように思っていても、実は、私たちが気づかなくても、私たちの背後で、神さまがそのような意思を持つように働きかけてくださっているからこそ、私たちが教会に足を運び、信じる思いが与えられているのです。また、伝道も、神さまがなさることです。神さまがその人を知っておられ、その人と出会い、その人を導き、その人に信仰を与えてくださる。私たちはそのきっかけ作りのお手伝いをしているにすぎません。今日のみことばを通して、改めてこのことを受け止めてまいりたいと思います。

 

今日の第一の朗読は、少年サムエルのお話でした。子どもたちに話すとたいへん喜ばれ、目を輝かせながら聞いてくれる箇所です。少年サムエルは、神さまにお仕えする仕事をする者となるため、両親、特に母親の願いで、祭司エリのもとに預けられ、神殿で生活をしていました。ある日、サムエルが夜、眠っていた時、彼の名前を呼ぶ声が聞こえました。彼は、自分のことを育ててくれており、自分の師匠でもあるエリが、自分のことを呼んだのだと思い、「ここにおります」と答えながら、「お呼びになったので参りました」と言って、エリのもとに行きました。しかし、エリはサムエルのことを呼んでいないので、「わたしは呼んでいない。戻っておやすみ」とサムエルに伝えました。きっとエリはサムエルが夢を見たか寝ぼけたかと思ったのでしょうね。サムエルはエリの言葉を聞いて、また床に就いて眠っていたのですが、再び同じように彼を呼ぶ声が聴こえたため、エリのもとへと赴きます。しかし、先ほどと同様に、エリはサムエルに「わたしは呼んでいない。わが子よ、戻っておやすみ」と言い、サムエルもそれを聞いて再び戻って眠りに就きました。すると、またまた同じように、サムエルは自分が呼ばれたので、エリのもとへ行きました。すると、エリは三度も同じようなことが起こるのは、これはただの偶然でもなく、サムエルが夢を見たのでも寝ぼけたのでもないと思い、きっとそのサムエルを呼ぶ声は神さまの声だと悟り、サムエルに言うのです。「戻って寝なさい。もしまた呼びかけられたら、『主よ、お話しください。僕は聞いております』と言いなさい。」サムエルはエリのその言葉を聞いて戻って再びまた眠りました。すると、四度目に、「サムエルよ」と彼を呼びかける声を、サムエルは聞きます。そこで、彼はエリが言ったように答えて言うのです。「どうぞお話しください。僕は聞いております。」すると、やはり、彼のことを何度も呼びかけていたのは、エリがサムエルに告げたように、神さまでした。神さまは、サムエルに大事な役目を与えられます。それは神さまのご計画をエリに伝えるという役目でしたが、それは内容としてあまり好ましいものではありませんでした。エリの子どもたちが神さまの前に罪を犯すのを、父親であるエリが見過ごしていたことについて、神さまが彼の家を裁かれるというものでした。サムエルは翌朝エリにそのことを伝えることをためらいますが、しかし、彼はエリに促される形でそれを伝えるのでした。こうしてサムエルの預言者としての働きがはじまり、彼は神さまの祝福の中で育ち、また人々も彼を尊敬して、預言者として認めるようになったのでした。

 

ここで私たちが受け止めたいことは、まず、神さまは私たちに何度も何度も呼びかけてくださっているということです。しかし、サムエルがそうであったように、私たちも、それが神さまが自分に呼びかけてくださっている声であるとはなかなか気づくことができないでいるのです。サムエルは、エリに教えられ、初めてそれが神さまの呼びかけであることに気づき、「主よお話しください。僕は聞いております」と、心静かに神さまの声を聴こうとする中で、彼は神さまのことばを受け止めることができました。

 

私たちも、聖書のみことばやお祈り、そして教会での礼拝や学びを通して、あるいは、信仰の兄弟姉妹の助言を通して、神さまの呼びかけを受け止めることができ、また心静かに神さまのみことばを聞くことができるのだと思います。今、みなさんがこのように、兄弟姉妹の交わりの中で、共に礼拝をして、一緒にみことばを聞き、心を合わせて祈っているのは、そのように私たちが神さまの呼びかけを受け止めて、神さまに向かって「どうぞお話しください。僕は聞いております」との思いで、神さまが語りかけてくださる言葉を聞いていることの証です。

