yukaina_gorilla’s diary

ごりらぼくし(大麻ルーテル教会/北見聖ペテロ・ルーテル教会)です。聖書や教会のこと、社会のこと、ペットのことなど書いていきますね。

2018年4月8日 礼拝メッセージ

復活節第2主日 2018年4月8日

 

「恐れと疑いの真ん中に」

ヨハネによる福音書20章19~31)

 

わたしたちの父である神と、主イエス・キリストからの恵みと平和があなたがたにあるように。アーメン

 

先週、私たちは、イエスさまのご復活を祝うイースターの礼拝とお祝い会をいたしました。「主キリストは復活なさいました。主はほんとうに復活なさいました」と喜びのうちに共に言い交しました。実はこれは、もともと東方教会ギリシア正教ロシア正教の伝統に基づくものです。日本の正教会は、ロシア正教の伝統にありますので、キリストのことを「ハリストス」という言葉を用いて、次のように司祭と信徒の間で言い交すのです。「ハリストス復活」「実に復活」と。正教会の復活祭の礼拝で、何度も何度もこの言葉が交わされます。実は正教会の復活祭は、夜を徹して行われます。「ハリストス復活、実に復活」、この言葉が幾度も幾度も繰り返して交わされる中、復活の朝を迎えます。キリストが復活なさったことにより、新しいいのちの光が私たちにもたらされる。本当に主は復活なさったのだと、心に刻みながら朝の光を迎えるのです。

 

闇から光へ、これは復活祭に、とても大切なメッセージです。天地創造の初め、「光あれ」との神さまの御声によりこの世界は創られ、私たちも、その光の中で生きる者として創られたものであるけれども、その後、アダムとエバが神に背いて以来、人は皆、罪と悪と死の闇の中に生きる者となってしまいました。私たちには、どうすることができない、その罪と悪と死の闇。しかし、その深い深い闇が、主キリストのご復活によって、あのご復活の朝の到来と共に打ち破られたことを、覚え心に刻むのです。「死は勝利に飲み込まれた、死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前のとげはどこにあるのか」そうパウロが声高らかに告げているように、今や圧倒的なキリストの光、命と赦しと勝利の光が、罪と悪と死の闇を飲み込んでしまったのです。私たちは、この大きな光の中に生かされています。

 

先週土曜日、私は北見での復活祭の礼拝の後、その日の夜、札幌のカトリック教会で行われた復活徹夜祭の礼拝に出席いたしました。徹夜祭といっても実際は二時間半ぐらいの礼拝なのですが、その礼拝は暗闇の中で大きな蝋燭に火を灯し、「キリストの光」「神に感謝」と司祭と会衆が言い交すことから始まります。ここでもまた、この世の闇の中で、神がキリストの復活によって、真の光を与えてくださった、そのことを喜び合う、そのことからご復活の祝いがはじまるのだと改めて思うことができました。

 

さて、このように闇から光へと新しい命に生かされた私たちは、今日も引き続き、イエスさまのご復活をお祝いいたします。しかし、そのように、キリストのご復活によって、闇を包む圧倒的な光の中に生かされることになった私たちですが、今日のみことばは、依然として世の闇という現実が、私たちに忍び寄ってくることを伝えています。「その日、すなわち週の初めの日の夕方」、そんな言葉から今日の福音は始まっています。「その日、すなわち週の初めの日」というのは、イエスさまがご復活なさった、イースターの日曜日のことです。その朝に、イエスさまがご復活なさって、弟子たちはその知らせを聞くのです。本当なら、彼らはこの知らせに大いに喜んでその日を過ごしているはずです。イエスさまがかねてから言われていたことがほんとうに実現したのであり、また、一度は十字架の死によって失ってしまった愛するイエスさまが今も生きているという知らせを、彼らは受けたのですから。でも、その朝の喜びの出来事を、彼らの心の中から消してしまうような闇が、今まさに訪れようとしている、そんな「夕方」が彼らに訪れるのです。

 

