yukaina_gorilla’s diary

ごりらぼくし(大麻ルーテル教会/北見聖ペテロ・ルーテル教会)です。聖書や教会のこと、社会のこと、ペットのことなど書いていきますね。

2018年3月11日 礼拝メッセージ

四旬節第4主日 歓喜主日 2018年3月11日

 

「神は、独り子を」

民数記21章4~9・エフェソの信徒への手紙2章1~10・ヨハネによる福音書3章14~21)

 

わたしたちの父である神と、主イエス・キリストからの恵みと平和があなたがたにあるように。アーメン

 

今日は、教会の暦で四旬節第4主日で、この日は「歓喜主日」とも呼ばれます。四旬節の間は、礼拝の色として、悔い改めと慎みを表す紫が用いられますが、四旬節の日々の中でも、今日のこの歓喜主日には、バラ色を用いてよいとされています。また、四旬節の間、礼拝堂には原則としてお花は飾らないのですが、この歓喜主日にはバラを飾る習慣もあります。そのような工夫をして、約束されたご復活の喜びがもう間もなくすぐ近づいていることを喜び祝うのです。今日は、バラを飾り、私もバラ色のストールを着用して礼拝をしておりますが、みなさんと一緒に、ご復活の喜びがすぐ近いことを心に刻む礼拝をできればと願っております。

 

ところで、先週、私は、二人の方のご葬儀に参列しました。まずは、月曜日の夜に、深川教会で行われた教会員のお通夜に参列しました。その際、私は、翌日火曜日に行われる告別式と火葬後の祈りで奉仕をするために、宿泊と、礼拝の式服の用意をして出かけました。その方は、ある夜、トイレに行く最中に転倒をし、朝病院で脳出血と診断され、一週間眠ったまま過ごされ、そのまま帰らぬ人となったのでした。

 

その方のお通夜が終わって、携帯電話を見ますと、不在着信が何件か入っておりましたので、折り返し電話をしました。そうすると、それは、長い間、入院しておられた、大麻教会のAさんが召されて、今まだ病院なのだけど、これからどうしたらよいかという、ご家族からの問い合わせでした。95歳のご生涯でした。しかし、私は深川におりましたので、すぐに札幌のその方が入院しておられた病院へ駆けつけるとしても、かなりの時間がかかります。これまたどうしようかと考えました。そうしたら、頭の中に、大麻教会の前任者で、現在、札幌中央教会の牧師をしてらっしゃいます、Y先生の顔が浮かびました。すぐにY先生にお電話して、病院へ行って臨終の祈りをして、また葬儀社の手配や日程の打ち合わせなど初動的な働きをお願いし、たいへん助かりました。そして、深川教会でのお勤めははN先生とH先生に委ね、翌日火曜日に、葬儀社とご遺族と詳しい打ち合わせをし、水曜日・木曜日と、その方のご葬儀を、大麻教会で、Y先生にも手伝っていただきながら執り行いました。

 

このように、私たちの愛する家族や教会の仲間が、ご生涯を終えて、この地上から旅立つということは、たいへん寂しい悲しい出来事です。けれども、キリスト教の信仰に基づく葬儀は、ただしめっぽいだけではありません。もちろん悲しみの中にも、どこかに希望があり、明るさがあります。それは、その葬儀が、神さまへの礼拝として行われ、そこでさんびがなされ、みことばが語られること、そしてそのことを通して、慰めと励ましが与えられるからであろうと思います。神さまがその召された人の命を御手に受け取ってくださっていること、そして、今、私たちはちょうど四旬節を過ごしイエスさまの十字架への歩みを心に刻み、ご復活の岩に備える日々を過ごしておりますが、イエスさまの十字架と復活によって、神さまがその人をお救いになられたこと、私たちはその信仰を葬儀において神さまを礼拝することを通して新たにするのです。葬儀を通して、悲しみを超えた希望、闇に輝く光を受け止めることができるのです。

 

さて、今日のみことばですが、まず第一の朗読、民数記が伝えている出来事についてお話したいと思います。個所としては、とても短いのですが、しかし、そこには実に不思議な出来事が伝えられておりました。荒れ野を旅していたイスラエルの民が、彼らのために神さまが立てられたリーダーであるモーセに不平不満を言うのです。「なぜ、我々をエジプトから導き上ったのですか。荒れ野で死なせるためですか。パンも水もなく、こんな粗末な食物では、気力もうせてしまいます」。彼らのこの不平不満は、一見、わからないでもないように思えるかもしれません。けれども、彼らはなぜ、そのように荒れ野で旅をしているのかということを考えるなら、彼らのこの訴えが実に身勝手なことであると言わざるを得ません。

