2018年3月25日 礼拝メッセージ
主の受難 2018年3月25日
「神にも人にも」
(マルコによる福音書14章1~15章47)
わたしたちの父である神と主イエス・キリストから恵みと平和があなたがたにあるように。
アーメン
今日は、灰の水曜日の日より過ごしてきた四旬節の最後の一週間のはじめ、主の受難の礼拝を迎えています。イエスさまの十字架を思い起こし、ご復活の祝いへの最後の備えをする聖週間、受難週を今年も迎えました。
今日の礼拝の初めに、イエスさまのエルサレム入城の出来事を記念いたしました。人々が木の枝を振りながら、あるいは道に敷いて、歓迎する中を、イエスさまがエルサレムに入られました。そのイエスさまのお姿を思い起こし、私たちもまた、私たちのただ中においでくださる救い主イエスさまを、今日改めてお迎えします。
その際に人々は「ホサナ、ホサナ」「お救いください、お救いださい」と大喜びのうちにイエスさまを迎えました。ある意味、たいへん熱狂的にイエスさまを迎えた人々の姿に出会います。そのように人々から迎えられたイエスさまが、その後、どういう歩みをされたのかを、私たちは今、福音書記者マルコが伝えているイエスさまの受難物語を通して、今、聞いてまいりました。
14章の初めから15章の終わりまでという、たいへん長い箇所でしたが、私は、このようにその年のために与えられている福音書を通して告げられているイエスさまの受難物語を通して聞くことに、とても大きな意義を受け止めています。
普段、福音書をそれぞれの個所だけ読む場合には、それぞれの箇所で点として、そこでそれぞれ伝えられているイエスさまのなさったことや語られたことを受け止めることができるわけですが、このように私たちが、イエスさまの受難物語を福音をずっと通して一度に聞くことを通して、それぞれの点がばらばらに点在しているというのではなく、その点が並んで一本の線へとつながり、前後の脈絡の中で、イエスさまの十字架への歩みが見えてきますし、さらにはその線が、面となって広がって、その広がりの中で、一連の出来事としてより豊かに受け止めることができるようになってくるのではないかと思います。
たとえば、イエスさまの足に香油を塗った女性の出来事、最後の晩餐、そしてゲツセマネの園での出来事と、それぞれの出来事からも私たちはいろんなメッセージを受け止めることができるわけですが、それを続けて読み進める時に、イエスさまの葬り、つまりイエスさまの死を受け止められない弟子の姿、そしてそれが結局、イエスさまがイエスさまを敵対視する人々に売られる原因になってしまう、そうした中でもご自分の体と血、苦しみながら神の御心に従ってその命を差し出されるイエスさまの命がけの愛、そのイエスさまの愛に応えられず裏切ってしまう弟子たちの姿と、そうした一本の線となり見えて来ます。
さらには、今日、私たちはイエスさまの十字架をめぐって登場する人たちの言葉を、みんなで声に出して読みましたが、自分の無理解や不信仰、弱さや罪の中で、イエスさまを捨ててしまったり、イエスさまの前から逃げてしまったり、信実を見失ってしまったりするその人々は、他でもなく私たち自身であるということに気づかされる。そしてそうした私たちをなおも包み込み、赦し、救おうとされるイエスさまの十字架の大きな愛が見えて来る。一つの面となって、広がりを持った出来事として、イエスさまの受難の出来事が見えてくるのです。
今日のメッセージのタイトルを「神にも人にも」としました。イエスさまは十字架の上で神にも人にも見捨てられたのでした。
自分の側近である弟子に売り飛ばされたり、見捨てられてしまったり。よくイエスさまを裏切った弟子としてイスカエリオテのユダについて言われます。彼はたしかにイエスさまの十字架を受け入れることができず、イエスさまをイエスさまに敵対する、当時の宗教的な指導者に売り飛ばしました。そしてそれがきっかけでイエスさまは裁判を受け、十字架刑に処せられてしまいます。その意味ではたしかに彼の果たした役割というかその罪はとてつもなく大きなものです。
でも、ではこのユダだけが問題なのかというと、決してそんなことはないということに、私たちはイエスさまの受難物語を通して読む中で気づかされます。イエスさまから「はっきり言っておくが、あなたがたのうちの一人で、わたしと一緒に食事をしている者が、わたしを裏切ろうとしている。」と言われたら、みんな代わる代わる「まさかわたしのことでは」と心配になる弟子たちでしたが、そうした中でもペトロは「あなたがたは皆わたしにつまずく」とのイエスさまの言葉に対して、「たとえ、みんながつまずいても、わたしはつまずきません」と豪語するわけです。しかし、イエスさまは、「はっきり言っておくが、あなたは、今日、今夜、鶏が二度鳴く前に、三度わたしのことを知らないと言うだろう。」とペトロに告げるわけですが、ペトロはそれでもまだ「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません。」なんて格好の良いことを力強く言うのです。そしてマルコは、さらに一言加えるのです。「皆の者も同じように言った。」弟子たちみんな勇ましく「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません。」とイエスさまに向かって言ったというのです。
でも実際はどうだったか。「弟子たちは皆、イエスを見捨てて逃げてしまった。」そう伝えられています。ペトロは、イエスさまが告げられた通り、鶏が二度なく前にイエスさまのことを三度も知らないと言ってしまう。最期なんか《ペトロは呪いの言葉さえ口にしながら、「あなたがたの言っているそんな人は知らない」と誓い始めた》と伝えられています。その時鶏が二度目に泣くわけですが、《ペトロは、「鶏が二度鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」とイエスが言われた言葉を思い出して、いきなり泣きだした》のでした。なんとも惨めな情けない姿です。