みことばは私たちに告げています。「その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた」。彼ら弟子たちは、イエスさまの復活の知らせに喜んでそのイースターの日を過ごしていたのかというと、実は、そうではありませんでした。恐れの中で、家の中に閉じこもって、鍵をかけていた。まったくもって閉ざした心の中で、彼らはその日を過ごしていたのです。ユダヤ人を恐れて」とあります。イエスさまが捕えられ、十字架で殺されてしまったように、自分たちもそうされてしまうのではないかと、彼らは恐れたのでしょう。イエスさまのご復活という、たいへん大きな喜びの知らせを聞いていながらも、それを超えたそうした大きな恐れの中に、彼らはいたのです。イエスさまは、かつて「体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい。」とおっしゃったけれど、しかし、彼らはやはり自分のこの世の命のことで悩み、堅く心を閉ざし、イエスさまのご復活の知らせを喜ぶことができずに、部屋の中に閉じこもり引きこもってしまっていたのです。

 

この彼らの姿、それは私たちの姿でもあります。私たちもキリストは復活なさった、本当に主は復活なさったと、主のご復活を祝ったはずです。でもどうでしょうか。いつもその喜びの中で過ごしていられるだろうと考える時、決してそうではない自分の姿に出会うのです。私たちもいろんな恐れの中にいるのです。自分の健康のこと、生活のこと、周りの人とのかかわりのこと、様々なことで恐れ心配になり、主のご復活を喜ぶことができない、どこかで心閉ざし閉じこもって引きこもってしまう、そんな姿が私たちにもあります。ヨハネによる福音書の中でユダヤ人」という言葉は、決して一つの民族としてのイスラエル人のことだけを表すのではありません。イエスさまや、その信仰に敵対する、そうした世の力を象徴的に表す言葉でもあります。私たちも世の力に恐れながら過ごしている。ご復活の喜び、その光を覆ってしまう闇の中に閉じこもってしまっています。

 

しかし、そんな堅く鍵をかけて部屋の中に閉じこもり引きこもっていた弟子たち、心に鍵をかけて闇の中に閉じこもり引きこもっている私たちに、みことばは告げます。《そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。》恐れの中で引きこもった弟子たち、そして私たちの「真ん中に」、イエスさまはおいでになって立たれます。鍵をかけて誰も入ってこられないその部屋に、その心の中に、それを打ち破ってイエスさまが、「真ん中に」立たれるのです。そして、おっしゃいます。「あなたがたに平和があるように」。イエスさまが十字架にかかる前の夜に弟子たちにおっしゃいました。「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな。」ここで復活なさったイエスさまが弟子たちに、私たちに与えてくださる平和は、「この世が与えるように与えるのではない」つまりこの世の誰も何も与えることができない、ただイエスさまだけが与えてくださる真の平和です。

 

エスさまはそうおっしゃりながら何をなさったか。福音書は告げています。「そう言って、手とわき腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ。」エスさまは手とわき腹をお見せなります。その手とわき腹には、十字架にかけられた際の釘跡、そして死なれた際にわき腹にやりがさされた傷跡がくっきりと残っていたことでしょう。「この世が与えるように与えるのではない」エスさまの真の平和は、イエスさまの十字架の苦しみと死を通して、弟子たちに、そして私たちに与えられるものなのです。イエスさまのご復活の知らせを聞きながらも恐れて堅く扉を閉ざし閉じこもり引きこもってしまっている弟子たち、そして、堅く心を閉ざし閉じこもり引きこもっている私たちに、イエスさまは十字架の御傷を示しながら、「そんなあなたを、わたしは見捨てず、命がけで愛している」イエスさまはそう語りかけられる。そのイエスさまの命がけの愛によってのみ与えられる平和です。

 

エスさまはおっしゃいます。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」弟子たちは何も彼らが信仰深かったからとか、彼らが強かったからとか、そんな理由でイエスさまによって遣わされたのではありません。イエスさまのご復活の知らせを聞いたけど、なおも恐れて、戸に鍵をかけて閉じこもっていた、そんな彼らがその弱さの中で遣わされるのです。私たちもまた、「キリストは復活なさいました、主はほんとうに復活なさいました」と、イエスさまのご復活の知らせを聞いていながら、でもこの世の力に恐れ、心を閉ざし、引きこもってしまいがちなものです。でもそんな私たちであっても、その恐れの「真ん中に」エスさまが訪れてくださって、十字架の御傷を示しながら、その愛の中で私たちをお遣わしくださいます。

