yukaina_gorilla’s diary

ごりらぼくし(大麻ルーテル教会/北見聖ペテロ・ルーテル教会)です。聖書や教会のこと、社会のこと、ペットのことなど書いていきますね。

2018年2月18日 礼拝メッセージ(四旬節第1主日)

四旬節第一主日 2018年2月18日

「獣も天使も」

(マルコによる福音書1章9~15)

 

わたしたちの父である神と、主イエス・キリストから恵みと平和が、あなたがたにありますように。アーメン

 

先日の水曜日は、教会の暦で「灰の水曜日」でした。この日から、四旬節が始まっております。四旬節は、かつて「受難節」と呼ばれていましたが、イエスさまの十字架への歩み、そしてその苦しみと死を覚える季節であり、そのことを通してご復活の祝いに備える季節です。この四旬節は、「レント」とも呼ばれます。このレントは、もともと「春」を意味する言葉です。春、つまり、新しい季節、新しい一年の始まりです。ですから、私たちは、この四旬節、レントを、新しい自分、新しい命を迎えるために過ごします。

 

昨年まで責任を持っておりました、深川教会・旭川教会では、毎年、灰の水曜日の礼拝がありました。その礼拝では、悔い改めの祈りをして、そのしるしとして、灰で額に十字の徴を受けます。これは、旧約聖書の神の民が、神さまに悔い改めて灰を頭にかぶったことを基にしたものですが、今年、大麻教会では平日の礼拝が行われませんので、私はその日、札幌市内の他教派の教会の灰の水曜日の礼拝に参加しました。そこでもやはり罪の悔い改めの祈りがなされ、額に灰で十字の徴を受けました。

 

四旬節の初めの日、灰の水曜日の礼拝で大切なことは、灰で額に十字を受けるというその行為よりも、その礼拝で悔い改めの祈りがなされるということです。四旬節は、私たちが犯した罪を悔い改めるときだからです。自分自身を省みて、罪を深く悔い改める。そして、そうした私たちの罪のために十字架にかかられた救い主イエスさまのもとへ立ち返る、そのことを通して、罪の赦しと永遠の命をいただいていることを信じ、自分が新しくされて歩み出す。それが四旬節の過ごし方です。ですから、四旬節をそのように悔い改めの日々として過ごし、復活祭に洗礼を授けるのが教会の伝統でした。また、私たちが新しくされるためには、古いものを捨てることが必要だと言った人がいます。私たちは古い罪の自分を捨てて、キリストが与えてくださる命に生かされる新しい自分として歩んでいく。これが四旬節、新しい季節、新しい一年としての春を迎えるレントの過ごし方です。

 

ですから、私たちの教会では灰の水曜日の礼拝は行いませんでしたが、今日の礼拝を悔い改めの祈りの礼拝としています。四旬節を意味深く、また本来の意味を大切にして過ごしたいと願ってです。自分自身をよく省み、深い悔い改めに導かれ、救いに招いてくださる、十字架と復活の主イエス・キリストの懐へと立ち返り、自分の罪を捨てて、キリストにある新しい命に生かされたいと願います。

 

さて、今日、四旬節第一主日には、毎年、イエスさまが荒れ野でサタンから誘惑を受けられた出来事を伝えるみことばを聞いてまいります。私たちは、昨年の12月、アドベントから新しい聖書日課で礼拝をしているのですが、以前、用いていた聖書日課では、今日のみことばは、マルコによる福音書1章12節と13節のみでたいへんコンパクトのものでした。しかし、この新しい聖書日課では、先ほどご一緒に聴きましたように、1章9節から15節までと、前後多少の幅を持たせて定められています。そして、その朗読配分を通して、私たちはわかりやすくメッセージを受け止めることができるようになっています。

 

まず、イエスさまが洗礼を受けられた出来事が伝えられており、その際に、天が開け、イエスさまを神の御子として祝福する声が天から聞こえ、聖霊が鳩のように豊かに力強くイエスさまに注がれた様子が報告されています。そして、それに続く出来事として、イエスさまの荒れ野での誘惑の出来事が伝えられているのです。さらに、その後にはイエスさまが、ガリラヤへ赴き、人々に神の国の福音を宣教する働きを開始したことが伝えられています。

 

今日は、イエスさまの荒れ野でのサタンから誘惑を受けられた出来事から、二つの言葉に注目したいと思います。まず一つは、《それから、“霊”はイエスを荒れ野に送り出した》という言葉です。そしてもう一つは、《その間、野獣と一緒におられたが、天使たちが仕えていた》という言葉です。

 