 

また、このサムエルに起こった出来事から、私たちもまた祭司エリの役割を担うものでありたいということも受け止めたいと思います。神さまは私たちのことを呼びかけてくださっているのと同じように、私たちの周りの人たち一人ひとりをも呼びかけてくださっています。そのことを気づいてもらうための手助けができればと思うのです。その際、多くの言葉は要らないのだと思います。「神さまがあなたを呼んでくださっているから、神さまのことばに耳を傾けてごらん」ということを伝えたいのです。その時に、神さまが直接その人に働きかけてくださり、その人に語りかけ、導いてくださいます。私たちがその人に信仰を持たせるのではありません。信仰を与えられるのは、あくまで神さまの働きです。私たちは、その神さまの働きを信じて、その人がそのことに気づくことができるようにちょっとだけ、きっかけ作りができればと思います。それが伝道ということだろうと思います。私たちに大それたことができなくてもよいですし、名演説、名説教ができなくたってもいい。ちょっとだけ小さなきっかけ作りができればと思うのです。後は神さまが働いてくださいます。

 

今日の福音のフィリポの姿を思います。フィリポはイエスさまと出会った喜びと興奮の中で、自分の友人でしょうか、ナタナエルに出会ったときに、イエスさまのことを、ナザレのイエスさまこそが、聖書で証されているお方であるとそのようにお話しするのです。でもナタナエルは「ナザレから何か良いものが出るだろうか」と、半ば馬鹿にして答えるのでした。でもフィリポはそれでめげることなく、ナタナエルに向かってさらに言います。「来て見なさい」と。その言葉を聞いて、ナタナエルはイエスさまのもとへと向かいました。すると、そこからは、もはやイエスさまのターンです。ナタナエルに、「見なさい。まことのイスラエル人だ。この人には偽りがない。」と話しかけます。するとナタナエルはびっくりして言うのです。「どうしてわたしを知っておられるのですか」。イエスさまは答えておっしゃいます。「わたしは、あなたがフィリポから話しかけられる前に、いちじくの木の下にいるのを見た」。これを聞いてナタナエルも「ラビ、あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です。」と答えて、イエスさまを信じ、自分の心に受け入れたのです。

 

フィリポがしたのは、大したことではありません。ナタナエルに、自分がイエスさまに出会い、イエスさまをどう信じているか話して、「来て見なさい」と伝えたまでです。そしてその後は、イエスさまがナタナエルに働きかけ、ナタナエルがイエスさまのもとに赴く前から、イエスさまは彼を知っておられた、そのことでナタナエルもイエスさまのことを受け入れるように導かれたのです。私たちも伝道とか宣教とかいう言葉を聞くと、なんか自分委は大それたことのように思い、尻込みしてしまうかもしれません。でもそうじゃない。私はこう信じているんだよねと話して、一回教会に来てみて、一回聖書読んでみて、一回お祈りしてみて、そんな風にちょっとしたことを伝えれば、後は神さまが働いてくださる。イエスさまがその人のことを私たちよりも、またその人自身よりも先に知っていてくださる、ご覧になってくださっている。私たちは、そのことを信じて、信頼して、「ちょっと来てみてよ」そんなかかわりができればと思います。

 

何よりも私たち自身のことも、神さまはずっとご覧になってくださっていました。今日の詩編が語る通りです。「主よ、あなたはわたしを究め、わたしを知っておられる。座るのも立つのも知り、遠くからわたしの計らいを悟っておられる。歩くのも伏すのも見分け、わたしの道にことごとく通じておられる。わたしの舌がまだひと言も語らぬさきに、主よ、あなたはすべてを知っておられる。前からも後ろからもわたしを囲み、御手をわたしの上に置いていてくださる。」このように、私のすべてを神さまは知っていてくださる。私がどこにいても、あるいは何を語ろうとしているのかも、神さまはちゃんとわかってくださっている。立ち上がって歩んでいるときも、立ち上がることができずに伏しているときも、神さまはちゃんと私のことをご存じでいてくださる。私の歩みを愛の御手をもって包み込んでくださっている。本当にこの詩編が語る通りだなと思います。そのことは、まさに「その驚くべき知識はわたしを超え、あまりにも高くて到達できない」偉大な神さまの御業です。でもその偉大な神さまが私たちのことを知っていてくださる、何と感謝なことでしょうか。

