yukaina_gorilla’s diary

ごりらぼくし(大麻ルーテル教会/北見聖ペテロ・ルーテル教会)です。聖書や教会のこと、社会のこと、ペットのことなど書いていきますね。

2018年1月21日 礼拝メッセージ

顕現後第3主日 2018年1月21日

 

「主に従う」

(ヨナ書3章1~5&10、マルコによる福音書1章14~20)

 

わたしたちの父である神と、主イエス・キリストからの恵みと平和があなたがたにあるように。アーメン

 

私たちは、毎週の礼拝で、主に、福音書からみことばを聞くのですが、第一朗読、旧約聖書のみことばにも興味深い物語が多くあり、それは福音書のみことばを理解する大きな助けとなります。今日の第一朗読は、預言者ヨナの物語でした。朗読の個所として定められているのは、そのうちの一部分でしたが、今日はまずヨナ書の物語全体を振り返ってみましょう。

 

ヨナは、神さまから、預言者として、ニネベに行って神の言葉を伝えるように命じられます。しかし、ニネベに住む人たちはみな悪さばかりをしていたので、ヨナはそこに行くことで、彼らから何をされるのか恐れ、また、そんなニネベは神さまに裁かれて滅びればよいと思い、彼は神さまのことばに反して、ニネベとは反対のタルシシュに向かう船に乗り、逃げてしまいます。けれども、途中で激しい嵐が起こり、ヨナが乗った船が沈んでしまいそうになりました。それは、神のことばに背いたヨナへの、神さまの怒りによる嵐でした。船に乗っていた人たちは必死で荷物を海に投げ捨てたのですが、嵐はますます激しくなります。そこでヨナは、その嵐は自分のせいだから、自分を海に投げ捨てるようにみんなに申し出て、みんなはしぶしぶ彼の言葉通りにしました。しかし、その時、神さまは大きな魚を送り、その魚がヨナを飲み込み、彼は魚のおなかの中で九死に一生を得ます。彼は魚のおなかの中で、自分が神のことばに背いたことを深く悔い改め、にもかかわらず神さまが魚を送り、自分を助けてくださったことを深く感謝しました。そして、魚は岸辺にヨナのことを吐き出し、神さまは再び彼に呼び掛け、ニネベに行って神のことばを伝えるように命じました。ヨナは今度は素直に従い、ニネベで彼らの悪のゆえに神さまが滅ぼそうとされているとの計画を告げます。すると、ニネベの人たちは、その警告を素直に聞き入れ、すべての住民と、すべての家畜までが、断食して悔い改めたのです。神さまは彼らの悔い改めを受け入れ、彼らを赦し、滅ぼすのをやめました。しかし、ヨナは、おもしろくない。神さまに、だから自分はニネベに来たくなかった。あなたは憐れみ深い方だから、こうなるとわかっていた、死んだ方がましだと、不満をぶつけます。彼はふてくされて、ニネベの人たちが再び罪を犯して、神さまが彼らを裁かれることを願ってでしょうか、ニネベの様子を毎日観察していました。そこは日差しが強く暑い場所でした。神さまはヨナのために大きな木を生えさせられ、彼はその木陰で快適に過ごすことができました。しかし、神さまは、その夜、一夜にして虫にその木の葉っぱのすべてを食いつくさせ、木を枯らしてしまいます。ヨナはあまりの暑さに、また「死ぬ方がましです」と神さまに訴えます。神さまは、そんな彼に答えておっしゃるのです。あなたは自分で育てたのでもないこの木が枯れたと嘆いているが、十二万もの人たちや家畜がいるニネベが滅ぼされてしまうことを、わたしが惜しまずにはいられないではないかと。

 

たいへん興味深く一気に読めるお話です。ぜひみなさんも読んでいただきたいのですが、ここでヨナは、自分の思いでは神のことばに背き、ニネベに行くことから逃げてしまいました。けれども、神さまが彼をその働きのために用いると決められたので、ヨナは結局、逃げ切ることができず、最終的には、ニネベに行きその働きを担うことになります。ヨナ自身は、自分が神のことばに背いて逃げたことを悔改めつつも、ニネベの人たちが神さまの救いをいただいたことにやはり納得できない思いを抱えていた。でも神さまは、たとえそんな彼であっても、彼を用いて、ニネベの人たちの救いを実現するのです。このように、神さまの救いの働きのために、神さまご自身がその人を召したもうのです。その人が望んでいるか、ふさわしいか、そんなこととはまったく別に、ただただ神さまの御意志により、働き人が召し出され、遣わされます。私たちが神さまの救いを伝えるのも同じです。私たちの思いを超えて、たとえ私たちがそのことを望まなくても、そこから逃がれようとしても、神さまは私たちをとらえ、いろんな問題や弱さのある私たちを用いられます。今日はまず、ヨナの物語から私たちはこのことを受け止めたいと思います。

