yukaina_gorilla’s diary

ごりらぼくし(大麻ルーテル教会/北見聖ペテロ・ルーテル教会)です。聖書や教会のこと、社会のこと、ペットのことなど書いていきますね。

2018年1月28日 礼拝メッセージ

顕現後第4主日 2018年1月28日

 

「権威ある者」

(マルコによる福音書1章21~28)

 

わたしたちの父である神と、主イエス・キリストから恵みと平和が、あなたがたにあるように。アーメン

 

今日は、まず一曲、さんびを一緒に歌いましょう。とても美しい歌ですが、残念ながら私たちの教会讃美歌には収められておりません。次のような歌詞でした。「1.ガリラヤの風かおる丘で、ひとびとに話された恵みのみことばを、わたしにも聞かせてください。2.嵐の日、波猛るうみで、弟子たちを諭された力のみことばを、わたしにも聞かせてください。3.ゴルゴダの十字架の上で、罪人を招かれた救いのみことばを、わたしにも聞かせてください。4.夕暮れのエマオへの道で、弟子たちに告げられた、命のみことばをわたしにも聞かせてください」。福音書の中で伝えられているイエスさまのご生涯それぞれの時に語られたみことばを、私にも聞かせてくださいという祈りを込めた歌です。今日も私たちはそのイエスさまの言葉をご一緒に聞いてまいります。

 

今日の福音では、イエスさまが、カファルナウムのユダヤ教の会堂で安息日の礼拝の際に聖書のお話をされたことが伝えられています。そこでイエスさまが語られた言葉は、それを聞いていたみんながびっくり仰天し続けたほどの「権威ある者として」の教えだったといいます。イエスさまの語る言葉は、他の人たちが語る言葉とは違い、神の御子、また、神ご自身の言葉として、人を癒し、救い、生かす、力強い言葉だったからです。

 

22節に「律法学者のようにではなく」という言葉がありますが、彼ら律法学者は、「律法はどうだ」、「聖書はどうだ」と、字面だけを追い、聖書の言葉の解説をしていたのでしょう。また、彼らはそのように聖書の中のきまり、律法を説明しながら、「律法で禁じられているから、あなたがたはこれをしてはならない」「律法で命じられているように、あなたがたはあれをしなさい」と、人を裁いたり、人に指示したりする、そんな教えを語っていたと考えられます。聖書の言葉が、なにか私たちの生き方を縛り付けるルールブックや六法全書のようなものとして伝えられていたのです。しかし、イエスさまの語る言葉は、そうした彼らの言葉とは違い、力強い権威ある言葉でした。権威と言っても、人々の上に立って偉そうに語るのではなく、人々の苦しみを受け止め、ご自身、この世で生きる苦しみを闘ったお方として語られる、愛の言葉でした。パウロが、「文字は殺すが、霊は生かします」と語っていますが、まさにイエスさまの言葉は、人を生き生きと生かす、神さまの霊に満たされた言葉だったのです。

 

今日の福音には、続けて、汚れた霊、すなわち悪霊が登場します。イエスさまがそのように権威ある者として会堂で教えておられると、その時、悪霊にとり憑かれていた一人の男が、突然、「かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ」と叫び出したのです。それに対して、イエスさまが「黙れ。この人から出ていけ」と一喝なさり、悪霊はその人のうちから逃げ出したという出来事ですが、今日の礼拝でお話しするために、私は、「悪霊とは一体何なのだろう?」と改めて考えながら一週間を過ごしました。ですから、先週は、私にとって、ある意味、悪霊に苦しめられた一週間でした。

 

でもそのように苦しみながらも考えてみて、いくつかのことに気づきました。まず、汚れた霊、悪霊は、人々がイエスさまの言葉を聞いていたときに、それを邪魔するように叫び出します。そのことから、「あ、なるほど、そうなのか」と思いました。悪霊は、人々がイエスさまの言葉を聞き、神さまに心を向けようとすることを嫌い、それを邪魔する存在だということです。悪霊は、私たちが神さまに心を向けることを嫌がり、何とかしてそれをやめさせようと悪さをする。私たちが聖書を読むとき、礼拝に行こうとするとき、お祈りしようとするとき、神さまを信じイエスさまに従って生きようとするとき、悪霊が悪さをして、それを必死になって邪魔しようとする。神さまへの信仰に私たちが生きることを悪霊は妨げるのです。

 

