yukaina_gorilla’s diary

ごりらぼくし(大麻ルーテル教会/北見聖ペテロ・ルーテル教会)です。聖書や教会のこと、社会のこと、ペットのことなど書いていきますね。

2018年2月11日 礼拝メッセージ

主の変容(顕現後最終主日) 2018年2月11日

 

「ただイエスだけが」

(マルコによる福音書9章2~9節)

 

わたしたちの父である神と、主イエス・キリストからの恵みと平和があなたがたにあるように。アーメン

 

聖書に書かれていることを題材にした、絵や版画や彫刻などの美術作品を、ご覧になったことがあるかと思います。その中でも、イエス・キリストを表現したものが古今東西多くの作品が残されていますが、その作品の中のイエスさまが、立派な王としての冠をかぶり、力強く、栄光に満ちた神々しい姿で表されているものも少なくありません。神、また神の御子であり、天地万物をご支配なさる永遠の王、また、罪と死と悪を滅ぼされる勝利者、そのイエスさまが王冠をかぶる姿は、ふさわしい姿でありましょう。

 

でも、福音書で私たちが普段出会い、親近感を覚えるイエスさまは、それとは違った姿が多いのではないでしょうか。もちろん力強い奇跡を行ったり、嵐を静められたり、権威をもって人々に教えられたり、復活なさりまた昇天なさったり、そうした栄光の神々しく力強いキリストの姿も福音書の中で伝えられております。しかし、私はそうした栄光のキリストの姿よりも、むしろ、もっと弱々しく貧しいイエスさまの姿を身近に感じ、祈りの中で、そうしたイエスさまに呼びかけている自分がいます。

 

つまり、馬小屋で一人の無力な小さな赤ちゃんとして生まれ飼い葉おけに寝かされたイエスさま、病気の人を訪れその人の痛みを感じ取りながらその人に語りかけ手を触れて癒されたイエスさま、罪人としてみんなから見捨てられる人を招かれ共に歩まれたイエスさま、そして、跪き弟子たちの足を洗われ「これはあなたがたに与えるわたしの体である、これはあなたがたのために流すわたしの血である」と、ご自分の命を差し出されるイエスさま、あのゲツセマネの園で苦しみもだえながら祈られるイエスさま、弟子たちに裏切られ、ご自分を敵視する人たちに捕らえられるイエスさま、人々に多くの愛の関わりをされたにもかかわらず、人々から「十字架につけろ」との声をぶつけられるイエスさま、兵士たちに鞭打たれ嘲笑われながらも口を開かずされるがままに耐えられるイエスさま、神にも人にも見捨てられる苦しみの中で大声で叫びながら息絶えるイエスさま、亡くなられて痛々しい姿で十字架から降ろされ墓に葬られるイエスさま、そうしたイエスさまこそ、私が思い浮かべ、呼びかけるイエスさまの姿です。

 

韓国で平昌オリンピックが始まりましたが、その韓国ではかつて独裁者による民衆への支配と抑圧が長く続く中で、民衆の苦しみが爆発して民主化闘争がなされました。その中で、韓国のカトリックの詩人、金芝河が発表した「金冠のキリスト」という作品があります。ある小さな町の会社の社長が、多くの献金をしたことで、コンクリート製の大きなキリスト像が作られました。それは黄金の冠をかぶったキリスト像でした。その周りでは、ハンセン氏病を患っている人や自分の体を売りながら生活していた女性、そして物乞いをしながら暮らしていた人が肩を寄せ合い励まし合いながら暮らしていました。ところで、その像を立てるために献金をした社長は、そのキリスト像の前で祈るのです。「この金の冠は、この世の王、王の王として、まことにあなたにふさわしい。どうか、昨年のクリスマスに私が沢山献金をしたことでこの立派なあなたを作ることができたことを忘れず、私が守られ、ますます富むことができますように。その暁には、次のクリスマスには、あなたの体中を金箔で飾ります」と。

 

しかし、夜になると、そのキリスト像が、周りで貧しさと困難の中で励まし合いながら暮らしていた人たちに願い出るのです。「どうかわたしを囚われから自由にして解放してほしい」と。「わたしは社会で苦しむ者らを救うために、まず自分自身を解放しなければならない。大教会の神父や司教たち、実業家、政府の高級官僚たちは、わたしをこうして虜のままにして、自分たちの利益の為にわたしを利用している」と嘆くキリスト像に、彼らは「どうしたらあなたを自由にすることができますか」と尋ねます。

 