 

さて、今週も、イエスさまの福音を見ていきますが、特に今日の福音を通して、私たちがイエスさまに従い、イエスさまに用いられ、イエスさまの弟子とされるということについて考えます。

 

今日の福音は、ヨハネが捕えられた後」という言葉で始まります。人々に神さまの救いの到来を宣べ伝えていた洗礼者ヨハネが、その時、ユダヤの人々を支配していたヘロデ王によって捕らえられてしまいます。そしてやがて彼は見世物として首をはねられてしまいます。人々の希望が、世の力により鎖につながれ、命絶やされてしまう。もはや人々の希望は失われてしまったか、世の力に敗れてしまったのかと思える絶望的な出来事でした。

 

しかし、「神の子イエス・キリストの福音」はそこで終わらず、むしろそこから始まるのです。ヨハネが捕えられた後、イエスがガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えて、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われた。》

 

世の力が猛威を奮い、世の闇が私たちを包むことで、私たちの希望が失せてしまったかに見えるその時こそ、「時は満ち」、その時にこそ、「神の子イエス・キリストの福音」は始まります。救い主イエスさまが人々に福音を届ける働きがその時から始まるのです。世の力や闇によって、神のことばはつながれることなく、神さまの救いは奪われることはありません。世の力が強ければ強いほど、世の闇が深ければ深いほど、その時にこそ、神さまのことばと神さまの救いは、より明るく輝くのです。今や「時は満ち」たのです。

 

神のことば、そして神の救いであるイエスさまは、ガリラヤに赴き、福音を伝える働きを始められます。ガリラヤは、「異邦人のガリラヤ」と呼ばれ、エルサレムなど都会の、宗教的に正統的な人たちからは蔑まれ、汚れた地とされていた場所でした。そこでは、人々は、異邦人とかかわりながら暮らし、生活のため律法を守れない人たちも少なくありませんでした。貧しい生活を余儀なくされていました。そんな必死な思いで、他の場所で暮らす人たちからはなかなか受け入れられずに人々が暮らしていた、そのガリラヤにこそ、人々の絶望の極みで、世の力と世の闇が支配しているかに見える中で、イエスさまが現れ、神さまの福音、良い知らせを告げ広め始めるのです。

 

私たちも、私たちのガリラヤでこそ、イエスさまに出会います。この世の力と闇の中で、なかなか他の人から理解されなくても、必死な思いをして、生き延びている、そうしたただ中でこそ、私たちはイエスさまと出会います。何か特別な修行をしたり、聖なる者になって、私たちがイエスさまと出会えるというのではなく、私たちのガリラヤ、私たちの生活のど真ん中で、イエスさまと出会うのです。

 

「時は満ちた。神の国は近づいた」エスさまは告げられます。神の国とは、直訳するなら、「神の支配」という意味です。世の力や闇があなたがたを支配しているのではない。時が満ちた今、力と憐れみの神さまが、あなたがたを治め、御手の中に受け取ってくださる。だからさあ「悔い改めて福音を信じなさい」。この世の力と闇の中から今こそ立ち上がり、あなたを捕えてくださる神さまの愛の御手の中に飛び込もう。神さまの愛を信頼して生きていこう。イエスさまは、その招きの言葉を宣言されるのです。この招きが、きょう、私たちにも語られています。

 

この招きを受け取り、神の福音の中で生きる私たちを、イエスさまは「わたしについてきなさい」と招かれます。イエスさまとともに、この福音、神さまの喜ばしい知らせを、人々に届ける者になろうという招きです。私たちがイエスさまに従い、用いられて、イエスさまの弟子とされるということは、このイエスさまの招きに応えて、与えられた喜びを、イエスさまとともに分かち合う歩みです。イエスさまからいただいた喜びを、周りの人に「あなたもどうぞ」と届ける働きへ私たちが召されるのです。

 

最初の弟子たちは、漁師たちでした。彼らは読み書きもできず、魚を捕る仕事として、社会のルール、つまり、安息日にあれをしてはならないとか、夜とか早朝にこれをしてはならないとか、そんな様々な曜日や時間の規定も守ることができなかったかもしれません。生活もそんなに豊かだったということはなく、魚の捕れ具合いにより、その日暮らしな面もあったでしょう。宗教的な知識も決して豊かではなく、実に素朴な信仰であったはずです。そんな彼ら漁師が、イエスさまに従い、イエスさまの弟子として用いられます。ただただイエスさまの「わたしについてきなさい」という声によってです。