次に考えさせられたことは、悪霊は、人々がともに平和に生きることをも邪魔をするということです。みんなが一緒にイエスさまの言葉を聞いて、「本当にそうだよね、神さまに感謝だよね、イエスさまが語っておられるように生きていきたいね」と平和に語り合うことを妨げるのです。みんなが静かにイエスさまの言葉を聞いている中で、ただひとり騒ぎ立てるこの悪霊の姿は、どんな時でも自分だけが中心でなければならない、他の人のことなんてどうだっていい、俺が一番だ、そんな姿、または、自分は人と一緒になんか生きられない、私はどうせ独りぼっちだと、そんな風に殻に閉じこもってしまう、そんな姿を表していると思いました。このように、悪霊は、人と人がともに平和に生きることも妨げ、やめさせようとする。人との関係を遮断し、自己中な生き方、あるいは孤立した生き方を強いるのです。

 

そしてさらに、悪霊は、その人がその人らしく喜びをもって生きることを邪魔します。ここで悪霊は、突然人前で、「かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ」と訳の分からないことを叫び出します。このように、理性を失い、自分で自分を制御できない状態、あるいは、どうせ自分なんて滅ぼされてしまう、自分なって生きていられない、そんな思いに、悪霊は私たちを追いやります。自分が他のものに捕らえられ、自分ではないような生き方を悪霊は私たちに強いて、私が私として私らしく喜びをもって生きることを否定するのです。

 

しかも、悪霊は、普段は私たちの目には見えません。だからこそ余計に質が悪く厄介です。バイキンマンやゾンビや鬼のように、「あれは悪い奴だ」、「悪魔だ」、「あいつに気をつけろ」と一目でわかるようなそうした存在なら、私たちも十分に用心すれば、悪霊を避けることができるかもしれない。でもそうではない。目に見えない大きな力として、悪霊は人に働きかけ、人の目に隠れて悪さをします。だから、私たちには、どうしようもできないのです。

 

しかし、そんな悪霊も、イエスさまが働き、福音の言葉に照らされるとき、その正体が暴かれます。それまでは、黙って、人にとり憑いて、しらっとして、会堂に紛れ込んでいたけれども、イエスさまが福音を語られるときに、悪霊はもはやそれに耐えられなくなって、そこで叫び出すのです。「かまわないでくれ」と。悪霊はイエスさまに向かって「正体は分かっている」と叫びましたが、イエスさまが働かれるその時、逆に、悪霊こそがその正体を暴かれてしまうのです。

 

そして、悪霊は、イエスさまから「黙れ。この人から出ていけ」と一喝されてしまいます。イエスさまが働かれるその時、悪霊はもはやそこに留まることはできず、そこから逃げ出すしかありません。イエスさまの福音、権威ある教えの前に、悪霊はもはや立ちはだかることはできないのです。悪霊がその人から出ていくとき、その人は痙攣したと今日の福音は伝えています。痙攣とは、自分の意思とは関係なく、自分の体が勝手に激しく震え動き出す状態です。このように、人から悪霊が出ていくその時、その人は自分ではどうしようもできない力に苦しめられ、悪霊はその人の中で最後のあがきをします。でも、そうしながらも、最終的には、イエスさまの力強い命の権威ある言葉、愛の言葉の前に、悪霊はその人から逃げていくしかない。このようにイエスさまこそが、私たちを悪霊から解き放ち、私たちを神さまへの信仰に向かわせ、人と共に生きる者とし、私が私として生きる喜びを与えてくださいます。

 

しかし、私たちも悪霊から解き放たれるその時、今日の福音書で悪霊にとり憑かれていた人が痙攣したように、自分自身ではどうにもできない大きな強い力に、もがき苦しまなければならないかもしれません。悪霊がとりついていながらも、気づかず過ごしていたそれまでの時よりも、イエスさまの福音を聞き、自分の中の悪霊に気づかされ、イエスさまに悪霊を追い出していただく、その時こそが実は私たちにとっていちばん苦しい。それまではある意味、のうのうと、しらっとして過ごすことができていたけれど、いざ自分から悪霊が逃げ出すという時には、痙攣するほど、自分の意思では制御できない、そんな大きな力に苦しむかもしれません。でもそれは悪霊の最後のあがきです。私たちは、その時にこそ、そこにたしかに響く声を聴くのです。「黙れ、この人から出て行け」。権威をもって語るイエスさまの声です。

 