まず、《それから、“霊”はイエスを荒れ野に送り出した》という言葉ですが、ここでイエスさまを荒れ野に送り出した「霊」は、何か怪しげな霊ではなく、神さまの霊であり、その直前で伝えられておりますイエスさまが洗礼を受けられた際に、祝福のうちにイエスさまの上に豊かに鳩のように注がれたのと同じ霊です。しかし、洗礼の際はそのようにイエスさまを祝福して降った霊が、その出来事が終わるや否やすぐに、イエスさまを荒れ野へと送り出されます。そしてこの「送り出した」という言葉も、本当はもっと強い意味を持つ言葉で、「強いて行かせた」とか「追いやった」とかそうした意味を持っています。ですから、洗礼を受けられたイエスさまを祝福して降った霊が、その直後にイエスさまを荒れ野へと強いて行かせ、追いやったことが、ここで伝えられているのです。そしてそれは、その荒れ野でサタンの誘惑にイエスさまを合わせるためでした。

 

ヨハネによる福音書でイエスさまが神さまの霊について、「風は思いのままに吹く。…それがどこから来て、どこへ行くかを知らない」と説明なさっていますが、いくら「思いのままに吹く」としても、神の御子として祝福したかと思えば、サタンが待ち構える荒れ野へ追いやるというのは、あまりの変わりようで驚きます。しかし、それにはきっと意味があったはず。意味もなしに、単なる気まぐれで神さまの霊がそんなことをするわけないでしょう。それでは、それは何のためであったか。

                                                                                         

その答えは、それに続く出来事から考えることができます。つまり、イエスさまがガリラヤで福音の宣教を始められた出来事です。ガリラヤは、人々の生活の場所でした。みんなが毎日大変な思いをしながら生活しており、生活のため律法を守れず罪を犯さざるを得なかった人たちも多く暮らしていました。そこでイエスさまは、荒れ野でサタンの誘惑を受けられた直後に、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と宣教を始められるのです。ですから、イエスさまがそのようにガリラヤの人々に神の国を届ける宣教の働きを担うためには、イエスさまがその前に荒れ野へと赴き、サタンから誘惑を受けられることがぜひとも必要であると、神さまが考えられ、神さまの霊が、イエスさまを強いて荒れ野へと追いやったのではないでしょうか。

 

つまり、イエスさまは神さまから「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と祝福され、神の御子として遣わされたお方であるけれども、しかし、ただそのように神の御子として、いわば「この世離れした」お方として人々にかかわられるのではなく、厳しい荒れ野の現実を体験し、また人々が生きる中で苦しまねばならない悪の誘いをイエスさまご自身知っておられ、それと闘ったお方として、人々にかかわられるのです。イエスさまのことを、キリストの教会は「真の神であり、真の人である」お方として信じてきました。まさに、真の神であられるイエスさまが、私たちの、その苦しみも悩みも大変さもすべてを知っておられる、真の人として、ガリラヤへ赴き、そこで傷つきながら過ごす人々に、神の福音を分かち合い、神の国を届けられる。そのためには、どうしてもイエスさま自ら荒れ野へ行かねばならなかった、そしてサタンの誘惑を受けねばならなかった、それゆえ神さまの霊はイエスさまを荒れ野へと強いて追いやられたのです。

 

私たちが人生の荒れ野で苦しむとき、ご自身荒れ野の厳しさを体験されたイエスさまが、私たちと共におられる。また、私たちがいろんな試練や誘惑に合ってそこに負けそうになる時、ご自身サタンの誘惑と闘われてそれに打ち克たれたイエスさまが、私たちのためその試練や誘惑に「とどまって」闘っていてくださる。私たちはそのことを受け止めることができます。私たちは荒れ野を行くときも、試練や誘惑に合う時も、決して一人ぼっちではありません。イエスさまが共にいてくださる。そして私たちと共に苦しみ、私たちのため戦ってくださる。さらには、イエスさまは十字架にかかる前の夜に弟子たちにおっしゃいました。「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」。苦しまれ、闘われ、既に勝利されたお方として、イエスさまががあなたと共にいてくださることを心に刻み、四旬節の歩みをしたいと思います。

 

今日もう一つ注目したいのは、《その間、野獣と一緒におられたが、天使たちが仕えていた》との言葉です。厳しい荒れ野でのサタンの誘惑との戦いでした。そこには野獣がいたと言います。今にも襲いかかってきそうで、まさに危機一髪です。しかし、そこには野獣がいただけでなく、天使たちがイエスさまに仕えていたというのです。危機一髪だけど、大丈夫!ちゃんと神さまが天使たちを遣わして、イエスさまを守ってくださっていたということが、ここで伝えられています。

 