 

彼らは、エジプトで王ファラオの支配のもとで奴隷として強制労働に従事させられていました。その苦しみの中で、彼らは、神さまに向かって叫び、嘆き、助けを求めました。神さまはその彼らの必死な苦しみの叫びを聞き入れて、それにお応えになって、彼らをエジプトから救い出されたのです。しかし彼らは、この今日のみことばと同じように、やがてすぐに神さまにやれ水がないとか、エジプトではおいしい肉鍋を食べて、パンもたくさん食べられたのに、ここでは飢え死にしそうだとか、エジプトに帰りたいと不平不満を言い始めるのです。

 

せっかく神さまが彼らをエジプトでの苦しみから救い出してくださったのに、目先のちょっとした苦しみによってそのことを忘れて、あの時の方がよかったなどと言うわけですから、神さまだってたまったものではありません。神さまは、彼らを鍛えるため、そして世代交代が必要とも考えられたのでしょう。荒れ野を40年の間、旅させることにしたのです。しかし、その旅の中でも何度も同じようなことが起こるわけです。食べ物がない、水がないと、事あるたびにぶつぶつぶつぶつ言い始める彼らでした。「心は燃えていても、肉体は弱い」とイエスさまはおっしゃいましたが、まさにそうした人の弱さを見ます。今日のみことばも同じでした。

 

そんな彼らに神さまは激怒なさって、炎の蛇を送って、彼らを裁かれるのでした。たくさんの人がその蛇に噛まれて死んでしまいました。そこで彼らはようやく自分たちの過ちに気づいて、悔い改めつつ、モーセに、蛇を取り除いてくださるように神さまに祈ってほしいと願い出ます。モーセは、民の願いを受け入れて、神さまに祈りました。すると、それに対する神さまの答えが実に不思議なものだったのです。「あなたは炎の蛇を造り、旗竿の先に掲げよ。蛇にかまれた者がそれを見上げれば、命を得る」モーセは神さまがおっしゃった通り、青銅で蛇を作って、旗竿の先に掲げます。その後、その掲げられた蛇を見上げた者は、たとえ蛇に噛まれても、死ぬことなく命を得たというのです。

 

私は、長い間、この出来事に大きな疑問を抱いていました。それは、先週の第一朗読は出エジプト記20章の十戒でしたが、そこには「あなたはいかなる像を造ってはならない。上は天にあり、下は地にあり、また地の下の水の中にある、いかなるものの形も造ってはならない。あなたはそれらに向かってひれ伏したり、それらに仕えてはならない」と、人が何か物を形作り、それを宗教的な対象物とすることへの、つまり偶像崇拝の禁止がはっきりと定められています。それなのに、神さまはここで蛇を造ることをモーセに命じて、そして人々がその蛇を仰ぎ見ると、命が救われるというのは、この偶像崇拝に当たるのではないかと疑問に思ったのです。けれども、今回改めて、このみことばと向き合ってみて、違った角度から考えることができました。

 

それは、彼らが蛇を見上げるとは、一体、何を意味したかということです。それはその際に、彼らがなにも蛇を拝んだり、宗教的な対象物としたりしたということとは違ったのではないだろうかと思いました。それでは、彼らがそこで蛇を見上げたことは何を意味するのかというと、その蛇を見上げることにより、彼らは、彼ら自身の罪に向き合い、それを心に刻んだのではないだろうかと思ったのです。自分たちが神さまに不平不満を言い、何ともバカなことをしてしまった、そして、そのことで神さまが蛇を遣わして裁かれた、大勢の仲間がそれで死んでしまった、私たちはもう二度と同じようなことを繰り返してはならない、そのように彼らが痛みをもって、また、深い悔い改めをもって、向き合い、自分の心に刻むための蛇だったのではないかと思います。

 