さらに、こんな弟子もいました。「一人の若者が、素肌に亜麻布をまとってイエスについて来ていた。人々が捕らえようとすると、亜麻布を捨てて裸で逃げてしまった。」自分もイエスさまと同じように捕まるのが怖かったのでしょうか。素っ裸で逃げてしまうのです。これまた情けない姿です。一説によれば、これはマルコ自身のことではないかとも考えられています。そうであるなら、自分もイエスさまを見捨てた一人なんだということを、マルコは忘れないためにこれを記録したのかもしれません。
このように、イエスさまに従った弟子たちみんながイエスさまを見捨てて裏切ったのです。そして、それは私たちにとって他人事の話ではありません。彼らの中に、イエスさまに従っていこうと願いつつ、従えないことの多い私たちもいるのです。
弟子たちだけでありません。イエスさまに無実の罪を着せた宗教的な指導者たち、イエスさまをバカにしたり暴行を加えた兵士たち、イエスさまを罪に定め自らの保身を図ったピラトやバラバ、そして世の流れに扇動されてイエスさまに向かって「十字架に付けろ」「十字架に付けろ」と叫んだ民衆たち、みんながみんなイエスさまを見捨ててしまったのでした。私たちもその場の雰囲気で、信実を曲げたり、その場の流れに流されちゃったり、人を助けるより自分の身の安全を考えたり、このようにイエスさまの受難の物語に登場する彼らと同じ姿があるのです。
このようにイエスさまは人々から捨てられて、十字架の上で苦しみ死んでいかれました。
さらには、イエスさまは十字架の上で叫ばれました。「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」。これがマルコ福音書の中で伝えられているイエスさまの最後の言葉であり、たいへん凄まじい叫びです。イエスさまが洗礼を受けられたとき、また山の上でそのお姿が変わられた時、「これはわたしの愛する子」と、イエスさまに向かって天からの声がかけられたことを思い起こします。しかし、その神の愛する御子であられるイエスさまが、なんと十字架の上で神に見捨てられる苦しみの中で、壮絶な叫びをあげながら死んでいかれたのです。
このように神にも人にも見捨てられて死んでいかれたイエスさまでした。それもすべて私たちの救いのため、私たちへの愛のゆえでした。本来ならば、罪を抱え、イエスさまを見捨てて裏切って生活している私たちこそが、神にも人にも見捨てられながら、孤独のうちに壮絶な叫びをあげながら世を去らなければなりませんでした。イエスさまの十字架上の姿は、本当は私たちの行く末なのです。でも、イエスさまが、それをご自分の身に引き受けてくださいました。神の愛する御子であられるイエスさまが、そして人々をその極みまで愛されたイエスさまが、神にも人にも捨てられて、その苦しみの極みの中で死なれた。ただそのことによってのみ、私たちへの救いの道が開かれたのです。
私たちの罪のためにわざわざ神の御子が死ななくてもよいではないか?と思われるかもしれません。いえ、そうじゃない。神の御子が死なない限り、私たちの罪はどうにもできません。それはなにも私たちの被害妄想なんかじゃないし、自分の罪を過大に受け止めていることの表れでもありません。私たちの罪がそれほどまでとてつもなく重いものであること、すなわち私たちがこれほどまでとてつもなく罪深いものであること、そしてそれを超えて、神の救い、イエスさまの愛がこれほどまでとてつもなく大きなものであることを、私たちは今日改めて心に刻みたいと思います。
そのイエスさまが、今、私たちを救うために、私たちのもとにおいでになります。ご自身苦しみ死なねばならない十字架のことを知っていながら。ですから、私たちも「ホサナ、ホサナ」「お救いください、お救いください」と信頼と喜びと感謝をもって、救い主イエスさまを私たちの教会に、そして私たちの心の中に迎えたいと願います。
そして、イエスさまのご生涯は、十字架の苦しみと死をもって終わりませんでした。徹底的に神にも人にも捨てられて、そのことにより、私たちをお救いくださったイエスさまを、神さまはそのまま捨て置かれることはなさいません。そうしたイエスさまの愛のご生涯、その最後を受け止め、それを尊いものとされ、イエスさまを復活させられたのです。
今日の礼拝ではイエスさまのエルサレム入城の枝とそしてまだ咲いていないつぼみのユリを飾っておきました。ゆりは復活のシンボルとされる花です。主の十字架の先には復活がある。そのイエスさまのご復活の祝いをより豊かな喜びとして祝うためにも、この聖なる一週間をみことばと祈りと、悔い改めの時として、主の苦しみを心に刻んで過ごそうではありませんか。
主よ、私たちを導いてください。
イエスさまを裏切り、あなたを悲しませて生きている罪深い私です。でもその私たちを救うために御子イエスさまが私たちのもとへおいでくださり、十字架を引き受け、神にも人にも見捨てられる苦しみの中で死なれた出来事に私たちは今日思いを馳せました。イエスさまの命がけの愛を感謝いたします。イエスさまの十字架を心に刻み、あなたの救いをいただいた感謝をもって、来週のご復活の祝いを喜び祝うことができるように、私たちを導いてください。私たちのためにすべてをささげられた救い主イエス・キリストによって祈ります。アーメン
あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るように。アーメン
動画 今回は、主の受難の礼拝をFacebookで配信したものです。
https://www.facebook.com/masaki.shirai/videos/1646445248767943/