このようにイエスさまは、人々を驚かせ、悪霊さえ追い出してしまうほどの力強い、愛に満ちた権威ある言葉を語られました。しかし、それと比べて(と言っても、イエスさまと比べること自体、そもそもおこがましいことなのですが)そのイエスさまの言葉を届ける私自身の言葉は一体どうだろうかと、今日の福音を通して問われた思いになりました。

 

もちろん、私もまた、イエスさまのように、人を癒し、救い、生かす、力強い、そして、人を元気づけることのできる、愛の言葉を語りたいと願っています。でも、実際のところは、なかなか難しい。自分自身を省みてみるなら、人を生かす言葉を語ることはできず、むしろ人を傷つけたり、元気を奪ったりする言葉ばかりを語っているのではないだろうか、そんな思いにすらなります。

 

また、このように、毎週、礼拝でメッセージを語らせていただいているわけですが、私が他の牧師や神父の説教を聞いたり、読んだりするときには、「自分もあんな風に語ることができたら、もっと神さまからの喜びの知らせ、福音がみんなに届くのに」と思います。現在、神学生のNさんが、かつて北見教会で信徒説教者の働きをされていた時、事前に「見てアドバイスをください」と原稿を送ってこれるのです。私はNさんから届いた原稿を読んで本当に感銘を受け、私は私で他の教会の礼拝のための説教の原稿を用意していたわけですが、自分自身の原稿を「こんなんじゃ全然だめだ」と破り捨てたくなってしまう思いになりました。どれだけ時間をかけて準備しても、他の方々と同じような力強い慰めに満ちたメッセージを用意することができず、「あぁ、私はダメだな。無力だな」と思わざるを得ません。また、悩み苦しんで、生きることと必死に闘っている人と語り合う時にも、もっとその人に寄り添って、その人が慰められて元気になって、パッと笑顔になって立ち上がれるような言葉を語りたいと本当に心から願うわけですが、実際にはなかなかうまくその思いを届けることはできず、余計に苦しみ落ち込んでいるその人の姿を見ながら、「自分は本当に役立たずだな」と、言いようのない無力感やもどかしさを覚えます。

 

そうしたことを率直に認めつつも、しかし、同時に、今日のみことばから、もう一つのことを思うのです。それは、そんな貧しく無力な私であっても用いてくださるイエスさまが、私を通して、私の思いを超えて、私が思いもしなかったような働きをしてくださることを信じたいということです。礼拝において、また、悩み苦しむ人とのかかわりにおいて、もちろん私が語るのだけれども、この私を通して、イエスさまが語ってください。イエスさまが貧しく無力な私が語った言葉に大きく働いてください、そう願いながら語りたいと思うのです。

 

そのためには、まず、ほかならぬこの私自身、イエスさまの権威ある力強い愛の言葉に向き合い、そこに生かされたいと願いますし、そのことが何よりも不可欠なことだと思います。私自身がイエスさまの言葉を驚きをもって日々新鮮に受け止め、みことばにより癒され、救われ、生かされる喜びと力強さに満たされること。そして、イエスさまの言葉に日々導かれながら歩み、イエスさまの言葉に捕らえられて生きること。このことこそ私にとってのスタートであり、そしていつもそこに立ち返るべき場所です。

 

そしてまた、イエスさまの言葉を通して、私自身のうちにもある汚れた霊を明らかにされて、権威あるイエスさまの言葉により追い出していただきたいと願います。私自身の中にも、神さまを信じることを妨げ、人と共に生きることを嫌い、私が私として私らしく生きることを否定する、またそのように他の人に関わってしまう、そうした悪霊がとり憑いていることを、みことばにより知らされ、「黙れ、この人から出て行け」とイエスさまから日ごとに一喝されることが必要なのです。そのためにも権威あるイエスさまのみことばを心に刻む毎日を過ごしてまいりたいと願います。

 

主よ、私たちを導いてください。

 

エスさま、みことばをありがとうございます。私たちが日々あなたのみことばに導かれながら歩むことができますように。あなたの権威ある力強い愛に満ちたみことばによって、私の心の中にある悪霊を追い出し、神を信じ、人と共に、私らしく生きる歩みをさせてください。悩み苦しむ人にあなたのみことばを語ってください。貧しいわたしをそのために用いてください。アーメン

 

あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るように。アーメン

 

動画 

2018-01-28.MP4 - Google ドライブ

 

 

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