そして、そう考えると、イエスさまが今日、ご自分のことを語るのに、この民数記モーセの蛇の出来事を語っているのが、よく理解できると思うのです。モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである」。イエスさまはそのようにおっしゃっています。このイエスさまのみことばから、私たちは今日、イエスさまの十字架の出来事を受け止めたいのです。イエスさまは、「人の子も上げられねばならない」と、たいへん深い決意のうちに、ご自身十字架の上に上げられるのです。そして、「それは信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るため」でありました。教会には、十字架が掲げられています。また私たちも自分の胸に、十字架の飾りをつけることもあります。それは何も、私たちがその十字架を偶像として崇拝するためではありません。イスラエルの民が、モーセが作った蛇を見上げて自分の罪を心に刻み、深い悔い改めに導かれたように、私たちは十字架を見上げることにより、私たち自身の罪を心に刻み、その私たちの罪のためにイエスさまが十字架の上に上げられたことを思い起こし、深い悔い改めに導かれるのです。自分のどうしようもなさを思い、その自分のどうしようもなさがイエスさまを十字架に追いやり、死に至らせたことを忘れないために、私たちは十字架を見上げるのです。

 

「イエスさまの十字架は今から二千年前のことで、それは私のせいではない」と言われることもあります。でもそうじゃない。私の犯す罪が、イエスさまを十字架に追いやった。神の命を、この私の罪が奪ったのです。それほど、私たちの犯す罪は重いものであり、自分ではどうすることもできないものです。ただただイエスさまの十字架によって、神の命と引き換えとしてのみ、私たちは罪を赦され、救いをいただくことができるのです。

 

今日の福音では、続けて聖書の中で最も大切な一言が語られます。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」。これは、「聖書の中の聖書」とも呼ばれるみことばです。聖書のすべてのみことばが、この一節に収斂され、聖書のすべての精神を言い表しているみことばです。あのマルティン・ルターが、自分が間もなく死ぬというその時、何度も何度もこのみことばを繰り返し唱えたと言います。聖書について多くの講義をし、力強く宗教改革的な福音を告げたルターが、人生の最後に、死の床で、このみことばを自分に言い聞かせ、慰めと励ましを得ていたというこのことは、たいへん印象的です。

 

このみことばの「世を愛された」「世」というところに、自分の名前を入れて読んでみると、このみことばをより意義深く大切なものとして受け止めることができると、よく言われます。つまり、こんな感じです。「神は、その独り子をお与えになったほどに、白井真樹を愛された」と。神さまは、この私を愛するがゆえに、独り子イエスさまをお与えくださった。それほど深く私を、神さまは愛されて、何とかして私のことを救おうとされました。それは、神さまにとっても大きな痛みの出来事だったに違いありません。しかし、その痛みを伴ってまでも、私たちへの愛を貫かれるのです。「御子を信じる者は裁かれない」、神さまはこの約束を堅く守られます。

 

今日の第二朗読で、パウロは語ります。「憐れみ豊かな神は、わたしたちをこの上なく愛してくださり、その愛によって、罪のために死んでいたわたしたちをキリストと共に生かし、―あなたがたの救われたのは恵みによるのです―キリスト・イエスによって共に復活させ、共に天の王座に着かせてくださいました。こうして、神は、キリスト・イエスにおいてわたしたちにお示しになった慈しみにより、その限りなく豊かな恵みを、来るべき世に現そうとされたのです。事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。行いによるのではありません。それは、だれも誇ることがないためなのです。」

 

ここで語られているように、私たちはただ神さまの恵みによってのみ救われます。私たちが何か良いことをしたとか、私たちの力によって救いを得ることができるとかではなく、「キリスト・イエスにおいてわたしたちにお示しになった慈しみ」、つまり、イエスさまの十字架によってのみ、「神の賜物」、神さまからのプレゼントとして、私たちは救いをいただいて、「キリスト・イエスによって共に復活させ、共に天の王座に着かせてくださ」るのです。今日、歓喜主日、私たちは、この神さまの愛を心から喜び、信じたい。そして、共にイエスさまの十字架を見上げて、深い悔い改めと感謝のうちに、ご復活の祝いに備えたいと思います。

 

主よ、私たちを導いてください。

 

あなたの限りのない深い愛を感謝します。その愛の中で悔い改め、あなたに立ち返って生きることができますように。私たちの救いのために御子をお送りくださりありがとうございます。御子の十字架を見上げ、ただこの十字架によってのみ、私の罪が赦されたことを信じることができますように。救い主イエス・キリストによって。アーメン

 

あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るように。アーメン

 

動画 2018-03-11.MP4 - Google ドライブ

 

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