 

エスさまはおっしゃいます。聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」弟子たちも私たちも自分の力で働くのではありません。聖霊の力によって、神さまに押し出されて、その力によって働くのです。弟子たち、私たちは依然として恐れてしまう弱い者です。すぐに心を閉ざして引きこもってしまう、そんな者です。だから私たちの力では働くことはできません。でもそうした彼らを、私たちを遣わしてくださるイエスさまが聖霊によって、神さまの力によって働くように送り出してくださるのです。

 

今日の福音はこの後に、それからおよそ一週間後の、イエスさまの弟子のトマスと復活なさったイエスさまとの出会いの出来事について告げています。その中でも《戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた》と告げられています。彼ら弟子たちはまだ鍵をかけて引きこもっていたのです。どれだけイエスさまが復活なさったという知らせを聞いても、実際に復活なさったイエスさまと出会ったとしても、さらには聖霊をいただいて遣わされたとしても、なお心を開いて、世へと自信を持って力強く出かけることができない、依然として恐れの中にある弟子たち。でもイエスさまは何度でも何度でも繰り返し繰り返し彼らの真ん中に訪れてくださいます。そして十字架の命がけの愛による平和を与えてくださるのです。イエスさまは私たちのもとにも何度でも何度でも訪れ、平和をお与えくださいます。その中で、弟子たちも私たちも強められ励まされて信じる者とされえていく、主のために働くものとされていきます。

 

トマスは、あのイエスさまのご復活の夕べ、他の弟子たちとは一緒にいませんでした。イエスさまを失った悲しみの中でその交わりを離れていたのでしょうか。仲間たちが復活なさったイエスさまに出会ったと語り合っているのを聞いて、彼は言うのです。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」彼の悲しみと憤りの声が聞こえてくるような思いがします。「主を見た?そんなことあるわけないじゃないか。先生はもう死んでしまったんだ。もうお会いできないんだ」と。でもそんな彼のもとにもイエスさまは訪れてくだいます。彼の疑いの心の真ん中にイエスさまはいらしてくださるのです。そしておっしゃいます。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」トマスが目をあげてみると、そこには十字架の傷跡がはっきりありました。彼のために苦しまれ死なれたイエスさまの傷がくっきりと彼の目の前に示されるのです。彼は思わず言います。「わたしの主、わたしの神よ」

 

私たちが信じられない時、疑うときも、その真ん中にイエスさまが訪れてくださいます。そして、「この傷に触れよ、あなたのためのこの傷に」とおっしゃって、御傷を示されるのです。私たちもその中で信じる者とされていきます。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」とイエスさまがおっしゃっているように、「見ないのに信じる信仰」が与えられるのです。

 

エスさまのご復活により、闇から光へ入れられた私たち。でも、私たちはすぐに恐れの闇、疑いの闇の中に、心を閉ざし、引きこもってしまいます。でもその真ん中にイエスさまが何度でも何度でも訪れてくださり、十字架の傷を示しながら、「大丈夫、そんなあなたがたのためにわたしは十字架を引き受け、命がけで愛している、だから信じる者になりなさい」と告げられるのです。そのキリストの十字架と復活により与えられた光と愛と平和を分かち合うために、私たちは遣わされます。新しい一歩を踏み出そうではありませんか。

 

主よ、わたしたちを導いてください。

 

恐れと疑いの闇に襲われ、心を閉ざし引きこもってしまう私たちのもとを、ご復活なさった主が訪れてくださることを感謝します。どうか真の光を分かち合うために私たちを遣わしてください。イエスさまのお名前によって。アーメン

 

希望の源である神が、信仰によって得られるあらゆる喜びと平和とであなたがたを満たし、聖霊の力によって希望に満ちあふれさせてくださるように。アーメン

 

動画 2018-04-08.MP4 - Google ドライブ

 

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