 

このように、私たちがキリストに従い、キリストの弟子になるということは、私たち自身の資質や力によってできることではありません。そうではなく、イエスさまが「わたしについてきなさい」と声をかけてくださる、ただそのことによってのみ、それが可能となります。

 

カール・バルトという神学者が講演をした際に、牧師、神の言葉の奉仕のためには、こんな人がふさわしいという、世の中の人々が語る要求をいくつも列挙した後に言うのです。もちろんそれらは大切で蔑ろにはされてならないことだけれども、もっと本質的なことは、そうした様々な要求ではなく、その人を神の言葉への奉仕へと、神さまが命じられ、神さまが召されたからということであり、それはひとえにキリストの恵みであると。キリストによって、救われ、背負われ、慰められ、助けられ、喜びに満たされている、ただそこにこそ、私たちが神の言葉に奉仕する者として召されている要因があると、彼は語るのです。キリストのために召されている、教会のために召されている、このことこそが重要であり、その人がどれだけ優れた人物かということによるのではなく、神さまがその人を召したもうということ。イエス・キリストが呼び出してくださる。私たち人間がイエスさまの奉仕者になるのはただただイエスさまの召しによってであり、それ以外のいかなるものでもなく、それ以外のいかなることでもないと述べている、その講演の記録を読み私は大変感銘を受けました。

 

これは牧師だけに当てはまることではありません。信仰者一人ひとりが、キリストに従い、キリストの弟子とされる。そして神の福音を携えて生きる。そのだれしもに当てはまることです。私たちも、自分自身の資質や自分自身の力によってではなく、自分のふさわしくなさと無力さを十分に受け止めつつ、でもその中で、なおもキリストが「わたしについてきなさい」と、この私のことを召してくださる、ただその声に従って、用いられて、神の福音を携えて歩む者とされているのです。

 

ふさわしくない者、無力な者、でも神さまがキリストによって招き、救い、召してくださっている者として、私たちは人々に出会い、神の福音を分かち合う。このことを忘れてはなりません。自分がなんだか偉く、聖なる者であるような勘違いをすることなく。出会いかかわるその人と自分がその人と特別に違う人としてではなく、またその人の上に立つのでもなく、その人と同じ一人として、同じ地平に立ち、そして、その人への敬意を抱いて、その人に仕えながら、「こんな罪人の頭である私も救われ、生かされている。同じように、神さまはあなたのことも救ってくださっている!」「こんな無力な私でさえ召され、用いられている。同じように、神さまはあなたをも招き用いられる!」そんな思いで、福音を伝えるのです。

 

ところで、漁師たちは、イエスさまの招きを聞き、網を捨てて、また自分の父親らを船に残して、すぐにイエスさまに従いました。しかし、それらは今までの生活をすぐに放棄して、家族も捨てて、ということではないと思います。それら自分の生活や家族のことも、すべてイエスさまに委ねる思いで、イエスさまに従ったということではないでしょうか。私たちもいろんな心配があります。しかし、それらを自分の手にがっちり握りしめて、自分だけの心配にしておくのではなく、私たちの手を開いてイエスさまに差し出し、イエスさまの助けに委ねて、イエスさまに従うものでありたいと思います。

 

世の力が猛威を奮い、世の闇が私たちを包む、そうした世の中です。でもだからこそ、イエスさまから託された、明るく輝く神さまの福音を、私たちは託されています。さあ、時は満ちました。「わたしについてきなさい」エスさまから、私も、あなたも、招かれています。

 

主よ、私たちを導いてください。

 

あなたの前にふさわしくなく、無力な私ですが、にもかかわらず、御子イエスさまが「わたしについてきなさい」と私を用いてくださることを聞きました。様々な心配がありますが、しかし、それらを自分の手に握りしめるのではなく、手を開いて委ねつつ、御子に従うことができますように。この混沌とした世の中に、人々があなたの愛の御手に立ち返るように、あなたから託されております福音を、分かち合って歩むことができますようにお導きください。御子、救い主イエスさまのお名前によって。アーメン

 

 希望の源である神が、信仰によって得られるあらゆる喜びと平和とであなたがたを満たし、 聖霊の力によって希望に満ちあふれさせてくださるように。アーメン

 

動画 2018-01-21.MP4 - Google ドライブ

 

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