するとキリスト像は答えるのでした。「それを可能にするのは、あなたがたの貧しさ、あなたがたの知恵、あなたがたの柔和な心、いや不正義に反抗する、あなたがたの勇気。あなたがたの手によりわたしが解放され、あなたがたと共に歩み、共に苦しみ、共に立ち上がっていきたい。わたしには荊の冠がふさわしい。金の冠など、無知で欲深く腐った者らが、外見を飾るために私にした押し着せなのだ。」この声を聴いた三人と、それに共鳴したシスターたちがコンクリートを叩き壊そうとしますが、結局は警察当局に捕まってしまうというお話です。

 

たいへん印象深く、かつインパクトの強いお話ですが、私たちが信じ従うイエス・キリストはどんなお方であるのか問われる作品です。キリストに金の冠を被せコンクリートに閉じ込めて私たちの思い通りに動かそうとしてしまうのか、それとも、茨の冠を被り、苦しみや貧しさの中で私たちと共に歩み、共に苦しみ、共に立ち上がるイエスさまに信じ従うのか、考えさせられます。私は、今日の福音を黙想する中でこの「金冠のイエス」のお話を思い出しました。

 

エスさまは、弟子たちのうち、ペトロとヤコブヨハネの三人だけを連れて高い山に登られました。先日、幼稚園の先生方の聖書の勉強会をしたのですが、その際にイエスさまの十字架の前の夜、イエスさまが捕えられる直前のゲツセマネの祈りについて学びました。その際にもイエスさまはこのペトロとヤコブヨハネの三人の弟子たちを伴うわけですが、福音書でイエスさまが弟子たちのうちのこの三人だけを連れて行くときには、これから起こる出来事はとても重要な出来事であるということを、私たちに伝えているということになります。ですから、今日のイエスさまのお姿が変わる変容の出来事もまた、イエスさまのご生涯の中でたいへん需要な位置づけがなされる出来事であることを、私たちはここから知るのです。また、高い山に登られたことは、これから起こる出来事は、神さまのなさるわざであるということを、私たちに示しています。

 

その高い山で、イエスさまのお姿が、弟子たちの目の前で変わりました。「服は真っ白に輝き、この世のどんなさらし職人の腕も及ばぬほど白くなった」と、福音書は伝えています。この福音書をまとめたマルコは、他の箇所については、なるべく余計な表現は省き、たいへんコンパクトにイエスさまのなさった、あるいはご生涯の中で起こった出来事を事実として伝えようとしている傾向が強いのですが、しかし、ここではわざわざ「この世のどんなさらし職人の腕も及ばぬほど」との描写を加えて、イエスさまの服の輝きの強さを強調していることを、私はとても印象深く、また興味深く思います。マルコにとっても、これは非常に印象深く興味深い出来事だったのでしょう。そしてそのように光り輝くイエスさまと共に、「エリヤがモーセと共に現れて…語り合っていた」という、さらに非常に驚くべき出来事が起こるのでした。

 

エリヤもモーセも、この世の終わりの神の救いの完成を前に神さまが再びこの世に送ると約束された人物です。ですから、モーセとエリヤの再来が実現した今、イエスさまこそ、世の終わりの神さまの救いをもたらしてくださるお方だということが、この変容の出来事に示されていると考えられます。また、モーセ旧約聖書の前半部分の律法の代表者、エリヤは後半部分の預言者の代表者です。つまりモーセとエリヤ彼ら二人で、旧約聖書全体を表します。その二人が光り輝くイエスさまと語り合っていたのですから、イエスさまによってこそ、旧約聖書の律法も預言も完成し、今や、イエスさまによる、神さまの新しい約束、新約の時代が始まったことを表しているのです。

 

その光景を見た弟子たちはたいへん驚きながらも、ペトロは口を開いてこんなことを言いました。「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです」。彼のこの発言は、もちろんマルコが説明しているように、「ペトロは、どう言えばよいのか、分からなかった」ためですが、同時に、彼なりの願いが込められた言葉でもあると思います。それは、この素晴らしい光景がいつまでもずっと続いてほしい、この光景を保存しておきたい、とっておきたい、そうした願いです。ですから小屋を建て、そこに光り輝くイエスさまと、旧約聖書の英雄たちで偉人たちであるモーセとエリヤに住んでいただこうと考えたのではないでしょうか。

 

けれども、彼のその願いはかなえられません。呆気なくその光景は雲に覆われて見えなくなってしまいます。そして、雲の中から「これはわたしの愛する子、これに聞け」という声が聞こえたかと思うと、辺りを見回しても、もはや光り輝くイエスさまも、モーセもエリヤも見えませんでした。「ただイエスだけが彼らと一緒におられた」福音書が伝えていますが、そこにいたのは、いつも彼らが見ているのと同じ姿のイエスさまでした。彼らはそのイエスさまと共に山を降りていきます。