 

詩編はさらに次のようにも語ります。「あなたは、わたしの内臓を造り、母の胎内にわたしを組み立ててくださった。わたしはあなたに感謝をささげる。わたしは恐ろしい力によって驚くべきものに造り上げられている。御業がどんなに驚くべきものかわたしの魂はよく知っている。秘められたところでわたしは造られ、深い地の底で織りなされた。あなたには、わたしの骨も隠されてはいない。胎児であったわたしをあなたの目は見ておられた。わたしの日々はあなたの書にすべて記されている、まだその一日も造られないうちから。あなたの御計らいはわたしにとっていかに貴いことか。神よ、いかにそれは数多いことか。数えようとしても、砂の粒より多く、その果てを極めたと思っても、わたしはなお、あなたの中にいる。」

 

本当に圧倒されるような言葉が、たくさん並んでいます。神さまが私をお創りくださった。そのこと自体、私たちにとって本当に驚くべき、恐ろしいほどに不思議なことだと詩人は言います。自分の魂、心の奥底、命そのものが、そのことをよくわかっていると。そしてそのように神さまが私をお創りくださったのだから、私のすべてを、神さまは知っていてくださると告白するのです。私の骨も、どんな日々も、お腹の中にいたときから、いや、それ以前から、神さまは私のことすべてを知っておられ、私を見ていてくださり、ちゃんと神さまの計画によって私を導き生かしてくださっている。その神さまの私への計らいは、私には測りがたいものであり、私には極み尽くすことができず、私は神さまの御手の中に捕らえられていると、そのように言うこの詩人の告白は、私たち自身についてもまったく同じように当てはまることです。

 

神さまは私たちのことをすべてちゃんと知っていてくださる。私が神さまを知る以前から、私が生まれる前から。私を捕えていてくださっている。神さまの愛の御手の中に、私は生かされている。その神さまが、サムエルを呼ばれたように、私の名を呼びかけてくださっているのです。私たちが自分で頑張って神さまを信じよう、イエスさまを受け入れようというのでなく、神さまが私たちを創り、私たちのすべてをご覧になり、ご存じでいてくださる。その神さまが私に呼びかけてくださっているということに、私たちの側でもそれに気づき、「主よ、お話しください。僕は聞いております」と答えていく。それが信仰です。また、私をお創りくださり、見ていて知っていてくださるように、神さまは、私の周りの人たちのことをもお創りになり、その人たちをもご覧になり、ご存じであると、このことを、私たちが信頼して、「来てみてごらん」とその人に伝えること。それが伝道です。そして、そのように私たちが伝えた後は、神さまがその人に働きかけてくださいます。私たちはその結果を、神さまにお委ねするのです。私たちが、意固地になって、他の人の心を開いて信じさせるというのではなく、何かマインドコントロールしたり、洗脳したり、脅したりするのではなく、イエスさまご自身がナタナエルに出会い、語りかけ、彼の心を開いてくださったように、イエスさまがその人に出会い、語りかけ、心を開いてくださる、私たちはそのことを信頼して、委ねつつ、「来て見なさい」そのように伝えることができればと願います。

 

 主よ、私たちを導いてください。

 

 あなたが私のすべてを知っていてくださることをありがとうございます。あなたの呼びかけに応えることができるように私を導いてください。また、あなたの働きに信頼しつつ、周りの人に「来て見なさい」とあなたのことを伝えることができますように。主イエス・キリストのお名前によって。アーメン

 

 希望の源である神が、信仰によって得られるあらゆる喜びと平和とであなたがたを満たし、 聖霊の力によって希望に満ちあふれさせてくださるように。アーメン

 

動画 http://drive.google.com/file/d/1KfOfMbyWmK9CsyKf9xOKKYGoJtyXugtI/view

 

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