私たちが荒れ野の厳しさの中で生きる、サタンの誘惑の苦しみの中を生きるときも、まさにこの《その間、野獣と一緒におられたが、天使たちが仕えていた》状態であることを、私たちは今日受け止めたいと思います。一見するなら、恐ろしい野獣が牙をむいて今にも襲い掛かってきそうなそうした危機の中で、私たちは生きていかねばなりません。その中で恐れ、不安になります。でも、大丈夫なのです。なぜなら、神さまが天使を遣わして、私たちを守ってくださっているからです。野獣もいるけど、天使もいてくれて私たちをガードしてくれていると、そうした思いの中で過ごせたらいいなと思います。まして私たちには、天使どころでなく、自ら最も苦しい試練である十字架を引き受け、そしてその死にも打ち勝たれた御子、主イエス・キリストが共にいてくださる。だから心を高く上げて生きていきたい、そう願います。

 

明日2月18日はマルティン・ルターの召天記念日、日本的に言うなら命日ですが、この後マルティン・ルターが作ったさんびかで、ある意味、私たちルーテル教会のテーマソングのようなさんびか450番、力なる神はを歌います。これは、10月の宗教改革の礼拝でよく歌われるさんびかですが、実は、この四旬節第一主日、イエスさまが荒れ野でサタンの誘惑と闘われた出来事を思う、この日のさんびかとしてふさわしいものです。このさんびかの歌詞ですが、新学校長をされていた徳善先生が「ルターと賛美歌」(2017年・教団出版局)という本の中で、もともとのニュアンスを大切にして次のように訳しています。

 

われわれの神は堅い砦、良い守り、よい武器(のようだ)。神はわれわれを無代価で、今われわれを襲うすべての窮乏から助けてくださる。

古くからの、悪い敵は今や真剣に思いを凝らす。大きな力と多くの策略が、その恐るべき武器。地の上にそのようなものは(ほかに)ない。

われわれの力では何もなされない。われわれは負けたも同然。

正しい方がわれわれのために戦う。神自ら選ばれた方が。それは誰かとあなたが問えば、それはイエス・キリスト、万軍の主。他に神はなく、彼こそが戦場を押さえる。

たとえこの世に悪魔が満ち、われわれを飲み込もうとしても、われわれはそれほど恐れない。われわれに勝ちがある。

この世の君は、いかほど悪意に満ちていても、われわれに対して何もできない。しかも裁かれているのだ。ひとつのみことばでも、彼を倒しうる。

彼らはみことばを放り出し、これについて何らの思いも持たない。

主こそが我々のもとで確かに戦いに臨む。そのみ霊と賜物により。

彼らがわれわれから体と財貨と名誉と子と妻とを取るのであれば、取るがよい。彼らには得ることがない。み国はわれわれに留まる。

 

たいへん力強い歌詞ですが、徳善先生の解説によると、このさんびかは、ルター自身が悩み苦しみふさぎ込む鬱的な状況の中で作られたものだそうです。私たちはこの世の圧倒的な力を前に、何もできず、自分では負けるしかない、でも、キリストであられる神が、私たちに代わって闘い、その戦いに勝利してくださる。それゆえ、この世の悪の力がどれほど強く、どれほど大それたことを企み、私たちが大切にする何を奪おうとも、私たちにはこのキリストの勝利が既に与えられているのだからもはや恐れる必要はないと、ルターはこのさんびかを通して自らの心に刻んだのです。

 

私たちの悪との戦いも、私たち自身弱く負けてしまいそうだけど、キリストが私たちのために闘い、既に勝利してくださっている、そのことを信じて、私たちの罪を深く悔い改めながら、四旬節の歩みを進めてまいりたい、そしてご復活の祝いに備えたいと願います。

 

主よ、わたしたちを導いてください。

 

神さま、荒れ野の厳しさと、サタンの誘惑の苦しみを御子イエスさまが引き受けられ、私たちと共に苦しみ、私たちのために闘い、そして勝利を私たちに与えてくださることを今日聞きました。野獣が牙をむいて今にも攻めて来るような世の恐ろしさの中にあって、神さまが天使を送り私たちを支え、また御子が私たちと共にいてくださることに強められて、その信頼のうちに歩むことができますようにお導きください。四旬節の日々を迎えています。私たちの罪を悔い改め、悪と戦う日々を過ごすことができますように。そのことによって、ご復活の祝いに備えさせてください。私たちのために苦しみを引き受けられ、その苦しみに勝利したもう御子、救い主イエス・キリストによって祈ります。アーメン。

 

あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るように。アーメン

 

動画 2018-02-18.MP4 - Google ドライブ

 

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