 

これがイエスさまのお姿が変わった変容の出来事ですが、その不思議な出来事はただ一瞬の出来事にすぎませんでした。そこには、神であられ、神の御子であられる、栄光の永遠の王、神の約束を実現し、救いを完成なさるイエスさまの本来のお姿が現れたと受け止めることができるでしょう。でも、私はこのイエスさまの変容の出来事で、もっと大切なことは、その光り輝くイエスさまの姿よりもむしろ、その出来事の後、「これはわたしの愛する子、これに聞け」という天からの声を聴いた弟子たちが辺りを見回して見つけたのは何であったのかということです。つまり、「ただイエスだけが彼らと一緒におられた」のです。そこには、光り輝くイエスさまもモーセもエリヤもいなく、いつものイエスさまでした。彼らと一緒に山を登ってこられたわけですから、汗にまみれ、埃にまみれたイエスさまでした。また、今日の出来事は、イエスさまが捕えられ、殺される予告のすぐ後に記されており、この出来事の直後でも、イエスさまが苦しみと辱めを受けられることを弟子たちに告げておられます。つまり、イエスさまの十字架への歩みの中で、イエスさまがご自分の十字架と苦しみと死を強く意識なさり、弟子たちに告げられるその最中に、この変容の出来事は起こったのです。つまり、イエスさまは、汗にまみれ、埃にまみれていただけでなく、さらには血にもまみれる覚悟の中でこの出来事は起こりました。

 

眩いほどの素晴らしい光景がもはや消えてしまった今、そのイエスさまだけが彼らと一緒におられます。そしてそのイエスさまこそが、天から「これは、わたしの愛する子、これに聞け」と告げられるお方です。さらには、彼らはそのイエスさまと共に、山の下へと、つまり現実の社会の中へ帰っていきます。

 

神であり、神の御子であられ、栄光の永遠の王キリスト、旧約聖書の神の約束を実現し、神の救いを完成なるキリスト、その光り輝くお方が、私たちまったく同じ貧しい一人の人となられ、汗にまみれ、埃にまみれ、血にまみれられる覚悟で、私たちと共に山を降りて、現実の社会の中へ歩み出してくださる、そのお方こそ、「これはわたしの愛する子。これに聞け」と、神さまは私たちに告げられます。また、だからこそ、イエスさまは「人の子が死者の中から復活するまでは、今見たことを誰にも話してはならない」と弟子たちに命じられました。イエスさまの十字架と苦しみと死を経ることなく、私たちは本当のイエスさまの姿に出会い、従うことはできないからです。

 

私たちは、金の王冠を被ったイエスさまを小屋の中に閉じ込めておくのではなく、茨の冠を被られたイエスさまと共に山を降り、この社会に出かけ、聴き従って歩むことを、今日のみことばから受け止めたいと願います。私たちも、礼拝でのお話を聞いて気分が高ぶったり、お祈りしたことが実現して有頂天になったりすることもあるでしょう。それはそれで素晴らしい体験です。でも、それはすぐに雲に覆われて見えなくなってしまい、私たちは、厳しい現実のただ中で生きていかねばなりません。でも「ただイエスだけが彼らと一緒におられた」。そうです。私たちのために天から降り、貧しくなられ、私たちのために苦しみ死なれ、その苦しみと死を乗り越えれたイエスさまが、いつどんな時も私たちと一緒におられます。新しい週もそのイエスさまと共にここから現実の毎日の生活のただ中へ出かけていきたい。また、教会の暦では、この水曜日から、イエスさまの十字架への歩みを覚え、ご復活の祝いに備える四旬節に入ります。ともに、人としての貧しさと十字架を引き受けられたイエスさまの姿を心に刻みたいと願います。

 

主よ、わたしたちを導いてください。

 

御子が、わたしたちのために貧しい一人の人となられ、十字架を引き受け、わたしたちの重荷を負い、わたしたちのために苦しみ死なれたことを覚えます。どんな時も、御子イエスさまがわたしたちと共にいてくださることを信じ、御子とともに、高き山を降りて、毎日の生活へ出かけることができますように。また、貧しさや困難に苦しむ人に、共におられるイエスさまを伝えることができますように。救い主イエスさまのお名前によって祈ります。

 

あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るように。アーメン

 

動画 2018-02-11.MP4 - Google ドライブ

 

 

https://i.pinimg.com/564x/1b/d8/ab/1bd8abc214e132d3eb5f80822863aa72.jpg